アベ政治を許さない考

月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。

森敦『月山』*1

しかし「アベ政治を許さない」というのは不思議なフレーズです。散文的なようで、どこか詩情もある。激しているようで、懇々と諭すような穏やかさも感じられる。明快なようで、いまひとつつかみどころがない。このフレーズへの違和感を表明するエリさんの以下の記事を読み、なるほどそんなものかと思いつつ、しかし数年を経てなお人の心を波立たせるこのフレーズの奇妙な力に、私は今さらながら気づいたのでした。

「アベ政治を許さない」に感じる違和感 - 読む国会

このフレーズの妙味は、「安倍政権」ではなく 「アベ政治」と言い、「打倒」ではなく「許さない」と言った点にあります。「安倍政権」と言ってしまえば、その指し示すものは安倍政権そのものを措いて他になくなります。「打倒」も同様で、このように表現すればそれは退陣要求以外のものではなくなってしまうでしょう。ところが、「アベ政治を許さない」であれば必ずしもそうではない。「アベ政治」は、安倍政権に特徴的に見られる政治手法や、安倍におもねる自民党所属国会議員等の政治姿勢、あるいは安倍への忖度をくり返す官僚機構といった、ある種の政治体制とそれを支える多様な勢力のすべてを包含しうる語であり、「許さない」という少し曖昧な言い回しもそうした解釈を補強しています。

そしてこうしたことの結果としてもたらされるのが、 ある種の人びとの「発狂」です。「アベ政治を許さない」というフレーズは、多様な解釈が可能であるだけに、これに接する者の内奥を清かに照らし出します。もちろん、その人たちの心のうちにあるものが何かは分かりません。それは安倍政権への積極的支持であったり消極的支持であったりするでしょう。あるいは安倍政権を支持してはいないものの、これに対する批判の動きに積極的にコミットできていないという後ろ暗さかもしれません。いずれにせよ、それらの人びとは無意識のうちに、「自分はこのフレーズの攻撃対象となっている」と感じている。だからこそ、このフレーズに対しては「発狂」と表現するのがふさわしいような感情的反発が起こるのです。そのことは、たとえばこれが「安倍政権打倒」であった場合に同じような反発が生じるかどうかを考えてみれば、容易に了解可能でしょう。

また、「アベ政治を許さない」に対するお決まりの反発は「理由が示されていない」というものですが、これにも少々倒錯的なところがあります。まずはこのフレーズがデモ等のスローガンであることに注意を向けてください。以前どなたかにもお話しした記憶がありますが、デモとはつまり示威運動のことです。たとえば国会論戦などにおいて、野党からそれこそこれ以上ないほど明確に理由を示して批判が行われ、しかし与党はとりあおうとすらしない。そうしたことに対する抗議を威力を示してアピールするのが示威運動すなわちデモなのです。したがって多くの場合改めて示すまでもなくこれに先立つ議論において理由はすでに現れているし、その後の威力を示す場においてもはや理由が示されないのは自然でもある(プラカードに詳細な理由を列挙していったい誰が読むというのでしょう)。このことをよく心得ておかねばなりません。

安保法制、共謀罪、そして公文書改竄。大きなものだけを拾いあげてもすでに3つの問題にかかるデモ等において「アベ政治を許さない」というフレーズは掲げられてきましたが、これに先立って、理由を示した批判はつねに十分になされてきました。共謀罪については本ブログでもいくつか記事を書いているので、参考までに紹介しておきます。

共謀罪 カテゴリーの記事一覧 - U.G.R.R.

したがって、ある種の人びとが求める理由なるものは、このフレーズの前景をなすものとして、むしろこのフレーズよりも先に目に入っているはずなのです。ところが人びとはなぜかそのことに気づかない。あるいは応答することができないからこそ、意識的かどうかはともかくとしてそれらの理由を無視しているのでしょうか。いずれにせよ、彼らは周囲にひしめく理由に目もくれず、ひたすらデモ等において掲げるきわめて短い1フレーズに理由が盛り込まれていないことを難詰するのです。転倒したふるまいというほかないように思われます。

人びとの感情の流れに自らの望むような方向性を与えることができなければ運動としては無意味である。それはそうなのかもしれません。しかし、数年以上にわたり多くの人びとを「発狂」させ、その目を曇らせ続けてきた「アベ政治を許さない」というフレーズにはやはり力がある、と私は思うのです。

*1:引用文中の太字強調は原文で傍点が付されている箇所。