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「自由には責任が伴う」

自民党稲田朋美が、集団的自衛権の問題について違憲かどうかの議論を継続することに意味がないという趣旨の発言をしたそうだ。その理屈は以下のようなものだ。

一見明白に違憲というとき以外は、日本の存立にかかる安全保障については、国会と内閣に任されていると最高裁自身が判示している。その意味からは、憲法に違反するかどうかという議論を、これ以上続けていくことには、そんなに意味が無いのかなと思う。

違憲か否かの議論継続「意味無いのかなと思う」 稲田氏:朝日新聞デジタル

私はこの発言がどのようなやりとりの中でなされたのかを承知しているわけではないので、あるいは稲田の発言について何か誤解をしているのかもしれない。しかし、どのような流れで発言がなされたにせよ、国会と内閣に任されているから違憲であるかどうかという議論を継続する意味がないなどという論理を正当化することは難しいのではないかと思う。

稲田は、一見明白に違憲というとき以外は、「日本の存立にかかる安全保障については、国会と内閣に任されていると最高裁自身が判示している」と述べる。このような判例理解が適切であるかどうかについてはあえて触れないが、仮にこのような理解が適切であるとしよう。そのとき国会と内閣に「任されている」とは、いったいどういうことなのか。

ここで、日本の存立にかかる安全保障について「任されている」以上はどのような行為に及ぼうとも自由であり、違憲かどうかを議論する必要はない、などと考えることは、まったくできない。あくまでも憲法に適合する範囲で行為がなされるべきことは、「一見明白に違憲というとき」が除外されていることから明らかであり、それは憲法99条に照らしても当然のことだ。

このことを前提とすれば、「任されている」とは、日本の存立にかかる安全保障のような高度に政治的な問題については、司法審査になじまないため、その憲法適合性についての判断が、国会や内閣に「任されている」ということであるとしか理解のしようがない。そしてそのように理解するならば、憲法適合性についての判断を「任されている」国会や内閣は、むしろ違憲であるかどうかという議論を、より丁寧に行わねばならないという結論しか導き得ないはずである。

 

かつて稲田は、吉田調書をめぐる朝日新聞の謝罪について意見を求められ、「表現の自由には責任が伴う」と答えている*1。そして言うまでもないことだが、「任される」とは、ある種の「自由」を与えられるということである。

私は「自由には責任が伴う」などという言い回しでもって自由や権利を抑圧する口実を見出そうとする動きに対して批判的な立場をとるものである。しかし、稲田が「自由には責任が伴う」と考えるのであれば、憲法適合性を判断するにあたって一定程度与えられた(と稲田が考える)「自由」に対して、「責任」を果たそうとする真摯な姿勢を見せてもらいたいものだ。