「保守」するべきもの

前回は、保守主義の父バークが、啓蒙主義ないし人権思想について、あまりにも物事を単純に捉えすぎるものだとして疑義を呈していたことをお話ししました。今回は、そのバークが「保守」しようとしたものは何か、そしてそれはこんにちの社会にも残っているのか、といったことについての話をしようと思います。

バークが「保守」しようとしたもの、それはひと言でいうならば「経験」です。ここにいう「経験」とは、たとえば慣習であったり、宗教であったり、偏見であったりというような、先人たちが長い年月のうちに積み重ねてきたもののことです。

たしかに「経験」には、一見不合理と思えるような内容が含まれていることも多いでしょう。その意味で、理性によって不合理な迷妄に囚われている民衆を解放しようとする啓蒙主義からすれば、それは克服するべきものでしかないかもしれません。

しかし一方で、「経験」には、多年にわたって秩序を維持し人々の生活を成り立たせてきたという「実績」があります。そうである以上、仔細に観察するならばほとんどの場合そこにはなんらかの叡知が含まれています。そして、「人間の本性は複雑であり、社会の諸目的も考えられる限りで最も複雑」であってみれば、「経験」のうちの不合理と見える部分も、啓蒙主義ないし人権思想の一面的な見方に基づくゆきすぎを和らげる機能や、あるいはもっと別の有意義な機能を有しているのかもしれません。もちろん、単なる不合理という可能性もおおいにあるわけですが、その判定を明快に行うことができない以上、そうした部分も含めて「経験」を受けいれる方が、結局はむしろ人々の権利を実質的に保障することにつながる、というわけです。バークの言葉を引いておきましょう*1

単純な統治は、せいぜい良く言って根本的な欠陥品である。我々が社会をたった一つの観点から眺める限り、この種の単純な様式の政治体は無限に魅力的に見えよう。実際に個々の要素はそれぞれの目的に、一層複雑な機構がその複合的な目的すべての実現に適合する以上に、遥かによく適合するだろう。だが全体が不完全かつ不規則に適合する方が、一部の要素がこの上なく精密に機能する一方で、それ以外のものがこの気に入りの箇所への度を越えた配慮のために全く無視されて著しい損傷を受けるよりはむしろ望ましい。

バークはこのように、抽象的な権利をいたずらに唱えるよりも、「経験」、言い換えれば他人の叡知に敬意を払うべきだと主張しました。そうすることで、複雑な社会状況においても誤りの少ない判断が可能となり、ひいては人々の権利を実質的に保障することにもつながると考えたのです。

さて、そろそろこんにちの社会に目を移してみましょう。杉田水脈の例の文章を嚆矢として保守と目される人々が次から次へと引き起こすこのところの騒動を見れば、18世紀末にも負けないほどの偏見が、こんにちの社会においてもまかりとおっていることは分かります。しかしこうした偏見を、「保守」するべき「経験」として評価するべきなのでしょうか。

ここで留意しなければならないのは、「経験」が尊重されうるのは、啓蒙主義ないし人権思想が陥りがちな単純さ、一面性を回避する限りにおいてである、ということです。啓蒙主義ないし人権思想がときに一面的なものとなるのは、これが現実から離れた抽象的な権利、いわば机上の空論を扱うものだからです。そうであってみれば、こうした単純さを回避する点に意義を有する「経験」は、抽象的であることに対して慎重でなければなりません。

たとえば、戦前の日本において、女性への偏見は家制度と分かちがたく結びついていました。この制度の下で、女性は財産を承継する権利もないまま家に押し込められ、差別的な扱いを強いられてきました。私自身は家制度をはっきり悪だと考えていますが、 他方この制度下において、家長は女性(をはじめとする家族)を養うべきであるという圧力(=偏見)も強く、ある意味において女性(をはじめとする家族)の生活を営む権利が実質的に保障されていたということもまた否定しがたいのではないかと思います。このように、偏見が「経験」として尊重されうるとすれば、それは抽象的な考え方としてではなく、現実となんらかの形で結びついた、言うなれば地に足のついたものであることが望まれるはずです。

ところが、杉田水脈の例の文章などもそうですが、近時の保守がまきちらす数々の偏見からは、こうした現実との結びつきがきわめて希薄であるという印象を受けます。考えてみれば、これは当然のことかもしれません。地に足のついた「経験」を生み出す基盤となるのは共同体ですが、これが戦後約70年の間にほとんど消えてなくなってしまったからです。たとえば、家制度の解体によって家族の紐帯は弱められ、高度経済成長期の大量の人口移動によって農村的な地域の紐帯も断ち切られました。このような状況下において、現実から遊離した抽象的な偏見だけが未だ声高に叫ばれているのです。それが本来保守が想定していたであろう「人々の権利を実質的に保障する」ことに些かでも資するとは、私には到底思えません。

こうした現状を見ていると、私はマックス・ウェーバーがその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において述べていたことを思い出さずにはおれません*2 。資本主義はプロテスタントの禁欲の精神によって形成される。しかし、ひとたび資本主義が確立されてしまえばもはや禁欲の精神は不要となり、資本主義という鉄の檻から抜け出してしまう、というあの有名な部分です。現在はびこっているさまざまな偏見も、もとは人々の権利の実質的な保障を目的とする保守の精神によって形成されてきたものなのかもしれません。しかしいまや保守の精神は消え失せ、偏見という鉄の檻だけが残っている。そうであるならば、いったいこの鉄の檻を維持することに、何の意味があるというのでしょうか。

以上、つらつらと思うところを述べてきました。たしかに、保守の立場からなされる啓蒙主義ないし人権思想への批判には、それなりの理があるのかもしれません。また、かつては「経験」を重視する保守という立場も、あるいは選択肢としてありえたのかもしれません。しかし、今や「保守」するべき「経験」はほぼ残っていない。それは時代の流れでもありましょうし、皮肉にも保守政党を自任する自民党自身が先頭に立って推し進めてきたことでもありましょう。私などは保守的なところがあるので、その事実に一抹の寂しさも感じるのですが、いつまでも死んだ子の年を数えていることもできません。私たちは、「保守」の死骸に背を向け、独り立って歩き出すべきときなのでしょう。

世界の名著〈50〉ウェーバー (1975年)

世界の名著〈50〉ウェーバー (1975年)

 

*1:エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(上)』(岩波文庫、2000年)114頁以下。

*2:私が参照したのは、尾高邦雄責任編集『世界の名著50』(中央公論社、1975年)に収録されている梶山力、大塚久雄訳のものです。