保守が人権を否定するのは自然なこと
それにしても杉田水脈が月刊誌「新潮45」に寄稿した例の文章はとんでもないものでした。ここまで酷いものが出てくると、「杉田は真の保守ではない」などと彼女を例外的な存在として処理しようとする向きもあるかもしれません。それが完全に誤りであるとは言いませんが、しかし基本的に保守とは人権を否定・軽視する勢力なのだ、という話を、今日はしようと思います。
先日内閣不信任決議案の趣旨説明で枝野幸男も述べていたように*1、保守の起源はフランス革命にまでさかのぼります。ご存知のとおり、フランス革命とは18世紀末に起きた市民革命です。絶対王政が行きづまる中、人口の9割超を占めながらも参政権を与えられていなかった第三身分(平民)を中心とする人々が蜂起して行った一連の社会変革をこう呼ぶのです。
この革命は、啓蒙主義に基づいて行われました。これは、理性によって不合理な権威や制度、慣習等を批判し、これらから民衆を解放しようとする考え方です。こうした啓蒙主義は、フランス革命の基本理念を記したフランス人権宣言の第1条に、最も端的な形で現れています。
第1条 人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、存在する。社会的差別は、共同の利益に基づいてのみ設けることができる。
身分制に代表される不合理な古い社会制度(アンシャンレジーム)を打破し、(身分の別なき)普遍的な人権を承認する。高らかに謳いあげられたこの近代的な人権思想こそが、啓蒙主義最大の果実と言ってもよいかもしれません。
ところが、こうした啓蒙主義(ないし人権思想)とこれに基づいて行われたフランス革命に対して、異議を唱える人物が現れます。それが、保守主義の父と呼ばれるエドマンド・バークです。彼がその著書『フランス革命についての省察』*2において行った啓蒙主義(ないし人権思想)への批判こそが、保守の起源なのです。
バークの批判は、ひと言で説明するならば、啓蒙主義(ないし人権思想)があまりにも物事を単純に捉えすぎている、ということでした。塞翁が馬の故事ではありませんが、よのなか何が禍となり福となるかはなかなか分からないものです。一見無駄としか思えないようなものが後々になって役に立つこともあれば、その逆もある。啓蒙主義(ないし人権思想)という現実の複雑さに目を向けぬ抽象的な理念は、なるほど美しく完全なものに見えるかもしれない。しかしこれを実際の社会に適用するとなれば、机上では想像しがたいさまざまな弊害が生じるであろう。これがバークの懸念であり、彼はこうした懸念を「彼らは万物への権利を有することで、万物を喪失する」という簡潔な言葉で見事に表現しています。そしてナポレオンの軍事独裁による挫折へと至るまでのフランス革命の経過は、彼の懸念にそれなりの正当性があったことを証明するものでした。
以上お話ししてきたとおり、保守とはその出自からして啓蒙主義ないし人権思想を(部分的にではあるにせよ)否定するものだったのです。そうであってみれば、こんにちの保守に人権を軽視する手合いが目立つのも、ある意味では自然なことと言えるのかもしれません。もちろん、保守というものを考えるのに大切なのはここから先の話で、彼らはいったい何を、なんのために「保守」しようとしたのか、そしてこんにちの社会に「保守」するべきものは残っているのか、といったあたりを検討する必要があるのですが(すでに削除されてしまいましたが、稲田朋美の「憲法教」ツイート*3とからめて論じると面白いかもしれません)、そちらに歩を進めると少し長くなりますし、もともと今日は、基本的に保守とは人権を否定・軽視する勢力であるとの話をするということでもありましたから、続きは次回ということにしていったん話を終わりたいと思います。
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