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リベラルとダブル・スタンダード

リベラルの主張に対する批判類型の1つに、「(リベラルの)ダブル・スタンダードを難ずる」というものがある。「自由や権利の尊重をとなえながら、気に入らない者の自由や権利を抑圧している」という類の批判だ。

 

まず前提として、こうした批判がされる場合、

などの理由によって、そもそもリベラルの側に落ち度がないように感じられることが多い旨は明記しておきたい。

 

そのうえで、仮にリベラルの側に落ち度があったとして、批判する方(の一部)になお考えてもらいたいことがある。それは、「あなたはいかなる立場をとるのか」ということである。冒頭に挙げた「自由や権利の尊重をとなえながら、気に入らない者の自由や権利を抑圧している」を例にとるならば、「あなたは自由や権利を尊重することに賛成なのか、反対なのか」ということだ。

この点に関して、丸山眞男が「ある感想」という小文で、自由民権運動への批判に対する中江兆民の反批判を紹介しつつ、進歩主義に対する批判のパターンが6,70年前と今日*1とで驚くほど変わっていないことを嘆いている。現代のわれわれにとっても大変示唆に富む文章なので、以下に引用する。なお、テキストは『丸山眞男セレクション』によった。引用中太字部分は原文で傍点の付されている文字である。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

およそ「進歩」の立場で行動するものは、自らのなかに深く根ざす生活なり行動様式なりの「惰性」とたたかいながら同時に社会の「惰性」とたたかうというきわめて困難な課題を背負っている。高いものをとろうとする者はとかく重心を失って姿勢がよろけがちになる。最もよろける危険のない体勢ということになれば、一番重心を低くした――つまり寝そべった姿勢に若くはない。しかし自分は初めから寝そべったままで、高いものに手をのばす者の姿勢の崩れをわらったところでそれは「批判」にはならないだろう。況んや下から足をひっぱるにおいてをや。

当然のことながら、リベラルな立場をとる者も一人の人間にすぎないのだから、一点の瑕疵もないなどということはありえない。 あるいは社会的な慣習等に流されて無意識のうちに、あるいは過ちであると分かりながら安きに流れて、間違いを犯すこともあるだろう。

そのような場合、従前主張しているところとの齟齬が目立つために、リベラルな立場をとる者はそうでない者に比してより激しい批判にさらされ、ときにはその過ちを理由に主張のすべてが信ずるに足りないものとして退けられることさえある。

しかし、そのような態度は果たして正しいものなのだろうか。 

批判者がリベラルな立場をとる者とおよそ基盤を共有しないのであれば、それは正しいと言えるかもしれない。しかしそうでないなら、リベラルな立場をとる者にひときわ厳しい批判を加え、ときに1つの過ちを理由にその主張のすべてを退けるような態度は、まさに丸山のいわゆる「寝そべった」者のそれであって、不誠実なものと言わなければならない。

再び冒頭に挙げた例に戻ろう。リベラルな立場をとる者による自由や権利の抑圧がダブル・スタンダードとなるのは、彼(女)が従前「自由や権利の尊重」を主張してきたからである。だが、「自由や権利の尊重」は、ひとりリベラルな立場をとる者だけが保持すべき基盤であろうか。決してそうではない。それは、本来われわれの社会全体が共有している基盤であるはずだ。そうであるならば、これまで曲がりなりにも「自由や権利の尊重」を実現しようと努めてきた者がそうでない者に比してより厳しい批判にさらされることは公平とは言えまい。また、「リベラルによる自由や権利の抑圧」を理由に「リベラルの主張する自由や権利の尊重」が果たされなくても良いということにはならず、いずれの自由や権利についても実現を図る方向で議論が進められるべきであろう。

「(リベラルの)ダブル・スタンダードを難ずる」方の一部は、こうした点についてあまり配慮されていないように見受けられるので、ここに記すものである。

 

最後に、蛇足ではあるが誤解のないように付け加えておく。

私は決してリベラルを批判するなと言っているのではない。再び丸山の「ある感想」より引用すれば、「問題はどういう姿勢で、またどういう方向で批判すべきかという点にある」のである。

*1:なお、この文章が発表されたのは1957年である。