被告人は聖人ではない

レジナルド・ハドリン監督『マーシャル 法廷を変えた男』(2017年公開)を見た感想を記す。内容への言及を含む。

白人女性エリー・ストルービングを強姦したうえ殺害せんとしたとして起訴された彼女の家の黒人運転手ジョゼフ・スペルを、サム・フリードマンがサーグッド・マーシャルの助力を得ながら弁護する。自分は無実であり、犯行時刻と近い時間帯に一人で車を運転しているところを警察官に呼び止められ免許証を見せたというアリバイもあると主張するスペルの言葉を信じ、奮闘するマーシャルたち。スペルの言葉を裏づけるように、たしかに一人で運転する彼を呼び止めたという警察官も現れ、当初マーシャルらの戦いは有利に進んでいるようにも見えた。ところが裁判が進む中で、ストルービング夫人は「スペルが警察官に呼び止められた際自分も同乗していたが、彼に伏せているよう脅されこれに従っていたため警察官は気づかなかった」旨を証言し、たしかにスペルが警察官に呼び止められた際彼女は同乗していたということが明らかになる。スペルは嘘を吐いていたのだ。

後にアメリカ史上初の黒人最高裁判事となるサーグッド・マーシャルを描くが、あまり細かいことを気にせずエンターテイメントとして楽しめる法廷劇である。ただ、非常に重要な教訓も含んでいる。それは、被告人は聖人ではない、ということだ。スペルがそうであったように、前歴があったり素行が不良であったりする被告人は多い。そして、スペルのように味方である弁護士に対してさえ嘘を吐く被告人も珍しくはない。聖人でないどころか、むしろ「不良市民」とでも呼ぶべき人物の方が多いとさえ言えるかもしれない。しかし当然ながら、「不良市民」であるということと有罪であるということとはまったく別の問題である。たとえ問題を抱える人物であっても弁護人を依頼して公平な裁判を受ける権利があるし、身に覚えのない罪で罰せられたり不当に重く罰せられたりしてはならない。というよりも、そうした問題ゆえに指弾され疑われるような立場にある者のためにこそ、こうした権利等は保障されなければならない。いつだって蔑ろにされるのは、誰からも好かれるような者ではなく、嫌われ者、鼻つまみ者なのだから。「不良市民」であっても、否、「不良市民」にこそ権利保障を。それは人種も国も越えた、正義である。