センター試験当日を狙って痴漢するのは当然

試験時間に遅れることができない受験生を狙って痴漢をしようと呼びかける輩がいるそうで。

センター試験 受験生を痴漢から守れ! | NHKニュース

私個人は心底下劣だと思いますが、しかし考えてみれば今日の社会が持て囃す「絶対的な正義/悪などない」「人の数だけ正義はある」といった類の思想(笑)から導かれる当然の帰結かもしれません。

「絶対的な正義/悪などない」のだとすれば、当然ながら痴漢についても悪だと決めつけられる謂れはありません。「人の数だけ正義はある」のならば、痴漢行為も人助けも、道義的には等価というべきでしょう。

痴漢は犯罪だから許されない? 犯罪かどうかを決めるのは多数派によって制定される法律です。それは今日の社会が持て囃す思想(笑)からすれば多数派の正義にすぎません。他者の権利を侵害する行為だから許されないという類の主張もほぼ同じです。そもそも保護されるべき権利とは何かということ自体が多数派の価値観によって決せられるものですし、その権利を具体的に保障するための法律も、上記のとおり多数派が制定するものだからです。

結局、今日持て囃されている思想(笑)からすれば、痴漢行為は特段恥じるべきものでも糾弾されるべきものでもなく、その行為が抑止されるのはただこれに対して刑罰が定められているからにすぎません。もう少しわかりやすく言い換えるなら、「悪いことだから」しないのではなく、「罰を受けるのが嫌だから」しないというだけなのです。こうした発想の手合いが、時間に遅れることができず被害を訴える可能性の低いセンター試験当日の受験生を狙って痴漢を行おうとするのは、当然のことだと言えるでしょう。

社会として一定程度「何が良くて何が悪いか」ということについての価値観を共有していないと、人びとは恥の感覚を失います。そして恥の感覚を失った人びとは、自制することがなくなり、ただ強制力を伴う法によってしか統制できなくなるでしょう。そのような社会はあまりにも浅ましいと私は思いますし、常に人びとを監視して完全な取締りを行うことなど不可能である以上、自制を期待できる社会よりはるかに治安が悪くなることも確実です。それで本当によいのかということを、もう大分手遅れの感がありますが、一度まじめに考えてみるのもよいかもしれませんね。

川崎市新条例の明確性について

前回に引き続いて、ヘイトスピーチへの対策等を定めた川崎市の新条例*1についてお話しします。今回は、本条例12条の明確性について簡単に検討したいと思います。

憲法31条が保障する罪刑法定主義は、刑罰法規が明確であることを要求します。

予め罪となるべき事項を明確に告知することによって、国家による恣意的な処罰を防ぎ、また国民において(問題のない行為についても「これは罪となるかもしれない」と考えて控えてしまうといった)無用な萎縮が生じることを防ぐためです。

もっとも、刑罰法規は不特定多数人を名宛人とした一般的な規範ですから、その内容がある程度抽象的になってしまうことは避けられません。そこで判例*2は、刑罰法規に求められる明確性について以下のように述べています。

ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

これは、デモ行進を行おうとする者に対し、「交通秩序を維持すること」その他の事項を守らなければならないとしたうえで、これに違反した者に刑罰を科することを定めていた徳島市公安条例の合憲性が問題となった事件です。

ここに「交通秩序を維持すること」とはかなり抽象的で不明確ではないかとも思われるところですが、この点について判例は、上記の判断基準を示したうえで、大要次のように述べて憲法31条には反しないとしました。すなわち、「交通秩序を維持すること」とは、一般的な集団行進等に随伴する程度を超え殊更な交通秩序をもたらすような行為を避けるべきことを命じるものであり、通常の判断能力を有する一般人が、具体的場合において自己の行為が殊更な交通秩序の阻害をもたらすものかどうか判断することに、通常さほどの困難はないはずだとしたのです。

さて、判例において要求される明確性というのがこの程度のものであるということを念頭において、本条例を見てみましょう。

第12条 何人も、市の区域内の道路、公園、広場その他の公共の場所において、拡声機(携帯用のものを含む。)を使用し、看板、プラカードその他これらに類する物を掲示し、又はビラ、パンフレットその他これらに類する物を配布することにより、本邦の域外にある国又は地域を特定し、当該国又は地域の出身であることを理由として、次に掲げる本邦外出身者に対する不当な差別的言動を行い、又は行わせてはならない。
(1) 本邦外出身者(法第2条に規定する本邦外出身者をいう。以下同じ。)をその居住する地域から退去させることを煽動し、又は告知するもの
(2) 本邦外出身者の生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加えることを煽動し、又は告知するもの
(3) 本邦外出身者を人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱するもの

本条例において刑罰の対象となり得るのはこの12条に規定する行為なのですが、ここでは以下の3つが掲げられています*3

  • 本邦外出身者をその居住する地域から退去させることを煽動し、又は告知する
  • 本邦外出身者の生命、身体、自由、名誉又は財産に危害を加えることを煽動し、又は告知する
  • 本邦外出身者を人以外のものにたとえるなど、著しく侮辱する

いずれも具体的な行為が規定されていることが分かると思います。なお、ここに「本邦外出身者」とは、いわゆるヘイトスピーチ解消法*42条に規定する「専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの」のことです。

この規定の明確性は、ヘイトスピーチ解消法と比較すると分かりやすいかもしれません。同法は、その3条において、「国民は、……本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない」と定めており、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」については2条で次のように定義しています。

(定義)
第2条 この法律において「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの(以下この条において「本邦外出身者」という。)に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。

一見すると似ているように感じるかもしれませんが、この法律では危害の告知や著しい侮蔑は単なる例示にとどまるものであり、定義としては、「本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」ということになります。

もとより、ヘイトスピーチ解消法は理念法であり、違反者に対する刑罰を予定するものではありません。したがって、刑罰法規と同等の明確性が要求されるわけでもなく、あえてこうした定義をとっている面があるのですが、ともあれ、仮にこの定義を本条例が刑罰規定に関する部分で採用していれば、「地域社会から排除」とは具体的にどのような行為を指すのかが分かりにくく、不明確であると評する余地もあったかもしれません。

しかし本条例は、随所においてヘイトスピーチ解消法を意識しつつも、刑罰規定に関する部分では「地域社会から排除」といった抽象的な表現を排し、禁止対象を具体的な行為として規定しました。この結果、本条例12条は、明確性の点では、問題のないものになっていると評してよいでしょう。

以上、今般成立した川崎市の条例12条の明確性についての考察でした。

*1:川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例。

*2:最大判昭和50年9月10日(刑集29巻8号489頁)。

*3:柱書部分については、規制態様等について論じる際に言及します。

*4:本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律。

川崎市新条例はなぜ日本人へのヘイト(笑)を罰しないのか

はじめに

前回に引き続いて、ヘイトスピーチへの対策等を定めた川崎市の新条例*1についてお話しします。

周知のとおり、本条例が刑事罰の対象としているのは「本邦外出身者」に対する一定の差別的言動です*2。今回は、「なぜ本邦外出身者への言動だけが対象なのか」という点について説明したいと思います。

立法に際して注意するべき点

まず前提として、立法をするに際しては次の2点(だけでもないのですが)に注意する必要があります。
1点は関連法令との整合性に意を用いること。そしてもう1点は、立法事実による裏づけを確保することです。

2点目については、少し説明しないと分かりにくいかもしれませんね。立法事実とは、ある法の立法目的およびそれを達成する手段の合理性を裏づける社会的・経済的・文化的な一般事実のことです*3。大変おおざっぱな言い方をしてしまえば、次のようなことです。すなわち、ある法を制定するためには、そうした法がぜひとも必要だと言えるような社会状況にあることが求められる。ここで、「そのような社会状況にあること」が立法事実である、というイメージです。立法事実がないのに、法を制定して人びとの権利を制約してしまうことは許されません。

関連法令との整合性

ヘイトスピーチ解消法

たとえば、いわゆるヘイトスピーチ解消法を見てみましょう。同法は、正式名称を「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」といいます。この正式名称からも分かるように、同法は少なくとも一次的には、「本邦外出身者」に対する差別の解消を目指すものです。

ところで、この「本邦外出身者」については同法2条に定義があり、「専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するもの」をいうとされています。同法の審議過程では、このような定義だとアイヌ民族等が「本邦外出身者」に含まれないこととなり、こうした者への差別を容認するものとも読まれかねないとの問題意識に基づくものと思われる指摘が、共産党の仁比聡平からなされました。これに対して、発議者の一人である自民党西田昌司は次のように答えています*4

まず、いわゆるこのヘイトスピーチですけれども、現在も問題となっているヘイトスピーチ自身は、いわゆる人種差別一般のように人種や人の肌とかいうのではなくて、特定の民族、まさに在日韓国・朝鮮人の方がターゲットになっているわけですよね。ですから、そういう立法事実を踏まえて、この法律に対して対象者が不必要に拡大しないように、立法事実としてそういう方々が中心となってヘイトスピーチを受けているということで、本邦外出身者ということを対象として限定しているわけでございます。

ここにおいて西田は、同法(案)が在日韓国・朝鮮人ヘイトスピーチの標的になっているという立法事実をふまえて対象を本邦外出身者に限定した旨を明言しています。そして同法は、附帯決議において、「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」以外のものであれば、いかなる差別的言動であっても許されるとの理解は誤りであることが確認されたものの、「本邦外出身者」という文言やその定義については、一切変更を加えられることなく成立しました(なお、附帯決議がなんらの法的拘束力も有しないのは周知のことかと思います)。

以上のとおり、ヘイトスピーチ解消法は、在日韓国・朝鮮人に対する深刻な被害が発生しているという立法事実をふまえて、対象を「本邦外出身者」への差別に限定したものだったのです。

川崎市新条例

そして、今般成立した川崎市の新条例が、このように対象を「本邦外出身者」への差別に限定したヘイトスピーチ解消法をふまえたものであることは明らかです。

本条例では、「不当な差別的言動」や「本邦外出身者」といった重要な用語についてヘイトスピーチ解消法の定義に従っていますし*5、本条例11条ではより直截に、市が「法4条2項に基づき」*6市の実情に応じた施策を講ずることにより、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消を図る旨を規定しています。

こうしたヘイトスピーチ解消法と本条例との関係性に照らせば、本条例がひとまず刑事罰の対象をヘイトスピーチ解消法に倣って「本邦外出身者」への一定の差別的言動に限定したのは、自然なことと言ってよいでしょう。

立法事実

さらに、本条例を制定した川崎市には在日コリアンの集住地域があり、彼らを標的としたヘイトデモがくりかえされてきたという経緯もあります。

たとえばヘイトスピーチ解消法が成立*7するまでの3年間を見てみると、平成25年に3回、平成26年に4回、平成27年に3回のヘイトデモが、川崎市で行われているようです*8

さらに最近でも、平成30年6月、在特会*9の元会長桜井誠通名)を党首とする日本第一党の最高顧問瀬戸弘幸が立ち上げた団体が川崎市の教育文化会館で集会を開こうとし、反対する市民らとの間で激しいもみ合いになった事案があります*10。なお、この団体は、その後同年12月*11、翌平成31年2月*12にも差別的言動を行わないよう同市から「警告」を受けながら、同市の公の施設において集会を開いています。

このように、川崎市は他所と比べても特に本邦外出身者の被害が深刻な自治体なのです。今回の条例は、こうした立法事実に鑑み、特に「本邦外出身者」に対する一定の差別的言動に限って、刑事罰の対象としたものと考えられます。

言うまでもないことですが、本条例は表現の自由憲法21条1項)に対するかなり強度な制約です。ですから、その対象となる行為はできるだけ限定する必要があります。そうした見地からすれば、刑事罰の対象となる行為を「本邦外出身者」に対する一定の差別的言動に限ったのはむしろ自然で、立法事実が存するわけでもない者に対する言動まで対象としていれば、それこそ違憲の疑いが濃くなっていたでしょう。日ごろ「君の意見には反対だがそれを主張する権利は命をかけて守る」とおっしゃっているような方々は、「日本人に対する差別表現*13の自由までは制約されなかった」と喜ぶべきところだと思います。当然のことですが、念のため。

まとめ

本条例が「本邦外出身者」への(一定の)言動のみを刑事罰の対象としている理由は、以上のとおりです。まとめると、

  • ヘイトスピーチ解消法が対象を「本邦外出身者」への差別に限定していることとの整合性
  • 川崎市において、特に「本邦外出身者」が深刻な被害を受けているという立法事実

の2点ということです。

本条例の附帯決議について(蛇足)

蛇足ながら、最後に本条例の附帯決議について軽くコメントしておきます。

本条例では、自民党から附帯決議案が出されており、その中には当初次のような文言がありました*14

本邦外出身者に対する不当な差別的言動以外のものであれば、いかなる差別的言動であっても許されるとの理解は誤りであるとの基本的認識の下、本邦外出身者のみならず、日本国民たる市民に対しても不当な差別的言動が認められる場合には、本条例の罰則の改正も含め、必要な施策及び措置を講ずること。

これは、以下のように修正されたうえで可決されました。

本邦外出身者に対する不当な差別的言動以外のものであれば、いかなる差別的言動であっても許されるとの理解は誤りであるとの基本的認識の下、本邦外出身者以外の市民に対しても、不当な差別的言動による著しい人権侵害が認められる場合には、必要な施策及び措置を検討すること。

修正は主に3点。

まず、当初は「不当な差別的言動が認められる場合には……措置を講ずる」とされていたのが、「不当な差別的言動による著しい人権侵害が認められる場合には……措置を検討する」と改められた点。これは、立法事実としてきちんとしたものを求めるという趣旨でしょう。

次に、当初は「本条例の罰則の改正も含め、必要な施策及び措置を……」とされていたところ、「本条例の罰則の改正も含め」との文言が削除された点。これは上記のとおり表現の自由に対する強度の制約となる罰則については、慎重に臨む必要があるとの考慮に基づくものでしょう。

そして最後に、「日本国民たる市民」が「本邦出身者以外の市民」に変更された点。この変更の意味するところは、本記事を読んでこられた方なら容易に了解できると思います。修正後の文言は、ヘイトスピーチ法解消法の制定過程において問題となった「アイヌ民族等への差別」を明確にフォローしているのです。

これらの修正は、おおむね妥当なものだと思います。特に「日本国民たる市民」から「本邦出身者以外の市民」への修正は良いですね。すでに指摘した「アイヌ民族等への差別」のフォローという点で良いのはもちろんですが、感覚的にも、「日本人差別」という類の言葉は、一部の人びとによって反差別をくさしマイノリティを攻撃する道具に貶められてしまっている印象があるので、そうした言葉を避けているという点でも気分が良いです。

*1:川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例。

*2:本条例12条ないし14条、23条、24条。

*3:芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)372頁参照。

*4:平成28年4月19日参議院法務委員会における発言。

*5:本条例2条、12条参照。

*6:なお、ここに「法」とはヘイトスピーチ解消法を指します。本条例2条参照。

*7:平成28年5月26日。

*8:前田朗『ヘイト・スピーチと地方自治体 ―共犯にならないために―』(三一書房、2019年)15頁の「川崎市のヘイト・スピーチ関連略年表」を参照しました。

*9:在日特権を許さない市民の会

*10:https://www.kanaloco.jp/article/entry-31089.html

*11:https://www.kanaloco.jp/article/entry-39949.html

*12:https://www.kanaloco.jp/article/entry-149154.html

*13:(笑)。

*14:なお、附帯決議案については、当初のもの、修正後のものともに、自民党川崎市議会議員矢沢たかお公式サイトの記事「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例の制定について④」(https://yazawa-t.jp/kawasakishijinkenjyourei-4/ )中で紹介されているものを参照しました。

川崎市新条例と罰則のない禁止規定について

川崎市で、ヘイトスピーチ等への対策を定めた条例が成立しました。

差別根絶条例が成立 全国初、ヘイトスピーチに刑事罰 | 政治・行政 | カナロコ by 神奈川新聞

本条例が注目を集めているのは、なんと言っても日本で初めてヘイトスピーチへの刑事罰を規定したという点でしょう。その点についてはおって考察するとして、まずは「罰則はないけれど禁止」を定めた部分について簡単にコメントしておきたいと思います。具体的に言うと、本条例5条についてです。

(不当な差別的取扱いの禁止)
第5条 何人も、人種、国籍、民族、信条、年齢、性別、性的指向性自認、出身、障害その他の事由を理由とする不当な差別的取扱いをしてはならない。

同条では、「何人も、……不当な差別的取扱いをしてはならない」と規定されています。
これはそれなりに意味のある点だと私は思っていて、たとえば本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(いわゆるヘイトスピーチ解消法)3条と比較すると分かりやすいかもしれません。

(基本理念)
第3条 国民は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性に対する理解を深めるとともに、本邦外出身者に対する不当な差別的言動のない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。

違いが分かるでしょうか。
簡単に言えば、「してはならない」と「努めなければならない」の違いです。
ヘイトスピーチ解消法においても、(罰則は設けないにせよ、)「不当な差別的言動をしてはならない」ことをきちんと言明するべきではないかとの指摘はかなり強くなされたのですが、結局は与党側の主張が押し通され、「努めなければならない」とする現在の同法3条の形になったという経緯がありました*1
今回はこの点について、「不当な差別的取扱いをしてはならない」とはっきり言明する、禁止規定の形がとられたのです。

もっとも、本条例5条の違反に対する罰則は設けられていないので、同条が規定する「不当な差別的取扱い」をしても罰せられることはありません。それではどのような点に影響が生じうるのかというと、ヘイト集会等のための公の施設の利用拒否などがその主なものではないかと思います。

刑罰の対象となり得る本条例12条に規定された行為がなされる危険性が高い場合、もちろん公の施設の利用は拒否されることになるでしょう。しかしそのような限られた場合にとどまらず、たとえ罰則はないとしても、本条例5条が明確に「不当な差別的取扱いをしてはならない」と宣言した以上、こうした「してはならない」行為のために公の施設を利用すること自体が目的外利用であるという余地も生じるはずです。また、施設の管理条例等で申請拒否事由として定められていることの多い「公の秩序をみだすおそれ」などがあるともいいやすくなるでしょう。

たとえば本条例の制定された川崎市に関して言うと、すでに公の施設の利用許可についてのガイドライン*2が策定されています。

ガイドラインでは、公の施設の利用を不許可とできるのは、「当該施設利用において、不当な差別的言動の行われるおそれが客観的な事実に照らして具体的に認められる場合(言動要件)」であり、かつ「その者等に施設を利用させると他の利用者に著しく迷惑を及ぼす危険のあることが客観的な事実に照らして明白な場合(迷惑要件)」に限られるとされています。

しかし今般、本条例は「不当な差別的取扱いをしてはならない」ということを明言したわけです。そうすると、不当な差別的言動の行われるおそれが具体的に認められるにもかかわらず施設利用を許可するということは、自らが管理する施設を自らがしてはならないと宣言している(=禁止している)行為のために提供するということにもなりかねないところです。そのような態度は、二律背反的なものとして混乱を招くのではないか。他の利用者に迷惑を及ぼすか否かにかかわらず、不当な差別的言動がなされるおそれが具体的に認められるのであれば、施設利用を不許可とするべきなのではないか。つまり、不許可の要件から「迷惑要件」を削除し、「言動要件」のみとするべきではないか。こういったことが問題となり得るように思われます。

川崎市より後に策定されたガイドラインの中には、たとえば京都府の「京都府公の施設等におけるヘイトスピーチ防止のための使用手続に関するガイドライン」のように、「迷惑要件」に該当する要件を設けていないものもあります。そのような事実をふまえたとき、本条例の成立を受けて、川崎市ガイドラインが今後どのように運用されるのかということは、それが改訂されるのか維持されるのかといった点も含めて、注意深く見守る必要があるでしょう。

以上、今般成立した川崎市の条例に寄せて、まずはある種周辺的な部分についてのコメントでした。

*1:たとえば、平成28年4月26日参議院法務委員会における議論などを参照してください。

*2:本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律に基づく「公の施設」利用許可に関するガイドライン

何人殺すと死刑?

先日、ある事件の被告人が被告人質問において「3人殺すと死刑なので2人までにしておこうと思った」旨供述しているとの報道に接しました。

「3人殺すと死刑なので2人までに」 新幹線殺傷、公判で被告 - 毎日新聞

どうも誤解があるようなので、死刑の選択基準等について簡単にお話ししておきたいと思います。

死刑の選択については、いわゆる永山基準というものがよく知られています。これは、最高裁判所昭和58年7月8日判決(刑集37巻6号609頁)において、死刑選択が許される場合を判断する基準として示されたものです。引用します。

死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。

ここでは、たしかに「結果の重大性ことに殺害された被害者の数」として被害者数が考慮要素に数えられていますが、それ以外にもさまざまな事情が考慮要素として挙げられていることが分かると思います。実際、強盗殺人など犯行が金目当てのものである場合や被告人に殺人の前科がある場合などには、厳しい判決が言い渡されることが多くなります(死者1名で死刑とされるのはほぼこうした事情があるケースです)。

つまり、「何人殺すと死刑?」という表題に対する回答としては、「殺した人数だけで死刑が選択されるかどうかを判断することはできない」ということになります。

このように説明しても、「そんなのは建前で現実には3人以上殺していないと死刑にはならないんじゃないの 」と思われる方もいるかもしれないので、裁判員裁判を経て死刑が確定した事件とそれぞれの事件における死亡者数との関係を示しておきましょう。なお、以下の表は、特定非営利法人CrimeInfoのウェブサイト『CrimeInfo』*1の「死刑確定者リスト 全リスト」および最高裁判決が出ている場合には当該判決を参照して作成したものです。

死亡者数 0 1 2 3 4 5~
事件数 0 1 12 7 0 3 23

現在までに、裁判員裁判を経て死刑が確定した事件は23件*2。そのうち12件は、事件による死亡者数が2名のものです。少なくとも「3人以上殺していなければ死刑にはならない」などということはないと分かっていただけると思います。

*1:https://www.crimeinfo.jp/

*2:控訴取下げの効力を争っているとされる1件については除きました。

アリストテレス、クソ食らえ

マッキノンは、ポルノ規制やセクハラ問題といった個別のイシューの背後にある理論に着目して読むと吉ですね。特に重要なのは平等論だと思います。アリストテレス以来の平等観に堂々と挑んだのは実にかっこいい。

ここにアリストテレス以来の平等観とは、「同じものは同じように、異なるものは異なるように扱う」というもの。いわゆる相対的平等です。

わが国の憲法14条1項もこの相対的平等を志向するものであり、たとえば最高裁大法廷判決昭和39年5月27日(民集18巻4号676頁)も以下のように述べています。

右各法条*1は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。

事柄の性質に応じて合理的な区別をすることは憲法14条1項の否定するところではない。つまり、同条項にいう「平等」は、異なるものは異なるように扱う相対的平等だということです。

マッキノンは、このような相対的平等の考え方を、むしろ不平等に加担するものだとして退けます。

私自身も相対的平等の考え方に染まっていましたからはじめてマッキノンの主張に接したときは戸惑いましたが、しかし言われてみればたしかに一理あるように思われます。

たとえば、わが国の強制性交等罪(刑法177条)を想起してください。

(強制性交等)

177条 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛門性交又は口腔性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

 強制性交等罪とは一昔前には強姦罪と呼ばれていたもののことですが、ご覧のとおりこれが認められるためには暴行・脅迫が用いられていなければなりません。しかもここにいう暴行・脅迫は、相手の反抗を著しく困難にする程度のものであることが要求されており*2、きわめて高いハードルとなっています。

もっとも、この厳しい要件は男女どちらに対しても同じように課されます。そしてまた、強制性交等罪の構成要件について男女で差を設ける合理的な理由は一応存しないと言ってよいでしょう。したがって、これは「同じものを同じように」扱っている、すなわち相対的平等に適うものとひとまずは考えることができそうです。

ところで、強制性交等罪のこのような高いハードルは、いったいどのような結果をもたらすでしょうか。このことを考えるために、平成30年版の犯罪白書を見てみましょう。 白書によると、平成29年における強制性交等罪の認知件数は1109件。うち、被害者が女性のものは1094件です*3。つまり、認知されたほぼすべての事件において、被害者は女性なのです。

きわめて厳しい構成要件、そして100パーセント近い総被害者数に占める女性の割合。これらの事実からは、次のような結果が導かれるのではないでしょうか。すなわち、平等の美名の下、強制性交等罪が両性に対して等しくきわめて厳しい構成要件を突きつけたことにより、(ほぼ)女性だけが被害を訴えても強制性交等罪で犯人を罰してもらうことができず、泣き寝入りするしかない状況におかれるという結果です。

そしてマッキノンは、こうした平等の名に隠れた不平等が、たまたま生じたものだとは決して考えません。平等の名の下で、女性だけが不平等を強いられるのは必然なのです。なぜなら、法律は男性が作ったものだから。

このことは、フェミニズムの歴史をひもとけば分かりやすいでしょう。まず第一波フェミニズムが公私二元論を前提として公的世界での平等から求め始めたことでも明らかなように、長く女性には公、すなわち政治(そこには当然立法も含まれます)への参加が認められませんでした。国政への女性の参加が認められるようになってから、アメリカでようやく100年、日本では75年程度にすぎません。

無論、第二波フェミニズムが明らかにしたように、建前上女性が政治参加できるようになったとしても、それによって直ちに女性が政治に影響を及ぼせるわけでは全くないのですが、しかしこと法律に関してはそのようなことを考慮する必要すら(あまり)ありません。なぜなら、多くの法律(少なくともその基本的枠組み)は、女性の政治参加が認められる以前の時代に、文字通り男性によって作られたものだからです。

そして、男性によって作られた法律は、見かけのうえで平等に見えても、多くの場合男性にとって都合の良いものになっています。先ほど挙げた強制性交等罪のように。これは私なりの理解で言うならば、次のような理屈だと思います。すなわち、「同じものを同じように扱う」という場合、「同じように」の基準となる取扱いが必要となります。そして、この基準となる取扱いを男性がすでに独占的に決定してしまっている結果、たとえ「同じように」扱われたとしても、基準自体が「男性目線」の独りよがりなものであるために女性は不利益をこうむる、というわけです。

こうしてマッキノンは、相対的平等がむしろ不平等に加担しかねないものだと喝破します。深い洞察だと思います。

 

純粋に法的に考えるならば、マッキノンが相対的平等への疑義を呈する際に挙げる例の大部分は、立法不作為の問題などに位置づけるべきものだと思います――なお、そのように位置づけた場合には、これを違法とすることはきわめて難しくなります。たとえば日本の場合、立法の内容や立法不作為が国賠法上違法の評価を受けるのは、「国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や、国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合など」の例外的な場合に限られるとされています*4。マッキノンもそれが分かっているから立法不作為の問題とはしなかったのかもしれません――ので、私はマッキノンに全面的に賛同するわけではありません。それでも、上述のようなマッキノンの洞察は、無神経にも「男性目線」を当然の前提としてものを考えがちな現代社会に対する痛烈な批判として、きわめて価値あるもののように思えます。

参考文献

キャサリン・マッキノン著/森田成也、中里見博、武田万里子訳『女の生、男の法(上)』(2011年、岩波書店

*1:憲法14条1項および地方公務員法13条(引用者注)。

*2:最判昭和24年5月10日(刑集3巻6号711頁)。

*3:http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/65/nfm/n65_2_6_1_1_0.html#h6-1-1-02

*4:最大判平成17年9月14日(民集59巻7号2087頁)。

規制とはなにか

前回記事で規制目的の積極・消極について話しましたが、そう言えば規制自体についてはふれなかったので、その点についてもごく簡単に言及しておこうと思います。

この「規制」という語も随分いいかげんに用いられていて、先日もid:kotobuki_84という方が「ゾーニング要求は表現規制だ」などと述べていました。

“ゾーニング要求は表現規制ではない”について(おへんじ追記)

AがBにあたるかという議論をする際には、Bの定義を示したうえでAがそれに該当するかどうかを検討するというのが基本ですが、この方は、ゾーニング要求は「原則としては表現規制だと思います」としか述べず、表現規制の定義すら示していないので、そのお考えを知ることはできません。おそらくこの方の「お気持ち」としてはそうだということなのでしょう。それはそれで好きにされればよいと思います。

しかし一般的には、規制とは、「規則を制定・適用して物事を制限すること」をいいます。そうすると、規制を行うことができるのは、規則を制定・適用する権限を有する者に限られるということになります。それ以外の者による制限は、物理的あるいは心理的圧迫等によるのであって、規則の制定・適用によるとは言えないからです。

以上をふまえて考えてみると、「ゾーニング」それ自体は、たとえば自分の店の商品陳列の仕方等を決める権限を有するコンビニなどが、一定の要件を充足する商品については他の商品と同じ棚に置かないというルール(規則)を制定し適用することで、その商品の販売方法・場所を制限するものですから、規制にあたりうると言えるでしょう (もっとも、これは「規制」ではあるかもしれませんが「法的規制」ではないので、そこはさらに別途の考慮をする必要があるでしょう)。

これに対して、「ゾーニング要求」をするのは自らゾーニングをすることのできない外部の者です。 このような者は、自らゾーニングできない、すなわち規則を制定・適用する権限を有しないのですから、仮に「ゾーニング要求」によって物事が制限されるようなことがあったとしても、それは上記のとおり規則の適用以外の要因によるものです。したがって、「ゾーニング要求」は「規則を制定・適用して物事を制限すること」という規制の定義に該当しないため、規制とは言えません。

以上のようなことは、たとえば交通犯罪厳罰化の動きなどを想起するとよく分かるのではないでしょうか。近年、交通犯罪の厳罰化が進んでいますが、この厳罰化自体は規則による制限を強化するものですから、規制(の強化)と言えますし、実際世の中でもそのように表現されることは少なくないでしょう。

一方で、こうした厳罰化は、交通事故被害者などが厳罰化(規制強化)を求めて粘り強く活動し、またそれを受けて世の中でも「交通犯罪厳罰化すべし」との声が高まった結果でもあるわけですが、こうした交通事故被害者などの活動や世の中の声を「規制(の強化)」と表現することはないはずです。それは、これらの者が交通犯罪に重罰を科すという規則を制定・適用する権限を有しないからに他なりません。

そして、このような例からも分かるように、規制を要求することは言論活動のきわめてオーソドックスな一類型です。それ自体で忌避されるようなものでは全くありません。

歪な相対主義・個人主義の影響で、こんにちの社会では他者に何かを求めるとすぐに押しつけだなんだと騒ぎ出す手合いが現れ、規制を求めること自体が悪だとでも言わんばかりの風潮があるようにさえ感じられます。しかし、当然ながら規制を求める者にも(多くの場合)それを実現する権限があるわけではなく、その意味で彼の規制を求める表現は憲法21条1項の保障を受けるべき単なる一表現にすぎないのです。そうした表現に認められる影響力があるとすれば、せいぜいそれは事実上の萎縮効果のようなものでしょうが、そのような効果は、ネットに氾濫する罵詈雑言にも同様に認められるものです(他者への侮辱や名誉毀損につながりやすいという意味で、むしろそうした罵詈雑言の方が一般的には悪質な可能性が高いとさえ言えるでしょう)*1。ある言説の規制を求めることは悪であって許されないが、ある言説をバカにすることは許されるなどというのは、とんでもない欺瞞であると言わざるを得ません。

以上、規制について簡単に説明してみました。何かの参考になれば幸いです。

*1:なお、度が過ぎる表現については、権利侵害という観点から、民事では不法行為に基づく損害賠償、刑事では侮辱罪や名誉毀損罪、あるいは威力業務妨害罪などという形で手当てがなされています。