等身大の公民権運動

エヴァ・デュヴァネイ監督『グローリー/明日への行進』(2014年公開)を見た感想を記す。内容への言及を含む。

グローリー/明日への行進 [DVD]

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黒人の選挙権をめぐるセルマでの運動から、公民権運動の集大成とも言うべき1965年の投票権法成立までを描く。

公民権運動の指導者キング牧師は、高潔な人物として描かれがちである。それは無論誤りではないが、しかし彼も人間である以上、いついかなるときも清く正しく生きられたわけではない。家庭内の不和に苦悩し、投獄に弱音をもらし、かつて悪しざまに罵られたマルコムXへのわだかまりを吐露し、山積する困難に直面して困憊する。キングも一人の弱い人間なのである。そんな彼の指導する運動もまた、清く正しいばかりのものではない。運動内部での意見対立もあれば、他団体との縄張り争いもある。運動の中では警官による暴力にさらされ、ときには死亡する者もあり、しかも悲しいことに、それらの「犠牲」は運動に必要なものとして織りこみずみでさえある。彼の運動は、たとえば差別主義者として名高いユージン"ブル"コナーによる暴虐などと非暴力と対置することによって、注目と支持とを取りつけようとするものだからだ。それはある意味で残酷なことであるが、それでも黒人たちは、自らの運命をその手に取り戻すために立ち上がり、そしてそれを勝ち取った。本作はそうした等身大のキング牧師公民権運動とを見事に描ききった佳作である。

ただし、さすがに本作の邦題については苦言を呈しておきたい。「グローリー」は本作のクライマックスでキングが連呼する「グローリー・ハレルヤ」からとったものであろうが、南北戦争を勇敢に戦ったアメリカ合衆国初の黒人部隊を描くエドワード・ズウィック監督『グローリー』(1989年公開)という超有名作品がある以上この語を安易に用いるのはどうかと思うし、なによりも「明日への行進」という副題である。上記のとおり、本作が扱うのはセルマの行進なのだが、このような副題を付けられれば、ほとんどの者が「私には夢がある」の演説であまりにも有名なワシントン大行進を思い浮かべると思われ、ある種詐欺的ですらある。原題『Selma』をそのままカタカナ表記にした方がよほどよかったのではないか。

「死刑廃止国では現場射殺」はなぜダメか

はじめに

死刑制度の存廃に関する話題で、「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」という類のコメントを見かけることがある。これらの多くは主張の体すらなしておらず、まともに取り合う者などほとんどいないと思っていたのだが、必ずしもそうではないようだ。

はてなブックマーク - 死刑廃止国が犯人を射殺した件数を調査してみた - 痩せるコーラ(新)

この種のコメントに共感する方が多いというのであれば、ばかばかしいと一笑に付するわけにもいかない。本記事では、この種のコメントのどこが問題であるかを説明するとともに、これをどのように改善すれば主張として意義あるものとできるかということについて考えを記しておきたい。

根拠条文を示そう 

まず問題とされなければならないのは、「現場射殺」という語が指し示すものの曖昧さだ。「現場射殺」はいかなる要件の下で行われるのか。それは刑の執行として行われるものなのか、それとも制圧の手段から結果として生じるものなのか。仮にも死刑という法制度と対比しようというのであれば、「現場射殺」についても法制度上どのように位置づけられるものであるかを明らかにすることが欠かせない。これは、もちろん誠実に説明しようとすればいくらでも労力を費やすことはできるのだが、とりあえず最低限の水準としては根拠条文(「現場射殺」が何法の何条に基づいて行われるのか)を示せば足りるだろう。

ところが管見の限り、この種のコメントにおいては、最低限の水準である根拠条文の提示を行うものさえ皆無である。この種のコメントを多少なりとも価値のある主張にしたいのであれば、まず前提として「現場射殺」の根拠条文を示すべきである。

趣旨を明らかにしよう

次に問題となるのは、この種のコメントの趣旨が不明瞭である点だ。きわめて多くのコメントが「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」と言い放つのみであるが、これ自体はいかなる主張でもない。そのことから、いったい何が言いたいのか。それを明らかにする必要がある。

この種のコメントのうち少し詳しいものでは、「死刑も現場射殺も国家による殺人という点で共通している」、あるいは「死刑の代替として現場射殺が行われている」などとしているようだが、やはり死刑存置の主張としては不十分である。なぜ不十分か。それは、「だから死刑を存置するべきである」ということにはならないからだ。

つねづね述べていることだが、「あいつもやってるのに」は子どもがダダをこねるのと同じであって、まともな大人のふるまいではない*1。仮に、死刑も「現場射殺」も同じようなものであり、死刑廃止国でも「現場射殺」が行われているとして、なぜ「現場射殺をやめよ」ではなく「死刑を存置せよ」という話になるのか。その理由まで明らかにしてはじめて、死刑存置の主張としては体裁が整うことになる。

死刑と現場射殺との関係にかかる留意点

上記の条件を充足することで主張の骨格は完成するが、これに肉付けを行うにあたっての留意点を記しておく。

「死刑も現場射殺も国家による殺人」という括りを行う場合には、むしろ死刑存置論者がこそがよく口にするところの「人権の比較衡量(被害者と加害者どちらが大切なのか)」という視点が欠けてはいないか、ということをよく吟味する必要がある。この点については過去記事ですでに述べているので詳しくはそちらを参照していただきたいが、一般に死刑が行われる場合、すでに犯罪は行われ、被害は生じてしまっている。死刑によって他者(被害者)の生命・身体が保護されるという関係にはない。これに対し「現場射殺」の場合、(実際どうなのかは今後根拠条文を示したまともな主張を展開する方が明らかにしてくださるだろうが)おそらく他者の生命・身体等に危険が生じていることが要件とされ「現場射殺」によって他者の生命・身体等への危険が解消されるという関係にあるものと思われる。このような場合に加害者の生命よりも他者(被害者)のそれを優先するというのは、日本も含めおそらくあらゆる国がとる態度であり、死刑廃止論者もかかる態度に対して異を唱えるものではない。無論、「現場射殺」判断の適否については慎重な考慮がなされなければならないが、それは制度運用面での問題であって、制度設計とは次元が異なる。こうした関係の違いにもかかわらず、なお「死刑も現場射殺も同じ」と言えるのか、という点に配慮した主張展開が求められるのだ。

「現場射殺は死刑の代替」とする場合には、まず死刑廃止と「現場射殺」との関係に注目する必要がある。死刑廃止前に「現場射殺」について規定する法がなく廃止後新たに設けられたとか、あるいは死刑廃止によって「現場射殺」が激増したというのであれば、「現場射殺」は少なくとも事実上死刑の代替としての機能を果たしたと言いやすいだろうし、そのような事実がなければ「現場射殺は死刑の代替」とは言いにくいだろう。また、それぞれの対象となったのがどのような者かという点にも注意を要する。たとえばオウムの麻原が確定判決において認定された犯行は、いかなる国においても最も重い刑罰をもって臨まれるものであろうが、彼は逮捕時瞑想にふけり抵抗のそぶりはなかったという。このような人物に対して「現場射殺」を行えない一方で、比較的軽微な罪を犯した者であってもその抵抗が激しいために「現場射殺」が行えるとすれば、死刑と「現場射殺」とは異なる機能を営むものというべきだろう。「対象の殺害」という点だけにとらわれず、一方の存廃が他方に及ぼす影響や、殺害の対象となる者の相違等にも注目した主張展開が求められるということだ。

おわりに

以上、「死刑廃止国では現場で犯人を射殺している」という類のコメントの問題点と、これをどのように改善するべきか、ということについて簡単に説明した。本記事をふまえて実りある主張をしていただければ幸いである。

「日本人差別」だけは許さない?

もちろんそんなことはないと思うが。

本日公開された、はてなによる差別的表現を含むブログへの対処にかかる一事例を興味深く読んだ。

差別的表現を含むブログに対する通報 - はてな情報削除・発信者情報開示関連事例 - 機能変更、お知らせなど

日本人男性に対する憎悪表現に終始していたブログ2件を公開停止にしたというものであるが、そこで大要以下のようなことが述べられていた*1

これまで、ブログやブックマークコメントなどでは、具体的な差別行動を呼びかけたり、差別を目的として情報収集を行うようなものを除いては、規約上禁止される差別的表現行為にあたらないと判断することが多かった。

しかし近年の社会情勢にかんがみ、社会通念上、明確かつ強固な意図に基づくと認められる差別的表現行為については削除相当との判断基準を採ることとする。

この判断基準は、はてなのサービス全域に適用する。

新基準適用の第一号が「日本人差別」なのだとすれば、正直なところ、なんだかなあという気持ちもないわけではないが*2、差別解消に向けた取組みとしては一歩前進というべきであり、支持したい。ところで、はてなの差別への対応方針については、個人的に少し思い出があるので、ここに記しておきたい。

私は2015年ごろ、ある件*3はてなに問い合わせを行ったことがあるのだが、その際、はてなサポート窓口から、問い合わせへの回答中で、差別的表現への対応方針について、大要以下のように述べられた*4

利用規約での禁止事項は、はてなのサービス全域において適用されており、サービスの性質によっては、法規制より広範に規制を行う場合があるため、広めに定めている。

例えば、人力検索はてなのようなユーザー間のコミュニケーションを主とするサービスにおいては、差別語の使用は削除・利用停止の対象となる。

一方、ブックマークコメントやブログ等、投稿者が自身の表現を行う場においては、差別語に類する表現について、公的な機関から削除要請があった場合には対応を行うが、三者からの通報では原則として対応をしていない。

「(ブックマークコメントやブログ等においては)差別的表現について、第三者からの通報では原則対応しない」というはてなの力強いお言葉にはずいぶん驚かされたものだが、 当時はまだいわゆるヘイトスピーチ解消法*5も成立しておらず、仕方のないことであったのかもしれない。

翻って、今回示された新基準である。新基準では、明確かつ強固な意図に基づく差別的表現行為は「削除相当」であると明言し、この基準がはてなの「サービス全域に適用される」としているのだから、素直に考えるならば、「第三者からの通報では原則対応しない」という従前の方針を改めたものであろうとは思う。しかしながら、新基準の文言だけを字面どおりに読むならば、通報段階については一切言及されていないというのも、また事実である。

法律用語に「当事者適格」というものがある。「当事者適格」とは、訴訟物たる特定の権利または法律関係について、当事者として訴訟を追行し、本案判決を求めることのできる資格のことだ。本記事は法的な解説を目的とするものではないのできわめて大雑把な説明をするが、訴訟において権利があるかないかを判断する本案判決を求めることができるのは、「当事者適格」その他の訴訟要件を具備した者だけである。これを具備しない者は、権利の有無について判断するまでもなく、訴えが不適法であるとして却下される。言ってみれば、実体的な判断に入る前の段階で、門前払いを食らわすというイメージだ。

これをふまえて新基準に目を向けると、そこで述べられているのはあくまでも「差別的表現にあたるか否か」をどのように判断するか、という実体的な部分にかかることでしかない。こうした判断をするようはてなに求めることができるのは誰か、という形式的な部分については何も述べられていないのだ。その結果、どのようなことが起こりうるだろうか。

ある者が、はてなに対して明らかな差別的表現を通報したとする。ところが、その者は、当該表現が差別的表現にあたるか否かの判断をはてなに求める資格を有する者ではなかった、すなわち先に紹介した私の問い合わせへの回答中ではてなサポート窓口が述べたところの「第三者」であった。そのため、はてなは当該表現について、判断を行うまでもないとしてなんらの対応もとらない……非常に穿った見方をするならば、このような運用を想定することも不可能ではない。

そして、差別における「第三者」(ないし「当事者」)としてはてながいかなる者を想定しているのかは不明だが、たとえば「日本人差別」であれば非日本人が「第三者」で日本人が「当事者」だと考えているのだとすれば、かかる運用がもたらす帰結は次のようなものだ*6。すなわち、日本社会において圧倒的マジョリティである日本人への差別についてはきわめて多数の「当事者」が存在し、はてなに対して容易に判断が求められ、これを解消することができる。一方、マイノリティへの差別*7は、その数が少なければ少ないほど、はてなに判断を求めることのできる「当事者」も少なくなり、差別が温存されやすくなる……。

……。

いや、これはもちろん私の穿ちすぎであろう。すでに述べたとおり、今回の新基準は、「第三者からの通報では原則対応しない」という従前の方針をはてなが賢明にも改めたというだけのことに違いない*8。近時は、通報によってヘイト動画を削除したり*9まとめサイトへの広告出稿を取りやめさせたり*10といった動きが盛んである。私も差別的表現を見かけたらできるだけ積極的に通報していきたい。本記事は、そう、「はてなは過去、ブログ・ブックマークコメント上で行われた差別的表現が第三者から通報されても対応しなかった。しかし、今般ついにそれが改められた」という前向きな記事なのだ。

*1:当方による要約。正確な文言はリンク先にて確認されたい。

*2:差別に対する理解が十分でない方に限ってこの語をふりまわしている印象があるので。

*3:その件自体は差別と関係するものではない。

*4:当方による要約。一部太字強調を施した。

*5:本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律。

*6:実際には、はてなが当時想定していたのは特定個人に差別的表現が投げつけられた場合の当該個人が「当事者」、それ以外が「第三者」というあたりではないかという気がする。ただし、そうだとすればそれはほとんど名誉毀損や侮辱等でカバーできる範囲であり、少なくともブログやブックマークコメント等において、はてなは差別的表現に対応するつもりがほぼなかったということであるが。

*7:本来その非対称性ゆえに最も深刻な被害が生じやすく、したがって対応の必要性も高い。

*8:含みのある書き方をしたが、はてな情報削除ガイドラインを確認しても申立人についての記述はなかった(なんらの限定もなかった)ので、十中八九そのような解釈でよいとは思う。

*9:https://hbol.jp/167028

*10:http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1806/13/news150.html

ネットリンチについて

はじめに

先日、読者の方からネットリンチに関する質問をいただいた。当該の質問に対する回答はすでに行っているが、この機会にネットリンチについての私の考えを少し説明しておこうと思う。

先日の記事*1で、私はネットリンチについて以下のように述べた。

ここにネットリンチとは、たとえば△△速報や××ニュースといったまとめサイトが行っている晒し上げのようなものだ。どこからか非常識な言動などを見つけてきて、これに対して多数によっていっせいに攻撃を加える。

私のネットリンチについての理解はおおむねこのとおりである。もっとも、ここで「非常識な言動など」としたのは、実際に行われるネットリンチの多くが非常識な言動に対するものであることから、イメージを描きやすくなるだろうとの配慮によるのであって、ネットリンチの対象となるのは「非常識な」言動に限られるわけではない(だからこそ「など」と付けている)。

本記事では、ネットリンチを「他者の言動等に対し、多数によっていっせいに攻撃を加えること」としたうえで、まずネットリンチについての総論を述べたあと、「他者の言動等」「多数によって」「いっせいに」「攻撃」という各要素について注釈を加えていく。

ネットリンチについて

総論

ネットリンチについて考える際には、ネットリンチとそうでないものとの境界は必ずしも明確ではないということに、注意しなければならない。というのも、これから説明する4つの要素は、いずれも「該当/非該当」というオールオアナッシングではなく、ある程度グラデーションのあるものとして捉えなければならないからだ。その結果、たとえば同じ程度の「攻撃」が行われても、ある場合にはネットリンチとなり別の場合にはネットリンチとならない、ということも起こりうる。各要素についての注釈の中で、いくつか例を挙げたい。

「他者の言動等」

「他者の言動等」とは、典型的には特定個人による発言(主張)や行動等をいう。団体によるものも含むが、その場合個人によるものに比して要素としては弱くなる、つまりネットリンチの色彩が薄くなる傾向にある。また、「攻撃」の重点が「他者」(個人・団体)よりも「言動等」(発言(主張)・行動等)におかれている場合も、要素としては弱くなる。近時では、某市の小学校における児童の読書管理の手法に批判が集まったが*2、これは小学校という団体の、しかもそれがとった「言動等」にあたるシステム(構築)に対する批判が主であったため、ネットリンチの色彩は比較的薄かった。

「他者の言動等」が攻撃的、挑発的である場合にも、これに対抗する必要を一定程度は認めることができるから、要素としては弱くなる傾向にある。近時では、kawango2525さんの正当な批判とイジメの境界線に関するツイートに「はてなーの連中の頭の悪さは本当に救い難い」との挑発的言辞が含まれており、*3このような場合には反撃がある程度激しいものとなってもネットリンチとは言いにくいかもしれない。もっとも、「(挑発してくるような)悪い奴だから袋叩きにしてよい」わけでないことは当然であり、この点を過度に重視するべきではない。

「多数によって」

「多数によって」とは、単純に数が多いということに加えて、相対的に見ても多いと言えることをいう。「攻撃」が多くとも、それと同程度に擁護意見もあるならば、「多数によって」とは言えない。たとえば、先ほど紹介したkawango2525さんのツイート*4に対する反応*5には、kawango2525さんへの「攻撃」が多く見られたが、逆に同調する意見も相当数含まれていた。このような場合には、必ずしも「多数によって」とは言えない。

「いっせいに」

「いっせいに」とは、「多数」からなされる各「攻撃」が、その対象となる者にとって同一の機会になされたものと認識されるような状態にあることをいう。「攻撃」者間の意思連絡等があれば要素として強くなるが、必須の条件ではない。

はてなブックマークではブックマークコメントが一覧の形式で表示されるため、これを利用して「攻撃」が行われた場合、「攻撃」の対象となった者は同一の機会にそれらの「攻撃」を認識することとなり、いちおう「攻撃」が「いっせいに」行われたものと考えることができる。

一方、たとえば低能先生*6に罵倒を受けた者らが、それぞれ個別に通報を行うような場合には、「いっせいに」とは言えないため、ネットリンチにはあたらない。ただし、低能先生への通報をよびかける記事があげられ、当該記事に対するはてなブックマーク等において低能先生をバカにしたり茶化したりするコメントが並ぶという事態になれば、ネットリンチにあたる可能性が出てくる点には注意を要する*7*8

「攻撃」

「攻撃」とは、典型的には罵倒をいうが、罵倒を含まない批判もこれにあたりうる。また、批判にも意味のない批判と意味のある批判とがあり、罵倒、意味のない批判、意味のある批判の順で要素としては弱くなっていく。

罵倒を含まない批判も「攻撃」にあたりうることは、すでに先日の記事*9で述べた。学級会での吊るしあげを想像していただきたい。「甲は掃除をさぼっていて良くないと思います」との発言がなされたとする。この発言自体は穏当な批判にとどまるとして、これに追随して教室中の者が口々に同旨の発言を甲に対して行ったとしたらどうか。彼らの発言は、個々に見ればいずれも穏当なものであるにもかかわらず、それがいっせいになされることによってときに暴力性を帯びるのである。

意味のない批判とは、批判内容が誤っているということではなく、新たな知見や独自の情報を含まない、ということである。典型的には既出の批判を言い換えたにすぎないようなものであり、特にブックマークコメントにおいては、字数制限の影響もあるのかもしれないが、元記事で行われている批判や既出のブックマークコメント等の言い換えにすぎないものがきわめて多く、新たな知見や独自の情報を含んだ意味のある批判は少ない。すでに紹介した某市の小学校における児童の読書管理の手法への批判*10などはその分かりやすい例で、2018年7月3日時点で約600あるブックマークの大半を批判が占めているが、その内容は図書館の自由、内心の自由、プライバシーのたった三語でおおむね集約できてしまう。

おわりに

以上、ネットリンチについての私の考えを簡単に説明した。なにかの参考になれば幸いである。

2018年7月3日追記

本記事中で言及した某市の小学校における児童の読書管理に関しては、以下のような続報が出ているようだ。

三郷市の小学校の読書促進策に批判殺到「担任が児童の読んだ本を把握し個別指導」って本当? 学校「誤解を招いて申し訳ない」 | キャリコネニュース

論旨とは関係ないが、参考までに紹介しておく。

低能先生が残した問題(2)

低能先生と一般ユーザーとの差

前回の記事で、低能先生の悪罵はほとんど総叩きといってよいほどに厳しく指弾されているものの、彼程度の悪罵を投げつける者ははてなにはいくらでもいる旨を述べた(だから問題ないということではもちろんなく、他人事のような顔をして低能先生を批判する方々も自らを省みられてはいかがかという話だ)。そうであるとすれば、低能先生と一般的なはてなユーザーとを決定的に分かつものはなんだったのか。それはやはり、IDコールの乱発、ということになるのだろう。

はてなには、IDコールという機能がある。これは、はてなブックマークコメントやはてなブログにおいてはてなユーザー○○に言及する際、「id:○○」と記述することによって、当該ユーザーに通知が送られるというものだ。低能先生はこの機能を利用して、多数の方に対してIDコールを行っていたようだ。このような行為は一般的なはてなユーザーは行わないし、コールされた方にとってわずらわしく感じられる場合もあろうことも容易に予想される。今回被害にあわれたid:hagexさんは、1日に7回もコールされたことがあるという*1。いかなる経緯でそのようなことになったのか存じあげないが、一般論として、日に7回ものコールというのは少々多きにすぎ迷惑行為と判断されても仕方のない場合もあるだろう。こうしたIDコールの乱発が、彼に対する「荒らし」という評価を基礎づける重要な要素となっていることは確かなように思われる。

IDコールの意義

一方で、被言及者への言及通知は、本来批判されるようなものではない。私自身、ブログ記事等において他者に言及する際には原則としてIDコールを行っているし、他者が私に言及する際にはIDコールをあわせて行ってくださることを希望する*2

およそ議論は、批判者等との双方向的な意見の応酬を通じて発展し果実をもたらすものである。批判された者は、批判されたことを知らなければ、自身の誤りを正すことができないし、批判の方が誤っている場合に反論することもできない。批判対象のあずかり知らぬところで行われる批判は、相手に反論の機会を与えぬまま自己満足に浸る、自慰的な行為であると言ってよい。したがって、原則として批判を行う際にはそのことを批判対象に知らしめるべきであり、むしろ批判対象に知らせることなく批判を書き捨てるような態度こそ、「陰口」などとして責められるべきものであるはずだ。

以上のとおりであってみれば、低能先生が言及時に行うIDコールは、ある面においては、まっとうな行為であるとさえ言えなくもない。 

低能先生が戦ったもの

そうであるにもかかわらず低能先生のIDコールが問題とされるのは、おそらくはその量の多さゆえなのだが、ではなぜそのように多数のIDコールを行ったのか。それは、彼が戦ったのが「ネットリンチ」であったためだと思われる。 

ここにネットリンチとは、たとえば△△速報や××ニュースといったまとめサイトが行っている晒し上げのようなものだ。どこからか非常識な言動などを見つけてきて、これに対して多数によっていっせいに攻撃を加える。ポイントは「多数によって」という点で、この数の力によって言説に変質が生じるのである。これは、学級会での吊るしあげを想像していただければ分かりやすい。「甲は掃除をさぼっていて良くないと思います」との発言がなされたとする。この発言自体は穏当な批判にとどまるものと言ってよいだろう。ところが、これに追随して教室中の者が口々に同旨の発言を甲に対して行ったとしたらどうか。彼らの発言は、個々に見ればいずれも穏当なものであるにもかかわらず、それがいっせいになされることによって暴力性を帯び、ときには穏当な批判の範疇を逸脱することさえあるだろう。これが数の力による言説の変質ということだ。

はてなブックマークにおいては、記事に対する反応が一覧として表示されるため、かかる言説の変質が生じやすい。またはてなブックマークコメントの100字という文字数制限や「お気に入り」というSNS的機能*3のためか、ちょっと気の利いたコメントを仲間内で交わしあうというくらいに考えている者が多く、批判者として批判対象に向きあうという当事者意識がやや希薄でもある。その結果として、はてなブックマークは、構造的にネットリンチが発生しやすい状態となっているのである。

そして、低能先生が発生したネットリンチと戦うとき、その批判対象は当然ネットリンチに参加した(と彼が判断する)全員となるため、IDコールも多数とならざるを得ない、ということではないだろうか。

はてなブックマークがはらむネットリンチ誘発の危険については私も由々しき問題であると思う。私自身は、ぐだぐだと悩み続けた挙句、他者批判については基本的にすでにあるブックマークコメントにはてなスターをつけることで態度を示し、新たな視点を提示するのでない限り自らコメントをしない、という微温的な方針をとっているが、それが唯一の選択肢だとはまったく思わない。ひとたびネットリンチ的な状況が発生した場合これに加担している者らに対してIDコールを行うことも、上述した批判を批判対象に知らしめるという意義のみならず、当事者意識の希薄なはてなブックマークユーザーを否応なくネットリンチの当事者として状況に向きあわせるという意義をも有する1つの選択肢ではあるようにも思われるのだが、これをIDコール乱発として禁止するべきなのかどうか。難しいところだ。もっとも私はすでに述べてきたとおり低能先生の具体的な言動についてはほとんど存じあげていない(漏れ聞くところではかなり無差別の通り魔的なIDコールだったようでさえある)ので、これは低能先生の個別具体的な行動から離れた一般的な問題ではあるが。

おわりに

以上、2回にわたり今回の事件に関連する問題について述べてきた。1つは、口汚いののしりを低能先生のみの問題として処理してしまってよいのかということ(前回記事)。そしてもう1つは、はてなブックマークがはらむネットリンチ誘発の危険にどう対処するべきかということである(本記事)。各位において考えを深めていただければ幸いである。

*1:http://hagex.hatenadiary.jp/entry/2018/05/02/112825

*2:余談だが、以前私のブログ記事に対してなんらの通知なく言及するブログ記事に接したことがあり、そこではこれでもかというくらい私に対する口汚い評価が連ねられていた。私のブログ記事に対しては、はてなブックマークコメントで悪罵を投げつけるような方もいらっしゃる(自身のブログ記事についたはてなブックマークコメントは、ブログ主が容易に了知できる)のだが、本人のいないところで悪口雑言の限りを尽くすそのブログ主に対して、私はそうしたはてなブックマーカーに対するのとは比較にならないくらい強い軽蔑の念を抱いたことを覚えている。

*3:「お気に入り」に追加したユーザーのはてなブックマークを閲覧することができる機能。

低能先生が残した問題(1)

はじめに

はてなユーザーの関係する大事件が起きてしまった。はてなで「低能先生」と呼ばれていた人物が、id:hagexさんを殺してしまったようなのだ。すでにこの事件については多くの方がコメントを寄せているが、まだ十分にふれられていない点もあるように思うので、私もひと言述べておきたい。

両人に対する私の認識

両人に対する私の認識は、「存在自体は知っているが……」という程度であり、ほとんど知らないといっても差し支えのないようなものではあるが、それでもおぼろげなイメージはあった。予めこの点を明らかにしておかないと不公正かもしれないと感じたので、以下に記しておく。

hagexさんについては、品のない大衆紙のようなブログを運営されている方、という認識だ。ひょっとしたらいくつか記事を読んだこともあるのかもしれないが、少なくとも記憶に残っているものはない。念のため自身のはてなブックマークを確認してみたが、彼のブログ記事は1つもブックマークしていなかった。彼に対する印象は、フラットかややネガティブといったところであった。

低能先生については、短文スタイルで多数人を捌く良くも悪くも匿名掲示板的な人物、という認識だ。もちろん匿名ゆえ本人かどうかは分からないのだが、それらしき人物の書き込みをはてな匿名ダイアリーで何度か見かけていると思う。もっとも、こちらについても具体的な内容について記憶に残っているものはない。彼はIDコールの乱発が問題になっていたようだが、私自身はコールを受けたことはない。彼に対する印象は、完全にフラットであった。

低能先生の悪罵について

2018年6月27日現在、低能先生の言動に対するはてなユーザーの評価は、悪罵をくり返す「荒らし行為」以外のなにものでもない、ということでほぼ一致しているようだ。ほとんどの方が彼の悪罵を厳しく批判しており、私もそれにおおむね同意するものではあるのだが、しかしそれにしても批判者のほとんどが見事なまでの切断処理を行い自らの言動について省みる様子のないことは残念に思う。率直に申し上げるが、決して少なくない数のはてなユーザーが低能先生と大差ないレベルの悪罵を日常的に投げつけている現実に、われわれは真摯に向きあうべきである。

たとえば、本記事の作成にあたり「低能先生」関連の記事を渉猟している際にid:yoko-hiromさんとid:anschlussさんとのこんなやりとりを見かけた。

http://b.hatena.ne.jp/entry/366527688/comment/yoko-hirom

http://b.hatena.ne.jp/entry/366533130/comment/anschluss

「低能先生の同類は多数おり、それが安倍支持層として社会に影響を与えている」という趣旨のyoko-hiromさんの主張に対し、anschlussさんが「ちょっと何言ってるか分からない」とのコメントを行ったものだが、問題はanschlussさんのコメントに付けられたタグである。確認していただければ分かるとおり、コメントには「パヨク」「キチガイ」のタグが付けられている。これがその名の由来ともなった低能先生のスタンダードな悪罵「低能」といったいどう違うというのか。くり返しになるが、これはあくまでもタイミングよく目にとまったから紹介したにすぎず、この程度の悪罵は、多くのはてなユーザーが日常的に用いている*1

「バカにバカと言って何が悪い」式の開き直りを行う者もよく見るが、こうした者が同じ口で低能先生の誹謗中傷を批判しているのであれば、それは無理解を端的に露呈しているものと評せざるをえないだろう。「相手がバカである」というのはバカと発言する者の主観的な評価にすぎず、低能先生も彼なりの根拠に基づいて「相手は低能である」と評価しているのである。そしてもちろんそれ以前の問題として、そもそも「バカ(低能)」という評価の当否は、基本的に他者へ悪罵を投げつけることの正当性を左右するものではない。

すでに述べたとおり、私も大半のはてなユーザー同様、低能先生の悪罵は批判されてしかるべきものだと考えている。そうであればこそ、はてなユーザー各位におかれては、いま一度自らの言動を省み、改めるべきは改めていただければ幸いである。

次回記事の内容(予定)

本当は一度に書ききってしまうつもりだったのだが、書いているうちに気が重くなってきてしまったので、残りは次回にまわそうと思う。次回記事では主に低能先生が問題視していた「集団リンチ」について述べたいと思うが、例によって気が変わり書かない、ということになるかもしれない。

*1:余談だが、私のブログのトップページにもid:noturmomというユーザーの「雑魚」という悪罵がはてなブックマークコメントとしてつけられている(http://b.hatena.ne.jp/entry/237626966/comment/noturmom)。

別ブログ開設の件

前回記事はホットエントリーにも入り一定の周知を果たせたものと考えているが、2018年5月10日現在、特にご要望をいただいていないため、別ブログの開設は行わないこととする。もっとも、前回記事でとりあげた話題は沈静化するどころか狂騒の度を増しているようだ。一般の方は仕方がないとして、一部法曹までもがこの騒ぎを煽り立てているのには閉口する。しかも実名で。理解しがたい軽挙である。そうした法曹の中で本記事を目にする者がいるならば、自らの行動が、多少なりとも実務に通じた者の目にどううつるか、いま一度よく考えてもらいたい。