もやウィンにも分かる基本的人権の尊重

はじめに

ツイッターで、自由民主党の公式アカウントである「自民党広報」が、いわゆる憲法の三大原則を説明する漫画をアップしているのですが、「基本的人権の尊重」についての説明部分*1が少し気になったので、記事を書いておきます。

この漫画は、もやウィンというキャラクターが憲法について説明していくという流れになっています。漫画の中で、もやウィンは、「基本的人権の尊重」について次のように述べています。

「人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保障する」

「例えば、言論の自由だったり、職業選択の自由だったり、」

「つまり、法律にふれたり、人に迷惑かけない限り自由ってことで…」

うーん……という感じ。一度基礎から説明しておいた方がよいかもしれませんね。

基本的人権とは 

そもそも基本的人権は、「宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」とするポツダム宣言10項*2に由来するものです。日本国憲法においては、11条と97条にその文言が出てきます*3

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

実は、「基本的人権とはなにか」ということについては、ちょっとした争いがあります。憲法に規定されているものはすべて基本的人権なのか、という問題です。

この問題については、もやウィンの言うように「人が生まれながらにして当然に持っている権利」 が基本的人権であるとする考え方が通説です*4。こうした考え方に立つと、たとえ憲法に規定があっても刑事補償請求権(憲法40条)のようなものは基本的人権ではないということになります。もっとも、こうした議論は(一般の方にとっては)些末なことで、もやウィンがいうような表現の自由職業選択の自由基本的人権であることに全く争いはありません。

基本的人権の尊重とは「法律にふれない限り自由ってこと」なのか

さて、ここまではよいとして、問題はその次。基本的人権の尊重とは「法律にふれたり、人に迷惑かけない限り自由ってこと」なのでしょうか。

そのように考えていたと思われるのが、大日本帝国憲法です。たとえば言論(表現)の自由等について規定した大日本帝国憲法29条は以下のようなものでした。

第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

しかし、このように基本的人権の尊重を、「法律ノ範囲内ニ於テ」、つまり法律にふれない限り自由ということだと解するならば*5、法律を制定しさえすればいくらでも好き勝手に自由を狭められるということにもなりかねません。実際戦前には、治安維持法などの法律によって厳しい思想・言論の統制が行われていたことはよく知られているところです。

こうしたことへの反省から、現行憲法では「法律ノ範囲内ニ於テ」というような法律の留保は極力排されています。たとえば、表現の自由について規定した現行憲法21条は以下のようになっています。先に紹介した大日本帝国憲法29条と比べてみてください。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 

このような現行憲法下において、基本的人権の尊重はむしろ、法律によっても侵すことのできない権利の擁護という側面を強調して理解されるものとなっています。

たとえば、こんにちでも国会はさまざまな法律を制定して市民の権利を制約することができます(憲法41条)。しかし、そこで制約しようとする権利が基本的人権として憲法上の保障を受けるものである場合、制約は原則として許されません*6。「基本的人権は法律によっても侵すことができないもの」という考え方が基本にあるからです。

では、許されないにもかかわらず、無理に法律を制定して違反者を罰しようとした場合にはどうなるでしょうか。その場合、裁判において裁判所が「その法律が憲法に違反していないかどうか」を審査し(憲法81条)、違反しているとなれば、裁判所はその法律を無効(憲法98条1項)なものとして判断を下すことになります。つまり、その法律は無効なのですから、法律に違反しているとして罰せられることはありません。このようにして、基本的人権は法律による侵害から守られることになります。これが、「基本的人権の尊重」の1つの具体的なあらわれです。

以上の説明をふまえれば、基本的人権の尊重とは「法律にふれ……ない限り自由ってこと」というもやウィンの説明が必ずしも正しくないことは分かると思います。 たとえ法律にふれるとしても、その法律が基本的人権を侵害するものであるならばむしろ法律の効力の方を否定し、そのことによって基本的人権を保障する。基本的人権の尊重とはこのようなものなのです。

おわりに

以上、基本的人権の尊重について簡単に説明しました。参考になれば幸いです。

*1:https://twitter.com/jimin_koho/status/1278958536765005825

*2:国立国会図書館のウェブサイトに「憲法条文・重要文書」として掲載されているもの(なお、出典は外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊とのこと)を参照しました(https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html)。

*3:太字強調は引用者によります。以下同じ。

*4:たとえば、佐藤功日本国憲法概説(全訂第4版)』(学陽書房、1991年)132頁参照。

*5:ちなみに、これを「法律の留保」といいます。

*6:なお、ここで「原則として」と述べたのは、基本的人権の保障も絶対のものではなく、他の人権との調整を図るなど一定の場合には「公共の福祉」による制約を受けるからです。この点についてはすでに「公共の福祉とリベラル(1)」から「公共の福祉とリベラル(4)」までの記事において説明しているので、そちらを参照してください。さしあたり、(1)へのリンクはこちら

藤井聡太は強いというより凄い

藤井聡太が成し遂げたこと

藤井聡太七段の快進撃がすごいですね。

藤井七段 王位戦でも挑戦者に 棋聖戦に続きタイトル挑戦へ | NHKニュース

将棋の藤井聡太七段 「棋聖戦」連勝で最年少タイトルに王手 | NHKニュース

すごく話題になっているので、思い立って藤井聡太がこの3年ほどの間に成し遂げたことをまとめてみました。

前人未到の29連勝

まずは言うまでもなく、プロ入り早々に成し遂げた29連勝*1。無論、1年目ということもありレートの低い対戦相手が多かったという部分はありますが、仮に9割勝てる相手ばかりだったとしても29回続けて勝つのはきわめて難しいことです(確率的には5%にもみたないでしょう)。まして、連勝を続けていけば対戦相手も当然手ごわくなります。そうした中で、30年ぶりの大記録を達成したのはほとんど信じがたいことのように思えます。

朝日杯連覇

また、藤井聡太は全棋士参加棋戦である朝日杯も連覇しています*2。これも、当然ながらすごいことです。特に1度目の優勝の際は一次予選からの参加ですから、負けたら終わりのトーナメント戦で10連勝を達成する必要があります。そのような厳しい条件下で、佐藤天彦名人(当時)や羽生善治竜王(当時)といったタイトルホルダーをなぎ倒して堂々の優勝を果たしたのは、圧巻の一言です。

新人王戦優勝

新人王戦優勝の最後のチャンスを逃さなかったのも格好いいですね*3。新人王戦には「26歳以下」かつ「六段以下」という条件があるため、スピード昇段を果たした藤井聡太が参加できるのは第49期新人王戦が最後だったのですが、その最後の戦いで藤井聡太はきっちり優勝し、最年少優勝の記録を塗り替えて新人王戦を「卒業」します。やることがいちいちドラマチックです。

順位戦竜王戦での活躍

順位戦竜王戦での着実な昇級も見逃せません。名人位と竜王位はタイトルの中でも特に序列が高く*4、これらのタイトル獲得につながる順位戦竜王戦も大変重要視されているようです。このことは、たとえばNHK杯などでの棋士紹介が、「竜王戦は○組、順位戦は×級です」というような形で行われることからも分かると思います。これらの重要棋戦において、藤井聡太の取りこぼしはきわめて少ないのです。

まず順位戦では、藤井聡太はC級2組を10戦全勝で一期抜け。C級1組では9勝1敗で頭ハネを食らうも、翌期には10戦全勝で昇級を果たしています*5。C級などというと下位の棋士が在籍するところで抜けるのは容易というイメージになりがちですが、どうやらそうではないようです。C級2組は約50人中3人、C級1組は約35人中2人のみが昇級できるという熾烈な争いであり(当時)、過去にはタイトルホルダーがC級2組に在籍していたこともあったといいます。決して楽な戦いではないはずなのですが、そこをスムーズにクリアしていくのはさすがです。

竜王戦での活躍にもすさまじいものがあります。竜王戦ではまず1組から6組に分けてランキング戦(トーナメント戦)を行い、各組の成績優秀者が本戦に進出する(なお、上位の組の成績優秀者ほど本戦で有利な位置につけることができます)という仕組みになっているのですが、そのランキング戦において、藤井聡太は、6組、5組、4組、3組の4組連続優勝を果たしています。ランキング戦負けなしの20連勝です*6。本戦の方で勝ち進めていないためあまり注目されていませんが、この4組連続優勝も史上初らしく、すばらしい記録だと思います。

藤井聡太は強いというより凄い 

今回私は、調べれば調べるほど、藤井聡太がわずか3年ほどの間にこれほどのことを成し遂げたのが信じられないような気持ちになりました。

藤井聡太は強いのだから、華々しい活躍をするのは当然ではないか」

そう思う人は多いかもしれません。私自身も当初はそう思っていました。しかしどうやらそうでもなさそうなのです。

このことを説明するために、「shogidata.info」というウェブサイト*7を紹介させてください。このサイトでは、プロ棋士の強さをイロレーティングという指標で表しています。この指標では、平均的なプロ棋士のレーティングは1500とされ、レーティング差が100あると上位者の勝率は約64%となるそうです。

このサイトによれば*8、2020年7月1日時点における藤井聡太のレーティングは1976で1位。さすがの数値ではありますが、2位の豊島将之とのレート差は33にすぎず、そこまで圧倒的というわけでもありません*9。それに、そもそも彼のレーティングがここまで高くなったのは2020年になってからであって、上記のさまざまな偉業を成し遂げた時の彼は、少なくとも棋力的にはトップ層に次ぐ上位棋士の1人という程度でしかなかったように思われます。たとえば対戦相手のレーティング別に藤井聡太の勝敗を年ごとでまとめてみると、以下の表のようになります。

  2017 2018 2019 2020
1300~   6-0    1-0    2-0    0-0 
1400~  16-1    8-0    6-0    3-0 
1500~  16-1   15-2   12-0    9-1 
1600~   9-2   10-1   10-1    2-0 
1700~   6-4    8-3   13-7    5-1 
1800~   0-2    3-2    4-2    6-1 
1900~   0-0    0-0    1-2    4-0 

この表を見ればわかるように、プロ入り1年目である2017年の段階では、藤井聡太はレーティング1600台以下の相手には大きく勝ち越しているものの、レーティング1700台の相手との対戦成績は比較的拮抗しており、レーティング1800台の相手には勝てていません。上位者との対戦数が多くないため断言しにくい部分はありますが、こうしたことからすれば、プロ入り1年目の藤井聡太のレーティングは1700台半ばくらいだったのではないかと思われます。もちろんこれは高い数値ではありますが、しかし(ここに多少の上積みがあったとしてさえ)上記のような数々の偉業を達成するのに十分なほど高いとは決して言えないでしょう。

たとえば、藤井聡太が達成した29連勝の対戦相手には、レーティング1700台の棋士が5人も含まれていました。これら同格の棋士相手に5連勝するというだけでもハードルが高いことは、説明の必要すらないと思います。また、レーティングが1700台であるとすれば、同格あるいは格上の棋士がおそらく20から30人くらいは存在することになりそうですが、そんな中で全棋士参加棋戦において一次予選から勝ち上がって優勝を果たし、さらには連覇までしてしまうというのも、彼の棋力から通常想定されるラインをはるかに超えるようなアチーブメントであると言ってよいでしょう。

このように見てみるとき、私は藤井聡太に強さよりもむしろ凄さを感じずにはいられません。彼は明らかに自分の実力以上の大きな成果をあげている(ように見える)。それは、記録のかかった対局や重要な棋戦で実力を十分(あるいは十分以上)に発揮してしっかり勝ちきっているということです。そして、そんな風にここぞという場面で輝ける(自分の最高のパフォーマンスを発揮できる)のはスターにとってとても大事なことだと、私は思っています。めぐってきたチャンスを逃さず、しっかりとものにする。そのようにして得た地位や名声が、その者の実力をそれらに見合うところにまで引き上げる……スターの歩む道とは、往々にしてそういうものです。そんなスターの歩む道のど真ん中を、 藤井聡太は進んでいるように見える。その点に、私は彼の凄さを感じるのです。

今回のダブルタイトル挑戦でも、藤井聡太はめぐってきたチャンスを逃さず栄冠を勝ち取るのでしょうか。注目したいと思います。

*1:https://www.shogi.or.jp/match_news/2017/06/29.html

*2:https://www.asahi.com/articles/ASM2J513WM2JUCVL009.html

*3:https://www.asahi.com/articles/ASLBD75YDLBDPTFC00R.html

*4:https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20190611-00129656/

*5:https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20200303-00165937/

*6:https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202006200000970.html

*7:https://shogidata.info/

*8:以下、データはいずれもこのサイトのものを利用しています。

*9:この程度のレート差ならば、上位者の期待勝率はせいぜい55%程度でしょう。

裁判官の育児休業取得に関する男女格差

岩瀬達哉『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(講談社、2020年)を読みました。

裁判官も人である 良心と組織の狭間で

司法行政部門による人事システムを通じた裁判官の支配、司法と政治部門との微妙な関係、そうした中で個々の裁判官が直面する死刑や冤罪の問題……。司法に対してさまざまな角度から光をあてることで、その内幕を明らかにしようと試みる意欲作です。平賀書簡事件など憲法の教科書にも載っているようなものから、SNS投稿等を契機としてなされた岡口基一裁判官に対する戒告処分のような最近のものまで、取り扱われる話題はかなり多岐にわたっているので、どなたでもきっと興味のあるトピックを見つけられると思います。引用文献が丁寧に示されているのがすばらしいですね。

面白い話題はいろいろありましたが、裁判官の育児休業取得に関する男女格差の問題についてはちょっと考えさせられました。

同書によれば、裁判所の育児休業制度は1991年12月に制定されたものの、その後2009年11月27日までの間(まる18年間!)に育休を取得した男性裁判官はたった1人だったと言います。そのこと自体も驚きですが、2001年に育休を取得したというそのたった1人の男性裁判官に対する仕打ちがまた酷い。同書81頁より引用します。

上司の裁判長は、自分の部から男性初の育休裁判官が出ることで、管理能力を問われることを怖れたのかもしれない。嫌がらせとも思える指示を出している。育児休業の取得について次のような「上申書」を書くよう命じたのである。

「育児休暇中に周りに迷惑をかけて申し訳ありません。職務復帰後は迷惑をかけた分を取り返します」――。

それまで育休を取った女性裁判官で、このような「上申書」を書かされた人はいなかったという。そればかりか、平野が責任者として進めていた「民事執行改革プロジェクト」からも外されてしまった。

「育休で迷惑をかけて申し訳ない」との趣旨の上申書の提出を命じられ、プロジェクトからも外される……。この育休を取得した男性裁判官は、結局育休の終了とともに依願退官することを決めたそうです。

もちろん、育休の取得やそれをめぐって生じたかもしれない周囲との軋轢に関しては、一方からの言い分のみを丸呑みにするべきではなく、別の見方ができるようなところもあるのかもしれません。しかしいずれにせよ、法律によって規定されている育休を取得することで「申し訳ありません」などと謝る筋合いが全くないのはたしかでしょう。そうした感覚はたとえ20年前であっても裁判官を務めているような人物なら当然身につけているはずだと思うのですが、なぜこのような愚挙に及んだのか、全く理解に苦しみます。やはり自らのこととなると物の道理が見えなくなるものなのでしょうか。私自身も気をつけねばならないと感じました。

ちなみに、同書のいう裁判所の育児休業制度とは裁判官の育児休業に関する法律を指すものと思われますので、その法案に関する国会審議を確認してみたのですが、これもなかなかのものでした。平成3年12月16日衆議院法務委員会における泉德治*1冬柴鐵三とのやりとりを引用します。

○泉最高裁判所長官代理者

それからこの女性の裁判官の出産でございますが、昨年女性裁判官で出産いたしました者は九人でございます。過去五年間の平均をとりますと、平均八人の女性裁判官が出産をいたしております。

この育児休業法ができましたときには何人ぐらいの育児休業をとる者が予想されるかという御質問でございますけれども、平均でまいりますと、最大八人とる可能性はございます。ただ、現在女子教職員等について育児休業制度というのはできておりますが、それの取得率を見ますと、七割というふうに聞いておりますので、七割といたしますと、六人ということになります。六人から八人程度の者がとることが予想されるわけでございます。

○冬柴委員

今の人事局長の答弁は、出産した人しか請求しないというような意識で聞いていられるようですけれども、法律は、配偶者が出産したら、夫である裁判官も休業請求できるわけでありまして、今後そういうドライな裁判官、ドライと言ったらおかしいですが、法律どおりに権利を行使される方もあるかもわかりません。その可能性も考えながら、人事の配置その他裁判事務が渋滞しないように考えていってほしい、このように思います。

やりとりを見れば明らかなように、ここで泉は完全に育休を取るのが女性裁判官のみであるという前提で答弁を行っています。そしてこれを受けて冬柴は、法律上は夫である裁判官も育休取得できることを指摘したうえで、そのように法律どおりに権利を行使する者を「ドライ」と評している(さすがにすぐ後に「ドライと言ったらおかしいですが」とのエクスキューズをつけてはいますが)。

率直に言って、私はこの「ドライ」という言葉に、「人情の機微を解せず、法律の文言を盾にとって自己の利益確保に固執する者」というような、ある種否定的なニュアンスを感じました。もし法律どおりに権利行使をすることに対してそのような否定的評価を下しているのだとすれば全くもって許しがたいことですが、ともあれ、ここから読み取れるのは、「育休は女性がとるもの」という強固な思い込みにほかなりません。法案の審議にあたっている者からしてこのような意識なのですから、現場の男性裁判官が育休をとるのは、それは難しかろうと納得してしまいました。

なお、現在ではこうした状況はある程度改善されており、裁判所が公開している「育児休業取得率,配偶者出産休暇取得率,育児参加休暇取得率(平成30年度)」*2によると、平成30年度の実績では、男性裁判官の育休取得率*3は10.9%となっています。まだまだ十分とは言えないかもしれませんが、もはや上記のようなやりとりを無神経に行える時代でなくなったことはたしかでしょう。少しずつであっても、世の中が良い方向に進んでいるのは嬉しいことです。 

*1:のちに最高裁判事を務めるあの泉です。

*2:https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file4/H30ikukyu_haiguushashussan_ikujisanka.pdf

*3:当該年度中に新たに育児休業(再度の育児休業者を除く。)を取得した人数を、当該年度中に新たに育児休業の取得が可能となった職員数で除したもの。

意味のない批判をやめよう

ネット上での誹謗中傷をなんとかしないといけない、という機運が生まれつつあるようです。

ネット上の誹謗中傷、規制検討へ 与野党「ルール化必要」 木村花さん急死で - 毎日新聞

それ自体は誠に結構なことなのですが、しかし「誹謗中傷」だけに目を向けていては見落とされてしまうものがあると、私は考えています。

たとえば、この話題が注目されるきっかけとなった女子プロレスラー急死に関し、彼女を非難していたアカウントが急死のあと次々と削除されているというニュースを見かけましたが*1、そこで紹介されている非難のコメントというのは、「やめろ」「気分悪い」「消えろ」といったものでした。

率直に言ってこれらのコメントは、もちろん執拗さその他の条件にもよりますが、基本的には、刑事はおろか、民事上の不法行為にあたるとすることも少し難しいのではないかという印象です。法的な意味に限定しない広義の「誹謗中傷」にあたる可能性はあるにせよ、今回寄せられた一つ一つのコメントの悪質さはそこまででもなかった……かもしれないと、私は思っています。

しかし、当然ですが、私は「だからこんなことで死ぬ方がおかしい」と言いたいわけではありません。というより、そもそも現時点では彼女が自殺であるかどうかさえ必ずしも明らかではないですから、私は本件自体についてつっこんだ話をつもりは全くありません。そうではなく、一つ一つは大したことのないコメントであっても、それが一斉になされることによって受け手に大きな打撃を与えることはありうるのだ、と言いたいのです。

このことについては、かつて小野ほりでいさんが下記記事で分かりやすい表現をされていました。

善意で話をややこしくする”関係ないのに怒る人”の恐怖とは? - トゥギャッチ

記事内容自体に全面的に賛同するものではありませんが、「インターネットの1000回怒られシステム」という表現はなかなか秀逸だと思います。今回急死した女性プロレスラーに対して寄せられたコメントは、その悪質性がいかほどであるかはともかく、攻撃的であること自体は間違いなく、広義の「誹謗中傷」にあたる余地はあるものだったのかもしれません。しかし、仮にコメントが不必要に攻撃的でなく、内容的にも正しい全く穏当なものであったとしても、1000人から一斉になされればその打撃は大きなものとなりうるのです。「誹謗中傷」を行わないことはむろん大事ですが、ことインターネットでの発言に関しては、さらにこの「1000回怒られ」問題にどう対処するかということについても考える必要があるでしょう。

さて、それではこの「1000回怒られ」問題にはどう対処するべきなのか。このことについてはすでに何度か書いてきているのですが、基本的には「意味のない批判をやめる」ということに尽きるのだと思います。

ここで、「意味のない批判」とはいったいどのようなものでしょう。

些末な点に固執する批判?

的外れな批判?

それともその問題に関する基礎的な知識さえ備えていないような批判でしょうか?

そうではありません。これらの批判は、誤っていたり、その結果として顧みられることがなかったりするかもしれませんが、それによって批判自体に意味がないということにはなりません。たとえ内容が誤っていても、独自の視点・観点に基づく批判を提出するということは、それを乗り越える契機になるという点において、意義を有するものなのです。そして、このように考えていくならば、意味のない批判がどのようなものであるかも自ずと見えてくるでしょう。意味のない批判、それは独自の視点・観点を含まない批判――端的に言えば、(主として)「すでになされている批判」です。

最近の例で言えば、いわゆる「自粛警察」に対するブックマークコメントでの批判などは分かりやすいかもしれません。「自粛警察」に対して寄せられる非難のブックマークコメントは、理路すらない単なる誹謗中傷(これは論外なのでわざわざとりあげません)のほかは、その8割がたが「正義の暴走」 に対する懸念をさまざまに言い換えたにすぎないものだったというのが私の印象です。この(最初になされたものを除く)8割がたの非難コメントが、基本的には私のいう意味のない批判です。

すでに述べたとおり、ここでいわゆる「自粛警察」に関する話題を見て「正義の暴走」に対する懸念を抱くこと自体が正当であるかどうかは、あまり関係がありません。仮にその懸念が正当とは言えないものだったとしても、最初にそうしたコメントをつけた方については、その批判はそれまでに現れていない視点・観点を提示するものですから、意味あるものだということができるでしょう。一方、二番目以降にそうしたコメントをつけた方については、基本的には*2、すでに現れている視点・観点をくり返しているにすぎませんから、懸念が正当であるか否かにかかわらず、意味のない批判をしているということになるでしょう。そういう意味のない批判を控えることが、「1000回怒られ」を防ぐには重要なのだと思います。

もっとも、たとえすでに同旨の指摘があるとしても、自分の立場を表明しておきたい、という方もいるかもしれません。そうした方は、少なくともはてなブックマークにおいては、はてなスターを活用するという解決策をとることが考えられます。自身の主張と同旨の指摘があれば、そのコメントにスターをつけて黙って去る(無言ブックマークでもよいでしょう)。そうすれば、自身の立場を表明することもできますし、「怒られ」る側も、1000の否定的なコメントが並ぶよりは、大きな打撃を受けずに済むと思います。はてなスターの活用方法については、はてなでも必ずしも議論が深まっていないように感じられるので、この機に一考してくださればうれしいです。

以上、今後のいわゆるネット言論の進むべき道について、思うところを記しました。そもそもの問題として、すでに誰かが言っていることを大声でくり返すというのは、少々みっともない行為だと思います。そうした感覚が、広く共有されることを望みます。

【2020年5月28日追記】

けんすう(id:kensuu)さんが本記事と同じ問題意識に基づく記事を書かれていました。

誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話|けんすう

記事中でけんすうさんは対応法を思いつかないとおっしゃっていましたが、本記事は対応を考える一助になるかもしれないと感じたので、いちおうお知らせさせていただきます。たとえばけんすうさんの記事のこの部分。

投稿時に「その投稿、誹謗中傷じゃない?」と出すとかの案も見ましたが、しているのが正当性のある批判の場合、それも乗り越えて投稿されちゃいます。

「誹謗中傷じゃない?」を「もう言われてない?」に変えれば、(どれだけの効果があるかとか、やりすぎではないかといった問題はともかく、)正当性のある批判であっても乗り越えられないとは思います。

なお、この問題についてより細かく検討した拙記事として、以下のものがあります。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

よければ、こちらも参考にしていただければと思います。

*1:https://hochi.news/articles/20200523-OHT1T50198.html

*2:視点・観点を深化させるということは一応観念できるので、例外はありうるでしょう。もっとも、100字程度の短文でそれをなしとげることは、実際には相当難しいと思いますが。

文書特定のポイント

WADA/開示請求さん(以下「WADAさん」といいます)の以下の記事に接しました。

「マスクチーム」,存在せず #検察庁法改正の強行採決に反対します|WADA/開示請求|note

厚労省に対していわゆる「マスクチーム」に関する文書の開示請求を行ったが、同省から「そのような文書を作成・取得した事実はなく、実際に保有していない」との趣旨の回答があったことを報告する内容です。

これをもってWADAさんは「「マスクチーム」,存在せず」とされているわけですが、記事を読む限り、書き方が悪かったので文書が出てこなかった可能性もあるように、私には思えました(もちろん、実際にどうだったのかは分かりませんが)。WADAさんのご活動は社会的意義のあるものだと思うので、一応きちんとした文書を作成する立場にある者として、応援の意味もこめて感じたところを申し上げておきます。

WADAさんの記事にあげられている不開示決定通知書の記載を見ると、WADAさんは次のような文書についての開示請求を行ったようです。

内閣官房長官が国会で明らかにした、厚労省経産省総務省からなる「マスクチーム」なるものの実態、実際に何をやっているかが分かる、業務日誌、報告書、決裁書等の一切の文書

私がこれを見てまず思ったのは、「ちょっと趣旨がとりにくいな」ということです。

きちんとした文章で大事なのは「何を指し示しているかが特定されていること」です。逆に、特定さえされていれば名称が多少不正確でもそこまで気にはされないものです。

このような観点からすると、「マスクチーム」が正式名称なのかそうでないのかは知りませんが、仮に正式名称でないとしてもそのこと自体は致命的な問題とまでは言えないと思います。もっとも、上記記載では「マスクチーム」が何を指し示しているかがやや不明確です。「内閣官房長官が国会で明らかにした」とありますが、せめて、いつ、どこで*1、どのような発言によって明らかにしたというのか示すべきだろうと思います。該当箇所にマーカーを引いた議事録の写しを参考資料として添付してみてもよいかもしれません。

さらに、「マスクチーム」が特定されたとしても、それだけでは十分ではありません。開示請求において特定すべきは、「開示すべき文書」だからです。それでは、「開示すべき文書」はどのように特定するのか。それは大まかに言えば、「いつ、だれが作成した、どのような文書か」を明らかにすることによってです。

今回の場合、これまでに作成されたすべての文書の開示を求めても大した量にはならないですし、おそらくWADAさんもそうされるおつもりでしょうから、「いつ」はあまり問題になりません。マズいのは、「だれが作成した、どのような文書か」という部分が明らかでないことです。まず、「だれが」ということについてはそもそも記載されていません。そして、ここが一番問題だと思うのですが、「どのような文書か」ということについて、「「マスクチーム」なるものの実態、実際に何をやっているかが分かる」との記載では趣旨があまりにも不明瞭です。このような記載では何をもって「分かる」というのかがはっきりせず、たとえば「マスクチーム」の沿革や活動内容、組織図等を記載した文書を求めているように(も)読めてしまいます。このような書き方をするくらいなら、端的に「マスクチームが作成した業務日誌、報告書、決裁書等の一切の文書」くらいの記載にでもした方がよほどよいと思います(作成者をどのように設定するかには工夫の余地があるでしょうが)。

以上、本件について精査したわけではなく、思いつくままに書き散らしただけですが、本記事が少しでもお役にたち、1件でも多くの開示を受けられるよう祈ります。なんにせよ、「分かる」というのは趣旨が不明瞭になりやすいので、あまり使わない方が無難ではあると思います。

*1:単に国会というのではなく、少なくとも「衆(参)議院××委員会」くらいまで明らかにするのが望ましいでしょう。

国家は縛るし縛られる

簡単にだけ。

以下の記事に接しました。

官邸の三権分立は違っていたのね、ほんとに|Masaru Seo|note

首相官邸ホームページにある三権分立を説明する図では、内閣から国民に対して「行政」という矢印が向けられており、「内閣が行政によって、主権者である国民を縛る」ことになっている。他の図で表されているように、「国民が世論によって、内閣を縛る」のが正しく、官邸の説明は誤っている、というような内容です。

うーん……。これ、あまり筋のよくない批判なので、ほどほどにしておいた方がいいと思いますよ。まず念のために確認しておくと、憲法65条によって、「行政権は、内閣に属する」こととされています。そして周知のとおり、「行政」とは何かということについてはさまざまに議論がありますが、「法律の執行」がその重要な一内容として含まれることは間違いのないところです*1。国民はこの「法律の執行」の客体となる存在ですから、内閣から国民に対して矢印が向けられるのは別に誤っているわけではありません。ついでに言っておくと、国民に向けられた「行政」の矢印を、「国民を縛る」という意味のみに解するのもやや危ないです。福祉主義を志向する現行憲法下においては*2、(国民を縛るというだけでなく)国民への給付もまた行政の重要な役割であると言いうるからです。

さらに、もう少し根本的なところからもコメントしておきます。ひところはやった立憲主義という言葉をご存じでしょう。これは、「憲法によって国家権力を制限し人権を保障しようとする考え方」などと説明されることが多いと思います。ここで、なぜ国家権力を制限することが人権の保障につながるかというと、国家権力が人権を制約する存在だからです。立憲主義とは、国家権力が個人の人権を制約しうる(これは単に事実としてそうだというにとどまらず、そのような権限を有するということです)ことを前提として、その範囲を画する考え方なのです。したがって、国家権力(の一翼を担う内閣)が国民の人権を制約する、すなわち「国民を縛る」のはあたりまえ。われわれはそのことをふまえたうえで、国家権力による制約が度を越さないように、しっかりと監視する必要があるのです。その意味で、「国民が世論によって、内閣を縛る」という説明も、もちろん誤っているわけではありません。

*1:憲法73条1号参照。

*2:憲法25条以下参照。

勝部元気のツイートは本当に存在するのか

id:ohaoha01 さんの以下の記事に接しました。

2011年代の勝部さん - ohaoha01’s diary

私は、主としてDMを利用したクローズドな場での交流のために一応アカウントを持ってはいますが、つぶやくことはめったになく、ツイッターには詳しくありません。なので、なにか勘違いをしているのかもしれず、そうであるなら教えてほしいのですが……紹介されているツイート、見つからなくないですか?

記事では、「検索方法は @アカウント until:2011-12-31 などで調べると出てきます。」と書かれています。これは、ツイッターの検索欄に「@アカウント until:2011-12-31」を入力するという趣旨だと思うのですが、「@KTB_genki until:2011-12-31」と入力して検索してみても、紹介されているようなツイートは見つかりませんでした。念のため、グーグルでも「@KTB_genki until:2011-12-31」と入力して検索してみましたが、やはり結果は同じで、紹介されているようなツイートは見つかりませんでした。

ところが、記事へのブックマークコメントにはそんなツイート確認できないと指摘する声がまったく見当たりません。みなさん、本当に紹介されたツイートの存在を確認できたのですか? 記事中にはられた画像だけを見て調べもせず紹介されたツイートがあると軽信したとかではなく?

くりかえしますが、私はめったにツイッターを使わないので、界隈の事情には詳しくありません。したがって、槍玉にあげられている勝部元気という人のこともよく知りません。ブックマークコメントを見る限り、少なくともはてなでは全方位的にあまりよい評価をされていない人物なのかもしれません。しかしそうだとしても、してもいないツイートをねつ造して非難することが許されないのは当然です。特に記事の冒頭で紹介されている「電車の中で女の子の耳を見ただけで……」というツイートの画像については、他のものとフォントが違うようにも思われるうえ認証バッジも見当たらず、本当にこのようなツイートが存在していたのか、非常に不安に感じています。きちんとすべてのツイートの存在を確認しているという方は、せめてこのツイートについてだけでも、URLを示してください。単なる私の検索の不手際であることを願います。

なお、これも当然のことなのに誰もおっしゃっていないので念のため指摘しておきますが、仮に紹介されているツイートが存在するのだとしても、出典を確認できないような引用の仕方はきわめて不適切です。

 

【2020年5月3日9時33分追記】

まる1日以上が経過しましたが、ブログ主からのURL提示や記事の修正等はありませんでした。 普通の議論であればもう少し期間をとった方がよいのでしょうが、今回の件はURLを提示するだけでカタがつく話であって時間を要する性質のものではないですし、ことが特定個人の権利利益にかかわり誤っているなら早急に訂正する必要があると思いますので、現時点をもってひとまず「2011年代の勝部さん」はデマ・誤情報を含む記事であると判断します。また、これに伴い本記事のカテゴリを「雑記」から「デマ・誤情報」に変更します。

デマ・誤情報を含むということであれば、これを周知する必要がありますが、残念ながら当ブログには十分な発信力がありません。「2011年代の勝部さん」にブックマークした方には記事を拡散した責任がないとは言えないと思うので、ご迷惑かもしれませんが同記事をブックマークをしている方のうち名前を知っている(多くはこちらが一方的に存じあげているだけですが)幾人かにIDコールをさせていただきます。もちろん、私の検索の仕方が拙いだけで、全ツイートの存在を確認しているということであれば、URLをコメント欄ででも提示してくだされば結構です(むしろ、そうであることを望みます)。そうでないなら、周知へのご協力をお願いします。

id:zaikabou id:anmin7 id:font-da id:sadamasato id:lcwin

なお、名前を挙げた方のうち、lcwin さんについては、つい先日もやりとりをさせていただいたところなので、少しだけ苦言を呈させてください。

lcwin さんは、先日も番組を見ずに文句を言っていると放言されていましたが、今回もやはり確認をせず、無責任に記事に便乗してあてこすりめいたコメントをつけられたのでしょうか。だとすれば、本当にちょっとどうかと思いますよ。

あなたのやっていることは結局のところ、いわゆる正義を叩いているとみれば嬉々として現れて、その真偽も品位も度外視して同調の態度を示しているだけではないですか。いわゆる正義を唱える側には無謬を求めて口をふさぐ一方で、いわゆる正義を叩く側については誹謗中傷も虚偽捏造もほとんど黙認して同調するようなマネをこれからも続けていくつもりですか。それは私の感性では、あまりにも品位を欠くふるまいです。

こんにちの社会では正義叩きが一種の「正義」となってしまっており、それを半ば娯楽のように消費する手合いが掃いて捨てるほどいます(はっきり言って、今の世の中でいわゆる正義を唱えるのは、激しい攻撃に晒される可能性の高い、それなりに覚悟のいる行為です。よく言われる「手軽に他人を叩いて気持ちよくなりたいだけ」という言葉は、むしろ正義叩きにこそあてはまると思います)。自分もその一人になってしまってはいないかということを、lcwin さんには真剣に考えてほしいです。