規制とはなにか

前回記事で規制目的の積極・消極について話しましたが、そう言えば規制自体についてはふれなかったので、その点についてもごく簡単に言及しておこうと思います。

この「規制」という語も随分いいかげんに用いられていて、先日もid:kotobuki_84という方が「ゾーニング要求は表現規制だ」などと述べていました。

“ゾーニング要求は表現規制ではない”について(おへんじ追記)

AがBにあたるかという議論をする際には、Bの定義を示したうえでAがそれに該当するかどうかを検討するというのが基本ですが、この方は、ゾーニング要求は「原則としては表現規制だと思います」としか述べず、表現規制の定義すら示していないので、そのお考えを知ることはできません。おそらくこの方の「お気持ち」としてはそうだということなのでしょう。それはそれで好きにされればよいと思います。

しかし一般的には、規制とは、「規則を制定・適用して物事を制限すること」をいいます。そうすると、規制を行うことができるのは、規則を制定・適用する権限を有する者に限られるということになります。それ以外の者による制限は、物理的あるいは心理的圧迫等によるのであって、規則の制定・適用によるとは言えないからです。

以上をふまえて考えてみると、「ゾーニング」それ自体は、たとえば自分の店の商品陳列の仕方等を決める権限を有するコンビニなどが、一定の要件を充足する商品については他の商品と同じ棚に置かないというルール(規則)を制定し適用することで、その商品の販売方法・場所を制限するものですから、規制にあたりうると言えるでしょう (もっとも、これは「規制」ではあるかもしれませんが「法的規制」ではないので、そこはさらに別途の考慮をする必要があるでしょう)。

これに対して、「ゾーニング要求」をするのは自らゾーニングをすることのできない外部の者です。 このような者は、自らゾーニングできない、すなわち規則を制定・適用する権限を有しないのですから、仮に「ゾーニング要求」によって物事が制限されるようなことがあったとしても、それは上記のとおり規則の適用以外の要因によるものです。したがって、「ゾーニング要求」は「規則を制定・適用して物事を制限すること」という規制の定義に該当しないため、規制とは言えません。

以上のようなことは、たとえば交通犯罪厳罰化の動きなどを想起するとよく分かるのではないでしょうか。近年、交通犯罪の厳罰化が進んでいますが、この厳罰化自体は規則による制限を強化するものですから、規制(の強化)と言えますし、実際世の中でもそのように表現されることは少なくないでしょう。

一方で、こうした厳罰化は、交通事故被害者などが厳罰化(規制強化)を求めて粘り強く活動し、またそれを受けて世の中でも「交通犯罪厳罰化すべし」との声が高まった結果でもあるわけですが、こうした交通事故被害者などの活動や世の中の声を「規制(の強化)」と表現することはないはずです。それは、これらの者が交通犯罪に重罰を科すという規則を制定・適用する権限を有しないからに他なりません。

そして、このような例からも分かるように、規制を要求することは言論活動のきわめてオーソドックスな一類型です。それ自体で忌避されるようなものでは全くありません。

歪な相対主義・個人主義の影響で、こんにちの社会では他者に何かを求めるとすぐに押しつけだなんだと騒ぎ出す手合いが現れ、規制を求めること自体が悪だとでも言わんばかりの風潮があるようにさえ感じられます。しかし、当然ながら規制を求める者にも(多くの場合)それを実現する権限があるわけではなく、その意味で彼の規制を求める表現は憲法21条1項の保障を受けるべき単なる一表現にすぎないのです。そうした表現に認められる影響力があるとすれば、せいぜいそれは事実上の萎縮効果のようなものでしょうが、そのような効果は、ネットに氾濫する罵詈雑言にも同様に認められるものです(他者への侮辱や名誉毀損につながりやすいという意味で、むしろそうした罵詈雑言の方が一般的には悪質な可能性が高いとさえ言えるでしょう)*1。ある言説の規制を求めることは悪であって許されないが、ある言説をバカにすることは許されるなどというのは、とんでもない欺瞞であると言わざるを得ません。

以上、規制について簡単に説明してみました。何かの参考になれば幸いです。

*1:なお、度が過ぎる表現については、権利侵害という観点から、民事では不法行為に基づく損害賠償、刑事では侮辱罪や名誉毀損罪、あるいは威力業務妨害罪などという形で手当てがなされています。