被告人という呪縛

はじめに

先日の記事で言及した、公判手続が停止したまま長期にわたって刑事被告人の地位にとどめおかれうるという問題について。なお本記事では、刑事訴訟法を「刑訴法」と表記する。

被告人が心神喪失の状態にあるとき、刑訴法314条1項によって公判手続は停止される*1。この場合、検察官が自主的に公訴の取消し*2を行えば、裁判所は公訴棄却決定*3を行うこととなり、被告人は被告人の地位から解放される。それでは、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所は手続を打ち切ることができるのか。こうした問題についての判断を示した裁判例として、名古屋高等裁判所平成27年11月16日判決(判時2303号131頁)がある。

事案の概要と名古屋高裁判決の内容

乱暴に整理すると、本件は、男性とその孫を殺害したなどとして平成7年に公訴が提起されたものの、平成9年に被告人が心神喪失の状態にあるとして刑訴法314条1項によって公判手続が停止され、以後、公判手続が再開されることも打ち切られることもないまま十数年が経過したという事案である。

原判決*4は、被告人について訴訟能力はなくその回復の見込みもないとした。そして、訴訟能力は訴訟関係成立の基礎となる重要な訴訟条件であるところ、本件では公訴提起後にこれを欠き、「公訴提起の手続がその規定に違反したため無効」になったものとして、刑訴法338条4号を準用し、公訴棄却の判決を行った。

これに対して本判決は、現状において被告人に訴訟能力がなく、その回復の見込みもないことを認めつつ、大要以下のように述べて、本件公訴を棄却した原判決を破棄し、本件を名古屋地方裁判所に差し戻した。

  • 訴追の権限は検察官が独占的に有しており*5、検察官が公訴を取り消せば裁判所は決定で公訴を棄却することとなる。そして、親告罪における告訴の欠缺、被告人の死亡、時効の完成などの訴訟条件を欠く場合、法はそれらに応じた裁判*6をなすことを規定する一方、公判手続停止後、検察官が公訴を取り消さない場合、法は裁判所がとるべき措置についてなんら規定していない。以上のことから、検察官による公訴の取消しがないのに、裁判所が公判手続を一方的に打ち切ることは原則として許されない。
  • もっとも、いわゆる高田事件判決*7は、刑事事件が裁判所に係属している間に迅速な裁判の保障条項に反する異常な事態が生じた場合、憲法37条1項に基づいて審理を打ち切ることを認めている。そこで、憲法37条1項の趣旨に照らし、公判手続を停止した後、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であると認められるような極限的な場合には、裁判所が公判手続を打ち切ることも許される。
  • 以上をふまえて本件を見るに、①被告人は、原審の公判手続停止時には訴訟能力を有していたことがうかがわれ、平成11年から平成12年にかけて精神状態の改善も見られたものの、平成20年頃から平成24年頃にかけて精神状態が悪化が進行していったという経過が認められる。また、②本件では、原審において、当初は4か月ごと、その後は6か月ごとに勾留執行停止期間延長の申立ての当否についての審査が行われており、平成22年2月以降は、今後の進行等に関する打ち合わせがくり返し行われ、被告人の訴訟能力の回復可能性に関する審理が行われてきたのであって、長期間にわたって審理が放置されてきたような事案と同視することはできない。さらに、③本件は面識のない男性とその孫を殺害したとする凶悪重大事案であり、遺族の被害感情が峻烈であること等も考慮して検察官は公訴を取り消さないものとうかがわれる。これらの事情をあわせて考慮するならば、本件において検察官が公訴を取り消さないことは、明らかに不合理であると認められる極限的な場合にあたるとは言えない。

名古屋高裁判決の検討

わが国では、基本的には公訴を提起する権限を検察官が独占しており、しかも公訴を提起するかどうかも検察官の裁量に委ねられている(起訴便宜主義)*8。また、かかる起訴便宜主義の延長として、検察官がいったん公訴を提起した後に公訴を取り消すことも認められている*9

もっとも、こうした検察官の裁量も決して無制限に認められるものではない。刑訴法248条は、公訴を提起するか否かを判断するにあたっての考慮要素として、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況」を挙げているし、そもそも刑訴法が、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」ことを目的として掲げている*10以上、かかる目的から逸脱するような公訴提起は許されないものと言うべきである。たとえば最高裁判所昭和53年12月20日判決*11は、公訴提起にあたって、「起訴時あるいは公訴追行時における各種証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」の存在を要求しているが、検察官の公訴提起にかかる裁量が上記のような見地から制約されるものである以上、およそ嫌疑のない場合に公訴を提起することが許されないのは当然である。

以上をふまえて検討するに、本判決は、被告人に訴訟能力がなく、その回復の見込みもないことを認めている。そうすると、上記のとおり法314条1項によって公判手続は停止され、しかも回復の見込みもない以上、今後公判手続が再開され進行するということもなく、必然的に被告人が有罪判決を受けることもないものと考えられる。そのような被告人について、本判決は、迅速な裁判を保障する憲法37条1項の趣旨に照らして、公判手続を停止した後、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であるかどうかを検討し、おおむね上記①ないし③のように述べて検察官が公訴を取り消さないことは明らかに不合理とは言えないとする。このうち①は被告人が訴訟能力を欠くに至ってから必ずしも長期間が経過したわけではない旨をいうもの、②は公判手続が停止されてからも被告人の訴訟能力の回復可能性等について審理がなされており無為に放置されていたわけではない旨をいうものと思われ、いずれも迅速な裁判を受ける権利が損なわれたか否かにかかる事情である。③は前二者とはやや視点が異なり、事案が重大であり遺族の被害感情も峻烈である(ので軽々に公訴を取り消さないことにも一定の合理性がある)ことをいうものである。 

しかし、もはや有罪判決を受けることがないと考えられる者を被告人の地位にとどめおくことは、基本的に重大な不利益を不必要に課するものと評せざるを得ず、基本的人権の保障という見地からはきわめて問題がある。上記のとおり、およそ嫌疑のない場合には公訴を提起することさえ許されないことに照らせば、訴訟能力がなく、その回復の見込みもない(ために有罪判決を受けることがないと考えられる)者を被告人の地位にとどめおくことは、たとえ短期であっても、それを正当化するような特別の事情がない限り許されるものではないだろう。そうすると、①②は、迅速な裁判を受ける権利を損なっていないこと、すなわち被告人の地位へのとどめおきが不当に長期にわたっていないことをいうものにすぎないから、これらの事情だけで検察官の公訴を取り消さないとの判断に合理性を認めることはできず、他に被告人の地位へのとどめおきを正当化するような特別の事情が認められる必要がある。

それでは③は、被告人の地位へのとどめおきを正当化するような特別の事情と言えるだろうか。この点、たしかに事案の重大性は刑訴法248条*12にいう「犯罪の軽重」、被害感情は同条にいう「犯罪後の情況」として、公訴を提起するか否かを決する際の考慮要素とされている。しかし、同条の「訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」との規定ぶりからも分かるように、こうした要素は、典型的には、「軽微事案であり、被害感情も強くないから、訴追は(可能であるが)あえてしない」という形で考慮される。

  • 軽微な事案についてあえて公訴提起しないことによって訴訟経済の要請に応える
  • 公訴提起(及びその後の刑罰)によるスティグマの付与を回避する
  • 刑罰によらない早期の改善更生を図る
  • 事案が軽微で被害感情も強くないのであればそもそも処罰価値は低いのであるから、無用な公訴提起を回避する

などの見地から、十分な嫌疑と訴訟条件はあるものの、あえて公訴を提起しない裁量を検察官に認めるのが、刑訴法248条の趣旨である。そうだとすれば、訴訟能力がなく、その回復の見込みもないために有罪判決を受けることがないと考えられる者を被告人の地位にとどめおくうえで、事案の重大性や遺族の被害感情が峻烈であることは、やはりこれを正当化する特別の事情とは言えないだろう。なによりも、このような理由で有罪判決を受けることがないと考えられる者に被告人の地位へのとどめおきという重大な不利益を課するというのでは、実質的に裁判手続を経ずに刑罰を科するというに近い。

以上のとおりであってみれば、本判決の述べる①ないし③のいずれも、訴訟能力がなく、その回復の見込みもない者の被告人の地位へのとどめおきを正当化するものとは言えない。本件において検察官が公訴を取り消さないのは明らかに不合理であると考える。 

おわりに

以上、本記事では、被告人が訴訟能力を欠いて公判手続が停止され、訴訟能力回復の見込みもないときに、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所において手続を打ち切ることができるかという問題について、名古屋高等裁判所平成27年11月16日判決(判時2303号131頁)を紹介し、批判を加えてきた。本記事ではあえてふみこまなかったものの、そもそも訴訟能力がなく、その回復の見込みもない者を被告人の地位にとどめおくことが正当化できるような特別の事情など存在しうるのか、私にははなはだ疑問である。

なお、本件では上告審の弁論期日が平成28年11月28日に指定されているようだ。

精神疾患の被告の殺人事件の裁判 「打ち切り」も 最高裁が弁論期日を指定 差し戻し判決見直しか - 産経ニュース

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最高裁の判断に注目したい。

*1:なお、ここに「心神喪失の状態」とは、訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当の防御をすることのできる能力を欠く状態をいう。最決平成7年2月28日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/122/050122_hanrei.pdf)。

*2:刑訴法257条。

*3:刑訴法339条1項3号。

*4:名古屋地方裁判所岡崎支部平成26年3月20日判決(判時2222号130頁)。

*5:刑訴法247条。

*6:順に、公訴棄却判決(刑訴法338条4号)、公訴棄却決定(刑訴法339条1項4号)、免訴判決(刑訴法337条4号)。

*7:最大判昭和47年12月20日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/808/051808_hanrei.pdf)。

*8:刑訴法248条。

*9:刑訴法257条。

*10:刑訴法1条。

*11:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/226/053226_hanrei.pdf

*12:「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」

*13:リンク切れに備えてはてなブックマークページもはっておく。