裁判官の育児休業取得に関する男女格差

岩瀬達哉『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』(講談社、2020年)を読みました。

裁判官も人である 良心と組織の狭間で

司法行政部門による人事システムを通じた裁判官の支配、司法と政治部門との微妙な関係、そうした中で個々の裁判官が直面する死刑や冤罪の問題……。司法に対してさまざまな角度から光をあてることで、その内幕を明らかにしようと試みる意欲作です。平賀書簡事件など憲法の教科書にも載っているようなものから、SNS投稿等を契機としてなされた岡口基一裁判官に対する戒告処分のような最近のものまで、取り扱われる話題はかなり多岐にわたっているので、どなたでもきっと興味のあるトピックを見つけられると思います。引用文献が丁寧に示されているのがすばらしいですね。

面白い話題はいろいろありましたが、裁判官の育児休業取得に関する男女格差の問題についてはちょっと考えさせられました。

同書によれば、裁判所の育児休業制度は1991年12月に制定されたものの、その後2009年11月27日までの間(まる18年間!)に育休を取得した男性裁判官はたった1人だったと言います。そのこと自体も驚きですが、2001年に育休を取得したというそのたった1人の男性裁判官に対する仕打ちがまた酷い。同書81頁より引用します。

上司の裁判長は、自分の部から男性初の育休裁判官が出ることで、管理能力を問われることを怖れたのかもしれない。嫌がらせとも思える指示を出している。育児休業の取得について次のような「上申書」を書くよう命じたのである。

「育児休暇中に周りに迷惑をかけて申し訳ありません。職務復帰後は迷惑をかけた分を取り返します」――。

それまで育休を取った女性裁判官で、このような「上申書」を書かされた人はいなかったという。そればかりか、平野が責任者として進めていた「民事執行改革プロジェクト」からも外されてしまった。

「育休で迷惑をかけて申し訳ない」との趣旨の上申書の提出を命じられ、プロジェクトからも外される……。この育休を取得した男性裁判官は、結局育休の終了とともに依願退官することを決めたそうです。

もちろん、育休の取得やそれをめぐって生じたかもしれない周囲との軋轢に関しては、一方からの言い分のみを丸呑みにするべきではなく、別の見方ができるようなところもあるのかもしれません。しかしいずれにせよ、法律によって規定されている育休を取得することで「申し訳ありません」などと謝る筋合いが全くないのはたしかでしょう。そうした感覚はたとえ20年前であっても裁判官を務めているような人物なら当然身につけているはずだと思うのですが、なぜこのような愚挙に及んだのか、全く理解に苦しみます。やはり自らのこととなると物の道理が見えなくなるものなのでしょうか。私自身も気をつけねばならないと感じました。

ちなみに、同書のいう裁判所の育児休業制度とは裁判官の育児休業に関する法律を指すものと思われますので、その法案に関する国会審議を確認してみたのですが、これもなかなかのものでした。平成3年12月16日衆議院法務委員会における泉德治*1冬柴鐵三とのやりとりを引用します。

○泉最高裁判所長官代理者

それからこの女性の裁判官の出産でございますが、昨年女性裁判官で出産いたしました者は九人でございます。過去五年間の平均をとりますと、平均八人の女性裁判官が出産をいたしております。

この育児休業法ができましたときには何人ぐらいの育児休業をとる者が予想されるかという御質問でございますけれども、平均でまいりますと、最大八人とる可能性はございます。ただ、現在女子教職員等について育児休業制度というのはできておりますが、それの取得率を見ますと、七割というふうに聞いておりますので、七割といたしますと、六人ということになります。六人から八人程度の者がとることが予想されるわけでございます。

○冬柴委員

今の人事局長の答弁は、出産した人しか請求しないというような意識で聞いていられるようですけれども、法律は、配偶者が出産したら、夫である裁判官も休業請求できるわけでありまして、今後そういうドライな裁判官、ドライと言ったらおかしいですが、法律どおりに権利を行使される方もあるかもわかりません。その可能性も考えながら、人事の配置その他裁判事務が渋滞しないように考えていってほしい、このように思います。

やりとりを見れば明らかなように、ここで泉は完全に育休を取るのが女性裁判官のみであるという前提で答弁を行っています。そしてこれを受けて冬柴は、法律上は夫である裁判官も育休取得できることを指摘したうえで、そのように法律どおりに権利を行使する者を「ドライ」と評している(さすがにすぐ後に「ドライと言ったらおかしいですが」とのエクスキューズをつけてはいますが)。

率直に言って、私はこの「ドライ」という言葉に、「人情の機微を解せず、法律の文言を盾にとって自己の利益確保に固執する者」というような、ある種否定的なニュアンスを感じました。もし法律どおりに権利行使をすることに対してそのような否定的評価を下しているのだとすれば全くもって許しがたいことですが、ともあれ、ここから読み取れるのは、「育休は女性がとるもの」という強固な思い込みにほかなりません。法案の審議にあたっている者からしてこのような意識なのですから、現場の男性裁判官が育休をとるのは、それは難しかろうと納得してしまいました。

なお、現在ではこうした状況はある程度改善されており、裁判所が公開している「育児休業取得率,配偶者出産休暇取得率,育児参加休暇取得率(平成30年度)」*2によると、平成30年度の実績では、男性裁判官の育休取得率*3は10.9%となっています。まだまだ十分とは言えないかもしれませんが、もはや上記のようなやりとりを無神経に行える時代でなくなったことはたしかでしょう。少しずつであっても、世の中が良い方向に進んでいるのは嬉しいことです。 

*1:のちに最高裁判事を務めるあの泉です。

*2:https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file4/H30ikukyu_haiguushashussan_ikujisanka.pdf

*3:当該年度中に新たに育児休業(再度の育児休業者を除く。)を取得した人数を、当該年度中に新たに育児休業の取得が可能となった職員数で除したもの。