サヨナラ、ではない

以下の記事に接した。

「サヨクにサヨナラを」

アメリカで"#walkaway"というムーブメントが起きている、という内容だ。記事によれば、これはポリコレのバックラッシュとでも言うべきもので、「もう今の左派には付き合いきれない。サヨナラだよ」って感じの決別宣言、なのだそうだ*1

ところで、『ゲド戦記』で有名なアーシュラ・K・ル=グウィンに"The Ones Who Walk Away from Omelas"という短編がある*2。その邦訳「オメラスから歩み去る人々」は『風の十二方位』という短編集に収められている*3のだが、私が"#walkaway"と聞いて思い浮かべたのはこの作品のことだった。以下は同作の内容への言及を含む。 

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

 

同作は一言でいうならば、ベンサム的な功利主義リベラリズムについて描いた作品だ。

オメラスというあらゆる美しさと喜びとで彩られた都にはしかし、市民の誰もが知る秘密がある。オメラスにあるなにかの建物の一室に、一人の子どもが閉じ込められているのだ。その子どもは、思い描くことのできる限りで最も惨めな扱いを、暗く狭い部屋で受け続けている。そしてオメラスにある幸せのすべては、その子どもの不幸によって贖われているのだ。

幸せの都、オメラス。

しかし不思議なことに、ときおりこの都の美しい門をくぐり歩み去っていく人々がいるのだという。

そんな話である。

 

作者は、「歩み去っていく人々はみずからの行先を心得ているらしい」と語る。しかし私にはとてもそうは思えない。なぜと言って、彼らはついに囚われた子どもを助け出すことはなかったからだ。

暗く狭い部屋で惨めな扱いを受ける子どもを残して都を去った彼らは、その後訪れるあらゆる町で囚われた子どもの存在を見出すことになるだろう。そしてその度に彼らはただ「歩み去る」。

彼らは苦悩にみちた放浪を続けるうちに、 町の人々すべての幸せのためたった一人の子どもに不幸を与えることは正しいのだと考えて自らの心を慰めようとするだろう。中には、囚われた子どもを憎みさえする者もいるかもしれない。彼らに行先などない。いや、ただ1つ、オメラスだけが彼らの行先でありうるのだ。

今回の"#walkaway" は、オメラスから歩み去った人々の顛末に他ならない。それゆえこれは、「サヨナラ」ではなく「ただいま」なのである。彼らはオメラスに戻ってきた。彼らの心に、もはや子どもに対する疚しさなどない。良心の呵責から解き放たれた彼らの子どもへの仕打ちは、より苛烈になるのかもしれない。いずれ子どもは死ぬだろう。そのときオメラスがどうなるのか、私には分からない。

*1:このような潮流が実際に存在するか、という点に疑義を呈する記事もすでに出ているが、今回はふれない。

*2:私に先んじてid:REVさんがすでに指摘しておられるのだが、REVさんのコメントの趣旨はよく分からないので教えてくださるとうれしい。

*3:同作の訳者は浅倉久志

IDコール等について

はじめに

id:xevraさんの7年前のブックマークコメントを批判する匿名記事*1を見かけた。それ自体はつまらない、どうでもいいような話題だったのだが、記事に寄せられたid:white_roseさんのブックマークコメントが気になった。

xevra「日本なんか5年後から子供達がバタバタと白血病で多量に死に出す

xevraさんにしつこくidコールして個人攻撃してるアカウントがあるけど、さらにこうやって増田での攻撃、それに群がるブックマーカーもいて本当に酷い。低能先生の件から何も学んでいないし全然対処しないはてなも。

2018/08/15 07:58

b.hatena.ne.jp

white_roseさんはこの件について、

  1. 増田(=匿名記事)での攻撃
  2. それに群がるブックマーカー
  3. xevraさんへのしつこいidコールによる個人攻撃

という3点を問題視されている。このうち第3の点を問題視することについて私は必ずしも同意できないのだが、平生white_roseさんのご指摘には首肯するところが多いので、この機にお考えをうかがえればと思い、本記事でとりあげることとした。なお、第1、第2の点についても、あわせて簡単にふれておく。

増田(=匿名記事)での攻撃

これは匿名記事が自身のidを伏せながら特定個人を攻撃している点を批判されているのだと思うが、そうであるならば理解する(idを明示したうえで行うならば、批判内容自体は問題視するようなものでもないと思う)。

この点については、はてな社としても、特定のユーザーや個人を批判・攻撃する文章を公開する目的ではてな匿名ダイアリー(増田)を利用することを適切であると考えておらず、「言及された当事者から削除の申し立てがあった場合、発信者への意見照会を経ずに削除を行う」 とのルールが運用されている*2

今回あえてxevraさんにもidコールを行ったのは、この点についてお知らせしておきたかったからだ。私などよりもはるかにはてなに通じておられるxevraさんは当然ご承知のことではあろうが、「敵」も多いxevraさんにとって重要な情報だと考え、失礼を承知で念のためコールに及んだ次第である。増田で無礼な言及、不愉快な言及等があればどんどん削除してゆけばよいと思う。

それに群がるブックマーカー

これは匿名記事への反応*3ネットリンチの様相を呈しているとのご批判だと思われ、理解できる。

ネットリンチについては過去に記事を書いた。私はネットリンチを「他者の言動等に対し、多数によっていっせいに攻撃を加えること」と定義している。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

本件では、xevraさんへの「攻撃」に同調しない意見もそれなりにあり、相対的に見て「多数」 と言えるかどうか疑わしいところもあるが、「キチガイ」云々と下劣な人身攻撃に及ぶ者の割合が通常の場合より大きいように思われることも勘案すれば、ネットリンチにあたる余地は十分にあるだろう。

なお、ネットリンチの話題では必ずと言ってよいほど「おかしな意見が批判されるのは当然」といった類の主張がなされる。しかし、人身攻撃は言わずもがな、既出の批判を言い換えただけでなんら新たな知見を含まない「批判」も批判としては意味がなく、はてなブックマークでなされる「批判」の大部分はそうしたものであることを強調しておく。詳細は上記「ネットリンチについて」を参照されたい。

しつこいidコールによる個人攻撃

これは、idコールの執拗さを批判するものであるならば私の存じあげない文脈があるのかもしれずなんとも言えないが、idコール自体を問題視するものであるならば、必ずしも同意できない。

以前にも述べたが*4 、およそ議論は、批判者等との双方向的な意見の応酬を通じて発展し果実をもたらすものである。批判された者は、批判されたことを知らなければ、自身の誤りを正すことができないし、批判の方が誤っている場合に反論することもできない。批判対象のあずかり知らぬところで行われる批判は、相手に反論の機会を与えぬまま自己満足に浸る、自慰的な行為であると言ってよい。したがって、原則として批判を行う際にはそのことを批判対象に知らしめるべきであり、むしろ批判対象に知らせることなく批判を書き捨てるような態度こそ、「陰口」などとして責められるべきものであるはずだ。

本記事も、広い意味ではwhite_roseさんへの批判ということになるのだろうが、私はwhite_roseさんとのやりとりを通じて有益なご示唆を得られることを期待しているし、あるいは私の見解がwhite_roseさんのお考えを発展させることもあるかもしれないと考えている(そうであればとてもうれしい)。もしもこの批判をコールせずに行えばそうした機会はほぼ訪れないということになるわけで、私にはそれが生産的であるとはどうしても思えないのだ。

以上のような理由から、私は少なくとも批判的に言及する場合には原則としてidコールを行うべきだと考えている。もっとも、大量のコールに対応するのが煩瑣であることもたしかなので、人身攻撃や上述した「意味のない批判」でコールすることは控えるべきだろう。また、すでに大量のコールが先行している場合にもコールを控えた方がよいかもしれないが、この点については、私が行ったようなブログからのコールについて第三者は了知できない(どの程度コールがなされているかを必ずしも正確に把握できない)という問題がある。 

おわりに

以上、white_roseさんのブックマークコメントについて、私の思うところを記した。実のところ、idコールについては、普段感心するようなコメントをされる方々の少なからぬ部分が必ずしも好意的に捉えていないという印象があり、私になにか見落としていることがあるのではないかという不安がある。white_roseさんのご見解をうかがえれば幸いである。

どう見ても「ホモ」ネタ

以下の記事に接した。

『ドラえもん』でLGBT差別な表現が……この時代にまだ「同性愛はキモい」と発信するか?! | ヨッセンス

2018年8月3日に放送された『ドラえもん』が、LGBTへの差別意識を助長する酷い内容だったという。私はその回を視聴していないが、上記記事が問題にしているのは、てんとう虫コミックス22巻に収録の「ジャイ子の恋人=のび太」を元にした話のようだ。これは「ジャイ子のび太を好いていると誤解したジャイアンが、妹ジャイ子の恋を成就させるべく、のび太に(ジャイ子への)アプローチの指導を行う」というような筋なのだが、上記記事は主として以下の点を問題視している*1

ジャイアンのび太ジャイ子に告白させようと、練習するシーンです。

 

その練習をのび太ジャイアンが空き地でやってたんだけど、それをスネ夫が見て「オゲー!」ってなる描写

 

なにがひどいかと言うと「男が男を好き」ということを意図的に笑いに転換させていること

事情を知らずにのび太ジャイアンの告白練習を見たスネ夫が「オゲー! 」ってなる、という描写がいわゆる「ホモ」をネタにしている、との指摘だ。上記記事中で紹介されているクロスさんのツイート*2が使用している放送のキャプチャー画像を見る限り、少なくとも告白練習の場面あたりはおおむね原作と同じ流れで話が進んでいるようであり、そうであるならば指摘は妥当だろう。

この点に関して、2018年8月13日現在、スネ夫が驚いたのは告白対象が男だからではなくジャイアンだからだ、しずちゃんジャイアンに告白してもスネ夫は驚くだろう、とするid:fockさんのブックマークコメント*3が人気を集めているが、さすがに無理のある解釈だと思う。

理屈で言えば、id:ChieOsanaiさんが指摘するように*4しずちゃんの告白を目撃してもスネ夫は「オゲー! 」とはならない、ということになるだろうし、そんな小難しいことを考えるまでもなく、告白練習の場面を普通に見れば、あれがいわゆる「ホモ」をネタにしていることは一目瞭然だろう。だからこそ、クロスさんの上記ツイートのリプライ欄には「(悲報)ドラえもん、深夜ホモ漫画になる」といったツイート*5が現れるし、問題の放送当時の感想と思しきツイートを探してみても、「何だこのホモアニメは…(困惑)」「ホモ回だったか」といった類のもので溢れている(ほぼそれ一色と言ってもよいほどだ)。原作ではスネ夫にセリフはなく驚愕の表情を見せるのみなのだが(藤子・F・不二雄の「驚愕の表情で笑わせるテクニック」は本当にうまいと思う)、それでも私はかつて原作を読んだ際、あの場面を明確に「ホモ」ネタとして受け取り、笑った(それは自覚なき差別であると指弾されても仕方がないと思う)。

fockさんやそれに賛同する方は、どのような立場をとるにせよ、あれが本当に「ホモ」ネタでないと思うのか、いま一度自問してもらいたい。誤解をおそれずに言うが、私はあれを「ホモ」ネタでないという方々に、大好きな『ドラえもん』を汚されたと感じている。とても腹立たしい。もしも自身の主張のためにあのような妙な解釈をされているのであれば、そうした作品を歪めるようなまねは、どうかやめてほしい。

さて、告白練習の場面が「ホモ」をネタにしていることを前提としたうえで、これをどうするべきか、というのはなかなか難しい問題だ。私は、少なくとも漫画については基本的に修正の必要はないと考えている。『藤子・F・不二雄大全集』の末尾には、「読者のみなさまへ」という、作中の差別表現等についての藤子・F・不二雄プロ及び小学館の考え方を記した文章が収められているのだが、私も大筋においてこれに同意するからだ。この文章は巻によって若干内容が異なるのだが、ここでは「ジャイ子の恋人=のび太」が収録されている『藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 7』のものを引用する。

 本全集では、作品が描かれた時代の意識をそのまま読者に伝え、歴史的事実と作品の生まれた社会状況を正しく把握することが、藤子・F・不二雄の作品を正しく捉え、評価することであるとも考え、できるだけ当時のまま掲載することを基本に編集いたしました。

 

 もちろん、差別的表現に対する指摘については、真摯に受け止めると同時に、あらゆる差別や偏見をなくすために努力していくことが、藤子・F・不二雄の漫画創作の底辺に流れる志に添うものであると信じております。

 また、作者がすでに故人で、第三者が手を加えることは、著作者人格権上の問題ともなりかねず、改訂は最小限にとどめることが、こういった問題を考えていく上で最も適切な処置であると考えます。 

作中の差別表現等についても時代的制約をふまえたうえで正面から向きあうことが作品の正しい評価に資する。また、すでに亡き作者の意向をふみにじることとならぬよう創作物として尊重する必要もある。さらに付け加えれば、過去の差別・偏見をなかったことにすることと、差別・偏見をなくすこととは別でもあろう。漫画についてはこの考えでよいとしても、アニメについてはどうか。『ドラえもん』のアニメは、いちおう原作があるとはいえ、あくまでもこんにちの社会において新たに作られるものである。その中で、差別や偏見を助長するような表現をどの程度まで許容するべきか。原作をどの程度まで尊重するべきか。結局は個々の事案で判断していくしかない、難しい問題となるのだろう。

今回の放送については、問題となっている箇所がまさに一番大きな笑いのポイントであり、下手にいじると作品の魅力が大きく損なわれかねないため、もし修正するならばかなり難しい課題となることが予想される。一方で、差別・偏見としてはそこまで露骨というわけでもないため、私個人としては、いちおう現状のままでよいのではないかな、と思っている。ただしそれも、あくまでも今回の放送が差別・偏見を助長しかねない内容であるとの指摘を真摯に受けとめ、傾聴したうえでのことである。上記記事への反応*6の中には目を覆いたくなるような罵詈雑言も見られるが、修正にまで同意するかどうかはともかくとして、指摘に対して誠実に耳をかたむける姿勢はもちたいものだ。 

ドラえもん 22 (てんとう虫コミックス)

ドラえもん 22 (てんとう虫コミックス)

 
ドラえもん 7 (藤子・F・不二雄大全集)

ドラえもん 7 (藤子・F・不二雄大全集)

 

「主権」の意味

伊勢崎市議会議員伊藤純子の以下のツイートに接した。 

私は地方議員にあまり高い知的水準を求めるのもいかがなものかと思っており、今回のツイートについてもそこまで厳しく批判をするつもりはないのだが、しかしいちおう公務員には憲法尊重擁護義務が課されているところでもあるし*1、個人的に少々懐かしい話題でもあるので、簡単にだけふれておきたい。

「主権」という語は、一般に3つの異なる意味で用いられる。芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)39頁より引用する。

主権の概念は多義的であるが、一般に、①国家権力そのもの(国家の統治権)、②国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、③国政についての最高の決定権、という三つの異なる意味に用いられる。

統治権、最高独立性、最高決定権。この「主権」の意味の見きわめはいわゆる短答プロパーであり、統治分野の中では最頻出の部類に属する知識なので、憲法の短答式(択一式)試験を受ける者であれば、誰もが真っ先に押さえるところだ。それぞれ有名な例を1つずつ挙げておくと、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とするポツダム宣言8項*2の「主権」は統治権の意味、憲法前文が「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」というときの「主権」は最高独立性の意味、憲法1条が天皇の地位について「主権の存する日本国民の総意に基く」というときの「主権」は最高決定権の意味である。

以上をふまえて伊藤のツイートに戻ると、このツイートは、前半では統治権の意味での「主権」を説明し、後半では「主権」が国民にあるかどうか、つまりいわゆる「主権在民」「国民主権」のコンテクストで用いられる「主権」について論じているように見える。そして、上記「主権の存する日本国民の総意に基く」の例からも明らかなとおり、「主権在民」「国民主権」というときの「主権」は最高決定権の意味である。そうすると伊藤のツイートは、前半で統治権の意味での「主権」について説明しながら、後半では最高決定権の意味での「主権」について論じている(ように見える)ということになる。つまり、「主権」の意味の見きわめが全くできていない(ように見える)のだ。伊藤のツイートに頓珍漢な印象を受けるのは、このためである。

*1:憲法99条。

*2:http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

「保守」するべきもの

前回は、保守主義の父バークが、啓蒙主義ないし人権思想について、あまりにも物事を単純に捉えすぎるものだとして疑義を呈していたことをお話ししました。今回は、そのバークが「保守」しようとしたものは何か、そしてそれはこんにちの社会にも残っているのか、といったことについての話をしようと思います。

バークが「保守」しようとしたもの、それはひと言でいうならば「経験」です。ここにいう「経験」とは、たとえば慣習であったり、宗教であったり、偏見であったりというような、先人たちが長い年月のうちに積み重ねてきたもののことです。

たしかに「経験」には、一見不合理と思えるような内容が含まれていることも多いでしょう。その意味で、理性によって不合理な迷妄に囚われている民衆を解放しようとする啓蒙主義からすれば、それは克服するべきものでしかないかもしれません。

しかし一方で、「経験」には、多年にわたって秩序を維持し人々の生活を成り立たせてきたという「実績」があります。そうである以上、仔細に観察するならばほとんどの場合そこにはなんらかの叡知が含まれています。そして、「人間の本性は複雑であり、社会の諸目的も考えられる限りで最も複雑」であってみれば、「経験」のうちの不合理と見える部分も、啓蒙主義ないし人権思想の一面的な見方に基づくゆきすぎを和らげる機能や、あるいはもっと別の有意義な機能を有しているのかもしれません。もちろん、単なる不合理という可能性もおおいにあるわけですが、その判定を明快に行うことができない以上、そうした部分も含めて「経験」を受けいれる方が、結局はむしろ人々の権利を実質的に保障することにつながる、というわけです。バークの言葉を引いておきましょう*1

単純な統治は、せいぜい良く言って根本的な欠陥品である。我々が社会をたった一つの観点から眺める限り、この種の単純な様式の政治体は無限に魅力的に見えよう。実際に個々の要素はそれぞれの目的に、一層複雑な機構がその複合的な目的すべての実現に適合する以上に、遥かによく適合するだろう。だが全体が不完全かつ不規則に適合する方が、一部の要素がこの上なく精密に機能する一方で、それ以外のものがこの気に入りの箇所への度を越えた配慮のために全く無視されて著しい損傷を受けるよりはむしろ望ましい。

バークはこのように、抽象的な権利をいたずらに唱えるよりも、「経験」、言い換えれば他人の叡知に敬意を払うべきだと主張しました。そうすることで、複雑な社会状況においても誤りの少ない判断が可能となり、ひいては人々の権利を実質的に保障することにもつながると考えたのです。

さて、そろそろこんにちの社会に目を移してみましょう。杉田水脈の例の文章を嚆矢として保守と目される人々が次から次へと引き起こすこのところの騒動を見れば、18世紀末にも負けないほどの偏見が、こんにちの社会においてもまかりとおっていることは分かります。しかしこうした偏見を、「保守」するべき「経験」として評価するべきなのでしょうか。

ここで留意しなければならないのは、「経験」が尊重されうるのは、啓蒙主義ないし人権思想が陥りがちな単純さ、一面性を回避する限りにおいてである、ということです。啓蒙主義ないし人権思想がときに一面的なものとなるのは、これが現実から離れた抽象的な権利、いわば机上の空論を扱うものだからです。そうであってみれば、こうした単純さを回避する点に意義を有する「経験」は、抽象的であることに対して慎重でなければなりません。

たとえば、戦前の日本において、女性への偏見は家制度と分かちがたく結びついていました。この制度の下で、女性は財産を承継する権利もないまま家に押し込められ、差別的な扱いを強いられてきました。私自身は家制度をはっきり悪だと考えていますが、 他方この制度下において、家長は女性(をはじめとする家族)を養うべきであるという圧力(=偏見)も強く、ある意味において女性(をはじめとする家族)の生活を営む権利が実質的に保障されていたということもまた否定しがたいのではないかと思います。このように、偏見が「経験」として尊重されうるとすれば、それは抽象的な考え方としてではなく、現実となんらかの形で結びついた、言うなれば地に足のついたものであることが望まれるはずです。

ところが、杉田水脈の例の文章などもそうですが、近時の保守がまきちらす数々の偏見からは、こうした現実との結びつきがきわめて希薄であるという印象を受けます。考えてみれば、これは当然のことかもしれません。地に足のついた「経験」を生み出す基盤となるのは共同体ですが、これが戦後約70年の間にほとんど消えてなくなってしまったからです。たとえば、家制度の解体によって家族の紐帯は弱められ、高度経済成長期の大量の人口移動によって農村的な地域の紐帯も断ち切られました。このような状況下において、現実から遊離した抽象的な偏見だけが未だ声高に叫ばれているのです。それが本来保守が想定していたであろう「人々の権利を実質的に保障する」ことに些かでも資するとは、私には到底思えません。

こうした現状を見ていると、私はマックス・ウェーバーがその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において述べていたことを思い出さずにはおれません*2 。資本主義はプロテスタントの禁欲の精神によって形成される。しかし、ひとたび資本主義が確立されてしまえばもはや禁欲の精神は不要となり、資本主義という鉄の檻から抜け出してしまう、というあの有名な部分です。現在はびこっているさまざまな偏見も、もとは人々の権利の実質的な保障を目的とする保守の精神によって形成されてきたものなのかもしれません。しかしいまや保守の精神は消え失せ、偏見という鉄の檻だけが残っている。そうであるならば、いったいこの鉄の檻を維持することに、何の意味があるというのでしょうか。

以上、つらつらと思うところを述べてきました。たしかに、保守の立場からなされる啓蒙主義ないし人権思想への批判には、それなりの理があるのかもしれません。また、かつては「経験」を重視する保守という立場も、あるいは選択肢としてありえたのかもしれません。しかし、今や「保守」するべき「経験」はほぼ残っていない。それは時代の流れでもありましょうし、皮肉にも保守政党を自任する自民党自身が先頭に立って推し進めてきたことでもありましょう。私などは保守的なところがあるので、その事実に一抹の寂しさも感じるのですが、いつまでも死んだ子の年を数えていることもできません。私たちは、「保守」の死骸に背を向け、独り立って歩き出すべきときなのでしょう。

世界の名著〈50〉ウェーバー (1975年)

世界の名著〈50〉ウェーバー (1975年)

 

*1:エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(上)』(岩波文庫、2000年)114頁以下。

*2:私が参照したのは、尾高邦雄責任編集『世界の名著50』(中央公論社、1975年)に収録されている梶山力、大塚久雄訳のものです。

保守が人権を否定するのは自然なこと

それにしても杉田水脈が月刊誌「新潮45」に寄稿した例の文章はとんでもないものでした。ここまで酷いものが出てくると、「杉田は真の保守ではない」などと彼女を例外的な存在として処理しようとする向きもあるかもしれません。それが完全に誤りであるとは言いませんが、しかし基本的に保守とは人権を否定・軽視する勢力なのだ、という話を、今日はしようと思います。

先日内閣不信任決議案の趣旨説明で枝野幸男も述べていたように*1、保守の起源はフランス革命にまでさかのぼります。ご存知のとおり、フランス革命とは18世紀末に起きた市民革命です。絶対王政が行きづまる中、人口の9割超を占めながらも参政権を与えられていなかった第三身分(平民)を中心とする人々が蜂起して行った一連の社会変革をこう呼ぶのです。

この革命は、啓蒙主義に基づいて行われました。これは、理性によって不合理な権威や制度、慣習等を批判し、これらから民衆を解放しようとする考え方です。こうした啓蒙主義は、フランス革命の基本理念を記したフランス人権宣言の第1条に、最も端的な形で現れています。

第1条 人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、存在する。社会的差別は、共同の利益に基づいてのみ設けることができる。

身分制に代表される不合理な古い社会制度(アンシャンレジーム)を打破し、(身分の別なき)普遍的な人権を承認する。高らかに謳いあげられたこの近代的な人権思想こそが、啓蒙主義最大の果実と言ってもよいかもしれません。

ところが、こうした啓蒙主義(ないし人権思想)とこれに基づいて行われたフランス革命に対して、異議を唱える人物が現れます。それが、保守主義の父と呼ばれるエドマンド・バークです。彼がその著書『フランス革命についての省察*2において行った啓蒙主義(ないし人権思想)への批判こそが、保守の起源なのです。

バークの批判は、ひと言で説明するならば、啓蒙主義(ないし人権思想)があまりにも物事を単純に捉えすぎている、ということでした。塞翁が馬の故事ではありませんが、よのなか何が禍となり福となるかはなかなか分からないものです。一見無駄としか思えないようなものが後々になって役に立つこともあれば、その逆もある。啓蒙主義(ないし人権思想)という現実の複雑さに目を向けぬ抽象的な理念は、なるほど美しく完全なものに見えるかもしれない。しかしこれを実際の社会に適用するとなれば、机上では想像しがたいさまざまな弊害が生じるであろう。これがバークの懸念であり、彼はこうした懸念を「彼らは万物への権利を有することで、万物を喪失する」という簡潔な言葉で見事に表現しています。そしてナポレオンの軍事独裁による挫折へと至るまでのフランス革命の経過は、彼の懸念にそれなりの正当性があったことを証明するものでした。

以上お話ししてきたとおり、保守とはその出自からし啓蒙主義ないし人権思想を(部分的にではあるにせよ)否定するものだったのです。そうであってみれば、こんにちの保守に人権を軽視する手合いが目立つのも、ある意味では自然なことと言えるのかもしれません。もちろん、保守というものを考えるのに大切なのはここから先の話で、彼らはいったい何を、なんのために「保守」しようとしたのか、そしてこんにちの社会に「保守」するべきものは残っているのか、といったあたりを検討する必要があるのですが(すでに削除されてしまいましたが、稲田朋美の「憲法教」ツイート*3とからめて論じると面白いかもしれません)、そちらに歩を進めると少し長くなりますし、もともと今日は、基本的に保守とは人権を否定・軽視する勢力であるとの話をするということでもありましたから、続きは次回ということにしていったん話を終わりたいと思います。

*1:https://note.mu/jun21101016/n/n2782bfee0c00

*2:私が参照したのは、エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(上)』(岩波文庫、2000年)、エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(下)』(岩波文庫、2000年)です。

*3:https://mainichi.jp/articles/20180731/k00/00m/010/033000c

被告人は聖人ではない

レジナルド・ハドリン監督『マーシャル 法廷を変えた男』(2017年公開)を見た感想を記す。内容への言及を含む。

白人女性エリー・ストルービングを強姦したうえ殺害せんとしたとして起訴された彼女の家の黒人運転手ジョゼフ・スペルを、サム・フリードマンがサーグッド・マーシャルの助力を得ながら弁護する。自分は無実であり、犯行時刻と近い時間帯に一人で車を運転しているところを警察官に呼び止められ免許証を見せたというアリバイもあると主張するスペルの言葉を信じ、奮闘するマーシャルたち。スペルの言葉を裏づけるように、たしかに一人で運転する彼を呼び止めたという警察官も現れ、当初マーシャルらの戦いは有利に進んでいるようにも見えた。ところが裁判が進む中で、ストルービング夫人は「スペルが警察官に呼び止められた際自分も同乗していたが、彼に伏せているよう脅されこれに従っていたため警察官は気づかなかった」旨を証言し、たしかにスペルが警察官に呼び止められた際彼女は同乗していたということが明らかになる。スペルは嘘を吐いていたのだ。

後にアメリカ史上初の黒人最高裁判事となるサーグッド・マーシャルを描くが、あまり細かいことを気にせずエンターテイメントとして楽しめる法廷劇である。ただ、非常に重要な教訓も含んでいる。それは、被告人は聖人ではない、ということだ。スペルがそうであったように、前歴があったり素行が不良であったりする被告人は多い。そして、スペルのように味方である弁護士に対してさえ嘘を吐く被告人も珍しくはない。聖人でないどころか、むしろ「不良市民」とでも呼ぶべき人物の方が多いとさえ言えるかもしれない。しかし当然ながら、「不良市民」であるということと有罪であるということとはまったく別の問題である。たとえ問題を抱える人物であっても弁護人を依頼して公平な裁判を受ける権利があるし、身に覚えのない罪で罰せられたり不当に重く罰せられたりしてはならない。というよりも、そうした問題ゆえに指弾され疑われるような立場にある者のためにこそ、こうした権利等は保障されなければならない。いつだって蔑ろにされるのは、誰からも好かれるような者ではなく、嫌われ者、鼻つまみ者なのだから。「不良市民」であっても、否、「不良市民」にこそ権利保障を。それは人種も国も越えた、正義である。