日中韓の歴史問題と謝罪(2)

先日は、「相手が納得するまで(何回でも)謝罪するべき」だとする考え方が、法的責任とは異なる観点から出るものであることについて述べた。

今日は、「当時生まれてさえいなかったわたしが謝罪する必要はない」とする考え方について述べたい。こうした考え方に対しては、「謝罪を求められているのは誰か」という観点からの説明と、「われわれの社会はいかなる歴史的文脈の上に築かれたものか」という観点からの説明とがありうるので、順に記していく。

 

前者の観点からは、「謝罪を求められているのは誰か」が明確に意識されていないために、こうした考え方が生まれるのだと説明することになる。

すなわち、「当時生まれてさえいなかったわたしが謝罪する必要はない」とする考え方は、個人としての「わたし」が謝罪を求められているという前提に立つものであると思われる。しかし、その前提が誤っているということである。

改めて述べるまでもないことであるが、今日、歴史問題に関して謝罪を求められているのは特定の個人ではない。日本(あるいはその構成員としての「わたし」)である。

個人の行為として責任を問うのではなく、あるいは個人の行為として責任を問うとともに、集団の行為として責任を問うことが適切な場合がある。歴史問題としてとりあげられる諸々の場面において、判断を下し行動する主体は基本的に日本という集団であったのだから、歴史問題は、まさに日本という集団の行為について責任を問うことが適切な場合であると言える。

そして、集団としての責任を問うということは、基本的には、集団を個人とは別の独立した責任主体であると捉えることである。 したがって、その集団を構成する個人に変更があり、当時生まれてさえいなかった者が多数を占めるようになったとしても、日本の集団としての同一性は維持され、責任を免れることはできないということになる。

 

後者の観点からは、こうした考え方は、われわれが先人の功罪を否応なく受け継いでいかねばならないことを見落とすものだと説明することになる。

こちらについては詳しく述べるまでもないだろう。わが国において、「今日の日本の繁栄があるのは、戦場に散っていった者のおかげである」といった類の表現を見かける機会は多い。 こうした表現中に見られる論理が、負債についても適用されるというだけのことである。

一般に、我々は、自分たちが現在置かれた状態を、それを生み出して現在も支えている過去の原因への充分な考慮なしに眺める傾向がある。

このようなバークの指摘*1を俟つまでもなく、われわれは、自身がいかなる社会的ないし歴史的文脈の中に生きているのかということを十分に意識する必要がある。その意味で、「今日の日本の繁栄があるのは、戦場に散っていった者のおかげである」といった類の表現は、その功績を戦没者のみに帰している点で問題はあるにせよ、正しい。そしてこの表現中に見られる論理は、「繁栄」のみならず「負債」についても同様に妥当するものであると言わねばならない。

すなわち、われわれの社会は、先人の所為の積み重ねの上に成り立っている。そして、われわれの足元に積み重ねられているのは、功績ばかりではない。先人の負債も、同じように積み重ねられている。われわれは、否応なく積み重ねられた両者の上に立って生きていかねばならないのであって、その功績だけを受け継ぐことはできない、ということである。

 

以上、「当時生まれてさえいなかったわたしが謝罪する必要はない」とする考え方について、簡単に述べてきた。何かの参考になれば幸いである。

*1:エドマンド・バーク中野好之訳)『フランス革命についての省察(上)』(岩波文庫、2000年)144頁。