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安倍首相の「靖国参拝」観

雑記

新しい国の靖国参拝

 安倍晋三『新しい国へ  美しい国へ 完全版』(文春新書、2013年)を読んだ。

新しい国へ 美しい国へ 完全版 (文春新書 903)

新しい国へ 美しい国へ 完全版 (文春新書 903)

 

うまい表現が見つからないが、なんというかすごい本だ。

安倍の物の見方が分かるという点では意味があるのかもしれない。

あまり詳しく触れる気にもならないのだが、靖国参拝問題に関する記述についてだけ、簡単に批判しておきたい。安倍は同書の中で以下のように述べる。

靖国問題というと、いまでは中国との外交問題であるかのように思われているが、これはそもそもが国内における政教分離の問題であった。いわゆる「津地鎮祭訴訟」の最高裁判決(一九七七年)で、「社会の慣習にしたがった儀礼が目的ならば宗教的活動とみなさない」という合憲の判断が下されて以来、参拝自体は合憲と解釈されているといってよい。首相の靖国参拝をめぐって過去にいくつかの国賠訴訟が提起されているが、いずれも原告敗訴で終わっている。(同書70頁以下)

あまりにもミスリーディングで、不誠実な書き方である。「参拝自体は合憲と解釈されている」とする点については、もはや誤りに近いものであると考える。

津地鎮祭事件

まず、津地鎮祭事件は、市体育館の起工式が、建設現場において、神式に則って行われ、市がその費用7663円を支出したことが問題となったものである。この事件においては、最高裁で、結論として当該起工式は憲法20条3項等に反しないとの判断が示された*1が、起工式と総理の靖国参拝とはまったく事案が異なるので、当然同判決を以て直ちに総理の靖国参拝憲法に反しないということにはならない。

もっとも、同判決は、政教分離原則について、「国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである」としたうえで、憲法20条3項が禁止する「宗教的活動」に該当するか否かを判断するための基準として、いわゆる目的効果基準を提示している。安倍は簡略化した形で紹介しているが、正確には以下のようなものである。

ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。

そして、このような基準に照らしてある行為が憲法20条3項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを検討するにあたっては、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない」とされている。このような判断枠組みは、基本的には現在においても維持されている。したがって、総理による靖国参拝の合憲性についても、この枠組みに沿って判断することになる。

なお、政教分離原則に関する違憲審査の判断枠組みをめぐっては、近時空知太神社事件において、最高裁目的効果基準に言及することなく判断を示した*2ことから、目的効果基準をどのように位置づけるかという点について議論の存するところではある。しかし、同事件で問題となっているのは市有地の無償利用であり、極めて長期間にわたる不作為的側面も有する継続的行為である。同事件の判決は、こうした従来の一回きりの作為的行為とは異なる事案の特殊性に着目し、事案に即した検討を行ったものであって、従来の判例の中核的・基底的な判断枠組みを変更したものではない、との指摘もなされている*3。本記事では、従前の判断枠組みが妥当するとの前提で論を進める。

総理の靖国参拝

さて、それでは上記のような判断枠組みに沿って総理による靖国参拝を検討したとき、はたしてこれを憲法に反しないと断ずることができるのだろうか。裁判所はそのような判断をしているのだろうか。

この点、安倍の言うとおり、総理の靖国参拝をめぐっては過去にいくつかの国賠訴訟が提起されているが、それらはいずれも原告の敗訴に終わっている。こうした結果だけを見ると、裁判所は総理の靖国参拝について憲法に反しないという判断をしているように思われるかもしれない。

しかし、それらの裁判例を一読すれば、そうではないということがたちまち分かる。たとえば、当時内閣総理大臣の地位にあった小泉純一郎が行った平成13年8月13日の靖国参拝に対して提起された国賠訴訟について判断した最高裁判所第二小法廷平成18年6月13日判決*4は、以下のように判示している。なお、引用者において判決文の一部を省略し、太字強調を施した。

他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。(略)本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。

したがって、上告人らの損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないものとして棄却すべきである(略)。

本件において請求が棄却されたのは、損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害がないためであって、総理による靖国参拝の合憲性についてはなんら判断されていないことがお分かりいただけるものと思う。同判決に限らず、総理の靖国参拝をめぐる国賠訴訟において、請求が棄却される理由は、ほとんどが権利ないし法的利益の侵害が存在しないことである。

そして、このように権利ないし法的利益の侵害が存在しないことを理由として請求を棄却した裁判例の中には、結論としては請求を退けつつ、総理の靖国参拝憲法20条3項に反するものであることを明言するものもある。やはり小泉が行った平成13年、同14年、同15年の靖国参拝(これらを以下「各参拝」という。)に対して提起された国賠訴訟について判断した大阪高等裁判所平成17年9月30日判決*5がその一例だ。

同判決は、目的効果基準によって小泉の各参拝が憲法20条3項にいう「宗教的活動」に該当するか否かを検討するとしたうえで、大要以下のように述べて、小泉の各参拝は、目的において宗教的意義を有し、効果において特定の宗教に対する助長、促進となるものであって、これによってもたらされる国と靖国神社との関わり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであるから、憲法20条3項が禁止する「宗教的活動」に該当するとした。

 

目的

礼拝施設たる靖国神社の、しかもその祭神のご神体を奉安した本殿において*6祭神に対し、一礼する方式で拝礼した小泉の各参拝は、その目的において深い宗教的意義を有する。

効果

小泉の各参拝は内閣総理大臣の職務を行うについてなされたものと認められ公的性格を有する。また、小泉は各参拝を3度にわたって行ったほか、1年に1度参拝を行う旨意志を表明し、現に4度目の参拝も実行し、国内外に強い批判があるにもかかわらず、あえてこれを実行し、継続しており、参拝実施の意図は強固であった。 これらのことは、一般人も容易に知り得るところであった。

以上に加えて、小泉が他の宗教施設等に公的参拝を行ったと認めるに足りる証拠はないこと、また小泉の第1の参拝が行われた平成13年8月には靖国神社に例年より多くの参拝者があり、同神社のホームページへのアクセスが急増したこともふまえれば、小泉の各参拝は靖国神社の宗教を助長、促進する効果を有するものであった。 

 

以上のとおりであるから、津地鎮祭訴訟を根拠として、総理の靖国参拝を「合憲と解釈されている」などと断ずることはできない。少なくとも、裁判所はそのような判断をしているわけではない。

結び

以上、安倍晋三『新しい国へ  美しい国へ 完全版』の記述に対して批判を加えてきた。一国の首相が、事実の断片を恣意的に組み合わせて真実を歪めようとするかのような姑息な主張をすることには、強い憤りを覚える。断固たる批判の意思の表明として、ここに記すものである。

*1:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf

*2:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/347/038347_hanrei.pdf

*3:清野正彦「砂川政教分離訴訟最高裁大法廷判決の解説と全文」ジュリスト1399号83頁。

*4:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/254/033254_hanrei.pdf

*5:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/273/002273_hanrei.pdf

*6:津地鎮祭事件において起工式が建設現場で行われたことと対比すると分かりやすいだろう。