アリストテレス、クソ食らえ

マッキノンは、ポルノ規制やセクハラ問題といった個別のイシューの背後にある理論に着目して読むと吉ですね。特に重要なのは平等論だと思います。アリストテレス以来の平等観に堂々と挑んだのは実にかっこいい。

ここにアリストテレス以来の平等観とは、「同じものは同じように、異なるものは異なるように扱う」というもの。いわゆる相対的平等です。

わが国の憲法14条1項もこの相対的平等を志向するものであり、たとえば最高裁大法廷判決昭和39年5月27日(民集18巻4号676頁)も以下のように述べています。

右各法条*1は、国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。

事柄の性質に応じて合理的な区別をすることは憲法14条1項の否定するところではない。つまり、同条項にいう「平等」は、異なるものは異なるように扱う相対的平等だということです。

マッキノンは、このような相対的平等の考え方を、むしろ不平等に加担するものだとして退けます。

私自身も相対的平等の考え方に染まっていましたからはじめてマッキノンの主張に接したときは戸惑いましたが、しかし言われてみればたしかに一理あるように思われます。

たとえば、わが国の強制性交等罪(刑法177条)を想起してください。

(強制性交等)

177条 十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、肛門性交又は口腔性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

 強制性交等罪とは一昔前には強姦罪と呼ばれていたもののことですが、ご覧のとおりこれが認められるためには暴行・脅迫が用いられていなければなりません。しかもここにいう暴行・脅迫は、相手の反抗を著しく困難にする程度のものであることが要求されており*2、きわめて高いハードルとなっています。

もっとも、この厳しい要件は男女どちらに対しても同じように課されます。そしてまた、強制性交等罪の構成要件について男女で差を設ける合理的な理由は一応存しないと言ってよいでしょう。したがって、これは「同じものを同じように」扱っている、すなわち相対的平等に適うものとひとまずは考えることができそうです。

ところで、強制性交等罪のこのような高いハードルは、いったいどのような結果をもたらすでしょうか。このことを考えるために、平成30年版の犯罪白書を見てみましょう。 白書によると、平成29年における強制性交等罪の認知件数は1109件。うち、被害者が女性のものは1094件です*3。つまり、認知されたほぼすべての事件において、被害者は女性なのです。

きわめて厳しい構成要件、そして100パーセント近い総被害者数に占める女性の割合。これらの事実からは、次のような結果が導かれるのではないでしょうか。すなわち、平等の美名の下、強制性交等罪が両性に対して等しくきわめて厳しい構成要件を突きつけたことにより、(ほぼ)女性だけが被害を訴えても強制性交等罪で犯人を罰してもらうことができず、泣き寝入りするしかない状況におかれるという結果です。

そしてマッキノンは、こうした平等の名に隠れた不平等が、たまたま生じたものだとは決して考えません。平等の名の下で、女性だけが不平等を強いられるのは必然なのです。なぜなら、法律は男性が作ったものだから。

このことは、フェミニズムの歴史をひもとけば分かりやすいでしょう。まず第一波フェミニズムが公私二元論を前提として公的世界での平等から求め始めたことでも明らかなように、長く女性には公、すなわち政治(そこには当然立法も含まれます)への参加が認められませんでした。国政への女性の参加が認められるようになってから、アメリカでようやく100年、日本では75年程度にすぎません。

無論、第二波フェミニズムが明らかにしたように、建前上女性が政治参加できるようになったとしても、それによって直ちに女性が政治に影響を及ぼせるわけでは全くないのですが、しかしこと法律に関してはそのようなことを考慮する必要すら(あまり)ありません。なぜなら、多くの法律(少なくともその基本的枠組み)は、女性の政治参加が認められる以前の時代に、文字通り男性によって作られたものだからです。

そして、男性によって作られた法律は、見かけのうえで平等に見えても、多くの場合男性にとって都合の良いものになっています。先ほど挙げた強制性交等罪のように。これは私なりの理解で言うならば、次のような理屈だと思います。すなわち、「同じものを同じように扱う」という場合、「同じように」の基準となる取扱いが必要となります。そして、この基準となる取扱いを男性がすでに独占的に決定してしまっている結果、たとえ「同じように」扱われたとしても、基準自体が「男性目線」の独りよがりなものであるために女性は不利益をこうむる、というわけです。

こうしてマッキノンは、相対的平等がむしろ不平等に加担しかねないものだと喝破します。深い洞察だと思います。

 

純粋に法的に考えるならば、マッキノンが相対的平等への疑義を呈する際に挙げる例の大部分は、立法不作為の問題などに位置づけるべきものだと思います――なお、そのように位置づけた場合には、これを違法とすることはきわめて難しくなります。たとえば日本の場合、立法の内容や立法不作為が国賠法上違法の評価を受けるのは、「国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や、国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり、それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合など」の例外的な場合に限られるとされています*4。マッキノンもそれが分かっているから立法不作為の問題とはしなかったのかもしれません――ので、私はマッキノンに全面的に賛同するわけではありません。それでも、上述のようなマッキノンの洞察は、無神経にも「男性目線」を当然の前提としてものを考えがちな現代社会に対する痛烈な批判として、きわめて価値あるもののように思えます。

参考文献

キャサリン・マッキノン著/森田成也、中里見博、武田万里子訳『女の生、男の法(上)』(2011年、岩波書店

*1:憲法14条1項および地方公務員法13条(引用者注)。

*2:最判昭和24年5月10日(刑集3巻6号711頁)。

*3:http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/65/nfm/n65_2_6_1_1_0.html#h6-1-1-02

*4:最大判平成17年9月14日(民集59巻7号2087頁)。