「最後の仇討ち」と仇討ち禁止令

高野の仇討ち

赤穂と言えば四十七士の討ち入りで有名である。

ところで、「高野の仇討ち」という事件が日本最後の仇討ちとして喧伝されている*1そうだが、これもまた赤穂の人士が起こしたものらしい。

発端は1862年。当時赤穂藩では、藩主継嗣問題と藩政改革をめぐり、江戸の年寄森続之丞らと、国元の家老森主税らとが対立していた。そこに勤王派の西川升吉らが加わり、森主税とそれに与する参政村上真輔を殺してしまう(文久事件)。

ところが、勤王の名のもとに西川升吉の殺人は賞賛され、かえって被害者である森主税や村上真輔の遺族が閉門の処分を受けることになる。

事件から9年後の1871年、吟味の結果村上真輔の冤罪が確定すると、同人の子である村上行蔵らは復讐の決意を固めた。そして同年4月19日(明治4年2月30日)、村上行蔵ら7名は、復讐を懸念した藩の働きかけにより赤穂を離れ釈迦文院において森家廟所の守衛となるべく高野山中を行く西川升吉一派の西川邦治ら6名*2とこれに同行した田川岩吉の計7名を、作水峠において殺害した。これが世にいう高野の仇討ちである。

仇討ち禁止令

1872年(明治5年8月)、司法卿江藤新平が、高野の仇討ちを実行した村上行蔵ら7名に対する罪案について正院に伺いを立てている。文久事件については両者無罪となり、互いに遺恨を残さない旨の誓書まで出していることから、「復讐ノ律」を以て擬断し難く、「謀殺ノ本条」 に照らして断案を立て、上裁をあおぐという内容である。

これに対し、太政官は、翌1873年2月7日、これら7名は伺いのとおり死罪に処するべきであるが、特命を以て死一等を減ずるとするとともに、同日付で復讐禁止の布告を出している*3。高野の仇討ちが復讐禁止の布告に影響を及ぼしたであろうことがうかがえて興味深い。布告の内容は以下のとおり。

人ヲ殺スハ国家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公権ニ候処、古来ヨリ父兄ノ為ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ、右ハ至情不得止ニ出ルト雖モ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ、私義ヲ以テ公権ヲ犯ス者ニシテ固擅殺ノ罪ヲ免レス、加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ当否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲハサミ濫リニ相構害スルノ弊往々有之甚以不相済事ニ候、依之復讐禁被 仰出候条、今後不幸至親ヲ害セラルゝ者於有之ハ、事実ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候、若無其儀旧習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相当ノ罪科ニ可処候条、心得違無之様可致事

ここでは、①復讐が公権を犯すものであること、②復讐に名を借りて自らに理があるかどうかも顧みず殺人が行われる場合も多いことを理由として、仇討ちを禁じている。

①を仇討ち禁止の第一の理由として挙げている点は、現代的な法感覚からすれば、やはり物足りないと言わざるを得ないだろう。仇討ちとは畢竟、殺人行為である。殺人行為が禁止される理由は単純であって、個人の生命という法益を保護するためである。殺人を犯した者であっても、生命という法益は保護されるべきであり、厳格な手続を経たうえでこれを制約することが許される場合があるに過ぎない。上記布告からこうした理解をうかがうことはできない。生命という個人的法益の保護に対する意識が十分でない、明治という時代の限界であろう。

一方②は、犯罪事実について適正な審理を経たうえで判断するべきであることを説くものであると解される。人権の手続的保障(適正手続)の萌芽とも見うる視点であり、評価できる。

参考文献

本記事中で摘示した事実は、以下の文献によった。

赤穂市史編さん専門委員(代表者八木哲浩)編『赤穂市史 第三巻』5頁以下(宮川秀一執筆)

赤穂市史〈第3巻〉 (1985年)

赤穂市史〈第3巻〉 (1985年)

 

赤穂市史編さん専門委員(代表者八木哲浩)編『赤穂市史 第六巻』446頁以下(宮川秀一執筆)

赤穂市史〈第6巻〉 (1984年)

赤穂市史〈第6巻〉 (1984年)

 

*1:実際には最後の仇討ちとは言えないようだ。詳細は参考文献にあたられたい。

*2:西川升吉はすでに死亡。

*3:太政官布告第37号。