今月の初めごろ、韓国高官が、日本との歴史問題に関して、「100回でもわびるべき」だと述べたことが報じられた*1。
また先日は、村上春樹が、日中韓の関係について、「相手が納得するまで謝罪するべきではないか」と述べたことがとりあげられた*2。
今回は、これら「相手が納得するまで(何回でも)謝罪するべき」だとする考え方について述べたいと思う*3。
話を理解しやすくするために、個人間の問題に置き換える。
加害者が、被害者の身体を傷害し、一生残るような障害を負わせたとしよう。
このような加害者は、基本的には、刑事罰を受け、また民事上の損害賠償を行うことで、法的な責任は果たしたことになる。つまり、それ以上になんらかの法的な義務を負わされることはない 。
しかし、加害者がこうした法的責任を果たしたからといって、被害者は必ず納得し加害者を許すだろうか。また、許すべきであると言えるだろうか。
加害者によって一生をベッドの上で過ごすことになった被害者にとって、加害者が刑罰を受けようと、賠償金が支払われようと、奪われたものは決して返ってこない。法的責任を問い得るかどうかとは無関係に、被害者が加害者を許さず、怒りを抱き続けたとしても、それはむしろ自然であると言えよう。
また、このような被害者の怒りに対して、加害者が「刑に服し金を払ったのだからもう関係ない」として居直るような態度をとり、逆に「いつまで蒸し返すつもりだ」などと罵詈雑言を浴びせるようなことがあれば、その加害者の方が厳しい社会的批判にさらされるであろうことも想像に難くない。社会的にも、「被害者は、法的責任を果たした加害者を許すべきである」とは考えられていないものと言ってよいだろう。
ここにおいて、次のことが明らかになる。すなわち、罪を贖うということを考えるうえで、法的責任とは異なる観点が存在するということである。
これは、どちらが正しいかという類の話ではない。たとえ加害者であっても、無限に責任を負わせることはできない以上、法的責任を果たしたことを以て、一つの区切りとすることは必要だろう。その一方で、たとえ法的責任が果たされたとしても、それで被害者は加害者を許さねばならないわけではないし、加害者においても被害者に対する反省や謝罪の念を一切拭い去ってよいということにはならない。どちらの観点も正しく、また尊重されるべきものである。
以上のように整理すれば明らかなとおり、冒頭でとりあげた記事に見られるような「相手が納得するまで(何回でも)謝罪するべき」だとする考え方は、法的責任とは異なる観点から出るものである。ところが、わが国においてはこのことが十分に意識されておらず、謝罪の要求を法的責任の観点から受けとめ、処理しようとしている節がある。
冒頭でとりあげた韓国高官の発言を紹介する記事中で、「日本で、何度謝罪しても蒸し返されるとの不快感が強まっている」との指摘がある旨述べられていた。実際にこのような不快感があるのだとすれば、それは上記のとおり、いかなる観点から謝罪が要求されているのか(またいかなる観点からわが国は謝罪をするのか)ということが十分に意識されていないことのあらわれであるように思える。
ジャン=フランソワ・リオタール(陸井四郎・小野康男・外山和子・森田亜紀訳)『文の抗争』(法政大学出版局、1989年)の「読書の栞〔序文〕」より引用して結びに代える*4。
抗争というのは〔法廷での〕係争とは異なり、(少なくとも)二人の当事者双方の議論にひとしく適用されうる判断規則が存在しないために、公平な決着をつけることができないような争いが両者間に起こる場合のことである。一方が正当だからと言って、他方が正当でないということにはならない。にもかかわらず、係争の場合と同じように両者に対して同一の判断規則を適用し、一刀両断の決着をつけようとするならば、(少なくとも)その一方に対して、(そしてどちらの側もその規則を認めない場合には双方に対して)不当な被害を加えることになる。