「ポリコレ棒」について

このあたりからはじまる一連の記事*1*2とそれらに対する一部の反応を見て、うんざりした気分になっている。いったいいつまで「ポリコレ棒」などというばかばかしい概念は跋扈するのだろうか。この手のことばはとりあげて問題視することでかえって広まってしまう側面もあるので少し悩んだのだが、しかしやはり一度は批判しておく必要があるであろうから、「ポリコレ棒」という語を用いることによって生じ(う)る弊害について簡単にだけ記しておくことにする。それは、おおむね以下の二点である。

第一に、個別具体的な問題が軽視されがちになること。ある指摘に対して「それはポリコレ棒で殴るものだ」という類の批判(これを以下「PC批判」という。)がなされる場合、PC批判は当該指摘を勝手に抽象化してしまい、結果としてそこで問題とされている具体的事案には目を向けられないということが少なくない。たとえば、差別主義団体が街頭デモで「○○人は殺せ」などとシュプレヒコールをあげていることを厳しく指弾する言説に対して、PC批判は当該言説を「反差別」などと抽象化したうえで「声高に反差別を唱えることで物が言えなくなる」とお決まりの一般論を展開することがある。これは、本来問題とされるべき「○○人は殺せ」というシュプレヒコールから目を背け、言葉遊びに逃げ込んでいるものと評価されても仕方ないだろう。私はつねづね、ネット上の言説は具体的な事案と真摯に向き合う姿勢に欠ける傾向があるのではないかと主張してきた。PC批判はそのような傾向に拍車をかけるところがある。

第二に、主張の実質的な部分に対する評価と形式的な部分に対する評価とが混同されること。PC批判は主として主張の形式的な部分に対する否定的評価であるはずなのだが、その評価が実質的な部分まで巻き込んでしまっていることが少なくない。もともとポリティカルコレクトネスは、「建前としては正しい価値観が過剰に主張されることによって息苦しくなるのではないか」という形で問題とされた。主張の実質的な部分については正しいと同意したうえで、その主張のされようが過剰である、つまり主張の形式的な部分が誤っているとするものであったと言える。ところがPC批判は、たとえば「正義の暴走」などと主張の実質的な部分にリンクさせる形で批判を展開することがある。これは、批判として正鵠を射ていないというばかりでなく、問題の切り分けを見えづらくするという点において議論を停滞させるものとすら評しえよう。PC批判にはこのように議論の焦点を曖昧にするところがある。

なお第二の点に関連して、「正義を唱える者が不正義を行うことをより問題とするべきである」という類の主張が行われることがあるが、私はそう思わない。「主張の実質的な部分は正しいが形式的な部分が誤っている」場合と「主張の実質的な部分も形式的な部分もともに誤っている」場合とでは、非難されるべき度合いは後者の方が高いか少なくとも同程度であろうし、正しいと同意しているはずの部分についてまで難癖をつけるような物言いをするのはどう考えても生産的ではない。せいぜい「正義の暴走である」ではなく「その主張の仕方は不正義である」とでも言えば足りることだろう*3。類似の問題について過去記事ですでに言及しているので詳しくはそちらを参照してほしい。本記事では、過去記事でも引用した丸山眞男の「ある感想」という小文の一節を再び掲げるにとどめておく。これは、ネット上で「サヨク」だとか「リベラル」だと認識されている考え方*4の核心部分を端的に表現した文章だと思うので、一度は目を通していただきたい。なお、テキストは『丸山眞男セレクション』によった。引用中太字部分は原文で傍点の付されている文字である。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

およそ「進歩」の立場で行動するものは、自らのなかに深く根ざす生活なり行動様式なりの「惰性」とたたかいながら同時に社会の「惰性」とたたかうというきわめて困難な課題を背負っている。高いものをとろうとする者はとかく重心を失って姿勢がよろけがちになる。最もよろける危険のない体勢ということになれば、一番重心を低くした――つまり寝そべった姿勢に若くはない。しかし自分は初めから寝そべったままで、高いものに手をのばす者の姿勢の崩れをわらったところでそれは「批判」にはならないだろう。況んや下から足をひっぱるにおいてをや。

以上、「ポリコレ棒」という語を用いることによって生じ(う)る弊害について簡単に説明してきた。この語がこうした弊害を甘受してまで用いる必要のあるものだとは、私にはとても思われない。なにかの参考になれば幸いである。 

*1:http://pokonan.hatenablog.com/entry/2018/04/07/172318

*2:http://yuhka-uno.hatenablog.com/entry/2018/04/08/130112

*3:もっとも、PC批判が標的としている言説で、私自身がそのように感じるものはほとんどないことを念のために述べておく。

*4:私自身は必ずしもそのように認識しないのだが。