大衆の二側面

id:greg_yamada(グレッグ山田)さんの以下の記事を読んだ。

大衆社会の病理をコンパクトかつ分かりやすく指摘した良記事であると思う。

ただ、大衆概念についてはその捉え方に多少意見があるので、以下に記しておく。

 

グレッグ山田さんのいう「グローバリズムによる平準化」は、社会的紐帯の破壊と民衆の原子化をより一層推し進め、大衆社会を揺るぎないものとした。

コーンハウザーによれば、大衆社会は、

  1. 大衆がエリートによって操作されやすい
  2. エリートが大衆の影響を受けやすい

という特徴を有する。

第一の特徴は、中間集団の解体によって民衆が原子化されたことに伴うものである。原子化され指針を失った民衆が一元的に操作される危険の増大をいう民主主義的批判はこの点に関するものである。

第二の特徴は、民主化によって民衆の政治参加が進んだことに伴うものである。少数のエリートによって担われるべき政治に民衆が参加したことによって質的低下が生じたとする貴族主義的批判はこの点に関するものである。

 

大衆社会のこうした二つの特徴をふまえれば、大衆概念についてもこれらの特徴との関連でどのように理解されるべきか、ということが探られなければならない。

第一の特徴との関連において、大衆は中間集団という指針を失った人々である。この文脈で語られるとき、大衆は帰属・指針を失ったことによって不安を感じ、逃避の傾向を示すような弱々しい存在として描かれることになる(大衆社会論においてイメージされるポピュラーな大衆像はこれであるように思われる)。

では第二の特徴との関連ではどうか。先に貴族主義的批判は大衆社会の第二の特徴に対するものであると述べた。そうだとすれば、貴族主義的批判者がどのように大衆を捉えているかを見れば、第二の特徴との関連での大衆がいかなる存在であるかが明らかになるはずである。そこで、代表的な貴族主義的批判者であるとされるオルテガによる大衆の定義を、内田樹先生の記事を引用する形で確認する。

オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」
(中略)
オルテガは「自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している。

内田樹の研究室 2006: 階層化=大衆社会の到来

オルテガ的「大衆」は、自己が他者と同一であると感じていい気持ちになるような人々であり、彼らは自己が知的に完全であると思い上がり深い満足のうちに自己閉塞している。そこに第一の特徴との関連で描かれたような弱々しい姿は見られない。それどころか、自己のあり方に完全に満足し、異質な者を排除しようとする「野蛮」で暴力的な態度が立ち現われてくるのである。これは、オルテガが科学者のような専門家層こそ大衆の典型であるとしていることからも明らかであろう。第二の特徴との関連における大衆は、自己充足と自己閉塞のうちに、他者を排除せんとする「野蛮」で暴力的な存在なのである。

 

グレッグ山田さんは、大衆を「オルテガ的大衆」として一元的に捉えているようである。しかし以上述べてきたとおり、大衆社会の第一の特徴との関連における大衆と第二の特徴との関連における大衆とでは異なる側面が強調されているのだから、大衆概念の理解に際しても、その相違が十分に留意されるべきではないだろうか。 

なお、このように大衆概念を切り分けた場合、大衆社会の第二の特徴との関連における大衆像は、他者との共通の基盤を有せず自己の領域にとどまるという意味で、丸山眞男のいわゆる「タコツボ文化・ササラ文化」に関する議論を適用することが可能ではないかと考えているのだが、この点についてはまた別の機会に論じたい。