「普遍的な意味での被害感情」という奇妙な概念

森炎「自由刑と死刑――死刑制度肯定の立場から」(判時2266号24頁以下)を読んだ。

死刑存置論者と手続保障

表題から分かるとおり、森は死刑制度肯定の立場であり、「今日死刑制度を肯定する者が、死刑制度についてどのように考えているのか」ということが多少なりともうかがえて、興味深い内容であった。なかでも、死刑廃止論者が指摘する「冤罪のおそれ」に対して、森が以下のように明言したことは特筆に値する*1

死刑冤罪を避けるべきは当然であるとしても、そこから引き出される直接の帰結ないしは課題は、(略)裁判制度論になるはずであって、死刑制度論ではない。たとえば、死刑判決に裁判体の特別多数決や全員一致の要件を導入すべきとの提言等々である。そして、そのような手続慎重化論は、死刑肯定論者も多くは受け容れるはずなのである(私自身は「全員一致」)。

私は、以前の記事において、さしあたりわが国が目指すべきは、死刑事件における手続保障の充実である旨を述べた*2。その基盤には、「死刑存置論者も冤罪を減らす努力の必要性は認めている以上、手続保障の充実には賛成するはずであり、実現が容易だろう」との予測があったのだが、森の上記の言明は、まさにこうした予測を裏づけるものであるように思える。大変喜ばしいことであり、私としては今後も死刑事件における手続保障の充実を訴えていきたいと思う。

普遍的な意味での被害感情

死刑存置論の根拠としての被害感情とは何か

ところで、森論文では、死刑存置論の根拠の一つとされる被害感情の問題についても言及されていた。被害感情の問題については、私も以前の記事で扱ったことがあり、「被害感情を考慮することに一定の合理性はあるものの、あくまでも本人ではなくいわば他人の被害感情であることに留意するべきである」旨を述べた。ところが、森は、死刑存置論の根拠としての「被害感情」とは、個々人の生の感情としての被害感情ではないというのである。

まず、死刑存置論が根拠として被害感情を挙げるのは、制度論の次元において一般的普遍的な意味で言うものであって、個々の生の被害感情を指しているわけではない。また、制度の適用としての死刑判決の問題にしても、被害感情をそのまま裁判に反映させることを主張しているわけではない。犯罪被害者の被害感情が国民感情によって是認されることを条件ないしは前提としている(前記の存置論の根拠の①[引用者注:国民感情ないしは国民の法的確信]と②[引用者注:被害者感情の鎮静]の観点)。

(略)

言い換えれば、 存置論の主たる根拠としては、前出の①と②を合わせて、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」と言い表すのが適切である。

これはまったく驚くべき主張である。

被害感情を僭称する傲慢

死刑廃止論者であっても、森がいうところの「個々の生の被害感情」の重要性に疑義をとなえる者は(ほぼ)いない。それをどのようにケアするかという点については、被害者(遺族)への種々の援助によるべきだと考える者の方が多いだろうが、 量刑を重くすることで被害感情の鎮静化を図ることを一定程度是認している者も少なくないと思われる。ところが森は、そのような「個々の生の被害感情」は死刑存置論の根拠ではなく、被害感情が国民感情によって是認される」限りにおいて死刑存置論の根拠となりうるというのである。

私はさきほど紹介した被害感情の問題についての過去記事の中で、「被害者遺族が耐え難い苦しみを味わうであろうことは想像に難くないが、それでも究極的には被害者遺族とは被害者本人ではなく、いわば他人にすぎない。被害者本人の尊厳という観点からしても、そうしたいわば他人の被害感情の重みというものは、被害者本人のそれと比べたとき一歩を譲ることにならざるを得ないのではないか」という趣旨のことを述べた。森が主張するのは、実際には、被害者遺族ですらない、文字どおり赤の他人の、「被害者がかわいそうだから救済してやろう」という国民感情なるものが死刑存置論の根拠であり、それを「被害者感情」などと称しているということとしか思えない。そうであるならば、あまりにも傲慢ではないか。

他の死刑存置の根拠との重複

また、森自身も認めるとおり、従前の死刑存置論においては、「被害者感情」とは別に、「国民感情ないし国民の法的確信」が存置の根拠として挙げられている。そうであれば、「被害者感情」を「国民感情によって是認される」限りにおいて死刑存置論の根拠となりうるものと考えるのでは重複が生じてしまう。

この点について森は、本来は「国民感情ないし国民の法的確信」と「被害者感情の鎮静」とを「合わせて」、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」と言い表すのが適切であるとしつつ、それでは曖昧さを免れないことから、「地に足のついた議論にするために、制度の適用の次元では、あくまで具体的な犯罪被害者の被害感情を中心に論じなければならない」という。

率直に言って、この点の森の主張は理解しがたい。制度適用の次元に限らず、制度論の次元においても、死刑存置の根拠として「被害者感情」が挙げられていることは、森自身が認めているところである。仮に、「曖昧さを排するために、制度適用の次元においては、具体的な犯罪被害者の被害感情を中心に論じる必要がある」との論理を認めるとしても、この論理からは、制度論の次元において(「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」ではなく)「被害者感情」を論じる必要性・妥当性は、まったく導かれない。

加えて、森のように「被害者感情」を解するのであれば、それは「国民感情ないし国民の法的確信」に包含されることは明らかであるから、これのみを根拠として挙げればよいのであって、両者を「合わせて」、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」などという新たな概念を創出する必要性もまったくない。

そもそも、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」の曖昧さを排し、「地に足のついた議論にするために」との理由づけ自体が、きわめて奇妙である。「国民感情ないし国民の法的確信」であれ、「犯罪被害をめぐる社会的関係の総体」であれ、それらは抽象的な概念であって、本質的に「地に足のつ」かないものである。そうした抽象的な概念を、無理やり「地に足のついた」ものとするために、実際には「そのまま裁判に反映」させるわけではない「個々の生の被害感情」、つまり「具体的な犯罪被害者の被害感情」のレベルに議論を落としこむというのであれば、それはもはや一種の詐術に他ならない。

したがって、森の考える意味での「被害者感情」を、重複をいとわず死刑存置の根拠として掲げる合理的な理由は、まったく存しないように思える。

結論

以上のとおりであるから、死刑存置論の根拠としての被害感情を、「普遍的一般的な意味」でのものと捉える森の主張は、内容的に妥当でないし、死刑存置論の根拠の整理としても適切でないものと考える*3

おわりに

以上、森論文を読んで思うところを簡単に記した。

森論文のうち被害感情にかかる部分は、死刑存置論の理解に関わるものである。 私は今のところ、森独自の見解にすぎないと考えているが、存置論者(の多く)が森と同様の見解に立つというのであれば、批判の必要があると思う。この点についてご存知の方がいれば、参考文献等をご教示いただけると幸いです。

*1:本記事における引用文には、引用者において省略し、太字強調を施し、あるいは注を付した部分がある。

*2:そして、手続保障の充実に伴う費用の増大によって、死刑制度も廃止の方向へ向かうのではないかとの見込みを示した。

*3:なお、森は「存置論が被害感情を言うとき、個々の被害感情を指しているのではないことは、身寄りのない者が殺人の被害者となる場合のことを考えれば明らかである」という。しかしこのことは、死刑廃止の立場からすれば、「被害感情を過度に重視するべきでないこと」ないし「そもそも被害感情は死刑存置の根拠として不適当であること」を示すものにすぎない。