量刑と被害感情

以前、死刑廃止論者は自分の愛する者を殺されても死刑に反対するのかという趣旨の問いかけに対し、はてなブックマークコメントで多くの反応が寄せられているのを見かけたのだった。

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/legalnews_jp/status/582047891801317376

さまざまな意見があり、興味深く拝見していたが、その中に「事件の当事者になった段階で、その事件の量刑に意見する資格を失うのは当然」というコメントがあり*1、他にも同趣旨をいうものと思われるコメントが散見された。比較的見かける機会の多い考え方であるように思うので、今回はこうした考え方に対して説明を加えつつ、量刑と被害感情との関係について述べることにする。

 

まず端的に言って、「事件の当事者になった段階で、その事件の量刑に意見する資格を失うのは当然」であるというのは誤りだ。むしろ事件の当事者こそが、当該事件の量刑に関して影響を及ぼし得る意見を述べることができるのである。

「事件の当事者こそが、当該事件の量刑に関して影響を及ぼし得る意見を述べられる」というのは、やや抽象的で分かりにくいかもしれないので、具体的に述べよう。

時折誤解が見られるが、現在一般に、刑罰においては応報という要素が大きな割合を占めると考えられている*2。そのため、事件当事者たる被害者との示談の成否や、被害者の宥恕の有無が、量刑を左右する場合は多い。特に傷害罪等の個人的法益を保護法益とする犯罪について、法益を保護されるべき当の被害者が納得し加害者を宥恕するならば、加害者を罰する必要性が低下するというのは見やすい道理だろう。

また近年では、被害者の刑事裁判への関与を望む心情は十分に尊重されるべきであるとの見地から、一定の要件の下で、被害者が、公判期日において、意見を陳述することが、法制度上も認められている*3。この意味でも、「事件の当事者になった段階で、その事件の量刑に意見する資格を失うのは当然」ではないと言える。

以上が、「事件の当事者こそが、当該事件の量刑に関して影響を及ぼし得る意見を述べられる」という意味であり、このような形で、被害感情は量刑上考慮されることになるのである。

 

ところで、冒頭に挙げた問いかけにも見られるように、殺人事件等においては遺族の被害感情が問題とされることも多い。このことについてはどう考えるべきだろうか。

上述のところを前提とすれば、遺族の被害感情を考慮するのは当然だと思われるかもしれない。実際、有名ないわゆる永山基準においても遺族の被害感情が考慮要素として挙げられているし*4、私も、遺族自身の受けた苦痛を思えば、その被害感情を考慮することに一定の合理性はあると思う。

しかし、ここで考えてほしいのは、遺族はあくまでも遺族であって、被害者本人ではないということである。 無論、殺された被害者の遺族は多くの場合耐え難い苦痛を受けるであろう。しかしそれは「愛する者を奪われた苦痛」であって、「自らが殺された苦痛」ではない。「愛する者を奪われるのは自分自身が殺されるより辛い」とはしばしば見かける表現であるが、これは所詮レトリックであって、まさか殺された本人よりもその遺族の苦痛を重視してそれを法的に正当化しようなどという者はいないだろう。

そうだとすれば、遺族の被害感情とは、事件の直接の当事者ではない、いわば他人としての被害感情にすぎないのであるから、被害者本人のそれと同列に扱うべきではないということになる。被害者本人の被害感情は、被害者本人にしか分からない。そのことを忘れて、被害者の心情を勝手に慮り、あるいは遺族の被害感情をあまりにも重視しすぎることは、却って被害者の個人としての尊厳を損なうように、私には思えるのである。

 

以上、量刑と被害感情との関係について簡単に述べてきた。

刑罰論について、改めて考えるきっかけとなれば幸いである。

*1:はてなブックマーク - levelのブックマーク - 2015年3月30日

*2:興味のある方は、刑法総論の教科書で応報刑論と目的刑論との対立等についての解説を読まれるとよいだろう。

*3:刑事訴訟法292条の2第1項、同法316条の38第1項。

*4:最高裁判所第二小法廷昭和58年7月8日判決(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/235/050235_hanrei.pdf)参照。