自由主義が不自由を招く?

以下の記事とそれに対する反応を読みました。

どんどん清潔になっていく東京と、タバコ・不健康・不道徳の話 - シロクマの屑籠

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この手の話題でいつもおもしろいな、と思うのは次のようなことです。すなわち、私たちの社会はまだまだ至らぬ点もあり、ときには「後退」することさえあるけれども、全体としてみれば、個人主義自由主義の進展によってムラ社会的な抑圧からは解放されてきているはずです。そうであるにもかかわらず、むしろ(昔はそうでなかったのに)今は不自由である、抑圧されている、とする声は決して少なくないし、実際そうした面もないわけではないように見える。これはなぜなのか、ということです。

もちろん理由はさまざまにあるのでしょうが、私は、個人主義自由主義こそがこんにちの不自由や抑圧を生み出している面もあるのではないかな、という気が少ししています。

たとえば、かつての農村のような地域共同体においては、かなりの程度固定されたメンバーと長期間にわたって付き合っていくことが不可欠です。そのメンバーの中には、タバコを吸う人や痰・唾を吐く人、愛想の悪い人などもいるかもしれませんが、気に食わないからといってとりかえられない以上、甘受するよりない。そしてそんなクセの強い人であっても、実際に顔を合わせて日常的に交流していれば、多少のことは気にならなくなるものです。

また、こうした共同体で付き合っていくとはつまり、水路や農道を共同して管理するといった助け合いの関係を構築し維持するということであり、そこでは当然迷惑をかけることもあればかけられることもあります。そうした関係性の中では、たとえタバコの煙を多少迷惑に感じたとしても、あまり重く捉えず相対化して受け流しやすいようにも思われるところです。

ところが時代の流れとともにこうした共同体は解体され、かわって個人主義自由主義が幅を利かせるようになりました。

そこでは気に入らない人との関係はいともたやすく断ち切られ、自分にとって居心地のよいナカマだけのコミュニティが形成されていきます。それは「いやなものに無理にかかわる必要はない」という論理で正当化され、実際そのような面もあるとは思いますが、一方で気に入らない人とは人間として接することなく切断処理を行ってしまうという面もあることは否定しがたいところでしょう。

また助け合いが不可欠でなくなり「お互いさま」 の関係がなくなったことは、自由主義の名の下にさまざまな「○○の自由(○○する権利)」を唱える風潮と結びつき、人びとはわずかな不自由の甘受、つまり「迷惑」を被ることさえ拒否するようになりました。最近の出来事では、店員の些細なふるまいに激昂して難詰するモンスタークレーマーよろしく、不規則発言で質問の機会が奪われたと大騒ぎする弁護士の登場なども、あるいはその一例と言えるかもしれません。

以上を要するに、ムラ社会的なるものが解体され個人主義自由主義が幅を利かすようになった結果、異質な人間との地に足のついた交流の機会が減少し、そのような者への寛容さが失われていったという側面があるのではないか、ということです。

もとより、こうした変化は時代の流れによるものであり避けえなかったと言えましょうし、すでに農村的な地域共同体が失われている以上、再びこうした社会を目指すことも難しいでしょう。また冒頭掲記の記事への反応で多く指摘されているところとも関連しますが、かかる共同体においては差別的関係性が所与として組み込まれていることに基づく抑圧も多く存したのであり、そのような社会の方が望ましかったともまったく思いません*1。ただ、自由の敵と目されていたムラ社会的なるものにも自由を確保するような側面があり、逆に個人主義自由主義にも抑圧を招く側面があるのだとすれば少しおもしろく感ずる、というだけの雑記です。