時間外労働の基礎知識

はじめに

今国会では、「働き方改革」が重要なテーマとなっている。報道によれば、政府は、時間外労働の上限について、月平均60時間・年間最大で720時間とし、繁忙期であっても年間720時間を超えないことを前提に、月最大100時間で、なおかつ2か月の平均で月80時間とする方向で調整を進めているとのことだ。

首相 時間外労働の上限 政府原案を月内に提示 | NHKニュース

本記事では、この方針がいかほどの意義を有するものであるかを各自が判断できるように、時間外労働についての基礎的な知識をまとめておく。

時間外労働とは

労働基準法(以下、「法」という。)32条は、使用者が労働者に対して、1日8時間、週40時間を超える労働をさせることを禁じている。この1日8時間、週40時間という法定の労働時間を超える労働を、「時間外労働」という。

(労働時間)

第三十二条  使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。

○2 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

36協定(さぶろくきょうてい) 

上記のとおり、時間外労働は原則として禁止されているのだが、一定の例外も設けられている。例外の一つは、災害等の非常事由があるとき*1。そしてもう一つが、いわゆる36協定のあるときだ。

法36条1項は、使用者が労働組合等と書面による協定をし、これを行政官庁に届け出た場合には、労働時間の延長等を行うことができる旨を定めている*2。この協定を、俗に「36協定」という。ただし、36協定の締結および届出によって、直ちに労働者に時間外労働義務が発生するわけではない点には注意を要する。時間外労働の禁止を定める法32条の違反に対しては罰則が定められているところ*3、36協定はこの罰を免れる効果(免罰的効果)を有するにすぎない。就業規則等によって、36協定の範囲内で時間外労働を定めうる旨を規定した場合にはじめて、労働者に時間外労働義務が生じうるのである*4

36協定がある場合にも、延長しうる労働時間には一定の限度が設けられている。法36条2項は、「厚生労働大臣は、協定で定める労働時間の延長の限度等について基準を定めることができる」旨規定しており、これをうけて時間外労働の限度に関する基準が定められているのだ*5。詳細は各自において確認されたいが、おおまかに言えば、原則として1か月45時間、年360時間を時間外労働の上限としたうえで、特別条項をおくことで臨時的な特別の事情がある場合に限りこれを超えて労働時間を延長できるとの内容である。もっとも、法36条2項以下の規定ぶりなどから、この基準は強行的な効力を有するものではないと解されている。

(時間外及び休日の労働)

第三十六条 使用者は、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定をし、これを行政官庁に届け出た場合においては、第三十二条から第三十二条の五まで若しくは第四十条の労働時間(以下この条において「労働時間」という。)又は前条の休日(以下この項において「休日」という。)に関する規定にかかわらず、その協定で定めるところによつて労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる。ただし、坑内労働その他厚生労働省令で定める健康上特に有害な業務の労働時間の延長は、一日について二時間を超えてはならない。

○2 厚生労働大臣は、労働時間の延長を適正なものとするため、前項の協定で定める労働時間の延長の限度、当該労働時間の延長に係る割増賃金の率その他の必要な事項について、労働者の福祉、時間外労働の動向その他の事情を考慮して基準を定めることができる。

○3 第一項の協定をする使用者及び労働組合又は労働者の過半数を代表する者は、当該協定で労働時間の延長を定めるに当たり、当該協定の内容が前項の基準に適合したものとなるようにしなければならない。

○4 行政官庁は、第二項の基準に関し、第一項の協定をする使用者及び労働組合又は労働者の過半数を代表する者に対し、必要な助言及び指導を行うことができる。

過労死ライン

事実上時間外労働の上限を画する機能を有するものとして、俗に「過労死ライン」と呼ばれている基準もある。これは、厚生労働省が脳・心臓疾患を労災認定する際の基準として定めた「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の 認定基準」*6に基づくものだ。その判断枠組みの仔細は本記事の趣旨から外れるので割愛するが、同認定基準は、脳・心臓疾患の発症に影響を及ぼす業務による明らかな過重負荷として、長期間にわたる疲労の蓄積も考慮しており、これに関連して以下のような点を判断にあたってふまえるべきこととされている*7

(1) 発症前1か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合は、業務と発症との関連性が弱いが、おおむね45時間を超えて時間外労働時間が長くなるほど、業務と発症との関連性が徐々に強まると評価できること

(2) 発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できること

ここで業務と(脳・心臓疾患の)発症との関連性が強いとされる、「発症前1か月100時間または発症前2ないし6か月の月平均80時間の時間外労働」が人口に膾炙したものが、いわゆる「過労死ライン」である。やや乱暴で挑発的な表現をするならば、労災レベルの働かせ方が過労死ラインなのだ、ということもできるかもしれない。

おわりに

以上、時間外労働についての基礎的な知識をまとめてみた。

こうした知識に基づいて政府の方針をどのように評価するかは各自の判断に委ねる。私個人としては、「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の 認定基準」が、一般には過労死ラインとして取りざたされる指摘事項とともに、「時間外労働が45時間を超えない場合業務と(脳・心臓疾患の)発症との関連性は弱く、これを超えると徐々に関連性が強まっていく」旨の指摘を行っていることにいっそうの注意を向けてもらえればと願っている。

*1:法33条。

*2:理解しやすいよう、あえて大雑把な説明を行った。正確な内容は後掲の条文を参照のこと。

*3:法119条1号。

*4:最判平成3年11月28日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/731/052731_hanrei.pdf)。

*5:http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/roudouzikan/040324-4.html

http://osaka-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/hourei_seido_tetsuzuki/roudoukijun_keiyaku/hourei_seido/jikan2/kokuji/kokuji1.html

*6:http://www.mhlw.go.jp/shingi/2002/09/s0906-5b2.html

*7:太字強調は引用者による。なお本文中でも述べたとおり、本記事は認定基準の全体像を示すものではなく、考慮要素はこれに尽きるわけではない。

とりあえず「150万円払わせた」と言うのはやめませんか

はじめに

横浜市のいじめの件が気になっている。

原発事故で自主避難をした児童(以下、「当該児童」という。)が、同級生から「賠償金あるだろ」などと言われ、遊興費等として約150万円を支払わされた、と主張している件だ。

https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/150-yokohama-ijime

はてなブックマーク - 「おごってもらった」と言えば小学生に150万円払わせてもいじめじゃないのか 猛烈批判に横浜市教委が迷走

横浜市いじめ問題専門委員会の報告書*1でも一定のいじめはあったとされており、当該児童が長期にわたって不登校となったこと*2や当該児童の手記*3の内容などからしても、当該児童が本当に辛い思いをしたのであろうことは十分に察せられる。当該児童に対して適切な支援がなされることを、私も心から願うものである。

だが一方で、加害者(たる可能性のある)児童ら(以下、「同級生ら」という。) にも当然人権はあり、身に覚えのない「罪状」、自分たちが行った以上の「罪状」で、不当に指弾されるようなことがあってはならない。当該児童へのケアとは別の問題として、同級生らが本当に「150万払わせた」と認定できるのかどうかは、推定無罪の原則にのっとって、慎重に検討されるべきである。

問題の検討 

「150万払わせた」かどうかの認定は、おおむね以下の3つの問題に分けることができる。 すなわち、①そもそも当該児童による金銭の費消があったのか、②金銭の費消があったとしてそれはどの程度の額だったのか、③その金銭の費消は当該児童が自ら「払った」のか同級生らに「払わされた」のか、という3点である。

金銭の費消はあったか(①について)

報告書を見る限り、①については同級生らも認めているようであり*4、平成26年5月頃から同月末頃にかけて、当該児童が同級生らの遊興費等を負担していたとの事実はあったのだろう。

費消額はどの程度か(②について)

それでは、②についてはどうか。この点、同級生らの認否はやや分かりにくいのだが、報告書11頁の記載*5などからすれば、150万円という金額については否認しているのだろう。

そこで検討するに、上記のとおり、当該児童による金銭の費消は、平成26年5月頃から不登校となる同月末頃までのわずか1か月弱の間に行われたようである*6

この金銭の使途は、同級生ら約10人のゲームセンター等での遊興費、食事代、交通費等であるとされており、当該児童は、こうしたことは10回くらいあり、1回あたり5万円ないし10万円を費消したと主張しているようだ*7。1か月弱の間に10回程度ゲームセンターに通っていたということになると、3日に1度以上の頻度ということになる。そうすると、平日にもゲームセンター通いを行っていたということだろうか。休日であったとしても相当な金額であるが、平日、学校が終わってから遊びはじめて、1日で5万円ないし10万円を費消するというのは高額にすぎるのではないかという気もする。そのうえ、仮に当該児童の主張を全面的に信用したとしても、その金額は50万円ないし100万円にとどまり、150万円には遠く及ばない。

また、当該児童は自宅にある親のお金を持ち出していたとのことだが、150万円もの大金を、現金で自宅に置いていたのだろうか。しかも当該児童が容易に持ち出せる状態で。なにかしらの事情があるのかもしれないが、現在公表されている情報のみを前提とすると、この点もやや不可解である。 

以上のとおり、150万円との金額にはやや合理性に疑問もある。同級生らが否認しているようであり、調査を行った学校が8万円の費消しか確認できなかったとしているとの報道もあるようである中*8、ほぼ当該児童側の主張のみに依拠する形で、ほとんど情報を有しない部外者であるわれわれが「150万円」との金額を軽々に口に出すべきではないだろう。

なお、「8万円でも十分に問題である」と感じる方もいらっしゃると思う。「8万円でも十分に問題である」ことそれ自体には同感だが、それでも費消の金額が8万円であるのと150万円であるのとでは事態の重大性がまったく異なる。それはたとえば8万円の窃盗と150万円の窃盗とでは犯情に大きな差があることを想起すれば容易に了解していただけるものと思う。「150万円」との断定は、同級生らにやってもいない「罪」をかぶせる結果になりかねないことを、十分に自覚するべきである。

「払った」のか「払わされた」のか(③について) 

③については、前提として「払わされた」をどう解するかが問題となるが、冒頭で掲げた記事への反応を見ても、本件を「れっきとした恐喝」などとする声が圧倒的のようであるから、ひとまず「払わされた」=「恐喝された」ということだと解して検討を進める。この場合、同級生らが当該児童に対して同人を畏怖させるに足りる程度の害悪の告知を行い、これによって当該児童が畏怖して処分行為を行ったと認められるならば、当該児童は金銭を「払った」のではなく「払わされた」のだということができよう*9。同級生らは、「当該児童自身ががお金を見せ、積極的にお金を皆に配った」旨主張しており*10、この点を否認している。

ここで問題となるのは 、当該児童の手記に記載のある、「お金もってこい」「ばいしょう金あるだろ」といった発言が本当になされたかということだ*11。そこで以下、当該児童の手記の信用性を検討する。

この点、一般に子どもは知覚、記憶、叙述の能力が成人に比して低いうえ、暗示や誘導の影響を受けやすいとされている*12 。当該児童の手記は、平成27年7月に書かれたとのことであるから*13、手記作成時点で、当該児童が金銭の費消を行ってから1年以上が経過していたということになる。これだけの長期間が経過している以上、記憶の減退が生じることは当然である。加えてその間、当該児童は親や弁護士の影響を受け続けていたものと思われるから、これによって暗示を受け、記憶の変容が生じている可能性もある。そもそも1年以上も経過してから手記を作成するということ自体、弁護士等の働きかけによるのではないかと思われるところでもある。親や弁護士等が当該児童に与えた影響は、決して小さなものではなかっただろう。

また、このようなことを指摘するのは非常に心苦しいが、当該児童は親の保管する金銭を持ち出して費消を行っていたものであるから、同級生らに「払わされた」のでないとすれば、当然その行為に対する非難の度合いは大きくなる。その意味で、当該児童は、金銭を「払わされた」のかどうかという点について利害関係を有しており、同級生らに責任を転嫁するという可能性も考えないわけにはいかない。 

こうしたことをふまえて報告書に目をうつすと、報告書では、「当該児童は、遊興費等の負担によって同級生らとの間に友好感を生じることができたため、同様のことをくり返したと思われる 」との趣旨が述べられている*14ほか、「横浜市いじめ問題専門委員会による聴取に対し、当該児童は、同級生らから「おごるよう言われた気持ち」になっていたと述べた」との趣旨の記載もある*15。実際に「おごるよう言われた」のであれば、「おごるよう言われた気持ち」などという表現にはならないであろうから、当該児童は、横浜市いじめ問題専門委員会による聴取に対しては、手記とは異なる内容を述べていたのではないかとも思われるところである。

さらに、一部報道によれば、当時の副校長は当該児童の保護者に対して、「お宅のお子さんが、みなとみらいなどに土地勘があり、娯楽施設などに率先して連れ出していたのではないか」との発言を行ったとのことである*16。当該児童らの遊興にあたっては交通費も発生しており、それなりの遠出であるから、その土地に通じた者が積極的な役割を果たす必要があることは確かであろう。そして、これは公表されている情報からは知る由もないことであるが、当該児童が本当にみなとみらいなどに土地勘があるのならば、自分から同級生らを誘ったのではないかと考えることにも一定の理由はあるものと言えそうだ。

以上のとおり、当該児童の手記は、公表されている情報のみから判断する限り、全面的に信用するにはやや疑問があるものと言わざるを得ない。警察も聞き取り調査を行ったうえでこれを刑事上の事件とは認定できないとしており*17、やはりほとんど情報を有しない部外者であるわれわれが「払わされている」と認定することは難しいだろう。

なお、当該児童による金銭の費消が行われる前月の平成26年4月には、当該児童はプロレスごっこと称して数人から叩かれるという「いじめ」にあっており、当該児童による金銭の費消の要因にはいじめが存在していたと考えられる。このことは、報告書でも認定されているので*18、誤解のなきよう強調しておきたい。

おわりに 

以上のとおり、本件では当該児童が「金銭を費消した」とは言えても、「その金額が150万円であった」とも、「それは払わされたものであった」とも、公表されている情報のみから断定することは困難である。「150万円払わせた」と大騒ぎすることは、同級生らに対する理不尽な糾弾につながりかねない。このような点にこだわりすぎることなく、当該児童等の健やかな成長を助ける方向に議論が進むことを期待したい。 

*1:http://www.city.yokohama.lg.jp/shikai/pdf/siryo/j4-20161212-ky-43.pdf

*2:上記報告書参照。

*3:http://www.asahi.com/articles/ASJCH5GJYJCHULOB02P.html

*4:報告書16頁「関係児童らは、Aがお金を見せ、積極的にお金を皆に配ったと述べている」。 

*5:「学校は、聞き取りを行った金額と持ち出した金額との間の開きが大きいため、警察に相談してからの方がよいと当該児童の保護者に話した」。

*6:報告書15頁、16頁。

*7:報告書15頁。

*8:http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/23/yokohama-school_n_13185118.html

*9:刑法249条参照。

*10:前掲注4参照。

*11:もちろん、仮にこれらの発言がなされていたとしても、発言がなされた状況等からそれが当該児童を畏怖させるに足りる害悪の告知と言えるかどうかをさらに検討する必要があり、直ちに当該児童が恐喝されたものと結論づけることはできない。

*12:http://nichdprotocol.com/guidelinesjapanese.pdf

*13:前掲注3参照。

*14:報告書16頁。

*15:報告書18頁。

*16:http://www.sankei.com/affairs/news/161123/afr1611230023-n1.html

*17:http://www.jiji.com/jc/article?k=2016111800910&g=soc

*18:報告書18頁。

アパ本への「反論」なのです(私見)

はじめに

少し前に、アパホテル南京大虐殺を否定する内容の書籍を客室に設置していることなどが海外で伝えられ、大きな話題となった*1。これをうけて、アパは同書籍の該当部分を公開していたのだが*2、今般、id:scopedogさんが、同書籍該当部分に対する反論記事(以下、「反論記事」という。)を公開された。

アパホテルが「「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々」と称して公表している内容について反論しておく - 誰かの妄想・はてな版

簡潔でありながらきちんと根拠資料をたどることもできる立派な内容であり、私などは短期間のうちにこれだけのものを仕上げられたことに感嘆するばかりだったのだが、人気となっているブックマークコメントの反応は意外なものであった*3

なんというか「事実は不明」としか読めない。肯定派も否定派も論拠に乏しくなんとも言えない。事実はどうなんだろうなぁ、とりあえず30万人は盛ってる数字に思えるくらいだ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/316884587/comment/tpircs

tpircsさんがなにをもって「論拠に乏し」いとされているのか不明であるが、「肯定派も否定派も」との文言から、私はなんとなくtpircsさんが反論記事の趣旨を取り違えておられるのかな(tpircsさんと同趣旨のコメントをつけた他の方々も、あるいは同様かもしれない)、と感じながら見ていた。今般、南京での犠牲者30万人説の妥当性を云々する以下の記事(以下、「ココ掘れ記事」という。)が公開されるにいたり、反論記事の趣旨を取り違えておられる方は想像以上に多いのかもしれないと考え、簡単に説明を加えてみることにした。

南京大虐殺論争に決着をつけるためのココ掘れワンワン: ニュースの社会科学的な裏側

もちろん、ここで行う説明は、反論記事の趣旨等に関する私なりの理解であるから、誤っている箇所があれば、scopedogさんよりご指摘いただき次第お詫びして訂正する。というよりも、このような記事の公開自体が完全に差し出口であるので、一言ご連絡をいただければ記事自体の削除にも速やかに応じる所存である。

反論記事について

反論記事は、「アパホテルが(中略)公表している内容に反論しておく」*4 との表題から明らかなとおり、アパのホテル客室に設置されている上記書籍でなされている主張に対する反論である。

そこで、反論記事について語る前に、まず反論の対象である同書籍がどのような主張を行っているのかを確認しておこう。

アパ本の主張

同書籍では、日本側の責任に一切触れることなく、「いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかった*5などとして中国側を終始口汚く罵っている*6。また、「「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々」として、「当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかった」「蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」などとも述べている。このような文言から、同書籍が南京虐殺事件における規模を問題にしているものと解することは難しい。

ココ掘れ記事の作成者をはじめとする少なからぬ人々は、同書籍の主張を、「南京虐殺事件の犠牲者は30万人もいなかった」というものに矮小化せんとするかのようであるが、この時点で欺瞞があると言わざるを得ない。普通に読めば、同書籍は、その規模の大小にかかわらず、日本軍による南京での虐殺の事実それ自体を否定するものである。話題の発端となった動画の公開者も「滞在中に部屋の中の読み物をチェックしてて、ショックを受けました。CEOによって書かれた本、南京虐殺は完全な嘘で完全な捏造だと」と述べていたようであるから*7、同書籍の主張を(規模ではなく)南京虐殺そのものの否定と捉えており、だからこそこれだけの話題となっているのである。これを単なる「30万人説の否定」として片づけるのは、あまりにも強弁がすぎる。

反論記事の趣旨

さて、このような同書籍の主張に対する反論者が行うべきことはなにか。それは、同書籍が主張の根拠(証拠)として摘示する事実が真実でないこと、あるいは仮に真実であるとしても主張の根拠として意味を有しないことについての立証活動である。

上記のとおり、同書籍の主張は「30万人説の否定」ではなく「日本軍による虐殺そのものの否定」であると思われるのでいっそう分かりやすいが、仮に同書籍の主張が純然たる「30万人否定説」と呼べるようなものであったとしても、反論者において「30万人説が妥当であること」を立証する必要はまったくない。主張に対する批判は、別の主張が正しいことによってではなく、当該主張の根拠がない(薄弱である)ことによって十分に成立する。すなわち、同書籍の主張が根拠(証拠)として摘示するものがいずれも根拠となりえないことさえ立証できれば、それで同書籍の主張が失当であることは十分に明らかとなるのである。そして、scopedogさんの反論記事も、これを行ったものにすぎず、「30万人説が妥当である」と主張するものではない。

ココ掘れ記事の作成者などはどうもこの点を誤解して、scopedogさんなどが30万人説を支持していると考えているようだが、scopedogさんは過去記事において30万人説の疑問点についても言及しており、必ずしもその人数を間違いのないものとして支持しているわけではない。

30万人説に対する個人的見解 - 誰かの妄想・はてな版

反論記事は、あくまでも同書籍の挙げる根拠が不適切だと述べているのであって、それ以上でもそれ以下でもない。ブックマークコメントを見る限り、この構造を理解できていない方もいらっしゃるように思えるのだが、いかがだろうか。

おわりに

以上、反論記事の趣旨などについて簡単に説明を加えてみた。いくらかでも理解の助けとなれば幸いである。

*1:https://matome.naver.jp/odai/2148458926631252201

*2:https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325

*3:紹介するのは私の閲覧時に最も人気を集めていたid:tpircsさんのコメントだが、他にも同趣旨のもの多数。

*4:引用者において一部省略した。

*5:引用者において一部太字強調を施した。なお、以下も太字強調は引用者による。

*6:その規模はさておき虐殺があった事実自体を認めるならば、自らの責任には一切触れずひたすらに相手方を罵倒するような態度など恥ずかしくてとれないと私などは思うのだが、これはあまりに情緒的すぎるだろうか。

*7:前掲注1のまとめ参照。なお、平成29年1月22日現在、同動画は視聴できなくなっている。

「言論弾圧」が販促に使われる時代

千葉麗子のサイン会中止

少し前に、千葉麗子のサイン会が抗議の電話等によって中止になったというニュースがあった。

千葉麗子さんの「くたばれパヨク」サイン会 抗議電話で「開催せず」 有田芳生参院議員「常識的な判断」 千葉さん「言論弾圧だ」(1/3ページ) - 産経ニュース

千葉の『くたばれパヨク』出版を記念して今月12日にサイン会が予定されていたが、抗議の電話やFAXがあったとして中止されたのだという。記事では、「店員さんに恐怖心を与えるような電話が相次いでかかってきたため、書店側が万が一を考慮して中止になりました」などとする千葉のツイートが紹介される一方、抗議電話やFAXの具体的内容として紹介されるのは、「わかってやっているのか?」「ヘイトスピーチにあたる本のサイン会が開催されるのは残念だ」という程度のもののみであった。そのため、「恐怖心」「万が一を考慮」などの仰々しい文言に若干の複雑な思いを抱いたものの、そのときは、私も「そんなことがあったのか」程度の感想で読み流していた。

「NO HATE TV」の主張

ところが今般、伝えられているこうした経緯に異議をとなえる動画が公開された。安田浩一と野間易通の「NO HATE TV」(以下、「同番組」という。)である。

20170112「NO HATE TV 第7回 TOKYO MX『ニュース女子』沖縄報道を徹底検証」安田浩一×野間易通 - YouTube

同番組中、千葉のサイン会中止の件について語られているのは13分53秒あたりから40分53秒あたりまでであるから、詳しくは直接ご覧いただきたいが、その内容を要約すると、おおむね以下のとおりである*1

すなわち、千葉のサイン会はそもそも書店の企画ではなく*2 、書店6階にある貸会議室を利用して開催されるというにすぎなかった。そのため書店としては、千葉側の貸会議室使用申込みを受け付けたというにとどまり、その詳細までは把握していなかった。そのような中、今回サイン会について問い合わせの電話があり確認した結果、書店側においてサイン会が貸会議室の利用規約*3に反するとの結論に至り、使用(許可)を取り消したというのである。

販促としての「言論弾圧

こうした同番組の主張について、『くたばれパヨク』の版元である青林堂は否定しているようだ*4。したがって、本記事においても現段階でその真相が那辺にあるのかを論じるつもりはない。さらなる情報が明らかにされるのをまちたいと思う。しかし、同番組の主張をふまえて今回のニュースを見直したとき、私はある感想を抱かずにいられなかった。本件がそうであるかどうかはともかく、販促として「言論弾圧」をでっち上げることは、倫理観を投げ捨てるのであれば、さほどのリスクはなく効果の高い有効な戦略であるとの感想である。

人の感じ方はある程度人それぞれな部分がある。そのため、「サイン会の開催は残念です」というFAXがきただけで恐怖を感じる店員もいないとは言い切れないし、そのようなFAXがきたことから「万が一を考慮して」サイン会を中止したと強弁しても、これをデマであると断じることは必ずしも容易ではない。また、本件ではその内容の一部が明らかにされたものの、通常苦情電話等の数や内容は社会的に公開を要求されるという性質のものでもなく、関係者のみが把握しうる情報である。したがって、1件だけ、きわめて丁寧な口調でサイン会の開催に対して遺憾の意を伝える電話があったとしても、その数や内容を公表することなく、「苦情があった」ので、「サイン会を中止する」と述べれば、必ずしも虚偽の説明をしないままに実態と異なる印象を与えることも可能だろう。

そして、このようなことは考えたくもないが、苦情電話等の数や内容が通常関係者のみ把握しうる情報である以上、上記のような「誇張」にとどまらず、1件の苦情すらないにもかかわらず版元において苦情をでっち上げてサイン会を中止したとしても、これが明るみにでる可能性は低い。しかも、一般に苦情電話等があったとの報告は、誰からの苦情であるかを明らかにせずに行われる。そのため、そもそも検証が困難であることはもちろんだが、万一でっち上げが明らかになったとしても、個人の権利*5を侵害するものでないため、法的責任を負う可能性も低い。

このように苦情電話等でっち上げのリスクが低い一方で、その販促効果はかなり大きいようである。千葉について見ると*6、「こうした騒ぎで逆に注目度が高まったためか、「くたばれパヨク」は9日、Amazon政治部門で1位となっている」(冒頭で紹介した産経の記事)とのことだ。普通にサイン会を開くよりもはるかに効率的と言えるだろう。

以上のとおり、販促としての「言論弾圧」でっち上げは、倫理観を投げ捨てるのであれば、リスクは低く効果は高い有効な戦略であると言わざるを得ない。今後、販促として「言論弾圧」が捏造され、氾濫する時代がくるのだろうか。あるいはもう、きてしまっているのだろうか。

*1:話の流れを分かりやすくするため、当方において自明と思われる事情を補っている部分がある。安田および野間の正確な発言内容については、直接同番組をご覧いただきたい。

*2:一度企画が持ち込まれはしたが、書店側で断ったとのこと。

*3:http://www.tokyodo-web.co.jp/hall/agreement/

*4:https://twitter.com/seirindo_book/status/819539302635814914

*5:たとえば、脅迫的な苦情電話をかけていないのにかけたとされた者の名誉などが考えられる。

*6:「苦情によるサイン会中止」が売上げに及ぼす影響を見るものであり、今回の件がでっち上げであると断ずるものでないことは上記のとおりである。

少女像設置の件における日本側「戦犯」

少女像設置と日韓合意

釜山の日本総領事館前に市民団体が慰安婦少女像を設置した件で、日本側も駐韓国大使を一時帰国させるなどの対抗措置をとることを発表し、問題が深刻化しているようだ*1。残念なことである。

平成27年12月28日の日韓外相会談では、いわゆる慰安婦問題について、主に以下のような合意がなされた*2

  • 慰安婦問題について日本は責任を痛感し、安倍内閣総理大臣が総理として改めて心からおわびと反省の気持ちを表明する。
  • 慰安婦の心の傷を癒すため、韓国は元慰安婦支援のための財団を設立し、日本はこれに10億円程度の資金を拠出して、日韓両政府協力のもと心の傷を癒す事業にあたる。
  • 在韓日本大使館前の少女像について、韓国は関連団体との協議等を通じて適切な解決がなされるよう努力する。 

この日韓合意に基づいて、日韓双方はこの1年さまざまに努力を重ねてきた。

日本側では、安倍が電話会談において、朴槿恵(パク・クネ)に対し、慰安婦問題について心からのおわびと反省の気持ちを表明した。また、財団への10億円の資金拠出についても、少女像の撤去をまたずにこれを実行した*3

韓国側では、元慰安婦支援のための「和解・癒し財団」を平成28年7月28日に設立し、その運営費も韓国政府が負担することとした*4。また、国民の反対も強い中*5、「和解・癒し財団」による元慰安婦への個別面談等を重ねた結果、平成28年12月21日時点において、日韓合意時に存命だった46人中7割強にあたる34人の元慰安婦が財団からの現金支給を受け入れることを明らかにしている*6

こうしたさまざまな努力が水泡に帰するのは、日韓双方にとって不幸なことである。今回の慰安婦少女像設置について、韓国外務省は「外国公館への国際儀礼や慣行を考える必要がある。我が政府や当該機関が慰安婦問題の歴史の教訓を記憶する適切な場所について知恵を絞ることを期待する」としており*7、移転が望ましいとする立場をにじませている。また釜山東区は、一度は慰安婦少女像を撤去しており、その後容認の立場に転じたとはいえ、あくまでもその「設置を妨げない」というにとどまる*8。日本としてもこうした点に十分留意して、いたずらに問題をこじれさせることのないように望む。

日本側「戦犯」

ところで上記のとおり、本件において慰安婦少女像は、平成28年12月28日に一度は撤去されたものの、同月30日に再び設置されるという経緯をたどっている。そして、その合間の同月29日に、稲田朋美防衛相は靖国参拝を行っている*9

稲田のこの靖国参拝に対して、当然韓国は猛反発しており、韓国外務省は同日に在韓日本大使館の丸山浩平総務公使を呼び出して抗議も行っている*10。こうした稲田の行動ないしこれに刺激された韓国世論が翌30日の釜山東区の判断変更に影響を及ぼしたのではないかと考えるのは自然なことであり、実際ル・モンドはそのように分析している*11

そもそも大臣の靖国参拝政教分離との関係で大きな問題となりうることは以前の記事で述べたとおりであるが、その点をおくとしても、慰安婦少女像の撤去が問題となっている時期に靖国参拝を実行すれば、問題に悪影響を及ぼしうることは容易に予測できる。そのような悪影響を覚悟してでも靖国参拝を行うべき必要性があったというわけでもなく、稲田の行動は軽率であるというほかない。というよりも、稲田が日韓合意の成立直後から問題を蒸し返すかのような挑発的な発言を行っていたことなどからすれば*12、問題に悪影響を及ぼすことを意図していたのではないかとさえ邪推してしまう。本件を深刻化させた日本側「戦犯」は、疑いなく稲田である。

韓国の国政は韓国国民が決するものであり、納得のいかない点があったとしても、基本的には韓国国民の判断に委ねるよりない。ある意味で日本国民にはどうすることもできないことがらである。しかし、日本の国政については、日本国民が判断し、変えていくことができる。またそうであるからこそ、誰に対しても恥じることのない判断を行う責任が、日本国民の一人ひとりに課せられているとも言える。「日本国民にできるのは、基本的には日本の政治(ないし政治家)を評価し、変えていくことだけである」これこそが、ゆるぎない「現実」である。

現実主義がかまびすしく主張される昨今、人々が「現実」を直視し、なしうることをなす、すなわち本件に関して明らかな悪影響を及ぼした稲田(ないしこれを要職に据えた政権)に対して正当な判断に基づいた行動(投票等)をとることを期待したい。 

*1:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830651000.html

*2:http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001667.html

*3:http://www.asahi.com/articles/ASJ80369MJ80UHBI00M.html

*4:http://www.sankei.com/world/news/160801/wor1608010034-n1.html

*5:http://www.genron-npo.net/world/archives/6313.html

*6:http://www.sankei.com/world/news/161221/wor1612210052-n1.html

*7:http://www.asahi.com/articles/ASJDZ3T7QJDZUHBI00J.html

*8:前掲注7記事参照。

*9:前掲注7記事参照。

*10:http://www.yomiuri.co.jp/world/20161229-OYT1T50037.html

*11:http://blog.tatsuru.com/2017/01/08_1049.php参照。

*12:http://www.sankei.com/politics/news/151228/plt1512280055-n1.html

「知らなかったとか関係ない」?

id:ohnosakiko(以下、「大野さん」という。)の以下の記事を読んだ。

「教えて下さってありがとうございました!」と「悪いということを知らなかったんだから」 - Ohnoblog 2

詳細は元記事を参照してもらいたいが、要するにレポートの代筆をめぐるいざこざについての記事である。大野さんは時折授業内でミニレポートの作成・提出を課し、そのレポートの提出をもって出席票にかえていた。あるときレポートの代筆が発覚し、大野さんは、代筆を行った「主犯」のAとその余の代筆してもらった者らに対して、当日の出席取消しを告げた。これに対して、Aが「自分は代筆が悪いこととは知らなかった。それなのに出席停止というのはやりすぎだ」と主張した。この主張に対して、大野さんはいろいろ考えさせられた、というような内容だ。

この元記事の中で大野さんは「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」とする。これは、刑法総論でいうところの「違法性の意識の要否」に対応する問題であろうが、このように明快に断定できるものでもないように思う。

違法性の意識の要否」の問題とは、「ある故意行為を罰するために、行為者がその行為について違法性の意識を有していることは必要か。必要であるとすれば、それはいかなる要件として必要か(体系上どのように位置づけられるか)」という問題である*1。実務上は違法性の意識を不要とする立場がほぼ固まっているものの、これに対してはさまざまな異論がとなえられている。異論の逐一をここで紹介することはしないが、違法性の意識を不要とする立場に対する根幹的な批判は、「責任主義に反する」というものだ。

責任主義」とは、「責任(非難可能性)なければ刑罰なし」とする考え方で、近代刑法の基本原則とされる。心神喪失者の行為は罰しないとされている*2ことを想起すると分かりやすい。

こうした考え方を徹底していけば、「ある故意行為を罰するためには、当該行為についての違法性の意識を要する」との結論にたどりつくのは自然なことだ。たとえば、故意責任の本質を「規範に直面して反対動機を形成しながら、あえてこれを乗り越えて実行に及ぶ」点に求めるオーソドックスな立場を突き詰めれば、「違法性の意識がなければ(=規範に直面していなければ)、反対動機が形成されない以上(あえてこれを乗り越えて実行に及んだとして非難することはできず)、故意責任を問うことはできない」ということになる*3

以上のような議論を元記事の事案にスライドさせると*4、「違法性の意識の欠缺」が「悪いということを知らなかった」におおむね対応するものと言ってよかろう。そうすると、責任主義的な見地からの考察、すなわち「悪いということを知らず、したがって反対動機を形成する機会のない者に、非難可能性を見出すことができるのか」という思索は、当然なされなければならないはずである。あっけらかんと「不正行為に対しては罰を受けるのが当然。それは知らなかったとか関係ない」と言い放つことに、少なくとも私は多少の不安を覚える。

注意 

元記事を読んで私が述べたかったことは以上で尽きているのだが、これだけだと誤解を生むおそれもあるように思うので、さらに若干の点を注意的に記しておきたい。 

本記事が取り扱っている処分 

元記事の事案でなされた処分は二種類に分けられる。A以外の者に対する出席取消しと、Aに対する出席取消しだ。前者は、要するに「従前出席ありとしていたが、出席していなかったことが判明したのでこれを取り消した」というものであるから、そもそもこれを「罰」という枠組みで取り扱うことは、(できないわけではないにせよ)必ずしも適当でない。これに対して後者は、「実際に当日出席し、レポートも自ら作成・提出しているにもかかわらず出席を取り消す」というのであるから、まごう方なく「罰」である。本記事が取り扱っているのは、当然後者である。

大野さんの処分の妥当性

私は、少なくとも元記事を読む限り、大野さんが行った処分にまったく問題はないと考えている(もっと重くてもよいかもしれない)。 

本文中では「故意が認められるためには違法性の意識が必要である」とする厳格故意説のみをとりあげたが、「責任主義的な見地に立っても、故意を認めるために違法性の意識までは必要なく、違法性の意識の可能性で足りる」とする制限故意説の方が、学説においてもむしろ優位であり、私自身も違法性の意識の可能性があるならば非難は可能であろうと考える。こうした考え方を元記事の事案にスライドさせたとき、当該事案においても「悪いことだと知る可能性」程度は優に認められるものと思われ、そうであれば非難は十分可能であろう。

というよりは、剽窃やいわゆる代返が許されないというのは広く浸透している社会常識であるうえ、元記事コメント欄でのやりとりを見るに前者については不正であることを授業のはじめに伝えたとのことであるから*5、厳格故意説的に、ある行為を罰するには「それが悪いことだと知っていた」ことまで必要だと解する立場をとったとしても、「Aはそれが悪いことだと知っていた」と認定することは、おそらくたやすい。

私が気になったのは、今回の件にかかるそうした個別具体的な処分の妥当性ではなく、「悪いことだと知らないこと」が非難可能性に及ぼす影響について、大野さんがやや無頓着に見えたという点なのだ。 

刑法 第3版

刑法 第3版

 

 

*1:なお、刑法38条1項、同条3項参照。

*2:刑法39条1項。

*3:厳格故意説。上記のとおり、この点についてはさまざまな学説がとなえられているので、興味のある方はぜひ刑法総論の基本書にあたられたい。

*4:非難可能性のない者に罰を科するべきでないことはそれが刑事罰であるか否かによって異ならないものと思われるから、少なくとも議論の枠組みを元記事の事案を検討するにあたっても用いることに問題はなかろう。

*5:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20161221/p1#c1482672487

訴訟能力回復の見込みがない者を被告人の地位にとどめおく理由はない

以前の記事でとりあげた問題について、平成28年12月19日、最高裁が判断を示した*1。詳細は直接当該記事を参照してもらいたいが、おおむね以下のような問題である*2

被告人が心神喪失の状態にあるとき、刑訴法314条1項によって公判手続は停止される*1。この場合、検察官が自主的に公訴の取消し*2を行えば、裁判所は公訴棄却決定*3を行うこととなり、被告人は被告人の地位から解放される。それでは、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所は手続を打ち切ることができるのか。

この問題に関し、男性とその孫を殺害したなどとして平成7年に公訴が提起されたものの、平成9年に被告人が心神喪失の状態にあるとして刑訴法314条1項によって公判手続が停止され、以後、公判手続が再開されることも打ち切られることもないまま十数年が経過したという事案において、名古屋高裁はおおむね以下のような判断を示していた。

すなわち、検察官には広範な裁量があり、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であると認められるような極限的な場合でない限り、裁判所は訴訟手続を打ち切ることができないところ、本件はそのような場合にあたるとは言えないとしたのである。

最高裁判所第一小法廷は、全員一致でこの判決を破棄し、「被告人に訴訟能力がないために公判手続が停止された後、訴訟能力の回復の見込みがなく公判手続の再開の可能性がないと判断される場合、裁判所は、刑訴法338条4号に準じて、判決で公訴を棄却することができる」とした。妥当な結論である。

刑事訴訟法1条は、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」ことを目的として掲げている。そうである以上、訴訟能力回復の見込みがない(ために有罪判決を受けることもない)者を被告人の地位にとどめおくことは許されないのではないか。これは、私が以前の記事で主張していたところであるが、最高裁も正当にこの点を指摘しているので引用しておく*3

訴訟手続の主宰者である裁判所において、被告人が心神喪失の状態にあると認めて刑訴法314条1項により公判手続を停止する旨決定した後、被告人に訴訟能力の回復の見込みがなく公判手続の再開の可能性がないと判断するに至った場合、事案の真相を解明して刑罰法令を適正迅速に適用実現するという刑訴法の目的(同法1条)に照らし、形式的に訴訟が係属しているにすぎない状態のまま公判手続の停止を続けることは同法の予定するところではなく、裁判所は、検察官が公訴を取り消すかどうかに関わりなく、訴訟手続を打ち切る裁判をすることができるものと解される。

正しい判断がなされたことを喜びたい。 

*1:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/355/086355_hanrei.pdf

*2:当該記事より引用。

*3:一部引用者において太字強調を施した。