憲法学者の無力

閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会の名簿に芦部信喜の名があることを知った。

 

昭和50年、当時の首相三木武夫が、はじめて8月15日に靖国神社を参拝した。このとき三木は、私人として参拝することを表明し、公用車を用いず、記帳の際にも「内閣総理大臣」の肩書を付さなかった。それでも、その地位の重さに照らして公人と私人の立場を明確に区別することは困難ではないかとして、強い批判がなされた。

昭和53年、当時の首相福田赳夫が、やはり8月15日に靖国神社を参拝した。このとき福田は、私人として参拝すると表明したものの、公用車で靖国神社に訪れ、「内閣総理大臣」の肩書で記帳し、参拝には閣僚が同行した。このような参拝の形式には、事実上公人としての参拝ではないかとする強い批判があった。しかし、政府は、公用車を用いようとも、「内閣総理大臣」の肩書で記帳しようとも、閣僚が同行しようとも、私人の立場を離れるものではないと強弁し*1、あくまでも同参拝は私人としての行動であるとした。

このように、政府としては、首相の参拝はあくまでも私人としてのものであり、公人として、すなわち国務大臣としての資格で参拝することは違憲の疑いがあるとの立場をとってきた*2

ところが昭和60年、政府は従来の立場を変更した*3。当時の首相中曽根康弘は、8月15日、靖国神社への公式参拝を実施し、供花料(約3万円) を公金で支出したのだ。

この政府統一見解の変更及び中曽根の靖国神社公式参拝に先立ち、内閣官房長官の私的諮問機関として発足したのが、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会である。

同懇談会の報告書は、公式参拝違憲とする主張も付記されてはいるものの、結論としては、憲法に抵触しない形での公式参拝は可能であるから、政府はその方途を検討するべきであるとするものである*4。政府統一見解の変更にあたっても、同懇談会の報告書を参考に検討を行ったと明言されており、やはり同懇談会は、公式参拝実現のために利用されたものと評価せざるを得ないだろう。

 

もちろん、芦部自身は同懇談会において、公式参拝について慎重な意見を述べていたようであるし*5、別の学者であれば異なる結果を得られたとも思わないので、本記事は芦部を声高に批判するものではない。

そうではなく、8月15日の首相靖国参拝をめぐる議論が、既成事実の積み重ねによって、なし崩しに進められている点、そして、専門家たる憲法学者が、その合憲性に疑義を呈しているにもかかわらず、数の力でこれを抑えこみ、あまつさえ検討を尽くしたというアリバイ作りに利用される結果となってしまった点に、今日の安保法制をめぐる議論に通じる難しさを感じたので、ここに記すことで、ある種の徒労感を吐き出させていただくのである。

*1:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_4.html

*2:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_5.html

*3:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_7.html

*4:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_6.pdf

*5:なお、この問題に関する芦部の立場について、芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)156頁以下などを参照。