エホバの証人の思い出

こんな匿名記事に接しました。

エホバの証人って本当にそんなにヤバいのだろうか?

いろいろあってエホバの証人を辞めたという人が、「一般人がどうしてこの宗教を危険視するのか分からない」との疑問を呈する、といった内容。

基本的には私もこの方の疑問に同調する立場ですね。憲法を勉強していると必ずいくつかこの宗教の絡んだ事件に接することになり、それらの事件から垣間見えるあれこれに照らして、私自身が入信することはまずないと思いますが、しかし外部の人間として付き合う限りにおいて、彼らに危険性があるとは思えません。

もうほとんど覚えていないのですが、記事を読んで少し私のエホバの証人に関する思い出を残しておきたくなったので記します。

学生時代のある時期、私のアパートにはエホバの証人の信者の男性がほぼ毎週(くらいのペースだったのではないかと思います)訪れていました。彼は毎回、私に2冊の小冊子を渡し、聖書の一節を読み上げ、その内容に関連するいくつかの質問を投げかけ(私がそれに応答し)、そして帰っていきました。

私は初回に「神はいると思うか」というようなことを聞かれ、少なくとも肯定的な返事はしなかったはずなのですが、彼は特段気分を害したり拒絶の意思をあらわしたりする様子もなく、私のもとに通い続けました。またその間、私は一度として集会の類に参加することはなく、彼とのやりとりは私のアパートの玄関でしか行われることはなかったのですが、彼がそのことを気にするそぶりも微塵もありませんでした。というよりも、記憶する限り、私は彼から具体的に集会への参加を呼びかけられたこと自体ないはずです。今となっては会話の内容を思い出すこともできませんが、しかし彼が私の人生(あるいは私という人間でしょうか)を良くしようと思ってくれていることは伝わってきました。穏やかで誠実な人だったと思います。

彼の訪問は、1年だったか2年だったか、それくらいで終わりを告げました。彼がその地を離れることになったのが理由です。彼は私の名前すら知らず、私も彼の名前すら知らないままでした。彼はいまどうしているのでしょうか。幸せであってほしいと思います。

不快を理由にした規制もありうる

ちょうどいいタイミングで以下のまとめ記事に接したので、このあたりで最近続けていた表現規制をめぐる話題について改めて要点を記しておきたいと思います。

「間接的に誰かを傷つけるかも知れない」を理由に規制すると創作物全滅の可能性。『not for me』の受容を大事に - Togetter

なお、本記事ではいつも以上に分かりやすさを優先したいと思っているので、やや不正確な表現をする場合もあります。きちんと知りたい、考えたい、批判したい、という場合には、以下の記事にあたってください。

表現規制とリベラル

危害原理という信仰

太宰メソッドを越えて

結局、表現の自由に関する極端な主張というのは、「他者の権利を侵害する場合でない限り、表現の自由を制約することは許されない」という「お花畑」的テーゼに支えられているんですよね。すでに述べたことですが。

現実には、まったくそんなことはない。美観や静穏、性道徳の維持、あるいは電波の混信防止などなど、個人の権利には還元することのできない、いわば社会的な利益のために、表現の自由は規制されています。でないと世の中まわらない。

では、「社会的な利益」とはなにか。それは突き詰めれば、世間にとって望ましい状態の確保ということになります。表現規制は、世間にとって望ましい状態を確保するためにも行われる。言い換えるならば、世間にとって望ましくない(=不快である)と判断されるものは、表現規制の対象になりうるということです。

このように言うと、必ず「世間ではなくお前が不快なのだろう」と脊髄反射で反駁してくる人がいます。そういう場合もあるでしょうが、しかし上述のとおり「世間」というものは確かにあって、実社会においても重視されています。そしてきわめて一般的な話として述べれば、ひとさまの目につく場所で性的なものを見せてまわるようなことは、世間にとって望ましくない(=不快である)とされています。刑法で公然わいせつやわいせつ物頒布等といった罪が定められていることを想起してください。

冒頭掲記のまとめ記事では、「誰かが不快、を理由に規制するならすべてを規制しなければならない」という趣旨のことをいう人が多数いました。しかしそこでは、実際には「誰かが不快」ではなく「世間が不快」なのではないか、ということこそが真に問われるべきなのです。

無論、こうした問いに対する答えは事案によって異なり、本当に「誰か(個人)の不快」にとどまるということもありえます*1。しかしそれは、まず訴えられた「不快」に対して真摯に向きあい、相手の主張をよく吟味してはじめて分かることです。そうした過程を経ないまま、すべてを「誰か(個人)の不快」に矮小化して好き勝手な表現を続けていくというのであれば、きっとそれは世間が許さないでしょう。

最後に私個人の話をしておきます。私は、5年ほど前には表現規制に対してきわめて慎重な立場でした。それは、公権力の介入に対する懐疑と規制が必要なほどの状況にはないという認識によるものでした。しかしいま、私は表現規制に対して中立的(どちらとも言えない)という立場です。それはこの5年ほどの間に、差別わいせつなんでもござれ、俺たちは好き勝手に表現を行うのだ、という一部の人たちの表現の自由に関するあまりに極端な主張を見続けてきて、これをこのまま放置してよいのか、という気持ちが芽生えてきたからにほかなりません。私のような人間が増えていくことによって、表現に対する世間の目は厳しくなっていくのでしょう。表現の自由について、ほとんど原理主義的ともいうべききわめて過激な主張をされている一部の人たちには、自分たちが表現の自由の足場を掘り崩しているのではないかということについて、一度考えてほしいと思います。

*1:そうした場合にその方の不快を軽視してよいというわけではありませんが。

太宰メソッドを越えて

はじめに

はてなのことばに、「太宰メソッド」というものがあります。自らの個人的な好悪の感情などを「世間」や「みんな」といった大きな主語に託すことで、自分の責任は回避しつつ、発言に権威や説得力をもたせようとする手法をいい、太宰治人間失格』の以下の一節に由来するものです*1

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

このことばは、世間に名を借りて自らの責任を回避しようとする態度を明快に指摘した面もあった一方で、「世間」というものに対する軽視を招いた面もたしかにあったのだろうと思わざるを得ません。表現規制に関する以下の記事の続きです。

危害原理という信仰

規制基準の明確性と「世間」 

表現規制において常に問題とされる事項の1つに、「基準の明確性」があります。

表現規制を行う場合には、規制の対象となるか否かを判断する基準が明確でなければなりません。基準が曖昧だと、人びとは自分が行おうとしている表現が規制の対象となるものかどうかを判断できないためです。またそのような曖昧さを利用して、公権力が基準を恣意的に(広く)解釈して広汎な規制を及ぼそうとするおそれがあるためでもあります。これ自体は、きわめてもっともなことです。

ただ特にネット上などでは、こうした明確性をあまりにも強く求めすぎているようにも見えます。そのことが、まさに「世間」「常識」などに対する態度に端的にあらわれているのではないか、と私は思うのです。

表現規制をめぐる問題において、「さすがにそれは常識的(世間的)に考えてダメだろう(なくすべきだ)」という趣旨のことを言うと、たちまち「世間って誰だ」「ダメかどうかは誰が判断するんだ」といったほとんど脊髄反射のような反応が返ってくるようです。「ダメだと思っているのは世間でなくお前だ」「世間に名を借りてお前の気に食わない表現を排除しようとしているだけだ」というわけです。「世間」「常識」に対する無視・軽視。まさに太宰メソッドです。

徳島市公安条例事件にみる明確性と「世間」

しかし、そのような「世間」「常識」の無視・軽視ははたして妥当なのでしょうか。この点に関連して、俗に徳島市公安条例事件と呼ばれている最高裁昭和50年9月10日大法廷判決を見てみましょう。これは、集団示威行進に参加したAが、マイクで呼びかけるなどして集団行進者に対して、蛇行進をするよう刺激を与え、もって交通秩序の維持に反する行為をするよう煽動したなどとして徳島市の集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下、「条例」といいます)3条3号、5条違反等で起訴された事件です。条例3条3号、5条を引用しておきましょう。

(遵守事項)

第3条 集団行進又は集団示威運動を行うとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。

(1) (略)

(2) (略)

(3) 交通秩序を維持すること。

(4) (略)

 

(罰則)

第5条 第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定による届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽動者はこれを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する。 

本件では、主として「交通秩序を維持すること」という要件の明確性が問題とされました。このような一般的、抽象的な文言ではいかなるものをその内容として想定しているのか不明確であるから、罪刑法定主義を保障した憲法31条に違反し無効だというのです。この点にかかる裁判所の判断を見てみましょう*2

しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

最高裁判所大法廷はこのように述べたうえで、条例3条3号について、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」とし、通常の判断能力を有する一般人が具体的場合において自らのなそうとする行為がかかる禁止に抵触するかどうかを判断することはさして困難ではないとして、違憲無効の主張を退けました。

改めて指摘するまでもないでしょうが、ここにあらわれる「通常の判断能力を有する一般人」の視点こそが、「世間」あるいは「常識」的な物事の捉え方にほかなりません。刑罰法規はこれを犯す者に対して刑罰というきわめて重大な人権制約を加えるものですから、当然のことながら数ある法令の中でも最も明確性が要求されるものと言えます。そのようなものが問題となっている場面においてさえ、「世間」「常識」はこのような形であらわれているのです*3

これに対して、上に挙げた「さすがにそれは常識的(世間的)に考えてダメだろう(なくすべきだ)」といった発言の如きものは、法ですらない、単なる私人の意見にすぎません。そもそも人権が一次的には対国家的な権利であることを考えれば、このようなものに対して殊更に規制云々と騒ぎ立てること自体がやや的外れの観もありますし、そこまで言わないにせよ、少なくとも刑罰法規よりもずっと柔軟な調整が可能でありまた求められる場面でもあることはたしかです。そうであってみれば、特にかかる例のような法規制以前の段階においては、頑なに明確性ばかりにこだわるのではなく、「世間」「常識」にも目配りをしつつ、穏当な解決を得るべく調整を試みることこそが重要であるというべきでしょう。

おわりに 

以上、きわめて高い明確性が要求される刑罰法規の解釈においてすら、「世間」「常識」 といったものが考慮されていることなどについて説明してきました。われわれが社会で生きていく限り、「世間」「常識」は常に注意を払われるべき重要なものとして存在し続けるのです。その意味で、「世間」を過度に無視・軽視して、すべてを「世間ではなくお前が気に食わないだけだ」で片づけてしまう一部の主張や、その背後にあると思われる太宰メソッドは、乗り越えていくべき考え方であるように思われます。

なお言うまでもないことですが、私は個人の人権をないがしろにしているわけではありません。個人の人権は無論重要です。しかし、「世間」「常識」といったものもたしかに存在しておりやはりそれなりに重要なのです。この2つの重要なものについて、うまく折り合いをつけていかなければならないというのが私の言わんとするところであり、また宮沢のいう「decent な社会生活への権利」*4も、この趣旨を述べるものではないでしょうか。

*1:太宰メソッドとは - はてなキーワード

*2:引用者において一部太字強調を施しました。

*3:念のために述べておきますが、こうした例は枚挙に暇がありません。たとえば何が「侮辱」かといったことも「社会通念上許される限度を超えるものかどうか」という見地から判断されますが、ここにいう「社会通念」もやはり「世間」「常識」をいうものにほかなりません。これはある意味当然のことで、「侮辱」にあたる言動を逐一列挙していくことなどおよそ不可能である以上、「世間」的な感覚や「常識」に頼らざるを得ないのです。先に引用した判決文の前半部分も、その趣旨をいうものです。

*4:前回記事参照。

異常なシェア数

昨日の記事*1フェイスブックにおけるシェア数が異常に多くなっています。現時点で、8865。なぜこんな数字が出ているのか、理由がまったく分かりません。

記事内容は本ブログの運営方針に関する単なる連絡であって、さして注目を集める要素などないはずです。なおブログのアクセス数はまったく増えていません(むしろ、誤差の範囲かもしれませんがかなり少ないです。昨日初めて公開範囲を変更してある者を閲覧拒否ユーザーに指定したのですが、他の方にはきちんと閲覧していただけているのかやや不安なくらいです)。

理由について見当がつくという方は、ご教示いただけると幸いです。

本ブログの閲覧不許可について

私は、野放図なふるまいを看過することが寛容だとは必ずしも思いません。

したがって、無礼な態度をとられたときには謝罪を求めることがあります。

この謝罪の要求に対して、納得できる理由提示のないまま謝罪を行わない者に対しては、場合によっては本ブログの閲覧を許可しないこととしました。

なお、一度閲覧を不許可としても、その後真摯な謝罪があれば、原則として再び閲覧を許可するつもりです。「真摯な謝罪」かどうかの判断は、私の主観によります。さして厳格な判断とするつもりはありませんが、たとえば謝罪に名を借りた攻撃であると感じるような場合には、「真摯な謝罪」でないものとすることになるでしょう。

謝罪については、プロフィールページに記載の連絡先にお願いします。

またか

記事にするほどのものでもないかもしれませんが、関係あるようなないような話を2題。

ゴミ

また出たよ。

テクニシャン型コリアン国士yas-malさんの着地点

はてな匿名ダイアリーで個人攻撃。

定期的にこういう卑怯者がわいてくるので私も定期的にこれを言わないといけません。

 

はてな匿名ダイアリーでの個人への言及はほぼ規約違反規約違反の卑怯者が偉そうにするな。

 

こういうのは削除申立てをすれば、悪質な場合ははてなの利用停止にまで持っていけるので、いやな思いをされた方はどんどん申立てを行えばよいと思います。以下の記事を参照してください。

増田での個人攻撃の度が過ぎる - U.G.R.R.

私はこうして折にふれて削除申立てができることを周知していますが、その後の経過などを見ていると、申立てをされる方は必ずしも多くないようです。塵芥の戯言など意に介さないのはある意味で当然のことかもしれません。ただ、上記のとおり規約違反をくり返せばはてなの利用停止もありうるわけで、コツコツと申立てをくり返すことは、この種の卑怯者を一掃することにもつながります(それは、新たな被害の発生を防ぐということでもあります)。個人的には、被害を受けた方は積極的に申立てを行ってほしいなと思います。

それにしても、この卑怯者が追記で「知性とか廉恥とか人格」などと言い出していて笑ってしまいました。私は他人の知性を云々するようなことはしたくない(し、そもそも定量的に把握できるものでもない)のでその点は措きますが、恥知らずで人格の卑しいこの規約違反者と比べれば、どう考えても名を挙げられた方々の方がはるかに高潔でしょう。

政治的中立性ねえ 

こちらもまたか、という感じ。

「政治的中立性損なう」 美術展で茅ケ崎市教委、共催辞退|カナロコ|神奈川新聞ニュース

茅ヶ崎市教委の共催する美術展に出展された版画について、「一部の主義、主張を展示している」などと水島誠司市議(自民党茅ヶ崎)が市教委に対して圧力をかけ、市教委も、「同版画中の文言にある主義主張を市教委が発信していると誤解されるおそれがあり、そうなれば政治的中立性を保てない」などとして一時共催から外れた、という事件です。

なお、問題の版画は辺野古キャンプ・シュワブゲート前を髣髴とさせる風景を描くものであり、その中に「辺野古の海埋めるな!」「命どぅ宝」などの文言が記されていたようです。

脱力してしまってあまり多くを語る気にもなれないのですが、手短に。

俳句掲載拒否訴訟を覚えていますか。従前句会で選出された俳句を自身が発行する月報に掲載していたさいたま市大宮区の公民館が、「『九条守れ』の女性デモ」との文言を含む選出句について、やはり「政治的中立性を損なう」などとして、月報への掲載を拒否した事件です。この事件については、つい先月双方の上告が退けられ市側の敗訴が確定しているのですが*1、その控訴審の判決文から引用しておきましょう*2。なお、引用文中「本件たより」とは、公民館が発行している月報をいいます。

本件句会の名称及び作者名が明示されることになっていることからすれば、本件たよりの読者としては、本件俳句の著作者の思想、信条として本件俳句の意味内容を理解するのであって、三橋公民館の立場として、本件俳句の意味内容について賛意を表明したものではないことは、その体裁上明らかである 

月報に掲載された俳句に作者名が明示されている場合、その俳句に表現された思想・信条は作者のものとして理解され、月報の発行者がその表現内容に賛意を示したものでないことは、体裁上明らかと言える。本来、裁判所の指摘を俟つまでもない当然のことです。今回美術展に展示された版画も作者名は明示されていたものと思われますから、そこに表現された思想・信条は作者自身のものと理解され、これに美術展の共催者が賛意を示したものでないことは体裁上明らかと言えるでしょう。「同版画中の文言にある主義主張を市教委が発信していると誤解されるおそれ」はなく、政治的中立性を気にする必要などないと、私は思います。

また、そもそも今回の版画はキャンプ・シュワブを髣髴とさせる風景を描いたものだということですが、同地には当然版画中にも記されていた「辺野古の海埋めるな!」「命どぅ宝」といった文言の立看板やプラカード等があるだろうと思われます。こうした文言が問題だというのであれば、キャンプ・シュワブの風景を描くこと自体が問題だという方向に進みかねないのではないでしょうか。風景画を描くことにさえ気をつかわなければならない社会。なかなかのディストピアですね。

 

本当に、うんざりです。

危害原理という信仰

はじめに

大手コンビニが成人向け雑誌の販売を取りやめるとのこと。

ファミリーマート「成人向け雑誌」の販売中止を決定 「取り扱いをやめる方針はない」から一夜明け一転 - ねとらぼ

成人向け雑誌販売 ファミリーマートも取りやめへ | NHKニュース

取りやめの理由は、おおむね「女性・子どもに安心して利用してもらえるようにする」「東京オリンピックを控え外国人からのイメージ低下を避ける」といった辺りのようです。

販売取りやめ自体については、特に思うところもありません。ただ本件からも分かるように、わが国においては、ある種の分野について、外国であれば受けいれがたいような表現をいわば「野放し」にしている面があるわけです。そうした「野放し」を当然のこととして押し通しておきながら、他方では外国、それもアメリカなど一部の国がとっている(と解しうる)にすぎない考え方を絶対的な真理であるかのように持ち出して、たとえば差別的表現なども含めたほとんどあらゆる表現を好き勝手にやらせろ、と主張するような人びとが、わが国には相当数いるように見受けられます。そうした人びとには、今回「外国人からのイメージ低下の回避」を理由の1つとして大手コンビニにおける成人向け雑誌の販売取りやめが決められたということの意味を、少し考えてもらいたいな、とは思います。

さて、別の話題を扱っていて少し間が空いてしまいましたが、表現規制に関する以下の記事の続きの話をしていきたいと思います。

表現規制とリベラル - U.G.R.R.

人権を制約する「公共の福祉」

前回は、表現規制とは表現の自由という人権(自由権)の制約に他ならない。リベラルは実質的な自由を確保するための手段をも重視するものではあるが、やはり人権の中核をなすのは自由権(国家からの自由)であり、その規制には慎重にならざるを得ないのだ、という辺りまで述べていたかと思います。

もっとも、リベラルも表現の自由をはじめとする人権の保障を絶対的なものと考えているわけではなく、一定の制約があることを認めています。そしてその制約を論じる際に出てくるのが、「公共の福祉」です。 「公共の福祉」をめぐってはさまざまな議論がなされていますが、通説的な見解は「公共の福祉」を、すべての人権に内在し人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的公平の原理であると解しており、リベラルもこうした考え方(以下、「一元的内在制約説」といいます)を支持しています。これは、以前の記事で説明しました。

公共の福祉とリベラル(1) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(2) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(3) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(4) - U.G.R.R.

一元的内在制約説から導かれる危害原理

ところで、自由権を重視する立場から一元的内在制約説に拠って素朴に考えをおしすすめていくと、表現の自由をはじめとする人権の制約について以下のような考え方にたどりつくかと思います。

「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」

これは俗に危害原理などと呼ばれているもので、ミルの『自由論』などでも提唱されている古典的な考え方です。リベラルの多くはこのような考え方をとっており、そして実はツイッターなどで「表現の自由原理主義」とでも呼ぶべき極論をふりかざしている方々も同じ考え方をとっているものと思われます。その意味で、両者の基本的な立場は共通していると評することができます。

もっとも、「表現の自由原理主義」者がおしなべて「差別的表現も表現の自由だ」などと主張するのに対して、リベラルの中には差別的表現を規制するべきだと考える人もいます。両者の差はどこから生じるのでしょうか。それは、「権利侵害があると考えるかどうか」という点です。「表現の自由原理主義」者が差別的表現(であること自体)による権利侵害などないと考えているのに対し、リベラルの中には差別的表現によって被差別者の権利が侵害されていると考える方がいる。このことから、違いが生じているのです。

最近の事例を題材に

そこで、差別的表現による権利侵害ということについて、最近の事例に即して考えてみましょう。先日、在日コリアンの中学生をブログ上で侮辱したとして、60代の男が略式命令を受けました。

中学生を匿名ブログで中傷 66歳男性に侮辱罪で略式命令

当該ブログは、「在日という悪性外来寄生生物種」というブログ記事において、在日コリアンの中学生の本名を掲載したうえで、「チョーセン・ヒトモドキ」などの表現を並べたてたといいます。こうして紹介するだけでも胸が悪くなりますが、ともあれこうした表現が差別的なものであることは明らかと言え、当該中学生の権利を侵害していることも疑う余地がありません(だからこそ侮辱罪で略式命令を受けているのです)。

しかし、仮にこのブログが在日コリアンの中学生の本名を掲載することなく、在日コリアン一般に対するものとして同じ表現を並べたてていたとしたらどうでしょうか。その場合、特定の名宛人がいない以上、侵害される権利の主体も存在しないこととなり、実務的な意味での権利侵害があるとは言えなくなります。

これを一般化すると、次のような結論になります。すなわち、「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という考え方をとったうえで、「権利」を実務上一般に用いられているような意味に解するならば、原則として*1特定の個人・団体を名指さない限り、他者への権利侵害とはならないため、差別的表現を制限することは許されない、というものです。

リベラルにとっての「不都合な真実」?

しかし率直に言って、このような結論は少々現実離れしている。ある種の人びとが好む表現を借りるならば「お花畑」的であると言わざるを得ません。たとえばわが国では、美観や静穏、性道徳の維持、あるいは電波の混信防止などを目的として表現が規制されていますが、これらを実務上一般に用いられているような意味における個人の「権利」に還元することはできません*2。そもそも、一元的内在制約説をとる代表的な論者である宮沢俊義自身が、わいせつ物頒布等を禁じる刑法175条について、以下のように述べているのです*3

わいせつ本を公刊することが禁じられるのも、それがその時代の多くの他人の人権―― decent な社会生活への権利とでもいうべきもの――を害するとされるからである 

ここでいう「decent な社会生活への権利」なるものが実務上一般に用いられているような意味における「権利」でないことは明らかでしょう。一元的内在制約説から「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という考え方を導くとしても、そこにいう「権利」はもともとかなり広く解するべきものだったのです。そして、「表現の自由原理主義」者が「権利」を実務上一般に用いられているような狭い意味で捉えているのに対し、リベラル(の一部)は広く捉えており、それによって差別的表現による権利侵害の有無についての評価が違ってくるのです。

このことを、リベラルはあまり明言しません。その理由は私にはうかがい知ることができません。人権の制約根拠となる他者の「権利」を広く解することは人権制約の可能性を開くことにもつながりうるものですから、自由権(国家からの自由)を重視するリベラルとしては公にしづらいのかもしれません。今回述べた内容は実務法曹などでも興味を持っている者しか理解していないと思われるものであり、単に「権利」の意味するところについて明確に意識していないだけかもしれません。あるいは、私が思いつかないまったく別の理由によるのかもしれません。リベラルの方からご教示いただければ幸いです。

おわりに

以上、「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という、至るところで見かける考え方について説明してきました。この考え方にいう「権利」を実務上一般に用いられているような意味に解するならば、それはかなり現状とは距離のある過激な主張になるのだということをおさえておけば、表現規制をめぐる議論についての理解が進むのではないかと思います。

*1:あくまでも「原則として」です。

*2:長谷部恭男『憲法』(新世社、第7版、2018年)103頁以下参照。

*3:宮沢俊義憲法Ⅱ』(有斐閣、新版、1971年)231頁。