本ブログの閲覧不許可について

私は、野放図なふるまいを看過することが寛容だとは必ずしも思いません。

したがって、無礼な態度をとられたときには謝罪を求めることがあります。

この謝罪の要求に対して、納得できる理由提示のないまま謝罪を行わない者に対しては、場合によっては本ブログの閲覧を許可しないこととしました。

なお、一度閲覧を不許可としても、その後真摯な謝罪があれば、原則として再び閲覧を許可するつもりです。「真摯な謝罪」かどうかの判断は、私の主観によります。さして厳格な判断とするつもりはありませんが、たとえば謝罪に名を借りた攻撃であると感じるような場合には、「真摯な謝罪」でないものとすることになるでしょう。

謝罪については、プロフィールページに記載の連絡先にお願いします。

またか

記事にするほどのものでもないかもしれませんが、関係あるようなないような話を2題。

ゴミ

また出たよ。

テクニシャン型コリアン国士yas-malさんの着地点

はてな匿名ダイアリーで個人攻撃。

定期的にこういう卑怯者がわいてくるので私も定期的にこれを言わないといけません。

 

はてな匿名ダイアリーでの個人への言及はほぼ規約違反規約違反の卑怯者が偉そうにするな。

 

こういうのは削除申立てをすれば、悪質な場合ははてなの利用停止にまで持っていけるので、いやな思いをされた方はどんどん申立てを行えばよいと思います。以下の記事を参照してください。

増田での個人攻撃の度が過ぎる - U.G.R.R.

私はこうして折にふれて削除申立てができることを周知していますが、その後の経過などを見ていると、申立てをされる方は必ずしも多くないようです。塵芥の戯言など意に介さないのはある意味で当然のことかもしれません。ただ、上記のとおり規約違反をくり返せばはてなの利用停止もありうるわけで、コツコツと申立てをくり返すことは、この種の卑怯者を一掃することにもつながります(それは、新たな被害の発生を防ぐということでもあります)。個人的には、被害を受けた方は積極的に申立てを行ってほしいなと思います。

それにしても、この卑怯者が追記で「知性とか廉恥とか人格」などと言い出していて笑ってしまいました。私は他人の知性を云々するようなことはしたくない(し、そもそも定量的に把握できるものでもない)のでその点は措きますが、恥知らずで人格の卑しいこの規約違反者と比べれば、どう考えても名を挙げられた方々の方がはるかに高潔でしょう。

政治的中立性ねえ 

こちらもまたか、という感じ。

「政治的中立性損なう」 美術展で茅ケ崎市教委、共催辞退|カナロコ|神奈川新聞ニュース

茅ヶ崎市教委の共催する美術展に出展された版画について、「一部の主義、主張を展示している」などと水島誠司市議(自民党茅ヶ崎)が市教委に対して圧力をかけ、市教委も、「同版画中の文言にある主義主張を市教委が発信していると誤解されるおそれがあり、そうなれば政治的中立性を保てない」などとして一時共催から外れた、という事件です。

なお、問題の版画は辺野古キャンプ・シュワブゲート前を髣髴とさせる風景を描くものであり、その中に「辺野古の海埋めるな!」「命どぅ宝」などの文言が記されていたようです。

脱力してしまってあまり多くを語る気にもなれないのですが、手短に。

俳句掲載拒否訴訟を覚えていますか。従前句会で選出された俳句を自身が発行する月報に掲載していたさいたま市大宮区の公民館が、「『九条守れ』の女性デモ」との文言を含む選出句について、やはり「政治的中立性を損なう」などとして、月報への掲載を拒否した事件です。この事件については、つい先月双方の上告が退けられ市側の敗訴が確定しているのですが*1、その控訴審の判決文から引用しておきましょう*2。なお、引用文中「本件たより」とは、公民館が発行している月報をいいます。

本件句会の名称及び作者名が明示されることになっていることからすれば、本件たよりの読者としては、本件俳句の著作者の思想、信条として本件俳句の意味内容を理解するのであって、三橋公民館の立場として、本件俳句の意味内容について賛意を表明したものではないことは、その体裁上明らかである 

月報に掲載された俳句に作者名が明示されている場合、その俳句に表現された思想・信条は作者のものとして理解され、月報の発行者がその表現内容に賛意を示したものでないことは、体裁上明らかと言える。本来、裁判所の指摘を俟つまでもない当然のことです。今回美術展に展示された版画も作者名は明示されていたものと思われますから、そこに表現された思想・信条は作者自身のものと理解され、これに美術展の共催者が賛意を示したものでないことは体裁上明らかと言えるでしょう。「同版画中の文言にある主義主張を市教委が発信していると誤解されるおそれ」はなく、政治的中立性を気にする必要などないと、私は思います。

また、そもそも今回の版画はキャンプ・シュワブを髣髴とさせる風景を描いたものだということですが、同地には当然版画中にも記されていた「辺野古の海埋めるな!」「命どぅ宝」といった文言の立看板やプラカード等があるだろうと思われます。こうした文言が問題だというのであれば、キャンプ・シュワブの風景を描くこと自体が問題だという方向に進みかねないのではないでしょうか。風景画を描くことにさえ気をつかわなければならない社会。なかなかのディストピアですね。

 

本当に、うんざりです。

危害原理という信仰

はじめに

大手コンビニが成人向け雑誌の販売を取りやめるとのこと。

ファミリーマート「成人向け雑誌」の販売中止を決定 「取り扱いをやめる方針はない」から一夜明け一転 - ねとらぼ

成人向け雑誌販売 ファミリーマートも取りやめへ | NHKニュース

取りやめの理由は、おおむね「女性・子どもに安心して利用してもらえるようにする」「東京オリンピックを控え外国人からのイメージ低下を避ける」といった辺りのようです。

販売取りやめ自体については、特に思うところもありません。ただ本件からも分かるように、わが国においては、ある種の分野について、外国であれば受けいれがたいような表現をいわば「野放し」にしている面があるわけです。そうした「野放し」を当然のこととして押し通しておきながら、他方では外国、それもアメリカなど一部の国がとっている(と解しうる)にすぎない考え方を絶対的な真理であるかのように持ち出して、たとえば差別的表現なども含めたほとんどあらゆる表現を好き勝手にやらせろ、と主張するような人びとが、わが国には相当数いるように見受けられます。そうした人びとには、今回「外国人からのイメージ低下の回避」を理由の1つとして大手コンビニにおける成人向け雑誌の販売取りやめが決められたということの意味を、少し考えてもらいたいな、とは思います。

さて、別の話題を扱っていて少し間が空いてしまいましたが、表現規制に関する以下の記事の続きの話をしていきたいと思います。

表現規制とリベラル - U.G.R.R.

人権を制約する「公共の福祉」

前回は、表現規制とは表現の自由という人権(自由権)の制約に他ならない。リベラルは実質的な自由を確保するための手段をも重視するものではあるが、やはり人権の中核をなすのは自由権(国家からの自由)であり、その規制には慎重にならざるを得ないのだ、という辺りまで述べていたかと思います。

もっとも、リベラルも表現の自由をはじめとする人権の保障を絶対的なものと考えているわけではなく、一定の制約があることを認めています。そしてその制約を論じる際に出てくるのが、「公共の福祉」です。 「公共の福祉」をめぐってはさまざまな議論がなされていますが、通説的な見解は「公共の福祉」を、すべての人権に内在し人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的公平の原理であると解しており、リベラルもこうした考え方(以下、「一元的内在制約説」といいます)を支持しています。これは、以前の記事で説明しました。

公共の福祉とリベラル(1) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(2) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(3) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(4) - U.G.R.R.

一元的内在制約説から導かれる危害原理

ところで、自由権を重視する立場から一元的内在制約説に拠って素朴に考えをおしすすめていくと、表現の自由をはじめとする人権の制約について以下のような考え方にたどりつくかと思います。

「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」

これは俗に危害原理などと呼ばれているもので、ミルの『自由論』などでも提唱されている古典的な考え方です。リベラルの多くはこのような考え方をとっており、そして実はツイッターなどで「表現の自由原理主義」とでも呼ぶべき極論をふりかざしている方々も同じ考え方をとっているものと思われます。その意味で、両者の基本的な立場は共通していると評することができます。

もっとも、「表現の自由原理主義」者がおしなべて「差別的表現も表現の自由だ」などと主張するのに対して、リベラルの中には差別的表現を規制するべきだと考える人もいます。両者の差はどこから生じるのでしょうか。それは、「権利侵害があると考えるかどうか」という点です。「表現の自由原理主義」者が差別的表現(であること自体)による権利侵害などないと考えているのに対し、リベラルの中には差別的表現によって被差別者の権利が侵害されていると考える方がいる。このことから、違いが生じているのです。

最近の事例を題材に

そこで、差別的表現による権利侵害ということについて、最近の事例に即して考えてみましょう。先日、在日コリアンの中学生をブログ上で侮辱したとして、60代の男が略式命令を受けました。

中学生を匿名ブログで中傷 66歳男性に侮辱罪で略式命令

当該ブログは、「在日という悪性外来寄生生物種」というブログ記事において、在日コリアンの中学生の本名を掲載したうえで、「チョーセン・ヒトモドキ」などの表現を並べたてたといいます。こうして紹介するだけでも胸が悪くなりますが、ともあれこうした表現が差別的なものであることは明らかと言え、当該中学生の権利を侵害していることも疑う余地がありません(だからこそ侮辱罪で略式命令を受けているのです)。

しかし、仮にこのブログが在日コリアンの中学生の本名を掲載することなく、在日コリアン一般に対するものとして同じ表現を並べたてていたとしたらどうでしょうか。その場合、特定の名宛人がいない以上、侵害される権利の主体も存在しないこととなり、実務的な意味での権利侵害があるとは言えなくなります。

これを一般化すると、次のような結論になります。すなわち、「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という考え方をとったうえで、「権利」を実務上一般に用いられているような意味に解するならば、原則として*1特定の個人・団体を名指さない限り、他者への権利侵害とはならないため、差別的表現を制限することは許されない、というものです。

リベラルにとっての「不都合な真実」?

しかし率直に言って、このような結論は少々現実離れしている。ある種の人びとが好む表現を借りるならば「お花畑」的であると言わざるを得ません。たとえばわが国では、美観や静穏、性道徳の維持、あるいは電波の混信防止などを目的として表現が規制されていますが、これらを実務上一般に用いられているような意味における個人の「権利」に還元することはできません*2。そもそも、一元的内在制約説をとる代表的な論者である宮沢俊義自身が、わいせつ物頒布等を禁じる刑法175条について、以下のように述べているのです*3

わいせつ本を公刊することが禁じられるのも、それがその時代の多くの他人の人権―― decent な社会生活への権利とでもいうべきもの――を害するとされるからである 

ここでいう「decent な社会生活への権利」なるものが実務上一般に用いられているような意味における「権利」でないことは明らかでしょう。一元的内在制約説から「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という考え方を導くとしても、そこにいう「権利」はもともとかなり広く解するべきものだったのです。そして、「表現の自由原理主義」者が「権利」を実務上一般に用いられているような狭い意味で捉えているのに対し、リベラル(の一部)は広く捉えており、それによって差別的表現による権利侵害の有無についての評価が違ってくるのです。

このことを、リベラルはあまり明言しません。その理由は私にはうかがい知ることができません。人権の制約根拠となる他者の「権利」を広く解することは人権制約の可能性を開くことにもつながりうるものですから、自由権(国家からの自由)を重視するリベラルとしては公にしづらいのかもしれません。今回述べた内容は実務法曹などでも興味を持っている者しか理解していないと思われるものであり、単に「権利」の意味するところについて明確に意識していないだけかもしれません。あるいは、私が思いつかないまったく別の理由によるのかもしれません。リベラルの方からご教示いただければ幸いです。

おわりに

以上、「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という、至るところで見かける考え方について説明してきました。この考え方にいう「権利」を実務上一般に用いられているような意味に解するならば、それはかなり現状とは距離のある過激な主張になるのだということをおさえておけば、表現規制をめぐる議論についての理解が進むのではないかと思います。

*1:あくまでも「原則として」です。

*2:長谷部恭男『憲法』(新世社、第7版、2018年)103頁以下参照。

*3:宮沢俊義憲法Ⅱ』(有斐閣、新版、1971年)231頁。

朝鮮学校授業料無償化除外を考えるために

はじめに 

朝鮮学校授業料無償化除外に関するニュースとそれに対する反応に接し、人びとの無理解ぶりが目に余ったため、先日、「そもそも朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか」ということについて説明する記事を書きました。

誰でも分かる朝鮮学校授業料無償化除外の基本 - U.G.R.R.

簡単におさらいをしておきましょう。高校授業料無償化の対象となるかどうかは、当該校が「高等学校等」にあたるかどうかによって決します。朝鮮学校のような各種学校の場合は、「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」として「高等学校等」にあたるかどうかが問題となります*1。「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」としては3つの類型が挙げられていますが*2朝鮮学校が該当しうるのは、「文部科学大臣の定める基準・手続に適合するものとして文部科学大臣が指定したもの」(以下、「ハ規定」といいます)の類型のみです。全国の朝鮮学校は、このハ規定に基づく指定を受けて「高等学校等」の要件を充足するべく申請を行いましたが、一律に文部科学大臣の不指定処分を受けました。これが朝鮮学校授業料無償化除外と言われている出来事のあらましだ、というのが前回記事の内容です。

今回はそこから一歩進んで、文部科学大臣が行った上記不指定処分の適法性等を考えるための手がかりとなりそうな視点の1つを紹介し、本件をどのように評価するべきかということについて、少し検討を加えてみようと思います。本記事を単独で読んでも、朝鮮学校授業料無償化除外に関する基礎的な知識さえない大半の方々には理解が難しいでしょうから、上掲の前回記事を読んだうえでご覧いただくことをおすすめします。

なお少し書くのが遅れましたが、本記事でも、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律を「法」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則を「施行規則」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第1条第1項第2号ハの規定に基づく指定に関する規程(平成22年11月5日文部科学大臣決定)を「規程」と表記します。 

朝鮮学校授業料無償化除外を考える 

処分の適法性を考える際の視点にはさまざまなものがありますが、やはり基本となるのはその根拠となる法律の検討を通じて考えていくやり方でしょう。周知のとおり、わが国において行政活動は法律に基づいて行われます(法律による行政)。つまり、行政がある処分を行えるということは、なんらかの法律がその処分を行う権限を行政に与えているということなのです。もっとも、法律は行政に与える権限の内容等について、必ずしも明確に定めているわけではありません。そこで、法律が制定されるまでの経過や法律の目的、あるいはその条文の文言等に照らして、法律が行政に対してどの程度の権限を与えているのかを探っていくことが、きわめて重要になります。そのような作業を通じて画定された範囲を超えて権限の行使(処分)がなされているならば、それはもはや裁量を逸脱・濫用するものとして違法であると考えられるからです。

朝鮮学校授業料無償化除外の場合、文部科学省は当初、幅広い人に教育の機会を提供するという理念のもと無償化の対象に朝鮮学校の生徒も含めて予算の概算要求を行っていました*3。また法案の審議過程においても、政府はこの問題にかかる外国人学校の取扱いについて、外交的配慮を排し、教育上の見地から客観的に判断するべきである旨をくり返し表明しています。一例として、平成22年3月12日文部科学委員会における松野頼久内閣官房副長官(当時)の発言を引用します*4

○松野内閣官房副長官 おはようございます。

就学支援金の支給対象について、いわゆる高校実質無償化法案は、日本国内に住む高等学校等の段階の生徒が安心して教育を受けることができるようにするものであります。

このために、外国人学校の取り扱いに関しましても、外交上の配慮などにより判断するべきものではなく、教育上の観点から客観的に判断するべきものであり、(略)

こうした審議を経て成立した法は、その1条で「高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減」「教育の機会均等」を目的として高らかに掲げており、当然のことながら「外交的配慮」にはまったくふれられていません。

条文の文言からも検討を加えてみましょう。すでに述べたとおり、法2条1項5号は「高等学校の課程に類する課程を置くもの」の内実については施行規則(「文部科学省令」)に委任しており、この委任を受けて施行規則1条1項2号において挙げられた3類型のうち朝鮮学校の場合に問題となるハ規定は、その内実について規程(「文部科学大臣の定める基準・手続」)にさらに委任しているのでした。ここで、委任を受けた下位の法令は委任の趣旨を逸脱することができません。したがって、下位の法令は当然「教育の機会均等」といった法1条の掲げる目的に適合するものであることが求められますし、「高等学校の課程に類する課程を置くもの」という法2条1項5号の文言による制約も受けます。つまり、ハ規程に基づく文部科学大臣の(不)指定は、教育上の見地から、客観的な「高等学校の課程に類する課程」を置いているかどうかの判断に基づいて行われなければならず、外交上の配慮に基づいてなされるようなことがあれば違法だということです。

まっとうな法解釈を行えば以上のような結論となることは当然であり、国側もそれが分かっているからこそ、訴訟などにおいては別の、就学支援金が授業料に係る債権に確実に充当されることを求める規程13条に適合すると認めるに至らなかったといった理由等を持ち出しているのでしょう*5。しかし、このような言い分を額面どおりに受け取る人が、はたしてどれだけいるのでしょうか。前回記事でもふれましたが、総選挙の結果自民党が政権に復帰するや否や、新たに就任した下村博文文部科学大臣(当時)は、朝鮮学校を無償化の対象としない旨明言しました。平成24年12月28日の記者会見における下村発言を引用します*6

大臣 まず、無償化に関する朝鮮学校の扱いについて報告をいたします。本日の閣僚懇談会で、私から、朝鮮学校については拉致問題の進展がないこと朝鮮総連と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいること等から、現時点での指定には国民の理解が得られず、不指定の方向で手続を進めたい旨を提案したところ、総理からもその方向でしっかり進めていただきたい旨の御指示がございました。(略) 

ここにおいて下村が、「拉致問題の進展」などという、「高等学校の課程に類する課程」を置いているかどうかの客観的な判断にはおよそ関係のない外交上の配慮を行っていることは明白です。それにもかかわらず、正式な処分の段になってぬけぬけと持ち出してきた別の「処分理由」をそのまま無批判に受けとめてしまってよいのでしょうか。私は非常に問題があると思います(もっとも、国側が後になって持ち出してきた「処分理由」を前提としても、なお不指定は裁量を逸脱・濫用するものとして違法であると解する余地は十分ありますが)。否、私ばかりでなく、朝鮮学校授業料無償化除外をめぐる報道に対する反応を見ていても、拉致がどうのミサイルがどうのと外交上の話題を持ち出して騒いでいる人はきわめて多いという印象です。朝鮮学校授業料無償化除外は外交上の配慮に基づくものであるというのが世間一般の受けとめ方なのではないでしょうか。そしてそうであるならば(=外交上の配慮に基づくものであるならば)、朝鮮学校授業料無償化除外は明らかに違法なのです。

おわりに

以上、朝鮮学校授業料無償化除外の適法性等を考えるための手がかりとなりそうな視点の1つを紹介し、私なりの簡単な考察を試みました。本記事はあくまでも一面からのきわめて簡潔な考察にとどまるものであり、まったく網羅的ではありません。他にも説明したいことはあるのですが、それはまた機会があればということにしようと思います。 

*1:法2条1項5号参照。

*2:施行規則1条1項2号。

*3:高校実質無償化の概算要求 朝鮮学校など各種学校も対象 : J-CASTニュース

*4:引用者において一部省略し、太字強調を施しました。

*5:前回記事参照。

*6:引用者において一部省略し、太字強調を施しました。

誰でも分かる朝鮮学校授業料無償化除外の基本

はじめに

以下の記事とそれに対する反応に接しました。

授業料無償化の朝鮮学校対象外 日本政府「差別には当たらず」 | NHKニュース

はてなブックマーク - 授業料無償化の朝鮮学校対象外 日本政府「差別には当たらず」 | NHKニュース

朝鮮学校授業料無償化除外をめぐる裁判はいくつも起こされ、判決もいくつも出ているのですが、ほとんど理解されていない様子。一般の方がこうした問題について必ずしも十分に知識を持たないのはある程度仕方のないことではあるのですが、しかしそれにしても堂々とデマを書き散らす輩などもいてあまりにも悲惨な状況なので、基本的なところだけ説明しておこうと思います。当初は1本の記事にまとめてしまうつもりでしたが、どれだけ端的に記してもやはりそれなりの長さにはなりそうなので、今回は「朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか」という本当に基本的な事項の説明のみにとどめます。

なお本記事では、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律を「法」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則を「施行規則」、公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第1条第1項第2号ハの規定に基づく指定に関する規程(平成22年11月5日文部科学大臣決定)を「規程」と表記します。

朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか 

そもそも高校授業料無償化とはなにか、きちんと説明できますか。

法は、公立高等学校における授業料を不徴収とするとともに*1、私立高等学校等の生徒・学生に対して就学支援金を支給することとしていました*2。こうした公立高等学校における授業料の不徴収および私立高等学校等の生徒・学生に対する就学支援金の支給を、俗に高校授業料無償化といっているのです。

さて、私立高等学校等の生徒・学生には就学支援金が支給される(=無償化の対象となる)のですから、問題となるのは朝鮮学校が「私立高等学校等」にあたるかどうかです。公立高等学校以外の高等学校等が「私立高等学校等」ですので*3、より端的に問題点を抽出するならば、朝鮮学校が「高等学校等」にあたるかどうか、ということになります。

「高等学校等」にあたるものについては、法2条1項各号に列挙されています。朝鮮学校は高等学校ではなく各種学校*4ですが、各種学校であっても「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」については、「高等学校等」にあたるものとされています*5

少し横道にそれますが、時折「各種学校である朝鮮学校に無償化を認めるなら(同じく各種学校である)自動車学校にも無償化を認めねばならない」などとバカげたことを言い出す人がいます。しかし上記のとおり、無償化の対象となる「高等学校等」は各種学校のうち「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」だけであり、自動車学校が「高等学校の課程に類する課程」を置いていないことは明らかですから、まったく理由のない主張です。

話を戻しましょう。「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定めるもの」としては、施行規則に3つの類型が挙げられています*6。その内容は要するに次のようなものです。

  1. 大使館を通じて日本の高等学校の課程に相当する課程だと確認できるもので文部科学大臣が指定したもの(以下、「イ規定」といいます)
  2. 国際的な学校評価団体の認証を受けているもので文部科学大臣が指定したもの(以下、「ロ規定」といいます)
  3. 文部科学大臣の定める基準・手続に適合するものとして文部科学大臣が指定したもの(以下、「ハ規定」といいます)

朝鮮学校の場合、イ規定、ロ規定には該当しません。そこで全国の朝鮮学校は、ハ規定に基づく指定を受けるべく申請を行いました。この指定が受けられれば、朝鮮学校は「高等学校等」にあたることとなり、晴れて無償化の対象となるわけです。

ところが、指定の可否についての審査は一向に進まないまま2年以上の時が経過します。そして2012年12月、総選挙の結果自民党が政権に復帰するや否や、新たに就任した下村博文文部科学大臣(当時)は朝鮮学校を無償化の対象としない旨明言し、その言葉どおり、翌2013年2月20日、ハ規定の削除と同時に全国の朝鮮学校に対し、一律に不指定処分が行われました。処分通知書に記載されていた処分理由は、「ハ規定の削除」および「規程13条に適合すると認めるに至らなかったこと」です。これが、朝鮮学校授業料無償化除外と言われている出来事のあらましです。なお、ハ規定の再委任を受けて、規程では「高等学校の課程に類する課程を置くもの」として指定する際の基準や手続等が定められていますが、その13条は次のような内容でした。

(適正な学校運営)

第13条 前条に規定するもののほか、指定教育施設は、高等学校等就学支援金の授業料に係る債権の弁済への確実な充当など法令に基づく学校の運営を適正に行わなければならない。

おわりに(おわらない)

今回は、そもそも朝鮮学校授業料無償化除外とはなにか、というきわめて基本的な部分にしぼって説明を行いました。次回は、朝鮮学校授業料無償化除外のなにが問題か、ということについて説明する予定です。 

*1:法3条1項。

*2:法4条1項。

*3:法2条3項。

*4:学校教育法134条1項。

*5:法2条1項5号。

*6:施行規則1条1項2号。

表現規制とリベラル

はじめに

表現の自由はてなでも度々ホットエントリーにあがる人気のテーマであり、少し検索するだけでも実に多くの記事が見つかります。しかし、では表現の自由をめぐる問題がさまざまな立場から論じられているかというと、必ずしもそうは言えません。実はわが国において表現規制の必要性を正面から認める勢力は、きわめて少ないからです。ツイッターなどで「表現の自由原理主義」とでも呼ぶべき極論をふりかざしている方々については論じるまでもないでしょう。そして誤解されがちですが、俗にリベラルと目されている方々も、たとえば差別的な表現に対して懸念は示しても、これを規制するというところまでいくと概して慎重な態度をとっているように見受けられます。これはいったいなぜなのでしょうか。まずは、リベラルの方々のこうした態度について考えたいと思います。

リベラルが重視する3種の自由

リベラルは、「国家からの自由」としての自由権、「国家への自由」としての参政権、「国家による自由」としての社会権のすべてを重視しています。ここで社会権すなわち「国家による自由」をも重視するとは、単なるお題目にとどまらない実質的な自由の確保を志向するということにほかなりません。たとえば財産もなく病のために満足に働くこともできないような人を、「自由」の美名のもとに社会に投げ入れてなんらの手当てもしないとすれば、その人は飢えや病によって死ぬことしかできないでしょう。そんな「自由」には何の意味もありません。そこで、社会権という形で国家から必要な補助を受けられるようにすることで、すべての人が本当の意味で自由に生きられる社会を目指す。こうした「自由を確保するための手段をも自由の一内容として重視する」側面がリベラルにはあるのです。これは、以前の記事で説明しました。

人権とリベラル(1) - U.G.R.R.

人権とリベラル(2) - U.G.R.R.

差別反対は自由の確保

場面は少々異なりますが、差別に反対するリベラルの論理も、基本的には上述のような発想に基づく部分があるように思われます。たとえば、「○○人は嘘つきだ」でも「○○人は反日だ」でも構いませんが、とにかくその種の偏見が社会に蔓延していたとしましょう。その社会における○○人の彼・彼女の発言は、(○○人であるという自らにはどうしようもない事情によって)「どうせ嘘だろう」 と話半分で聞き流され、あるいは「どんな魂胆でそのように言うのか」と過剰に疑われる(選択的懐疑主義! )に違いありません。このような状況下において、元凶となる偏見を放置して「あらゆる表現の自由を擁護する」などと嘯いてみても、○○人の彼・彼女の表現の自由が本当の意味で確保されているとは言えない、という考え方です(なお、「○○人は嘘つき」「○○人は反日」などの言辞は○○人である彼・彼女の尊厳を傷つけるものであり、そのこと自体も無論きわめて重大な問題ですが、今回は措いておきます)。

中核はやはり自由権

しかしその沿革からもうかがわれることですが*1、人権の内容をなす上記3種の自由のうち、その中核となるのがやはり自由権すなわち「国家からの自由」であることは否定しがたいところです。たとえば「立憲主義」について「憲法によって国家権力を制限し人権を保障しようとする考え方」などと説明されることがありますが、かかる説明中の「人権」が自由権を念頭に置いていることは明らかでしょう*2。そして自由権を中核に据えて考える以上、たとえ差別的な表現の横行する現状に対して懸念を抱いていても、そこから歩を進めて表現規制を支持することには慎重にならざるを得ません。表現規制とはまさに国家権力が強制力をもって表現の自由という自由権を制約するものだからです(なお、以上の記述から分かるように、表現の自由は一次的には国家との関係で問題となるものです。念のため)。

おわりに(おわらない)

本記事では、たとえば差別的な表現に接したときのリベラルの葛藤について、ひとまずその大枠を示しました。もちろん、彼らも表現の自由(をはじめとする自由権)の保障を絶対的なものと考えているわけではなく、一定の制約があることを認めてはいます。しかしながら、その自由権重視の態度ゆえに、彼らの認める制約の範囲はきわめて狭いものとなっているように思われます。次回はこの点について、もう少し詳しく見ていく予定です。

*1:この点も上掲の記事中で説明しています。

*2:仮にここにいう「人権」が社会権だとすれば、「国家権力を制限」という部分と整合しません。

具体的に何が行われたかは重要という話など

以下の記事とそれに対する反応に接しました。

「人権派」な人の性加害案件を見て、父の精神的虐待を思い出した話 - 宇野ゆうかの備忘録

はてなブックマーク - 「人権派」な人の性加害案件を見て、父の精神的虐待を思い出した話 - 宇野ゆうかの備忘録

本題に入る前に、とても大事なことを2点述べておかないといけません。

1点目。本記事では宇野さんの父親および広河隆一の言行について言及します。その際の記述は、いちおう宇野さんおよび広河に被害を受けたと訴える女性たちの言い分を前提として行いますが、これは「仮にそうだったとして」という程度の趣旨で、それらの言い分が正しいとするものではありません。

2点目。本記事は宇野さんの上記記事を批判するものではまったくありません。宇野さんが父親の言動等によって本当に苦しい思いをしたことは確かであり、そうである以上そのことについて私などが口を挟むべきでないと思うからです。また、私はいわゆる「#metoo」運動に一定の理解を示すものですが、こうした運動の要諦は、事実が那辺にあるかを探求することにではなく、当事者があげる切実な憤りないし苦悩の声に共感し連帯の意思を示すことで、彼ら・彼女らをエンパワーすることにこそあると思うからでもあります。

さて、以上を前提として本題に入ります。といっても、これから述べるのはいずれも過去に扱ったテーマばかりなので、簡単にコメントを加えたうえで適宜該当の過去記事を紹介するという形をとることにします。

まず気になったのは、宇野さんの父親を広河隆一と並ぶような悪人であるかのように扱う反応が散見されたことです*1。この点についての批判がまったく見当たらなかったことが、本記事作成の最大の動機です。

たしかに、こうして宇野さんが辛い思いをされているのですから、宇野さんの父親も完璧な人間ではなかったのかもしれません。よりよい関係性の築き方が、探せばきっとあったのでしょう。

しかし宇野さんの父親は、宇野さんの記事を前提としてさえ、手をあげることはおろか声を荒らげることすらなく、「不機嫌さによる無言の威圧や、声量は大きくはないが低く鋭い声の調子という、微妙な感情の表出」を行ったというにとどまるようです(もちろん性的虐待も行っていません)。

くり返しますが、これによって宇野さんが辛い思いをされたということを否定するつもりは毛頭ありません。しかし人間、疲れていたり意に沿わないことがあったりすれば、多少機嫌が悪くなったり口数が少なくなったりするのは自然なことです。何があろうと穏やかで公正なふるまいを心がけよ、というのは要求としてかなり高度なものであり、「手をあげない」「大声を出さない」というだけでも、親としてはそれなりの水準に達しているという見方も可能でしょう。少なくとも、三者、宇野さんの父親を、複数の女性に対して性暴力をふるったのではないかとされている広河と同列に論じて悪人扱いするのは、あまりにも宇野さんの父親の人格権を軽視した乱暴な議論であるというべきです。

ネット上では、こうした個別具体的な事例に着目しない乱暴な議論が往々にしてなされます。 「差別」だとか「反差別」だとかいう抽象的なコトバに逃げ込んで実際に起きたことから目をそらしていると大切なことを見落とす、というテーマについては以下の記事で扱いましたので、参照してください。

「ポリコレ棒」について - U.G.R.R.

なお、宇野さんの父親にあるいは見られるのかもしれないある種の甘えの背景には、互いに助けあいあるいは迷惑をかけあう、家族という共同体がかつてのように強固に存在しているといった幻想があるのかもしれません(もちろんそのことは何の免罪符にもなりませんが)。このテーマについては以下の記事で扱いましたので、参照してください。

自由主義が不自由を招く? - U.G.R.R.

もう一つ気になったのは、これもネット上ではよく見かける「ダブル・スタンダード」批判と思しき反応です。つまり、たとえば「人権派を名のりながら人権を抑圧している」という類のもので、これに対して私が発するべきは、突き詰めれば次の一言だと思います。

「それで、あなたはどう考えるのですか」

問題はきわめてシンプルです。仮に人権が抑圧されている状況があるのならば、あなたがその状況を是とするか、非とするか。それだけです。「人権派」なるものがどうであるかは、まったく関係がありません。殊更に「ダブル・スタンダード」を難ずる方というのは、標的を攻撃することにばかり熱心で、自らの立ち位置を明らかにするケースはきわめて稀です。それは自ら責任を引き受けることを回避する、姑息な態度だと思います。

このテーマについてはいくつか記事を書いた覚えがあり、前掲の「『ポリコレ棒』について」もその一つですが、(おそらく)最初に書いたものとしてひとまず以下の記事を挙げておきますので参照してください。

リベラルとダブル・スタンダード - U.G.R.R.

*1:念のために強調しておきますが、私が気になったのはあくまでも「反応」の方であって、宇野さんの記事自体ではありません。