フェミニズムの怒りに寛容を求めることはできるのか

id:greg_yamada(グレッグ山田)さんの以下の記事を読んだ。

グレッグ山田さんの記事は、読ませる文章で、しかも考えるきっかけを与えてくれることが多いので、楽しみにしている。

 

今回の指摘は要するに、次のようなことだと思う。

すなわち、セクハラの告発に対して真摯に自らの加害を認めたとしても、フェミニストはむしろその者を糾弾する。したがって加害の告白は、「告発→是正」ではなく「告発→殲滅」の流れを生むことになる。そうすると、「殲滅」される側の人間は、「セクハラの隠蔽」や「ホモソーシャルの構築」といった(望ましくない)方向に向かわざるを得ない、と。

グレッグ山田さんのいうように、セクハラを告白した者に対して、フェミニストの少なくない一部は、これを評価するよりはむしろ糾弾するだろう。そしてそれは、必ずしも間違ったことだとは思わない。「当事者としての怒りを伴った思想」であることこそが、フェミニズムの重要な一側面であるからだ。

対象から距離をとった、「客観的な」既存の学問ではつかみきれないものを、フェミニズムは確かにつかみとった。そのことは決して軽視されるべきではない。そして、フェミニズムが「怒り」を根本に据える以上、セクハラ加害の告白に対する寛容をフェミニズムに強請することはできない。徹底的な糾弾を選んだとしても、それはありうるフェミニズムの形として認められるべきものだ。

しかしそれでは、「セクハラの隠蔽」や「ホモソーシャルの構築」へと向かう動きは、徹底的な糾弾を選んだフェミニズムが引き受けるより他ないものなのだろうか。もちろん、これらを一時的に引き受けたうえで抑圧者の「殲滅」を目指すというのもありうる考え方だ。むしろそれこそが本道ではないかという気さえする。ただ、これと異なる穏当な道があるのならば、私はその道についても知りたいと思う。

この穏当な別の道を提示しようとするのが、id:c_shiikaさんのコメントだろう。

なので実際の運用としては、告発の段階に至ってしまう前に注意・警告を行い、セクハラを未然に防いだり、軽微な段階で阻止するような方法が考えられると思います。

はてなブックマーク - c_shiika のブックマーク - 2015年3月27日

しかし、このような方法には考えなければならない2つの問題がある。1つは「告発に至る前の注意・警告を与えられるべき行為とは何か。それはセクハラとはどう異なるのか」 ということ。そしてもう1つは、「仮に注意・警告を与えられるべき行為が特定できたとして、そのような行為に注意・警告を与えねばならないのか」ということである。

告発であれ注意・警告であれ、それらは結局被抑圧者の側において行うものである。それらを行いやすい環境を整えることは勿論重要であるにせよ、果たしてそうした注意・警告はわざわざ行わねばならない筋合いのものなのだろうか。それは負担や責任を被抑圧者に転嫁することにつながりはしないか、ということが慎重に問われねばならないだろう。

さらに言うならば、そもそも徹底的に糾弾すれば「セクハラの隠蔽」や「ホモソーシャルの構築」が増える(だから別の方法をとるべきだ)、という論理自体が一種の脅迫にも似た構造をとっており、被抑圧者に負担や責任を強制するものであるとも考え得る。そうであるとするならば、脅しによって相手を抑圧しコントロールしようとするかの如きアプローチに対して、c_shiikaさんの提示するものに限らず、他ならぬフェミニズムがとりうる穏当な別の道というものがおよそ存在しうるのか、という点にさえ疑問が生じないではない。

 

以上、自分なりに少し考えてみたが、特に結論があるわけではない。また、私はフェミニズムに関する知識に乏しいので 、ここまで述べたことにも誤りがあるかもしれない。何かお気づきの点があれば、ご指摘いただけると幸いです。