「知らなかったとか関係ない」?

id:ohnosakiko(以下、「大野さん」という。)の以下の記事を読んだ。

「教えて下さってありがとうございました!」と「悪いということを知らなかったんだから」 - Ohnoblog 2

詳細は元記事を参照してもらいたいが、要するにレポートの代筆をめぐるいざこざについての記事である。大野さんは時折授業内でミニレポートの作成・提出を課し、そのレポートの提出をもって出席票にかえていた。あるときレポートの代筆が発覚し、大野さんは、代筆を行った「主犯」のAとその余の代筆してもらった者らに対して、当日の出席取消しを告げた。これに対して、Aが「自分は代筆が悪いこととは知らなかった。それなのに出席停止というのはやりすぎだ」と主張した。この主張に対して、大野さんはいろいろ考えさせられた、というような内容だ。

この元記事の中で大野さんは「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」とする。これは、刑法総論でいうところの「違法性の意識の要否」に対応する問題であろうが、このように明快に断定できるものでもないように思う。

違法性の意識の要否」の問題とは、「ある故意行為を罰するために、行為者がその行為について違法性の意識を有していることは必要か。必要であるとすれば、それはいかなる要件として必要か(体系上どのように位置づけられるか)」という問題である*1。実務上は違法性の意識を不要とする立場がほぼ固まっているものの、これに対してはさまざまな異論がとなえられている。異論の逐一をここで紹介することはしないが、違法性の意識を不要とする立場に対する根幹的な批判は、「責任主義に反する」というものだ。

責任主義」とは、「責任(非難可能性)なければ刑罰なし」とする考え方で、近代刑法の基本原則とされる。心神喪失者の行為は罰しないとされている*2ことを想起すると分かりやすい。

こうした考え方を徹底していけば、「ある故意行為を罰するためには、当該行為についての違法性の意識を要する」との結論にたどりつくのは自然なことだ。たとえば、故意責任の本質を「規範に直面して反対動機を形成しながら、あえてこれを乗り越えて実行に及ぶ」点に求めるオーソドックスな立場を突き詰めれば、「違法性の意識がなければ(=規範に直面していなければ)、反対動機が形成されない以上(あえてこれを乗り越えて実行に及んだとして非難することはできず)、故意責任を問うことはできない」ということになる*3

以上のような議論を元記事の事案にスライドさせると*4、「違法性の意識の欠缺」が「悪いということを知らなかった」におおむね対応するものと言ってよかろう。そうすると、責任主義的な見地からの考察、すなわち「悪いということを知らず、したがって反対動機を形成する機会のない者に、非難可能性を見出すことができるのか」という思索は、当然なされなければならないはずである。あっけらかんと「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」と言い放つことに、少なくとも私は多少の不安を覚える。

注意 

元記事を読んで私が述べたかったことは以上で尽きているのだが、これだけだと誤解を生むおそれもあるように思うので、さらに若干の点を注意的に記しておきたい。 

本記事が取り扱っている処分 

元記事の事案でなされた処分は二種類に分けられる。A以外の者に対する出席取消しと、Aに対する出席取消しだ。前者は、要するに「従前出席ありとしていたが、出席していなかったことが判明したのでこれを取り消した」というものであるから、そもそもこれを「罰」という枠組みで取り扱うことは、(できないわけではないにせよ)必ずしも適当でない。これに対して後者は、「実際に当日出席し、レポートも自ら作成・提出しているにもかかわらず出席を取り消す」というのであるから、まごう方なく「罰」である。本記事が取り扱っているのは、当然後者である。

大野さんの処分の妥当性

私は、少なくとも元記事を読む限り、大野さんが行った処分にまったく問題はないと考えている(もっと重くてもよいかもしれない)。 

本文中では「故意が認められるためには違法性の意識が必要である」とする厳格故意説のみをとりあげたが、「責任主義的な見地に立っても、故意を認めるために違法性の意識までは必要なく、違法性の意識の可能性で足りる」とする制限故意説の方が、学説においてもむしろ優位であり、私自身も違法性の意識の可能性があるならば非難は可能であろうと考える。こうした考え方を元記事の事案にスライドさせたとき、当該事案においても「悪いことだと知る可能性」程度は優に認められるものと思われ、そうであれば非難は十分可能であろう。

というよりは、剽窃やいわゆる代返が許されないというのは広く浸透している社会常識であるうえ、元記事コメント欄でのやりとりを見るに前者については不正であることを授業のはじめに伝えたとのことであるから*5、厳格故意説的に、ある行為を罰するには「それが悪いことだと知っていた」ことまで必要だと解する立場をとったとしても、「Aはそれが悪いことだと知っていた」と認定することは、おそらくたやすい。

私が気になったのは、今回の件にかかるそうした個別具体的な処分の妥当性ではなく、「悪いことだと知らないこと」が非難可能性に及ぼす影響について、大野さんがやや無頓着に見えたという点なのだ。 

刑法 第3版

刑法 第3版

 

 

*1:なお、刑法38条1項、同条3項参照。

*2:刑法39条1項。

*3:厳格故意説。上記のとおり、この点についてはさまざまな学説がとなえられているので、興味のある方はぜひ刑法総論の基本書にあたられたい。

*4:非難可能性のない者に罰を科するべきでないことはそれが刑事罰であるか否かによって異ならないものと思われるから、少なくとも議論の枠組みを元記事の事案を検討するにあたっても用いることに問題はなかろう。

*5:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20161221/p1#c1482672487

訴訟能力回復の見込みがない者を被告人の地位にとどめおく理由はない

以前の記事でとりあげた問題について、平成28年12月19日、最高裁が判断を示した*1。詳細は直接当該記事を参照してもらいたいが、おおむね以下のような問題である*2

被告人が心神喪失の状態にあるとき、刑訴法314条1項によって公判手続は停止される*1。この場合、検察官が自主的に公訴の取消し*2を行えば、裁判所は公訴棄却決定*3を行うこととなり、被告人は被告人の地位から解放される。それでは、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所は手続を打ち切ることができるのか。

この問題に関し、男性とその孫を殺害したなどとして平成7年に公訴が提起されたものの、平成9年に被告人が心神喪失の状態にあるとして刑訴法314条1項によって公判手続が停止され、以後、公判手続が再開されることも打ち切られることもないまま十数年が経過したという事案において、名古屋高裁はおおむね以下のような判断を示していた。

すなわち、検察官には広範な裁量があり、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であると認められるような極限的な場合でない限り、裁判所は訴訟手続を打ち切ることができないところ、本件はそのような場合にあたるとは言えないとしたのである。

最高裁判所第一小法廷は、全員一致でこの判決を破棄し、「被告人に訴訟能力がないために公判手続が停止された後、訴訟能力の回復の見込みがなく公判手続の再開の可能性がないと判断される場合、裁判所は、刑訴法338条4号に準じて、判決で公訴を棄却することができる」とした。妥当な結論である。

刑事訴訟法1条は、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」ことを目的として掲げている。そうである以上、訴訟能力回復の見込みがない(ために有罪判決を受けることもない)者を被告人の地位にとどめおくことは許されないのではないか。これは、私が以前の記事で主張していたところであるが、最高裁も正当にこの点を指摘しているので引用しておく*3

訴訟手続の主宰者である裁判所において、被告人が心神喪失の状態にあると認めて刑訴法314条1項により公判手続を停止する旨決定した後、被告人に訴訟能力の回復の見込みがなく公判手続の再開の可能性がないと判断するに至った場合、事案の真相を解明して刑罰法令を適正迅速に適用実現するという刑訴法の目的(同法1条)に照らし、形式的に訴訟が係属しているにすぎない状態のまま公判手続の停止を続けることは同法の予定するところではなく、裁判所は、検察官が公訴を取り消すかどうかに関わりなく、訴訟手続を打ち切る裁判をすることができるものと解される。

正しい判断がなされたことを喜びたい。 

*1:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/355/086355_hanrei.pdf

*2:当該記事より引用。

*3:一部引用者において太字強調を施した。

トランプ勝利の結果が都合よく解釈されていないか

はじめに

以下の記事を読んだ。

【現地ルポ】リベラル層の「空気」に、トランプ支持者は沈黙を強いられる

記事の内容はタイトルに尽きている。リベラルが反対の意見を抑圧しており、トランプ支持者は沈黙を強いられてきたという、選挙後よく見かける筋立てだ。結論が先にあって、それにあう事例を集めたという印象が拭えず、もう少し客観的に見たほうがよいのではないか、という感想だ。

私はアメリカの大統領選を詳しく追っているわけではないが、この機会に少し思うところを述べておきたい。

トランプ支持者は沈黙を強いられているのか 

上記の記事に限らず、わが国ではどうも「トランプ支持者は沈黙を強いられていた」というニュアンスの言説が自明のものとして受容されているように見受けられるが、そもそもこの点が私には疑問である。

試みに、トランプとクリントンの支持率の推移を見てみる。

直前の世論調査では…|アメリカ大統領選挙|NHK NEWS WEB*1

トランプが共和党の大統領候補に正式指名されたのは2016年7月19日、クリントン民主党の大統領候補に正式指名されたのは同月26日であるが、その翌日の27日時点で、クリントンの支持率は44.6パーセント、トランプの支持率は45.7パーセントであった。支持率はほぼ同程度。むしろトランプがやや上回ってさえいたのである。その後はクリントンが終始支持率において優位に立っているが、それでも両者の差が8ポイント以上に開いたことはない。大統領選最終盤には、ワシントンポストABCテレビが行った世論調査の結果、トランプの支持率が46パーセントとなりクリントンの45パーセントを1ポイント上回ったとさえ報じられた*2。選挙結果が出る前から、大多数のトランプ支持者は態度を明確に表明してきている。素知らぬ顔で「トランプ支持なんてありえないよ」と言いながら実際には密かにトランプに投票していたのだ、と言わんばかりのわが国における一部言説の論調にはおおいに違和感がある。

また、トランプの集会には、常に多数の参加者があり、盛況だという。その熱狂ぶりは、他の候補者の集会と比べても際立っている。参考までに2本の記事を挙げておく。1本目の記事は古いものだが、掲載されている写真が集会の雰囲気をよくあらわしていると思う。

【AFP記者コラム】まるでロックスター、トランプ流選挙集会 写真9枚 国際ニュース:AFPBB News

【米大統領選】トランプ氏「クリントン氏は邪悪だ」「NYTは破綻する」 斜陽の街で舌鋒鋭く(1/2ページ) - 産経ニュース

集会では、人々が何時間も前から会場にかけつけ、行列を作るのだという。公に支持を表明することがはばかられるような人物の集会にこれだけの人が詰めかけ、活況を呈するなどということがあるだろうか。 

以上の事実からすれば、「トランプ支持者は沈黙を強いられていた」などとする言説は、実態から少々乖離したものであるように、私には思える。 

トランプ勝利の理由

同じように、トランプ勝利の理由を、リベラルによる反対意見の抑圧が引き起こした「ポリコレ疲れ」なるものに求める言説も、疑問である。

まず、上記のとおり、「トランプ支持者は沈黙を強いられていた」などとする言説が実態と乖離したものであると思われる以上、そもそも「リベラルによる反対意見の抑圧」なる前提事実の存在自体が疑わしい。

また、選挙期間中をとおして提示されてきた今回の大統領選の構図も、「ポリコレ疲れ」なるものとはまったく異なっていた。共和党ではトランプ、そして民主党では社会民主主義者を標榜するサンダースと、非主流派とされる者が大健闘しているのが今回の大統領選であり、その背景には権益を独占するエスタブリッシュメントへの根強い不信がある。これが今回の大統領選についての大方の分析であったはずであり、その分析は正しいと私も思う。そうだとすれば、「エスタブリッシュメント(一部の人間)による権益の独占」を是正しようとするこうした流れは、どちらかと言えばむしろ「ポリコレ」なるものに親和的と評するべきもののはずだ。

以上のとおり、そもそも「ポリコレ疲れ」を生むような抑圧があったかどうか自体必ずしもはっきりしておらず、少なくともトランプに勝利をもたらした最大の原因は「ポリコレ疲れ」なるものと直接は関係しない。トランプ勝利の理由を「ポリコレ疲れ」なるものに求める言説は、完全に誤っているとは言わないまでも、やはり本筋を見失っているきらいがあるように思う。

おわりに

大統領選の結果をめぐる言説について、思うところを述べてきた。

当然のことだが、わが国とアメリカは別の国であり、抱えている問題も違う。私には、上記のような言説の論者が、わが国の、あるいは自分自身の問題意識を、安易にアメリカにもあてはめようとしているように見える。実際のところどうなのかは知る由もないが、省みて思い当たるところがあるならば、改めていただければと思う。

*1:なお、同記事中で採用されている支持率の出典はリアル・クリア・ポリティクス。

*2:http://jp.reuters.com/article/us-election-poll-idJPKBN12W55N

「ポリコレ」騒動について(1)

はじめに

先日、以下の記事を読んだ。

ポリコレについてブコメしたらid:kyo_juさんに特定するぞと脅された話

この記事(以下、「元記事」という。)を発端に、一部界隈で大騒ぎとなっていたようだ。個人間の諍いに首を突っ込むのはあまり気が進まないのだが、かねてより感じているいくつかのことと関連する話題であるので、言及しておく。

元記事の主張

元記事(id:etc-etcさん)の主張は、おおむね以下の3つに整理される。

  • id:kyo_juから、ブコメ(ブックマークコメント)で、「職業を特定した」と脅迫された。これは自由な言論を抑圧するものであり、許されない。
  • kyo_juは、etc-etcのブコメにスターを付けた全員のアカウント(100人程度)に、メンションを送っている。これも怖い行為である。
  • ○○(特定アカウント)を始めとする有名な人々が、kyo_juの「脅迫」ブコメにスターを付けて支援している。

なお、これに対するブコメの反応は以下のようなものであった。

はてなブックマーク - ポリコレについてブコメしたらid:kyo_juさんに特定するぞと脅された話

kyo_juさんの「脅迫」とは

元記事およびこれに対する反応は、「ポリコレ」云々と抽象的な概念を持ち出して、さながら空中戦の様相を呈している。あまり生産的ではない。大事なのは、具体的にいかなる行為がなされたのか、その行為はどのように評価されるべきか、ということのはずである。

元記事およびその周辺ブコメ等を見る限り、etc-etcさんが「脅迫」とするkyo_juさんの行為は、etc-etcさんのブックマークのタグにブックマークをして、「現在までに137件このタグでブクマしており、公開ブクマはうち1件。ほう。」というコメントを残したというもののようだ。なお、御本人が希望されないようなのであえて具体的には述べないが、etc-etcさんがブックマークされたのは、一般的な職業名(たとえば「医師」や「秘書」のような)のタグだったようである。

etc-etcさんは、kyo_juさんのこの行為について、「つまり、(中略)「お前の職業を特定したぞ」と示唆というか脅迫をしてきた」と述べる。このような評価は妥当なのだろうか*1

まず、一般的な職業名のタグにブックマークをすることについて。私のブックマークには、「自衛隊」のタグがある*2。私はタグをあまりうまく使いこなせておらず、一般的な職業名のタグはこれだけであるが、一般的な職業名のタグを複数作成してブックマークを整理されている方も、多くいらっしゃるだろう。そうしたタグ(の1つ)へのブックマークが、はたして職業を特定することになるのだろうか。 少なくとも私は、「自衛隊」タグにブックマークされても、職業を特定されたとはまったく感じない。

次に、kyo_juさんのコメント内容について。kyo_juさんのコメントは、 一般的な職業名のタグでのブックマーク137件のうち、1件だけが公開であることに着目するものである。正直なところ、他人のブックマークの使い方を嗅ぎまわるような行為はあまり品がよいとも思えないが、とはいえ、1件だけが公開ブックマークであることについて何故かと不思議に感じるのは特段不自然でもなく、id:mur2さんが指摘するように、「タグ付きの非公開ブクマでステマでもしているのか」*3との疑念を抱いたとも考えられる。kyo_juさんの内心は知る由もないが、いずれにせよ、職業の特定と直ちに結びつくようなコメントとは到底言えまい。

そして、そもそもの問題として、etc-etcさんのタグは公開の情報である。公開の情報へのブックマークを「特定」だの「脅迫」だのと言い立てるのは、やはり筋が違うと言わざるを得まい。私はあまり詳しくないが、その手の議論はいわゆる無断リンク禁止問題として決着がついているのではなかっただろうか。 

以上のとおりであるから、kyo_juさんの行為は「脅迫」などとは評し得ない。kyo_juさんの行為にetc-etcさんが不快の念を抱くこと自体は分からないでもなく、行為をやめるよう要望したり、不快を表明したりすることは自由にすればよいと思うが、「「ブクマから特定できるぞ」と脅す行為」などという評価はまったくもって不当である。

なお、etc-etcさんは、kyo_juさんに対して、「kyojuさん。○○くんによろしく。人を脅すならそれなりの覚悟で。こっちもそれなりの対応させてもらいます」とのコメントをしているようだ*4。こちらの方が、脅迫に該当する可能性は高いだろう。

小括

以上、etc-etcさんの主張のうち1点目について検討してきた。続きはいちおう後日書くつもりでいるが、おそらく1週間程度は間隔があいてしまうものと思われ、そのときには気持ちが変わっていて書かないということになるかもしれない。

なお、冒頭で本件がかねてより感じているいくつかのことと関連する話題であると述べた。ここまでに述べてきたこととの関連では、「もっと具体的な行為に着目するべきである」ことがそれにあたる。過去記事から例を引くと、「朝鮮人を保健所で処分しろ」「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮半島へ帰れ」といった聞くに堪えないような罵詈雑言が、「差別」の一語に抽象化される。その過程で、あまりにも多くのものがこぼれ落ちてはいないか。具体的な事象をふまえない議論は往々にして軽薄であると、私は思う。

*1:なお、etc-etcさんのコメントは、大変攻撃的で、kyo_juさんの評価をおとしめるようなものであるから、妥当でないと判断した方から厳しい批判にさらされるのはやむを得ないところだろう。

*2:自衛隊に関するArecolleのはてなブックマーク

*3:http://b.hatena.ne.jp/entry/307367936/comment/mur2

*4:http://b.hatena.ne.jp/entry/307350482/comment/kyo_ju。なお、原文では「○○くん」にはアカウント名が明記されていたが、引用者において伏せた。kyo_juさんと現実での交流がある方のようである。

被告人という呪縛

はじめに

先日の記事で言及した、公判手続が停止したまま長期にわたって刑事被告人の地位にとどめおかれうるという問題について。なお本記事では、刑事訴訟法を「刑訴法」と表記する。

被告人が心神喪失の状態にあるとき、刑訴法314条1項によって公判手続は停止される*1。この場合、検察官が自主的に公訴の取消し*2を行えば、裁判所は公訴棄却決定*3を行うこととなり、被告人は被告人の地位から解放される。それでは、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所は手続を打ち切ることができるのか。こうした問題についての判断を示した裁判例として、名古屋高等裁判所平成27年11月16日判決(判時2303号131頁)がある。

事案の概要と名古屋高裁判決の内容

乱暴に整理すると、本件は、男性とその孫を殺害したなどとして平成7年に公訴が提起されたものの、平成9年に被告人が心神喪失の状態にあるとして刑訴法314条1項によって公判手続が停止され、以後、公判手続が再開されることも打ち切られることもないまま十数年が経過したという事案である。

原判決*4は、被告人について訴訟能力はなくその回復の見込みもないとした。そして、訴訟能力は訴訟関係成立の基礎となる重要な訴訟条件であるところ、本件では公訴提起後にこれを欠き、「公訴提起の手続がその規定に違反したため無効」になったものとして、刑訴法338条4号を準用し、公訴棄却の判決を行った。

これに対して本判決は、現状において被告人に訴訟能力がなく、その回復の見込みもないことを認めつつ、大要以下のように述べて、本件公訴を棄却した原判決を破棄し、本件を名古屋地方裁判所に差し戻した。

  • 訴追の権限は検察官が独占的に有しており*5、検察官が公訴を取り消せば裁判所は決定で公訴を棄却することとなる。そして、親告罪における告訴の欠缺、被告人の死亡、時効の完成などの訴訟条件を欠く場合、法はそれらに応じた裁判*6をなすことを規定する一方、公判手続停止後、検察官が公訴を取り消さない場合、法は裁判所がとるべき措置についてなんら規定していない。以上のことから、検察官による公訴の取消しがないのに、裁判所が公判手続を一方的に打ち切ることは原則として許されない。
  • もっとも、いわゆる高田事件判決*7は、刑事事件が裁判所に係属している間に迅速な裁判の保障条項に反する異常な事態が生じた場合、憲法37条1項に基づいて審理を打ち切ることを認めている。そこで、憲法37条1項の趣旨に照らし、公判手続を停止した後、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であると認められるような極限的な場合には、裁判所が公判手続を打ち切ることも許される。
  • 以上をふまえて本件を見るに、①被告人は、原審の公判手続停止時には訴訟能力を有していたことがうかがわれ、平成11年から平成12年にかけて精神状態の改善も見られたものの、平成20年頃から平成24年頃にかけて精神状態が悪化が進行していったという経過が認められる。また、②本件では、原審において、当初は4か月ごと、その後は6か月ごとに勾留執行停止期間延長の申立ての当否についての審査が行われており、平成22年2月以降は、今後の進行等に関する打ち合わせがくり返し行われ、被告人の訴訟能力の回復可能性に関する審理が行われてきたのであって、長期間にわたって審理が放置されてきたような事案と同視することはできない。さらに、③本件は面識のない男性とその孫を殺害したとする凶悪重大事案であり、遺族の被害感情が峻烈であること等も考慮して検察官は公訴を取り消さないものとうかがわれる。これらの事情をあわせて考慮するならば、本件において検察官が公訴を取り消さないことは、明らかに不合理であると認められる極限的な場合にあたるとは言えない。

名古屋高裁判決の検討

わが国では、基本的には公訴を提起する権限を検察官が独占しており、しかも公訴を提起するかどうかも検察官の裁量に委ねられている(起訴便宜主義)*8。また、かかる起訴便宜主義の延長として、検察官がいったん公訴を提起した後に公訴を取り消すことも認められている*9

もっとも、こうした検察官の裁量も決して無制限に認められるものではない。刑訴法248条は、公訴を提起するか否かを判断するにあたっての考慮要素として、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況」を挙げているし、そもそも刑訴法が、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」ことを目的として掲げている*10以上、かかる目的から逸脱するような公訴提起は許されないものと言うべきである。たとえば最高裁判所昭和53年12月20日判決*11は、公訴提起にあたって、「起訴時あるいは公訴追行時における各種証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」の存在を要求しているが、検察官の公訴提起にかかる裁量が上記のような見地から制約されるものである以上、およそ嫌疑のない場合に公訴を提起することが許されないのは当然である。

以上をふまえて検討するに、本判決は、被告人に訴訟能力がなく、その回復の見込みもないことを認めている。そうすると、上記のとおり法314条1項によって公判手続は停止され、しかも回復の見込みもない以上、今後公判手続が再開され進行するということもなく、必然的に被告人が有罪判決を受けることもないものと考えられる。そのような被告人について、本判決は、迅速な裁判を保障する憲法37条1項の趣旨に照らして、公判手続を停止した後、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であるかどうかを検討し、おおむね上記①ないし③のように述べて検察官が公訴を取り消さないことは明らかに不合理とは言えないとする。このうち①は被告人が訴訟能力を欠くに至ってから必ずしも長期間が経過したわけではない旨をいうもの、②は公判手続が停止されてからも被告人の訴訟能力の回復可能性等について審理がなされており無為に放置されていたわけではない旨をいうものと思われ、いずれも迅速な裁判を受ける権利が損なわれたか否かにかかる事情である。③は前二者とはやや視点が異なり、事案が重大であり遺族の被害感情も峻烈である(ので軽々に公訴を取り消さないことにも一定の合理性がある)ことをいうものである。 

しかし、もはや有罪判決を受けることがないと考えられる者を被告人の地位にとどめおくことは、基本的に重大な不利益を不必要に課するものと評せざるを得ず、基本的人権の保障という見地からはきわめて問題がある。上記のとおり、およそ嫌疑のない場合には公訴を提起することさえ許されないことに照らせば、訴訟能力がなく、その回復の見込みもない(ために有罪判決を受けることがないと考えられる)者を被告人の地位にとどめおくことは、たとえ短期であっても、それを正当化するような特別の事情がない限り許されるものではないだろう。そうすると、①②は、迅速な裁判を受ける権利を損なっていないこと、すなわち被告人の地位へのとどめおきが不当に長期にわたっていないことをいうものにすぎないから、これらの事情だけで検察官の公訴を取り消さないとの判断に合理性を認めることはできず、他に被告人の地位へのとどめおきを正当化するような特別の事情が認められる必要がある。

それでは③は、被告人の地位へのとどめおきを正当化するような特別の事情と言えるだろうか。この点、たしかに事案の重大性は刑訴法248条*12にいう「犯罪の軽重」、被害感情は同条にいう「犯罪後の情況」として、公訴を提起するか否かを決する際の考慮要素とされている。しかし、同条の「訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」との規定ぶりからも分かるように、こうした要素は、典型的には、「軽微事案であり、被害感情も強くないから、訴追は(可能であるが)あえてしない」という形で考慮される。

  • 軽微な事案についてあえて公訴提起しないことによって訴訟経済の要請に応える
  • 公訴提起(及びその後の刑罰)によるスティグマの付与を回避する
  • 刑罰によらない早期の改善更生を図る
  • 事案が軽微で被害感情も強くないのであればそもそも処罰価値は低いのであるから、無用な公訴提起を回避する

などの見地から、十分な嫌疑と訴訟条件はあるものの、あえて公訴を提起しない裁量を検察官に認めるのが、刑訴法248条の趣旨である。そうだとすれば、訴訟能力がなく、その回復の見込みもないために有罪判決を受けることがないと考えられる者を被告人の地位にとどめおくうえで、事案の重大性や遺族の被害感情が峻烈であることは、やはりこれを正当化する特別の事情とは言えないだろう。なによりも、このような理由で有罪判決を受けることがないと考えられる者に被告人の地位へのとどめおきという重大な不利益を課するというのでは、実質的に裁判手続を経ずに刑罰を科するというに近い。

以上のとおりであってみれば、本判決の述べる①ないし③のいずれも、訴訟能力がなく、その回復の見込みもない者の被告人の地位へのとどめおきを正当化するものとは言えない。本件において検察官が公訴を取り消さないのは明らかに不合理であると考える。 

おわりに

以上、本記事では、被告人が訴訟能力を欠いて公判手続が停止され、訴訟能力回復の見込みもないときに、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所において手続を打ち切ることができるかという問題について、名古屋高等裁判所平成27年11月16日判決(判時2303号131頁)を紹介し、批判を加えてきた。本記事ではあえてふみこまなかったものの、そもそも訴訟能力がなく、その回復の見込みもない者を被告人の地位にとどめおくことが正当化できるような特別の事情など存在しうるのか、私にははなはだ疑問である。

なお、本件では上告審の弁論期日が平成28年11月28日に指定されているようだ。

精神疾患の被告の殺人事件の裁判 「打ち切り」も 最高裁が弁論期日を指定 差し戻し判決見直しか - 産経ニュース

はてなブックマーク - 精神疾患の被告の殺人事件の裁判 「打ち切り」も 最高裁が弁論期日を指定 差し戻し判決見直しか - 産経ニュース*13

最高裁の判断に注目したい。

*1:なお、ここに「心神喪失の状態」とは、訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当の防御をすることのできる能力を欠く状態をいう。最決平成7年2月28日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/122/050122_hanrei.pdf)。

*2:刑訴法257条。

*3:刑訴法339条1項3号。

*4:名古屋地方裁判所岡崎支部平成26年3月20日判決(判時2222号130頁)。

*5:刑訴法247条。

*6:順に、公訴棄却判決(刑訴法338条4号)、公訴棄却決定(刑訴法339条1項4号)、免訴判決(刑訴法337条4号)。

*7:最大判昭和47年12月20日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/808/051808_hanrei.pdf)。

*8:刑訴法248条。

*9:刑訴法257条。

*10:刑訴法1条。

*11:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/226/053226_hanrei.pdf

*12:「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」

*13:リンク切れに備えてはてなブックマークページもはっておく。

渋谷暴動と時効

平成28年11月10日追記:元記事のリンクが切れてしまったようなので、元記事のはてなブックマークページをはっておく。

先日、以下の記事を読んだ。

はてなブックマーク - 「渋谷暴動」で警察官殺害 手配の過激派の男に懸賞金 | NHKニュース

昭和46年(1971年)に渋谷で警察官を殺害したとしてA氏が指名手配されている、いわゆる「渋谷暴動」について、警察庁が、情報提供者に公費から懸賞金を支払う制度の対象にすることを決めたという。

厚かましい話だと思う。

事件当時の規定に照らせば、本件の公訴時効は15年。にもかかわらず、未だに本件の捜査が継続されているのは、刑事訴訟法254条2項によるものである。

第二百五十四条 時効は、当該事件についてした公訴の提起によつてその進行を停止し、管轄違又は公訴棄却の裁判が確定した時からその進行を始める。

○2 共犯の一人に対してした公訴の提起による時効の停止は、他の共犯に対してその効力を有する。この場合において、停止した時効は、当該事件についてした裁判が確定した時からその進行を始める。

時効は公訴の提起によってその進行を停止する。そして、共犯の一人に対する公訴の提起は、他の共犯との関係でも時効の進行を停止させ、当該事件についてした裁判が確定するまで進行しない。

本件では、共犯とされる人物B氏などについて公訴が提起されており、時効の進行は停止していた、というわけだ。

しかし、B氏の公判は、昭和56年(1981年) に、同人の精神疾患によって手続停止となっている。そして、どうやら平成28年(2016年)現在においてもこの件についての確定裁判はないようである*1

「停止した時効は、当該事件についてした裁判が確定した時からその進行を始める。」

殺人罪などの公訴時効は平成22年に廃止されているが、仮に廃止されていなかったとしても、共犯たるB氏について公訴が提起され、その裁判が未確定である以上、A氏の時効は完成していないということになる。

 

そもそも刑事訴訟法254条2項は、共犯者間の不公平を避けるための規定である*2。(たとえば精神疾患のような)他の共犯者には如何ともしがたい個人的な事情によって、共犯者の一人の公判が通常と大きく異なる経過をたどったときに、そのことに起因する不利益を他の共犯者にも負わせる――。それはもはや、共犯者間の公平を図るという法の要請をはるかに逸脱し、他の共犯者に不当な負担を強いるものと言うべきであろう。

そうであるならば、共犯とされる者の公判手続停止を奇貨として何十年にもわたって捜査を継続し、あまつさえ懸賞金までかける捜査機関の態度はあまりにも 厚顔であるように、私には思えてならない。しかるべき法整備が望まれるところである。

なお、共犯とされるB氏に関して、精神疾患を理由として公判手続を停止したまま何十年もの長期にわたって刑事被告人の地位にとどめおくことも、当然ながらきわめて重大な問題をはらんでいる。これについては、稿を改めて論ずる。

*1:なお、少なくとも平成22年(2010年)1月時点で確定裁判がないことは間違いない。

*2:松尾浩也監修『条解 刑事訴訟法』(弘文堂、第4版、2009年)505頁。