私の無力

ある記事へのブックマークコメントで、自分が生まれる前に起こった出来事について謝るということの意味について過去記事を紹介した*1ところ、id:enderukuさんより以下のようなコメントをいただいた*2

身勝手な発言だなぁ。どうせ中韓がやった事に対しては適用されないか「その国の人じゃないからコメントしない」で終わるんでしょ? 聞き飽きたよその手のは。 

はてなブックマーク - enderuku のブックマーク - 2015年8月9日

実を言うと、私はenderukuさんのいう「中韓がやった事」というのが何を指すのかよく分かっていない。しかし、enderukuさんの言わんとするところが、「日本のことは批判するのに中韓のことは批判しない」ということであるならば、それはそのとおりであろうと思う。まったく批判していないかどうかはともかくとして、私が日本国内の問題に対して批判的に言及する頻度は、中韓(には限らないのだが)の問題に対して批判的に言及する頻度に比してはるかに高い。それにはいくつか理由があり、機会があればそれぞれ説明したいと思っているが、今回は取り急ぎ私にとって最も大きな比重を占める理由についてだけ、忘れないうちに記しておく。 それは、私の力不足である。

 

抽象的な話をしても実感しにくいであろうから、先日の記事を例にとって、できるだけ具体的に説明を試みたい。なお、以下は具体性を重視するために本来ならば考慮すべき要素をいくつか切り捨てた記述になっている。

先日の記事は、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会に芦部信喜が名を連ねていたことを知り、憲法学者が予定調和の結論を導くためのいわばアリバイ作りとして利用されていること等を嘆いたものである。要するに愚痴であり、我ながらたわいない内容だと思う。

しかし、このようなたわいない記事であっても、事実に対して誠実であろうと思えば、書くにあたってそれなりの確認作業が必要になる。この記事に関して言えば、私は、記事中で摘示した各首相の参拝態様等について確認するため、図書館に赴き当時の新聞を参照している。たわいない内容に見合った程度の、たいしたことのない手間である。

では、これが中韓での出来事であればどうだろうか。当然のことながら、日本の新聞が海外の出来事のために費やす頁数は日本国内の出来事のために費やす頁数に比して圧倒的に少ない。したがって、日本の新聞を調べても報じられていない可能性は十分にあるし、仮に報じられていたとしても扱いが小さく十分な情報を得られないということもおおいに考えられる。そうすると、日本国内の出来事について日本の新聞で確認したのと同様に、中韓での出来事については中韓の新聞で確認するのが望ましいということになる。しかし、中韓の新聞は、私が利用した図書館にはない。そのうえ、私は韓国語をまったく解せず、中国語についても到底実用にたえるレベルにはない。

こうして比較すれば、国内の出来事と中韓での出来事とでは、(少なくとも私にとって)批判の前提となる事実を確認するために必要となる労力という点において、大きな差があることがお分かりいただけるのではないかと思う。そして、このような多大な労力を要する作業をこなして中韓の問題を批判するだけの能力・意欲が、私には不足している。私が中韓の問題に対して批判的に言及する頻度が低い最大の理由は、この点にある。

*1:はてなブックマーク - 今日のアレコレ - 2015年8月9日

*2:私へのIDコールは省略している。