太宰メソッドを越えて
はじめに
はてなのことばに、「太宰メソッド」というものがあります。自らの個人的な好悪の感情などを「世間」や「みんな」といった大きな主語に託すことで、自分の責任は回避しつつ、発言に権威や説得力をもたせようとする手法をいい、太宰治『人間失格』の以下の一節に由来するものです*1。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
このことばは、世間に名を借りて自らの責任を回避しようとする態度を明快に指摘した面もあった一方で、「世間」というものに対する軽視を招いた面もたしかにあったのだろうと思わざるを得ません。表現規制に関する以下の記事の続きです。
規制基準の明確性と「世間」
表現規制において常に問題とされる事項の1つに、「基準の明確性」があります。
表現規制を行う場合には、規制の対象となるか否かを判断する基準が明確でなければなりません。基準が曖昧だと、人びとは自分が行おうとしている表現が規制の対象となるものかどうかを判断できないためです。またそのような曖昧さを利用して、公権力が基準を恣意的に(広く)解釈して広汎な規制を及ぼそうとするおそれがあるためでもあります。これ自体は、きわめてもっともなことです。
ただ特にネット上などでは、こうした明確性をあまりにも強く求めすぎているようにも見えます。そのことが、まさに「世間」「常識」などに対する態度に端的にあらわれているのではないか、と私は思うのです。
たとえば表現規制をめぐる問題において、「さすがにそれは常識的(世間的)に考えてダメだろう(なくすべきだ)」という趣旨のことを言うと、たちまち「世間って誰だ」「ダメかどうかは誰が判断するんだ」といったほとんど脊髄反射のような反応が返ってくるようです。「ダメだと思っているのは世間でなくお前だ」「世間に名を借りてお前の気に食わない表現を排除しようとしているだけだ」というわけです。「世間」「常識」に対する無視・軽視。まさに太宰メソッドです。
徳島市公安条例事件にみる明確性と「世間」
しかし、そのような「世間」「常識」の無視・軽視ははたして妥当なのでしょうか。この点に関連して、俗に徳島市公安条例事件と呼ばれている最高裁昭和50年9月10日大法廷判決を見てみましょう。これは、集団示威行進に参加したAが、マイクで呼びかけるなどして集団行進者に対して、蛇行進をするよう刺激を与え、もって交通秩序の維持に反する行為をするよう煽動したなどとして徳島市の集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下、「条例」といいます)3条3号、5条違反等で起訴された事件です。条例3条3号、5条を引用しておきましょう。
(遵守事項)
第3条 集団行進又は集団示威運動を行うとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。
(1) (略)
(2) (略)
(3) 交通秩序を維持すること。
(4) (略)
(罰則)
第5条 第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定による届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽動者はこれを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する。
本件では、主として「交通秩序を維持すること」という要件の明確性が問題とされました。このような一般的、抽象的な文言ではいかなるものをその内容として想定しているのか不明確であるから、罪刑法定主義を保障した憲法31条に違反し無効だというのです。この点にかかる裁判所の判断を見てみましょう*2。
しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。
最高裁判所大法廷はこのように述べたうえで、条例3条3号について、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」とし、通常の判断能力を有する一般人が具体的場合において自らのなそうとする行為がかかる禁止に抵触するかどうかを判断することはさして困難ではないとして、違憲無効の主張を退けました。
改めて指摘するまでもないでしょうが、ここにあらわれる「通常の判断能力を有する一般人」の視点こそが、「世間」あるいは「常識」的な物事の捉え方にほかなりません。刑罰法規はこれを犯す者に対して刑罰というきわめて重大な人権制約を加えるものですから、当然のことながら数ある法令の中でも最も明確性が要求されるものと言えます。そのようなものが問題となっている場面においてさえ、「世間」「常識」はこのような形であらわれているのです*3。
これに対して、上に挙げた「さすがにそれは常識的(世間的)に考えてダメだろう(なくすべきだ)」といった発言の如きものは、法ですらない、単なる私人の意見にすぎません。そもそも人権が一次的には対国家的な権利であることを考えれば、このようなものに対して殊更に規制云々と騒ぎ立てること自体がやや的外れの観もありますし、そこまで言わないにせよ、少なくとも刑罰法規よりもずっと柔軟な調整が可能でありまた求められる場面でもあることはたしかです。そうであってみれば、特にかかる例のような法規制以前の段階においては、頑なに明確性ばかりにこだわるのではなく、「世間」「常識」にも目配りをしつつ、穏当な解決を得るべく調整を試みることこそが重要であるというべきでしょう。
おわりに
以上、きわめて高い明確性が要求される刑罰法規の解釈においてすら、「世間」「常識」 といったものが考慮されていることなどについて説明してきました。われわれが社会で生きていく限り、「世間」「常識」は常に注意を払われるべき重要なものとして存在し続けるのです。その意味で、「世間」を過度に無視・軽視して、すべてを「世間ではなくお前が気に食わないだけだ」で片づけてしまう一部の主張や、その背後にあると思われる太宰メソッドは、乗り越えていくべき考え方であるように思われます。
なお言うまでもないことですが、私は個人の人権をないがしろにしているわけではありません。個人の人権は無論重要です。しかし、「世間」「常識」といったものもたしかに存在しておりやはりそれなりに重要なのです。この2つの重要なものについて、うまく折り合いをつけていかなければならないというのが私の言わんとするところであり、また宮沢のいう「decent な社会生活への権利」*4も、この趣旨を述べるものではないでしょうか。