朝鮮学校授業料無償化除外を考えるために

はじめに 

朝鮮学校授業料無償化除外に関するニュースとそれに対する反応に接し、人びとの無理解ぶりが目に余ったため、先日、「そもそも朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか」ということについて説明する記事を書きました。

誰でも分かる朝鮮学校授業料無償化除外の基本 - U.G.R.R.

簡単におさらいをしておきましょう。高校授業料無償化の対象となるかどうかは、当該校が「高等学校等」にあたるかどうかによって決します。朝鮮学校のような各種学校の場合は、「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」として「高等学校等」にあたるかどうかが問題となります*1。「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」としては3つの類型が挙げられていますが*2朝鮮学校が該当しうるのは、「文部科学大臣の定める基準・手続に適合するものとして文部科学大臣が指定したもの」(以下、「ハ規定」といいます)の類型のみです。全国の朝鮮学校は、このハ規定に基づく指定を受けて「高等学校等」の要件を充足するべく申請を行いましたが、一律に文部科学大臣の不指定処分を受けました。これが朝鮮学校授業料無償化除外と言われている出来事のあらましだ、というのが前回記事の内容です。

今回はそこから一歩進んで、文部科学大臣が行った上記不指定処分の適法性等を考えるための手がかりとなりそうな視点の1つを紹介し、本件をどのように評価するべきかということについて、少し検討を加えてみようと思います。本記事を単独で読んでも、朝鮮学校授業料無償化除外に関する基礎的な知識さえない大半の方々には理解が難しいでしょうから、上掲の前回記事を読んだうえでご覧いただくことをおすすめします。

なお少し書くのが遅れましたが、本記事でも、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律を「法」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則を「施行規則」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第1条第1項第2号ハの規定に基づく指定に関する規程(平成22年11月5日文部科学大臣決定)を「規程」と表記します。 

朝鮮学校授業料無償化除外を考える 

処分の適法性を考える際の視点にはさまざまなものがありますが、やはり基本となるのはその根拠となる法律の検討を通じて考えていくやり方でしょう。周知のとおり、わが国において行政活動は法律に基づいて行われます(法律による行政)。つまり、行政がある処分を行えるということは、なんらかの法律がその処分を行う権限を行政に与えているということなのです。もっとも、法律は行政に与える権限の内容等について、必ずしも明確に定めているわけではありません。そこで、法律が制定されるまでの経過や法律の目的、あるいはその条文の文言等に照らして、法律が行政に対してどの程度の権限を与えているのかを探っていくことが、きわめて重要になります。そのような作業を通じて画定された範囲を超えて権限の行使(処分)がなされているならば、それはもはや裁量を逸脱・濫用するものとして違法であると考えられるからです。

朝鮮学校授業料無償化除外の場合、文部科学省は当初、幅広い人に教育の機会を提供するという理念のもと無償化の対象に朝鮮学校の生徒も含めて予算の概算要求を行っていました*3。また法案の審議過程においても、政府はこの問題にかかる外国人学校の取扱いについて、外交的配慮を排し、教育上の見地から客観的に判断するべきである旨をくり返し表明しています。一例として、平成22年3月12日文部科学委員会における松野頼久内閣官房副長官(当時)の発言を引用します*4

○松野内閣官房副長官 おはようございます。

就学支援金の支給対象について、いわゆる高校実質無償化法案は、日本国内に住む高等学校等の段階の生徒が安心して教育を受けることができるようにするものであります。

このために、外国人学校の取り扱いに関しましても、外交上の配慮などにより判断するべきものではなく、教育上の観点から客観的に判断するべきものであり、(略)

こうした審議を経て成立した法は、その1条で「高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減」「教育の機会均等」を目的として高らかに掲げており、当然のことながら「外交的配慮」にはまったくふれられていません。

条文の文言からも検討を加えてみましょう。すでに述べたとおり、法2条1項5号は「高等学校の課程に類する課程を置くもの」の内実については施行規則(「文部科学省令」)に委任しており、この委任を受けて施行規則1条1項2号において挙げられた3類型のうち朝鮮学校の場合に問題となるハ規定は、その内実について規程(「文部科学大臣の定める基準・手続」)にさらに委任しているのでした。ここで、委任を受けた下位の法令は委任の趣旨を逸脱することができません。したがって、下位の法令は当然「教育の機会均等」といった法1条の掲げる目的に適合するものであることが求められますし、「高等学校の課程に類する課程を置くもの」という法2条1項5号の文言による制約も受けます。つまり、ハ規程に基づく文部科学大臣の(不)指定は、教育上の見地から、客観的な「高等学校の課程に類する課程」を置いているかどうかの判断に基づいて行われなければならず、外交上の配慮に基づいてなされるようなことがあれば違法だということです。

まっとうな法解釈を行えば以上のような結論となることは当然であり、国側もそれが分かっているからこそ、訴訟などにおいては別の、就学支援金が授業料に係る債権に確実に充当されることを求める規程13条に適合すると認めるに至らなかったといった理由等を持ち出しているのでしょう*5。しかし、このような言い分を額面どおりに受け取る人が、はたしてどれだけいるのでしょうか。前回記事でもふれましたが、総選挙の結果自民党が政権に復帰するや否や、新たに就任した下村博文文部科学大臣(当時)は、朝鮮学校を無償化の対象としない旨明言しました。平成24年12月28日の記者会見における下村発言を引用します*6

大臣 まず、無償化に関する朝鮮学校の扱いについて報告をいたします。本日の閣僚懇談会で、私から、朝鮮学校については拉致問題の進展がないこと朝鮮総連と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいること等から、現時点での指定には国民の理解が得られず、不指定の方向で手続を進めたい旨を提案したところ、総理からもその方向でしっかり進めていただきたい旨の御指示がございました。(略) 

ここにおいて下村が、「拉致問題の進展」などという、「高等学校の課程に類する課程」を置いているかどうかの客観的な判断にはおよそ関係のない外交上の配慮を行っていることは明白です。それにもかかわらず、正式な処分の段になってぬけぬけと持ち出してきた別の「処分理由」をそのまま無批判に受けとめてしまってよいのでしょうか。私は非常に問題があると思います(もっとも、国側が後になって持ち出してきた「処分理由」を前提としても、なお不指定は裁量を逸脱・濫用するものとして違法であると解する余地は十分ありますが)。否、私ばかりでなく、朝鮮学校授業料無償化除外をめぐる報道に対する反応を見ていても、拉致がどうのミサイルがどうのと外交上の話題を持ち出して騒いでいる人はきわめて多いという印象です。朝鮮学校授業料無償化除外は外交上の配慮に基づくものであるというのが世間一般の受けとめ方なのではないでしょうか。そしてそうであるならば(=外交上の配慮に基づくものであるならば)、朝鮮学校授業料無償化除外は明らかに違法なのです。

おわりに

以上、朝鮮学校授業料無償化除外の適法性等を考えるための手がかりとなりそうな視点の1つを紹介し、私なりの簡単な考察を試みました。本記事はあくまでも一面からのきわめて簡潔な考察にとどまるものであり、まったく網羅的ではありません。他にも説明したいことはあるのですが、それはまた機会があればということにしようと思います。 

*1:法2条1項5号参照。

*2:施行規則1条1項2号。

*3:高校実質無償化の概算要求 朝鮮学校など各種学校も対象 : J-CASTニュース

*4:引用者において一部省略し、太字強調を施しました。

*5:前回記事参照。

*6:引用者において一部省略し、太字強調を施しました。

誰でも分かる朝鮮学校授業料無償化除外の基本

はじめに

以下の記事とそれに対する反応に接しました。

授業料無償化の朝鮮学校対象外 日本政府「差別には当たらず」 | NHKニュース

はてなブックマーク - 授業料無償化の朝鮮学校対象外 日本政府「差別には当たらず」 | NHKニュース

朝鮮学校授業料無償化除外をめぐる裁判はいくつも起こされ、判決もいくつも出ているのですが、ほとんど理解されていない様子。一般の方がこうした問題について必ずしも十分に知識を持たないのはある程度仕方のないことではあるのですが、しかしそれにしても堂々とデマを書き散らす輩などもいてあまりにも悲惨な状況なので、基本的なところだけ説明しておこうと思います。当初は1本の記事にまとめてしまうつもりでしたが、どれだけ端的に記してもやはりそれなりの長さにはなりそうなので、今回は「朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか」という本当に基本的な事項の説明のみにとどめます。

なお本記事では、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律を「法」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則を「施行規則」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第1条第1項第2号ハの規定に基づく指定に関する規程(平成22年11月5日文部科学大臣決定)を「規程」と表記します。

朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか 

そもそも高校授業料無償化とはなにか、きちんと説明できますか。

法は、公立高等学校における授業料を不徴収とするとともに*1、私立高等学校等の生徒・学生に対して就学支援金を支給することとしていました*2。こうした公立高等学校における授業料の不徴収および私立高等学校等の生徒・学生に対する就学支援金の支給を、俗に高校授業料無償化といっているのです。

さて、私立高等学校等の生徒・学生には就学支援金が支給される(=無償化の対象となる)のですから、問題となるのは朝鮮学校が「私立高等学校等」にあたるかどうかです。公立高等学校以外の高等学校等が「私立高等学校等」ですので*3、より端的に問題点を抽出するならば、朝鮮学校が「高等学校等」にあたるかどうか、ということになります。

「高等学校等」にあたるものについては、法2条1項各号に列挙されています。朝鮮学校は高等学校ではなく各種学校*4ですが、各種学校であっても「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」については、「高等学校等」にあたるものとされています*5

少し横道にそれますが、時折「各種学校である朝鮮学校に無償化を認めるなら(同じく各種学校である)自動車学校にも無償化を認めねばならない」などとバカげたことを言い出す人がいます。しかし上記のとおり、無償化の対象となる「高等学校等」は各種学校のうち「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」だけであり、自動車学校が「高等学校の課程に類する課程」を置いていないことは明らかですから、まったく理由のない主張です。

話を戻しましょう。「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」としては、施行規則に3つの類型が挙げられています*6。その内容は要するに次のようなものです。

  1. 大使館を通じて日本の高等学校の課程に相当する課程だと確認できるもので文部科学大臣が指定したもの(以下、「イ規定」といいます)
  2. 国際的な学校評価団体の認証を受けているもので文部科学大臣が指定したもの(以下、「ロ規定」といいます)
  3. 文部科学大臣の定める基準・手続に適合するものとして文部科学大臣が指定したもの(以下、「ハ規定」といいます)

朝鮮学校の場合、イ規定、ロ規定には該当しません。そこで全国の朝鮮学校は、ハ規定に基づく指定を受けるべく申請を行いました。この指定が受けられれば、朝鮮学校は「高等学校等」にあたることとなり、晴れて無償化の対象となるわけです。

ところが、指定の可否についての審査は一向に進まないまま2年以上の時が経過します。そして2012年12月、総選挙の結果自民党が政権に復帰するや否や、新たに就任した下村博文文部科学大臣(当時)は朝鮮学校を無償化の対象としない旨明言し、その言葉どおり、翌2013年2月20日、ハ規定の削除と同時に全国の朝鮮学校に対し、一律に不指定処分が行われました。処分通知書に記載されていた処分理由は、「ハ規定の削除」および「規程13条に適合すると認めるに至らなかったこと」です。これが、朝鮮学校授業料無償化除外と言われている出来事のあらましです。なお、ハ規定の再委任を受けて、規程では「高等学校の課程に類する課程を置くもの」として指定する際の基準や手続等が定められていますが、その13条は次のような内容でした。

(適正な学校運営)

第13条 前条に規定するもののほか、指定教育施設は、高等学校等就学支援金の授業料に係る債権の弁済への確実な充当など法令に基づく学校の運営を適正に行わなければならない。

おわりに(おわらない)

今回は、そもそも朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか、というきわめて基本的な部分にしぼって説明を行いました。次回は、朝鮮学校授業料無償化除外のなにが問題か、ということについて説明する予定です。 

*1:法3条1項。

*2:法4条1項。

*3:法2条3項。

*4:学校教育法134条1項。

*5:法2条1項5号。

*6:施行規則1条1項2号。

表現規制とリベラル

はじめに

表現の自由はてなでも度々ホットエントリーにあがる人気のテーマであり、少し検索するだけでも実に多くの記事が見つかります。しかし、では表現の自由をめぐる問題がさまざまな立場から論じられているかというと、必ずしもそうは言えません。実はわが国において表現規制の必要性を正面から認める勢力は、きわめて少ないからです。ツイッターなどで「表現の自由原理主義」とでも呼ぶべき極論をふりかざしている方々については論じるまでもないでしょう。そして誤解されがちですが、俗にリベラルと目されている方々も、たとえば差別的な表現に対して懸念は示しても、これを規制するというところまでいくと概して慎重な態度をとっているように見受けられます。これはいったいなぜなのでしょうか。まずは、リベラルの方々のこうした態度について考えたいと思います。

リベラルが重視する3種の自由

リベラルは、「国家からの自由」としての自由権、「国家への自由」としての参政権、「国家による自由」としての社会権のすべてを重視しています。ここで社会権すなわち「国家による自由」をも重視するとは、単なるお題目にとどまらない実質的な自由の確保を志向するということにほかなりません。たとえば財産もなく病のために満足に働くこともできないような人を、「自由」の美名のもとに社会に投げ入れてなんらの手当てもしないとすれば、その人は飢えや病によって死ぬことしかできないでしょう。そんな「自由」には何の意味もありません。そこで、社会権という形で国家から必要な補助を受けられるようにすることで、すべての人が本当の意味で自由に生きられる社会を目指す。こうした「自由を確保するための手段をも自由の一内容として重視する」側面がリベラルにはあるのです。これは、以前の記事で説明しました。

人権とリベラル(1) - U.G.R.R.

人権とリベラル(2) - U.G.R.R.

差別反対は自由の確保

場面は少々異なりますが、差別に反対するリベラルの論理も、基本的には上述のような発想に基づく部分があるように思われます。たとえば、「○○人は嘘つきだ」でも「○○人は反日だ」でも構いませんが、とにかくその種の偏見が社会に蔓延していたとしましょう。その社会における○○人の彼・彼女の発言は、(○○人であるという自らにはどうしようもない事情によって)「どうせ嘘だろう」 と話半分で聞き流され、あるいは「どんな魂胆でそのように言うのか」と過剰に疑われる(選択的懐疑主義! )に違いありません。このような状況下において、元凶となる偏見を放置して「あらゆる表現の自由を擁護する」などと嘯いてみても、○○人の彼・彼女の表現の自由が本当の意味で確保されているとは言えない、という考え方です(なお、「○○人は嘘つき」「○○人は反日」などの言辞は○○人である彼・彼女の尊厳を傷つけるものであり、そのこと自体も無論きわめて重大な問題ですが、今回は措いておきます)。

中核はやはり自由権

しかしその沿革からもうかがわれることですが*1、人権の内容をなす上記3種の自由のうち、その中核となるのがやはり自由権すなわち「国家からの自由」であることは否定しがたいところです。たとえば「立憲主義」について「憲法によって国家権力を制限し人権を保障しようとする考え方」などと説明されることがありますが、かかる説明中の「人権」が自由権を念頭に置いていることは明らかでしょう*2。そして自由権を中核に据えて考える以上、たとえ差別的な表現の横行する現状に対して懸念を抱いていても、そこから歩を進めて表現規制を支持することには慎重にならざるを得ません。表現規制とはまさに国家権力が強制力をもって表現の自由という自由権を制約するものだからです(なお、以上の記述から分かるように、表現の自由は一次的には国家との関係で問題となるものです。念のため)。

おわりに(おわらない)

本記事では、たとえば差別的な表現に接したときのリベラルの葛藤について、ひとまずその大枠を示しました。もちろん、彼らも表現の自由(をはじめとする自由権)の保障を絶対的なものと考えているわけではなく、一定の制約があることを認めてはいます。しかしながら、その自由権重視の態度ゆえに、彼らの認める制約の範囲はきわめて狭いものとなっているように思われます。次回はこの点について、もう少し詳しく見ていく予定です。

*1:この点も上掲の記事中で説明しています。

*2:仮にここにいう「人権」が社会権だとすれば、「国家権力を制限」という部分と整合しません。

具体的に何が行われたかは重要という話など

以下の記事とそれに対する反応に接しました。

「人権派」な人の性加害案件を見て、父の精神的虐待を思い出した話 - 宇野ゆうかの備忘録

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本題に入る前に、とても大事なことを2点述べておかないといけません。

1点目。本記事では宇野さんの父親および広河隆一の言行について言及します。その際の記述は、いちおう宇野さんおよび広河に被害を受けたと訴える女性たちの言い分を前提として行いますが、これは「仮にそうだったとして」という程度の趣旨で、それらの言い分が正しいとするものではありません。

2点目。本記事は宇野さんの上記記事を批判するものではまったくありません。宇野さんが父親の言動等によって本当に苦しい思いをしたことは確かであり、そうである以上そのことについて私などが口を挟むべきでないと思うからです。また、私はいわゆる「#metoo」運動に一定の理解を示すものですが、こうした運動の要諦は、事実が那辺にあるかを探求することにではなく、当事者があげる切実な憤りないし苦悩の声に共感し連帯の意思を示すことで、彼ら・彼女らをエンパワーすることにこそあると思うからでもあります。

さて、以上を前提として本題に入ります。といっても、これから述べるのはいずれも過去に扱ったテーマばかりなので、簡単にコメントを加えたうえで適宜該当の過去記事を紹介するという形をとることにします。

まず気になったのは、宇野さんの父親を広河隆一と並ぶような悪人であるかのように扱う反応が散見されたことです*1。この点についての批判がまったく見当たらなかったことが、本記事作成の最大の動機です。

たしかに、こうして宇野さんが辛い思いをされているのですから、宇野さんの父親も完璧な人間ではなかったのかもしれません。よりよい関係性の築き方が、探せばきっとあったのでしょう。

しかし宇野さんの父親は、宇野さんの記事を前提としてさえ、手をあげることはおろか声を荒らげることすらなく、「不機嫌さによる無言の威圧や、声量は大きくはないが低く鋭い声の調子という、微妙な感情の表出」を行ったというにとどまるようです(もちろん性的虐待も行っていません)。

くり返しますが、これによって宇野さんが辛い思いをされたということを否定するつもりは毛頭ありません。しかし人間、疲れていたり意に沿わないことがあったりすれば、多少機嫌が悪くなったり口数が少なくなったりするのは自然なことです。何があろうと穏やかで公正なふるまいを心がけよ、というのは要求としてかなり高度なものであり、「手をあげない」「大声を出さない」というだけでも、親としてはそれなりの水準に達しているという見方も可能でしょう。少なくとも、三者、宇野さんの父親を、複数の女性に対して性暴力をふるったのではないかとされている広河と同列に論じて悪人扱いするのは、あまりにも宇野さんの父親の人格権を軽視した乱暴な議論であるというべきです。

ネット上では、こうした個別具体的な事例に着目しない乱暴な議論が往々にしてなされます。 「差別」だとか「反差別」だとかいう抽象的なコトバに逃げ込んで実際に起きたことから目をそらしていると大切なことを見落とす、というテーマについては以下の記事で扱いましたので、参照してください。

「ポリコレ棒」について - U.G.R.R.

なお、宇野さんの父親にあるいは見られるのかもしれないある種の甘えの背景には、互いに助けあいあるいは迷惑をかけあう、家族という共同体がかつてのように強固に存在しているといった幻想があるのかもしれません(もちろんそのことは何の免罪符にもなりませんが)。このテーマについては以下の記事で扱いましたので、参照してください。

自由主義が不自由を招く? - U.G.R.R.

もう一つ気になったのは、これもネット上ではよく見かける「ダブル・スタンダード」批判と思しき反応です。つまり、たとえば「人権派を名のりながら人権を抑圧している」という類のもので、これに対して私が発するべきは、突き詰めれば次の一言だと思います。

「それで、あなたはどう考えるのですか」

問題はきわめてシンプルです。仮に人権が抑圧されている状況があるのならば、あなたがその状況を是とするか、非とするか。それだけです。「人権派」なるものがどうであるかは、まったく関係がありません。殊更に「ダブル・スタンダード」を難ずる方というのは、標的を攻撃することにばかり熱心で、自らの立ち位置を明らかにするケースはきわめて稀です。それは自ら責任を引き受けることを回避する、姑息な態度だと思います。

このテーマについてはいくつか記事を書いた覚えがあり、前掲の「『ポリコレ棒』について」もその一つですが、(おそらく)最初に書いたものとしてひとまず以下の記事を挙げておきますので参照してください。

リベラルとダブル・スタンダード - U.G.R.R.

*1:念のために強調しておきますが、私が気になったのはあくまでも「反応」の方であって、宇野さんの記事自体ではありません。

公共の福祉とリベラル(4)

「公共の福祉」を人権に内在するものだとする考え方を説明し、これがリベラルも支持する現在の通説的な立場であると述べました

最後にケーススタディーとして、自民党憲法改正草案*1を見てみましょう。現行憲法中「公共の福祉」という文言が用いられている箇所についてはすでに紹介しましたが、草案中のそれらに対応する部分を引用します。

(国民の責務)

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

(人としての尊重等)

13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

(居住、移転及び職業選択等の自由等)

22条 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

○2 (略)

  (財産権)

29条 (略)

○2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。

○3 (略)

詳細な比較検討は各自で行っていただくとして、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変えられている点がまず目につくと思います。そしてここまで読み進めて来られたみなさんは、これがたとえば美濃部達吉の説いた「公共の安寧秩序」にとてもよく似ていることにもすぐ気づくでしょう。そう、これはかつて美濃部などがとった 「公共の福祉」を人権の外にあるものだとする考え方への回帰を目指すものであると考えられます。それゆえ、「公共の福祉」を人権に内在するものであると考えるリベラルはこれを批判するのです。

参考文献

芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第6版、2015年) 

*1:http://constitution.jimin.jp/draft/

公共の福祉とリベラル(3)

「公共の福祉」を人権に内在するものと捉えるかどうか、という視点を提示したうえで、まずは人権の外にあるものだとする考え方について紹介しました

しかし、今なおこうした考え方を支持するという人はあまりいません。それは、こうした考え方が「公共の福祉」を「公益」や「公共の安寧秩序」といった抽象的な概念として捉えるものであるため、恣意的な人権制限につながりかねないのではないか、という懸念によるものです。

かわってこんにちでは、「公共の福祉」をすべての人権に内在するものだとする考え方が通説的な地位を占めています。細かい部分ではバリエーションがあるのですが、たとえば宮沢俊義は、「公共の福祉」とは人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理でありすべての人権に論理必然的に内在しているとしたうえで、権利の性質によって制約の程度が異なる(自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉)、と解しています*1

リベラルも、「公共の福祉」を人権に内在する人権相互間の調整原理として理解しています。(続く) 

*1:芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)の説明を参考にしました。

自由主義が不自由を招く?

以下の記事とそれに対する反応を読みました。

どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠

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この手の話題でいつもおもしろいな、と思うのは次のようなことです。すなわち、私たちの社会はまだまだ至らぬ点もあり、ときには「後退」することさえあるけれども、全体としてみれば、個人主義自由主義の進展によってムラ社会的な抑圧からは解放されてきているはずです。そうであるにもかかわらず、むしろ(昔はそうでなかったのに)今は不自由である、抑圧されている、とする声は決して少なくないし、実際そうした面もないわけではないように見える。これはなぜなのか、ということです。

もちろん理由はさまざまにあるのでしょうが、私は、個人主義自由主義こそがこんにちの不自由や抑圧を生み出している面もあるのではないかな、という気が少ししています。

たとえば、かつての農村のような地域共同体においては、かなりの程度固定されたメンバーと長期間にわたって付き合っていくことが不可欠です。そのメンバーの中には、タバコを吸う人や痰・唾を吐く人、愛想の悪い人などもいるかもしれませんが、気に食わないからといってとりかえられない以上、甘受するよりない。そしてそんなクセの強い人であっても、実際に顔を合わせて日常的に交流していれば、多少のことは気にならなくなるものです。

また、こうした共同体で付き合っていくとはつまり、水路や農道を共同して管理するといった助け合いの関係を構築し維持するということであり、そこでは当然迷惑をかけることもあればかけられることもあります。そうした関係性の中では、たとえタバコの煙を多少迷惑に感じたとしても、あまり重く捉えず相対化して受け流しやすいようにも思われるところです。

ところが時代の流れとともにこうした共同体は解体され、かわって個人主義自由主義が幅を利かせるようになりました。

そこでは気に入らない人との関係はいともたやすく断ち切られ、自分にとって居心地のよいナカマだけのコミュニティが形成されていきます。それは「いやなものに無理にかかわる必要はない」という論理で正当化され、実際そのような面もあるとは思いますが、一方で気に入らない人とは人間として接することなく切断処理を行ってしまうという面もあることは否定しがたいところでしょう。

また助け合いが不可欠でなくなり「お互いさま」 の関係がなくなったことは、自由主義の名の下にさまざまな「○○の自由(○○する権利)」を唱える風潮と結びつき、人びとはわずかな不自由の甘受、つまり「迷惑」を被ることさえ拒否するようになりました。最近の出来事では、店員の些細なふるまいに激昂して難詰するモンスタークレーマーよろしく、不規則発言で質問の機会が奪われたと大騒ぎする弁護士の登場なども、あるいはその一例と言えるかもしれません。

以上を要するに、ムラ社会的なるものが解体され個人主義自由主義が幅を利かすようになった結果、異質な人間との地に足のついた交流の機会が減少し、そのような者への寛容さが失われていったという側面があるのではないか、ということです。

もとより、こうした変化は時代の流れによるものであり避けえなかったと言えましょうし、すでに農村的な地域共同体が失われている以上、再びこうした社会を目指すことも難しいでしょう。また冒頭掲記の記事への反応で多く指摘されているところとも関連しますが、かかる共同体においては差別的関係性が所与として組み込まれていることに基づく抑圧も多く存したのであり、そのような社会の方が望ましかったともまったく思いません*1。ただ、自由の敵と目されていたムラ社会的なるものにも自由を確保するような側面があり、逆に個人主義自由主義にも抑圧を招く側面があるのだとすれば少しおもしろく感ずる、というだけの雑記です。