だからもっと「障害者」の顔をしろ

シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下の記事を読みました。

「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス - シロクマの屑籠

昭和時代に比して「大人の発達障害」の職域は狭められているのではないか。その理由は何か 、といったことなどを考える内容です。
「大人の発達障害」の職域は狭められている、というのがシロクマさんの気のせいである可能性は留保したうえで、仮にそれが事実であった場合に私の思うところを記しておこうと思います。

大前提として、われわれの社会では、たとえば「健康で文化的な最低限度の生活」というような、その人の死活にかかわるようなラインについては、絶対に守られることになっています。動きがトロくても性格に難があってもまともに人と接することができなくてもそのラインはいわば権利として保障される。まずはこのことを確認しておく必要があるでしょう。

で、シロクマさんがおっしゃっているのは、このラインの向こう側のことですよね。
「職場や家庭に居場所がほしいよう」
「誰もボクを受けいれてくれない」
この手の繰り言は、いわば権利としての保障が尽きた先の地平に属するものです。そこでは基本的に、各人の「自由」が最大限に尊重されます。気に食わないものを拒絶することができる一方で、当然自らが拒絶されることもあります。

そのような地平において「居場所を得られる」のはどのような人でしょうか。キビキビ動ける人、性格のよい人、コミュニケーション能力のある人は付き合っていて気持ちがよいので、容易に「居場所を得られる」ことが多いでしょう。ではその逆の人たちは? 付き合うも付き合わないも「自由」であるなら、あえてそうした人たちと付き合いたいと思うでしょうか。答えは明白だと思います。

そうした「逆の人たち」にもかつては居場所があったというなら、それは少なくとも彼らがコミュニティの一員であろうとはしたからでしょう。そしてコミュニティへの加入やその結束の強化は、フォーマルな関係から離れたところで行われるものです。
陳腐な例ですが、いわゆる飲みニケーションや社内行事などへの参加圧力は、かつては今よりもずっと強かったでしょう。そうした場へ連れ出されることは、「逆の人たち」にとって負担だったかもしれません。しかし一方で、そうした場への参加によって彼らもコミュニティの一員(であろうとはしている)と見なされ、居場所を与えられたという側面は間違いなくあったのだと思います。

その意味では、「逆の人たち」に居場所のない現状は、彼ら自身が生み出しているところもあるんですよね。
インターネットを見渡すと、ASDADHDを自称している人あるいはコミュニケーション能力に課題を抱えている感じの人が、常軌を逸したほとんど狂信的な仕方で「自由」を主張している例はとても多い*1。そのことについてはこれまでもくり返しふれてきたので改めて述べませんが、彼らにかかれば飲みニケーションや社内行事は「同調圧力」として切り捨てられ、社会常識の説諭は「正義の押しつけ」として糾弾されるでしょう。
そうした彼らのふるまいが誤りであるとは言いません。少なくとも現時点においてそうしたふるまいが実際に「自由」であることは多いでしょう。しかし、いわば「お荷物」のくせに人間関係の構築も価値観のすり合わせも拒むような人間を受けいれないのも、またコミュニティ側の「自由」です。
気持ちは分からないでもないのです。コミュニケーションの苦手な彼らが、コミュニケーションからの逃走を正当化するために「自由」を主張する。おそらくはそういうことなのでしょう。しかし、それは彼らをますます孤立させることにしかなりません。結局、「自由」を主張することで最もわりを食う人たちが最も声高に「自由」を主張しているわけで、哀れと言えば哀れではあります。また、「正義の暴走」「お気持ちを押しつけるな」式の論陣を張って、彼らの社会的孤立を煽り立てるシロクマさんのような論者は罪深いな、と感じるところでもあります。

私自身はこうした「自由」を盲目的に信奉するような態度は省みるべきところがあるとくり返し述べていますが、ほぼ取り合われないばかりか、罵詈雑言を投げつけられることも珍しくないですからね……。
ま、他人の考えを変えることはできません。圧倒的優位を誇る「自由」教を前に、私のような泡沫ブログの運営者など無力なものです。「そのへんどうなんですか」*2と問われても、「そう思うなら、まずはシロクマさんのような方が自身の主張を省みるのが効果的では」と申し上げるよりありません。あとは、「自由」ドグマに殉じるという方に対し、こう述べてシロクマさんも指摘する診断・治療の道を歩む可能性についての自覚を促すくらいですかね。

もっと「障害者」の顔をしろ、と。

*1:念のために述べておきますが、基本的には「自由」が重要であること自体に疑義を呈するものではありません。

*2:冒頭掲記のシロクマさんの記事より引用。