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ヘイトスピーチ規制によって表現の自由が保護されるという視点

雑記

ヘイトスピーチ規制が一面において表現の自由を制約するものであることは紛れもない事実だ。そのため、ヘイトスピーチ規制を認めるか、認めるとしてどのような内容の規制とするべきか、ということについて、私自身態度を決めかねている。

しかし、少なくともヘイトスピーチ規制を単純に表現の自由に対する制約とのみ捉えることはできない。被差別者との関係で見たとき、ヘイトスピーチ規制は表現の自由を保護するものでもある。このような視点について、人種差別撤廃委員会の一般的勧告35「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」より引用して紹介する*1。なお、引用文中「本条約」とは人種差別撤廃条約を指す。

28. 意見と表現の自由は、他の権利および自由の行使の土台を支え保障するものであるというだけでなく、本条約の文脈において格別な重要性を持っている。人種主義的ヘイトスピーチから人びとを保護するということは、一方に表現の自由の権利を置き、他方に集団保護のための権利制限を置くといった単純な対立ではない。すなわち、本条約による保護を受ける権利を持つ個人および集団にも、表現の自由の権利と、その権利の行使において人種差別をうけない権利がある。ところが、人種主義的ヘイトスピーチは、犠牲者から自由なスピーチを奪いかねないのである。

ヘイトスピーチは、その犠牲者の表現の自由を抑圧するものである。だから、ヘイトスピーチ規制は、当該犠牲者との関係で、表現の自由を保護するものである、というわけだ。

ヘイトスピーチがその犠牲者の表現の自由を抑圧する」という意味が少し分かりにくいかもしれない。

この点については、「狼少年」を想起すれば理解しやすいのではないだろうか。「嘘つき」というレッテルをはられた者は、同じ表現をしても容易に信用してもらえない。ヘイトスピーチによって人間として軽んじられた者は、その表現についても軽んじられ、同等の重みをもって受けとめられない、というわけだ。たとえ表現を直接的に禁じられていなくとも、それが無視されるのであれば実質的に表現の自由が保障されているとは言えない。その意味でヘイトスピーチはその犠牲者の表現の自由に対する抑圧なのである*2

このような懸念は決して机上の空論ではない。他者の言動を出自と絡めて理解し低く評価するような傾向は、残念ながらわれわれの社会に厳然として存在する。かつて書いた「普通の」日本人ならば気にもされないような発言で痛くもない腹を探られ、行動の逐一が陰謀論めいた「祖国」との関連という文脈で語られるような例は、まさにそのあらわれであると言えよう。

 

ヘイトスピーチ規制と表現の自由」は、単純な二項対立に解消することのできない、難しい問題をはらんでいる。 

*1:監訳:窪誠、翻訳:人種差別撤廃委員会一般的勧告35翻訳委員会。

http://www.hurights.or.jp/archives/opinion/2013/11/post-9.html

*2:書き忘れていたが、憎悪にさらされることによって萎縮効果が生じ、被差別者が口をつぐんでしまうということも当然あるだろう。その意味でもヘイトスピーチはその犠牲者の表現の自由に対する抑圧であると言える。(1月11日追記)