不快を理由にした規制もありうる

ちょうどいいタイミングで以下のまとめ記事に接したので、このあたりで最近続けていた表現規制をめぐる話題について改めて要点を記しておきたいと思います。

「間接的に誰かを傷つけるかも知れない」を理由に規制すると創作物全滅の可能性。『not for me』の受容を大事に - Togetter

なお、本記事ではいつも以上に分かりやすさを優先したいと思っているので、やや不正確な表現をする場合もあります。きちんと知りたい、考えたい、批判したい、という場合には、以下の記事にあたってください。

表現規制とリベラル

危害原理という信仰

太宰メソッドを越えて

結局、表現の自由に関する極端な主張というのは、「他者の権利を侵害する場合でない限り、表現の自由を制約することは許されない」という「お花畑」的テーゼに支えられているんですよね。すでに述べたことですが。

現実には、まったくそんなことはない。美観や静穏、性道徳の維持、あるいは電波の混信防止などなど、個人の権利には還元することのできない、いわば社会的な利益のために、表現の自由は規制されています。でないと世の中まわらない。

では、「社会的な利益」とはなにか。それは突き詰めれば、世間にとって望ましい状態の確保ということになります。表現規制は、世間にとって望ましい状態を確保するためにも行われる。言い換えるならば、世間にとって望ましくない(=不快である)と判断されるものは、表現規制の対象になりうるということです。

このように言うと、必ず「世間ではなくお前が不快なのだろう」と脊髄反射で反駁してくる人がいます。そういう場合もあるでしょうが、しかし上述のとおり「世間」というものは確かにあって、実社会においても重視されています。そしてきわめて一般的な話として述べれば、ひとさまの目につく場所で性的なものを見せてまわるようなことは、世間にとって望ましくない(=不快である)とされています。刑法で公然わいせつやわいせつ物頒布等といった罪が定められていることを想起してください。

冒頭掲記のまとめ記事では、「誰かが不快、を理由に規制するならすべてを規制しなければならない」という趣旨のことをいう人が多数いました。しかしそこでは、実際には「誰かが不快」ではなく「世間が不快」なのではないか、ということこそが真に問われるべきなのです。

無論、こうした問いに対する答えは事案によって異なり、本当に「誰か(個人)の不快」にとどまるということもありえます*1。しかしそれは、まず訴えられた「不快」に対して真摯に向きあい、相手の主張をよく吟味してはじめて分かることです。そうした過程を経ないまま、すべてを「誰か(個人)の不快」に矮小化して好き勝手な表現を続けていくというのであれば、きっとそれは世間が許さないでしょう。

最後に私個人の話をしておきます。私は、5年ほど前には表現規制に対してきわめて慎重な立場でした。それは、公権力の介入に対する懐疑と規制が必要なほどの状況にはないという認識によるものでした。しかしいま、私は表現規制に対して中立的(どちらとも言えない)という立場です。それはこの5年ほどの間に、差別わいせつなんでもござれ、俺たちは好き勝手に表現を行うのだ、という一部の人たちの表現の自由に関するあまりに極端な主張を見続けてきて、これをこのまま放置してよいのか、という気持ちが芽生えてきたからにほかなりません。私のような人間が増えていくことによって、表現に対する世間の目は厳しくなっていくのでしょう。表現の自由について、ほとんど原理主義的ともいうべききわめて過激な主張をされている一部の人たちには、自分たちが表現の自由の足場を掘り崩しているのではないかということについて、一度考えてほしいと思います。

*1:そうした場合にその方の不快を軽視してよいというわけではありませんが。