危害原理という信仰

はじめに

大手コンビニが成人向け雑誌の販売を取りやめるとのこと。

ファミリーマート「成人向け雑誌」の販売中止を決定 「取り扱いをやめる方針はない」から一夜明け一転 - ねとらぼ

成人向け雑誌販売 ファミリーマートも取りやめへ | NHKニュース

取りやめの理由は、おおむね「女性・子どもに安心して利用してもらえるようにする」「東京オリンピックを控え外国人からのイメージ低下を避ける」といった辺りのようです。

販売取りやめ自体については、特に思うところもありません。ただ本件からも分かるように、わが国においては、ある種の分野について、外国であれば受けいれがたいような表現をいわば「野放し」にしている面があるわけです。そうした「野放し」を当然のこととして押し通しておきながら、他方では外国、それもアメリカなど一部の国がとっている(と解しうる)にすぎない考え方を絶対的な真理であるかのように持ち出して、たとえば差別的表現なども含めたほとんどあらゆる表現を好き勝手にやらせろ、と主張するような人びとが、わが国には相当数いるように見受けられます。そうした人びとには、今回「外国人からのイメージ低下の回避」を理由の1つとして大手コンビニにおける成人向け雑誌の販売取りやめが決められたということの意味を、少し考えてもらいたいな、とは思います。

さて、別の話題を扱っていて少し間が空いてしまいましたが、表現規制に関する以下の記事の続きの話をしていきたいと思います。

表現規制とリベラル - U.G.R.R.

人権を制約する「公共の福祉」

前回は、表現規制とは表現の自由という人権(自由権)の制約に他ならない。リベラルは実質的な自由を確保するための手段をも重視するものではあるが、やはり人権の中核をなすのは自由権(国家からの自由)であり、その規制には慎重にならざるを得ないのだ、という辺りまで述べていたかと思います。

もっとも、リベラルも表現の自由をはじめとする人権の保障を絶対的なものと考えているわけではなく、一定の制約があることを認めています。そしてその制約を論じる際に出てくるのが、「公共の福祉」です。 「公共の福祉」をめぐってはさまざまな議論がなされていますが、通説的な見解は「公共の福祉」を、すべての人権に内在し人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的公平の原理であると解しており、リベラルもこうした考え方(以下、「一元的内在制約説」といいます)を支持しています。これは、以前の記事で説明しました。

公共の福祉とリベラル(1) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(2) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(3) - U.G.R.R.

公共の福祉とリベラル(4) - U.G.R.R.

一元的内在制約説から導かれる危害原理

ところで、自由権を重視する立場から一元的内在制約説に拠って素朴に考えをおしすすめていくと、表現の自由をはじめとする人権の制約について以下のような考え方にたどりつくかと思います。

「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」

これは俗に危害原理などと呼ばれているもので、ミルの『自由論』などでも提唱されている古典的な考え方です。リベラルの多くはこのような考え方をとっており、そして実はツイッターなどで「表現の自由原理主義」とでも呼ぶべき極論をふりかざしている方々も同じ考え方をとっているものと思われます。その意味で、両者の基本的な立場は共通していると評することができます。

もっとも、「表現の自由原理主義」者がおしなべて「差別的表現も表現の自由だ」などと主張するのに対して、リベラルの中には差別的表現を規制するべきだと考える人もいます。両者の差はどこから生じるのでしょうか。それは、「権利侵害があると考えるかどうか」という点です。「表現の自由原理主義」者が差別的表現(であること自体)による権利侵害などないと考えているのに対し、リベラルの中には差別的表現によって被差別者の権利が侵害されていると考える方がいる。このことから、違いが生じているのです。

最近の事例を題材に

そこで、差別的表現による権利侵害ということについて、最近の事例に即して考えてみましょう。先日、在日コリアンの中学生をブログ上で侮辱したとして、60代の男が略式命令を受けました。

中学生を匿名ブログで中傷 66歳男性に侮辱罪で略式命令

当該ブログは、「在日という悪性外来寄生生物種」というブログ記事において、在日コリアンの中学生の本名を掲載したうえで、「チョーセン・ヒトモドキ」などの表現を並べたてたといいます。こうして紹介するだけでも胸が悪くなりますが、ともあれこうした表現が差別的なものであることは明らかと言え、当該中学生の権利を侵害していることも疑う余地がありません(だからこそ侮辱罪で略式命令を受けているのです)。

しかし、仮にこのブログが在日コリアンの中学生の本名を掲載することなく、在日コリアン一般に対するものとして同じ表現を並べたてていたとしたらどうでしょうか。その場合、特定の名宛人がいない以上、侵害される権利の主体も存在しないこととなり、実務的な意味での権利侵害があるとは言えなくなります。

これを一般化すると、次のような結論になります。すなわち、「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という考え方をとったうえで、「権利」を実務上一般に用いられているような意味に解するならば、原則として*1特定の個人・団体を名指さない限り、他者への権利侵害とはならないため、差別的表現を制限することは許されない、というものです。

リベラルにとっての「不都合な真実」?

しかし率直に言って、このような結論は少々現実離れしている。ある種の人びとが好む表現を借りるならば「お花畑」的であると言わざるを得ません。たとえばわが国では、美観や静穏、性道徳の維持、あるいは電波の混信防止などを目的として表現が規制されていますが、これらを実務上一般に用いられているような意味における個人の「権利」に還元することはできません*2。そもそも、一元的内在制約説をとる代表的な論者である宮沢俊義自身が、わいせつ物頒布等を禁じる刑法175条について、以下のように述べているのです*3

わいせつ本を公刊することが禁じられるのも、それがその時代の多くの他人の人権―― decent な社会生活への権利とでもいうべきもの――を害するとされるからである 

ここでいう「decent な社会生活への権利」なるものが実務上一般に用いられているような意味における「権利」でないことは明らかでしょう。一元的内在制約説から「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という考え方を導くとしても、そこにいう「権利」はもともとかなり広く解するべきものだったのです。そして、「表現の自由原理主義」者が「権利」を実務上一般に用いられているような狭い意味で捉えているのに対し、リベラル(の一部)は広く捉えており、それによって差別的表現による権利侵害の有無についての評価が違ってくるのです。

このことを、リベラルはあまり明言しません。その理由は私にはうかがい知ることができません。人権の制約根拠となる他者の「権利」を広く解することは人権制約の可能性を開くことにもつながりうるものですから、自由権(国家からの自由)を重視するリベラルとしては公にしづらいのかもしれません。今回述べた内容は実務法曹などでも興味を持っている者しか理解していないと思われるものであり、単に「権利」の意味するところについて明確に意識していないだけかもしれません。あるいは、私が思いつかないまったく別の理由によるのかもしれません。リベラルの方からご教示いただければ幸いです。

おわりに

以上、「人権は、他者の権利を侵害する場合にのみ制限されうる」という、至るところで見かける考え方について説明してきました。この考え方にいう「権利」を実務上一般に用いられているような意味に解するならば、それはかなり現状とは距離のある過激な主張になるのだということをおさえておけば、表現規制をめぐる議論についての理解が進むのではないかと思います。

*1:あくまでも「原則として」です。

*2:長谷部恭男『憲法』(新世社、第7版、2018年)103頁以下参照。

*3:宮沢俊義憲法Ⅱ』(有斐閣、新版、1971年)231頁。