普天間は返還されるのか

以下の記事とそれに対する反応に接しました。

沖縄県民投票「反対」多数確実 有権者の4分の1を超える勢い | NHKニュース

はてなブックマーク - 沖縄県民投票「反対」多数確実 有権者の4分の1を超える勢い | NHKニュース

辺野古埋立てに対する圧倒的多数の反対意思が示された今回の投票結果はとても重いものだと思います。

ところで、上記の反応の中で、id:hihi01さんの以下のブックマークコメントが目にとまりました。

沖縄県民投票「反対」多数確実 有権者の4分の1を超える勢い | NHKニュース

<a href="/maruX/">id:maruX</a> さん、辺野古基地建設後も普天間基地が返還されないのですか?どこかにソースはありますか?教えていただければ幸いです。

2019/02/25 06:26

b.hatena.ne.jp

私はこの問題についてさほど詳しくもないし、いま個人的に少々忙しかったりもするのですが、辺野古基地建設によって普天間が確かに返ってくるのかというのはとても重要な問題だと思うので、知っていることをきわめて簡単にだけ記します。詳しい方がより充実した記事を作成してくださることを期待します。

 

普天間の返還条件は、日米両政府が平成25年4月に共同発表した「沖縄における在日米軍施設・区域に関する統合計画」中に記されています。

  1. 海兵隊飛行場関連施設等のキャンプ・シュワブへの移設。
  2. 海兵隊の航空部隊・司令部機能及び関連施設のキャンプ・シュワブへの移設。
  3. 普天間飛行場の能力の代替に関連する、航空自衛隊新田原基地及び築城基地の緊急時の使用のための施設整備は、必要に応じ、実施。
  4. 普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善。
  5. 地元住民の生活の質を損じかねない交通渋滞及び関連する諸問題の発生の回避。
  6. 隣接する水域の必要な調整の実施。
  7. 施設の完全な運用上の能力の取得。
  8. KC-130飛行隊による岩国飛行場の本拠地化。

これらの条件をみたさない限り、普天間は返還されません。そして、これらの条件の中でも特に問題とされているのが、4番目の条件です。平成29年6月6日参議院外交防衛委員会においてなされた、普天間の返還条件に関する民進党(当時)の藤田幸久防衛大臣(当時)稲田朋美とのやりとりを引用します*1

藤田幸久君 (略)

続きまして、資料の七ページを御覧いただきたいと思います。

これは、沖縄等米軍基地問題懇談会におきまして防衛省から出てきたペーパーでございます。一番下の五行ほどでございますけれども、「「普天間飛行場代替施設では確保されない長い滑走路を用いた活動のための緊急時における民間施設の使用の改善」が普天間飛行場の返還条件とされておりますが、現時点で、この点について具体的に決まったものがあるわけではありません。」というふうに文書が出ています。この場で別の議員が、同時進行であっても返還条件が整わなければ普天間飛行場は返還されないのかという質問に対して、防衛省は、そういう理解ですと答えました。これで間違いないですね。

 

国務大臣稲田朋美君) 緊急時における民間施設の使用の改善について、現時点で具体的な内容に決まったものがないため、米側との間で協議、調整をしていくこととしております。

そして、御指摘のその懇談会における防衛省職員の説明、このような具体的な内容について、米側との協議によることを前提として、普天間飛行場の返還のためには、緊急時における民間施設の使用の改善を含む返還条件が満たされる必要があるということを述べたものでございます。

仮に、この点について今後米側との具体的な協議やその内容に基づく調整が整わない、このようなことがあれば、返還条件が整わず、普天間飛行場の返還がなされないことになりますけれども、防衛省としては、そのようなことがないよう、返還条件が満たされ、普天間飛行場の返還の実現の支障とならないように対応をしていく考えでございます。 

まずすでに述べたことではありますが、ここで稲田が緊急時における民間施設の使用の改善を含む返還条件が整わない限り普天間は返還されないと明言していることを確認しておきたいと思います。辺野古基地建設のみによって上掲した8つの返還条件を充足しないことは明らかであり、その意味において、「辺野古に基地を建設したからといって普天間が返還されるわけではない」というのは、実は防衛大臣でさえ公式に認めている否定の余地なき事実なのです。政府をはじめ辺野古の基地建設を推進する勢力は、辺野古に基地を建設しさえすれば普天間が返還されるかのような物言いをして、他にもさまざまな条件があることを決して述べようとはしません。きわめて不誠実な態度だと思います。

さてそもそもの問題としてこの点を指摘したうえで、「緊急時における民間施設の使用の改善」(4番目の条件)に話をうつします。これは大雑把に言ってしまえば、2700メートルある普天間の滑走路に比べて辺野古の滑走路は1800メートルと短いため、緊急時には長い滑走路のある民間施設を使わせろ、という条件です。稲田はこの条件については現時点で具体的な内容として決まったものはないというのですが、こうした明らかに紛糾が予想される条件についてなんら具体的に決まらないまま辺野古基地の建設を急いでいるのだとすれば、そのこと自体があまりにも短慮というべきではないでしょうか。実際、稲田は具体的になんら決まっていないというものの、米国会計検査院が平成29年4月に作成した報告書等からこの条件において想定される「民間施設」は那覇空港だと推察されるとして、当時沖縄県知事であった翁長雄志が「(米軍には)絶対に那覇空港を使わせない」と強く反発したことなども報じられています*2。このような状況で辺野古に基地を建設したところで、スムーズに普天間が返還されることなど絶対にない、と私は思います。

辺野古の基地建設が進んだ段になって、政府が後出し的に「緊急時における那覇空港の使用」を言い出し、さすがに沖縄が「いいかげんにしろ」と憤激して事態が膠着したとき、辺野古の基地建設を推進してきた勢力はいったいどのような反応を見せるのでしょうか。ぬけぬけと「真摯に受けとめる」「理解を得る努力を重ねたい」などと述べながら実際には何一つしない政府。「反対派のせいで普天間に負担が押しつけられる」「沖縄は独立して中国に侵略されろ」などと、「反対派」に責任を転嫁し悪しざまに沖縄を罵る(辺野古基地建設推進派の)ネット世論。……目に浮かぶようです。

素面ではできないな

折にふれて述べていることですが、はてな匿名ダイアリー(以下、「増田」といいます)における個人への言及は基本的に規約違反であり、削除を申し立てれば当然その記事は削除されますし、悪質な場合は投稿者へのはてな利用停止措置もあります。

規約違反の記事に対してどんどん削除申立てを行っていけば、悪質な者、くり返す者は利用停止となるため、将来にわたって規約違反を増田から一掃できますし、それはとりもなおさず新たな被害の発生を防ぐということでもあります。それゆえ私個人としては、言及された方にはとにかくどんどん削除を申し立ててほしいし、自分自身もどんどん削除を申し立てていくつもりでいます。

ということで今日は酔いに任せて、この4か月の間に私に言及した増田の記事に対して、削除申立てを行ってみました(われながらバカバカしくて、酔っていないととてもできないなと思います)。といっても、私はさして知名度があるわけでもないうえ、しきりに削除申立てについて言及しているせいか最近ではあえて私への言及を避けているような記事も散見されるようになり、今回新たに発見できた言及記事は3件にとどまりました。今回とは別の機会に偶然目にとまって削除申立てを行った記事等もあった気がしますが、それらをあわせても5件前後といったところです。もっと頻繁に言及されるような「大物」が削除申立てを行ってくれれば、との思いがよぎらないでもないのですが、無論それはバカげた夢想というべきものでしょう。やはり酔っていますね。

なお今回の検索を行う中で、当然のことではありますが、いろいろな方が増田で言及されているのだということを再認識しました。言及されているのを見かけたら教えてほしいという方がいらっしゃれば、適宜の方法で私までご連絡ください。気づいたものについてはできるだけご報告させていただくようにします。

エホバの証人の思い出

こんな匿名記事に接しました。

エホバの証人って本当にそんなにヤバいのだろうか?

いろいろあってエホバの証人を辞めたという人が、「一般人がどうしてこの宗教を危険視するのか分からない」との疑問を呈する、といった内容。

基本的には私もこの方の疑問に同調する立場ですね。憲法を勉強していると必ずいくつかこの宗教の絡んだ事件に接することになり、それらの事件から垣間見えるあれこれに照らして、私自身が入信することはまずないと思いますが、しかし外部の人間として付き合う限りにおいて、彼らに危険性があるとは思えません。

もうほとんど覚えていないのですが、記事を読んで少し私のエホバの証人に関する思い出を残しておきたくなったので記します。

学生時代のある時期、私のアパートにはエホバの証人の信者の男性がほぼ毎週(くらいのペースだったのではないかと思います)訪れていました。彼は毎回、私に2冊の小冊子を渡し、聖書の一節を読み上げ、その内容に関連するいくつかの質問を投げかけ(私がそれに応答し)、そして帰っていきました。

私は初回に「神はいると思うか」というようなことを聞かれ、少なくとも肯定的な返事はしなかったはずなのですが、彼は特段気分を害したり拒絶の意思をあらわしたりする様子もなく、私のもとに通い続けました。またその間、私は一度として集会の類に参加することはなく、彼とのやりとりは私のアパートの玄関でしか行われることはなかったのですが、彼がそのことを気にするそぶりも微塵もありませんでした。というよりも、記憶する限り、私は彼から具体的に集会への参加を呼びかけられたこと自体ないはずです。今となっては会話の内容を思い出すこともできませんが、しかし彼が私の人生(あるいは私という人間でしょうか)を良くしようと思ってくれていることは伝わってきました。穏やかで誠実な人だったと思います。

彼の訪問は、1年だったか2年だったか、それくらいで終わりを告げました。彼がその地を離れることになったのが理由です。彼は私の名前すら知らず、私も彼の名前すら知らないままでした。彼はいまどうしているのでしょうか。幸せであってほしいと思います。

不快を理由にした規制もありうる

ちょうどいいタイミングで以下のまとめ記事に接したので、このあたりで最近続けていた表現規制をめぐる話題について改めて要点を記しておきたいと思います。

「間接的に誰かを傷つけるかも知れない」を理由に規制すると創作物全滅の可能性。『not for me』の受容を大事に - Togetter

なお、本記事ではいつも以上に分かりやすさを優先したいと思っているので、やや不正確な表現をする場合もあります。きちんと知りたい、考えたい、批判したい、という場合には、以下の記事にあたってください。

表現規制とリベラル

危害原理という信仰

太宰メソッドを越えて

結局、表現の自由に関する極端な主張というのは、「他者の権利を侵害する場合でない限り、表現の自由を制約することは許されない」という「お花畑」的テーゼに支えられているんですよね。すでに述べたことですが。

現実には、まったくそんなことはない。美観や静穏、性道徳の維持、あるいは電波の混信防止などなど、個人の権利には還元することのできない、いわば社会的な利益のために、表現の自由は規制されています。でないと世の中まわらない。

では、「社会的な利益」とはなにか。それは突き詰めれば、世間にとって望ましい状態の確保ということになります。表現規制は、世間にとって望ましい状態を確保するためにも行われる。言い換えるならば、世間にとって望ましくない(=不快である)と判断されるものは、表現規制の対象になりうるということです。

このように言うと、必ず「世間ではなくお前が不快なのだろう」と脊髄反射で反駁してくる人がいます。そういう場合もあるでしょうが、しかし上述のとおり「世間」というものは確かにあって、実社会においても重視されています。そしてきわめて一般的な話として述べれば、ひとさまの目につく場所で性的なものを見せてまわるようなことは、世間にとって望ましくない(=不快である)とされています。刑法で公然わいせつやわいせつ物頒布等といった罪が定められていることを想起してください。

冒頭掲記のまとめ記事では、「誰かが不快、を理由に規制するならすべてを規制しなければならない」という趣旨のことをいう人が多数いました。しかしそこでは、実際には「誰かが不快」ではなく「世間が不快」なのではないか、ということこそが真に問われるべきなのです。

無論、こうした問いに対する答えは事案によって異なり、本当に「誰か(個人)の不快」にとどまるということもありえます*1。しかしそれは、まず訴えられた「不快」に対して真摯に向きあい、相手の主張をよく吟味してはじめて分かることです。そうした過程を経ないまま、すべてを「誰か(個人)の不快」に矮小化して好き勝手な表現を続けていくというのであれば、きっとそれは世間が許さないでしょう。

最後に私個人の話をしておきます。私は、5年ほど前には表現規制に対してきわめて慎重な立場でした。それは、公権力の介入に対する懐疑と規制が必要なほどの状況にはないという認識によるものでした。しかしいま、私は表現規制に対して中立的(どちらとも言えない)という立場です。それはこの5年ほどの間に、差別わいせつなんでもござれ、俺たちは好き勝手に表現を行うのだ、という一部の人たちの表現の自由に関するあまりに極端な主張を見続けてきて、これをこのまま放置してよいのか、という気持ちが芽生えてきたからにほかなりません。私のような人間が増えていくことによって、表現に対する世間の目は厳しくなっていくのでしょう。表現の自由について、ほとんど原理主義的ともいうべききわめて過激な主張をされている一部の人たちには、自分たちが表現の自由の足場を掘り崩しているのではないかということについて、一度考えてほしいと思います。

*1:そうした場合にその方の不快を軽視してよいというわけではありませんが。

太宰メソッドを越えて

はじめに

はてなのことばに、「太宰メソッド」というものがあります。自らの個人的な好悪の感情などを「世間」や「みんな」といった大きな主語に託すことで、自分の責任は回避しつつ、発言に権威や説得力をもたせようとする手法をいい、太宰治人間失格』の以下の一節に由来するものです*1

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

このことばは、世間に名を借りて自らの責任を回避しようとする態度を明快に指摘した面もあった一方で、「世間」というものに対する軽視を招いた面もたしかにあったのだろうと思わざるを得ません。表現規制に関する以下の記事の続きです。

危害原理という信仰

規制基準の明確性と「世間」 

表現規制において常に問題とされる事項の1つに、「基準の明確性」があります。

表現規制を行う場合には、規制の対象となるか否かを判断する基準が明確でなければなりません。基準が曖昧だと、人びとは自分が行おうとしている表現が規制の対象となるものかどうかを判断できないためです。またそのような曖昧さを利用して、公権力が基準を恣意的に(広く)解釈して広汎な規制を及ぼそうとするおそれがあるためでもあります。これ自体は、きわめてもっともなことです。

ただ特にネット上などでは、こうした明確性をあまりにも強く求めすぎているようにも見えます。そのことが、まさに「世間」「常識」などに対する態度に端的にあらわれているのではないか、と私は思うのです。

たとえば表現規制をめぐる問題において、「さすがにそれは常識的(世間的)に考えてダメだろう(なくすべきだ)」という趣旨のことを言うと、たちまち「世間って誰だ」「ダメかどうかは誰が判断するんだ」といったほとんど脊髄反射のような反応が返ってくるようです。「ダメだと思っているのは世間でなくお前だ」「世間に名を借りてお前の気に食わない表現を排除しようとしているだけだ」というわけです。「世間」「常識」に対する無視・軽視。まさに太宰メソッドです。

徳島市公安条例事件にみる明確性と「世間」

しかし、そのような「世間」「常識」の無視・軽視ははたして妥当なのでしょうか。この点に関連して、俗に徳島市公安条例事件と呼ばれている最高裁昭和50年9月10日大法廷判決を見てみましょう。これは、集団示威行進に参加したAが、マイクで呼びかけるなどして集団行進者に対して、蛇行進をするよう刺激を与え、もって交通秩序の維持に反する行為をするよう煽動したなどとして徳島市の集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下、「条例」といいます)3条3号、5条違反等で起訴された事件です。条例3条3号、5条を引用しておきましょう。

(遵守事項)

第3条 集団行進又は集団示威運動を行うとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。

(1) (略)

(2) (略)

(3) 交通秩序を維持すること。

(4) (略)

 

(罰則)

第5条 第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定による届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽動者はこれを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する。 

本件では、主として「交通秩序を維持すること」という要件の明確性が問題とされました。このような一般的、抽象的な文言ではいかなるものをその内容として想定しているのか不明確であるから、罪刑法定主義を保障した憲法31条に違反し無効だというのです。この点にかかる裁判所の判断を見てみましょう*2

しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

最高裁判所大法廷はこのように述べたうえで、条例3条3号について、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」とし、通常の判断能力を有する一般人が具体的場合において自らのなそうとする行為がかかる禁止に抵触するかどうかを判断することはさして困難ではないとして、違憲無効の主張を退けました。

改めて指摘するまでもないでしょうが、ここにあらわれる「通常の判断能力を有する一般人」の視点こそが、「世間」あるいは「常識」的な物事の捉え方にほかなりません。刑罰法規はこれを犯す者に対して刑罰というきわめて重大な人権制約を加えるものですから、当然のことながら数ある法令の中でも最も明確性が要求されるものと言えます。そのようなものが問題となっている場面においてさえ、「世間」「常識」はこのような形であらわれているのです*3

これに対して、上に挙げた「さすがにそれは常識的(世間的)に考えてダメだろう(なくすべきだ)」といった発言の如きものは、法ですらない、単なる私人の意見にすぎません。そもそも人権が一次的には対国家的な権利であることを考えれば、このようなものに対して殊更に規制云々と騒ぎ立てること自体がやや的外れの観もありますし、そこまで言わないにせよ、少なくとも刑罰法規よりもずっと柔軟な調整が可能でありまた求められる場面でもあることはたしかです。そうであってみれば、特にかかる例のような法規制以前の段階においては、頑なに明確性ばかりにこだわるのではなく、「世間」「常識」にも目配りをしつつ、穏当な解決を得るべく調整を試みることこそが重要であるというべきでしょう。

おわりに 

以上、きわめて高い明確性が要求される刑罰法規の解釈においてすら、「世間」「常識」 といったものが考慮されていることなどについて説明してきました。われわれが社会で生きていく限り、「世間」「常識」は常に注意を払われるべき重要なものとして存在し続けるのです。その意味で、「世間」を過度に無視・軽視して、すべてを「世間ではなくお前が気に食わないだけだ」で片づけてしまう一部の主張や、その背後にあると思われる太宰メソッドは、乗り越えていくべき考え方であるように思われます。

なお言うまでもないことですが、私は個人の人権をないがしろにしているわけではありません。個人の人権は無論重要です。しかし、「世間」「常識」といったものもたしかに存在しておりやはりそれなりに重要なのです。この2つの重要なものについて、うまく折り合いをつけていかなければならないというのが私の言わんとするところであり、また宮沢のいう「decent な社会生活への権利」*4も、この趣旨を述べるものではないでしょうか。

*1:太宰メソッドとは - はてなキーワード

*2:引用者において一部太字強調を施しました。

*3:念のために述べておきますが、こうした例は枚挙に暇がありません。たとえば何が「侮辱」かといったことも「社会通念上許される限度を超えるものかどうか」という見地から判断されますが、ここにいう「社会通念」もやはり「世間」「常識」をいうものにほかなりません。これはある意味当然のことで、「侮辱」にあたる言動を逐一列挙していくことなどおよそ不可能である以上、「世間」的な感覚や「常識」に頼らざるを得ないのです。先に引用した判決文の前半部分も、その趣旨をいうものです。

*4:前回記事参照。

異常なシェア数

昨日の記事*1フェイスブックにおけるシェア数が異常に多くなっています。現時点で、8865。なぜこんな数字が出ているのか、理由がまったく分かりません。

記事内容は本ブログの運営方針に関する単なる連絡であって、さして注目を集める要素などないはずです。なおブログのアクセス数はまったく増えていません(むしろ、誤差の範囲かもしれませんがかなり少ないです。昨日初めて公開範囲を変更してある者を閲覧拒否ユーザーに指定したのですが、他の方にはきちんと閲覧していただけているのかやや不安なくらいです)。

理由について見当がつくという方は、ご教示いただけると幸いです。