意味のない批判をやめよう

ネット上での誹謗中傷をなんとかしないといけない、という機運が生まれつつあるようです。

ネット上の誹謗中傷、規制検討へ 与野党「ルール化必要」 木村花さん急死で - 毎日新聞

それ自体は誠に結構なことなのですが、しかし「誹謗中傷」だけに目を向けていては見落とされてしまうものがあると、私は考えています。

たとえば、この話題が注目されるきっかけとなった女子プロレスラー急死に関し、彼女を非難していたアカウントが急死のあと次々と削除されているというニュースを見かけましたが*1、そこで紹介されている非難のコメントというのは、「やめろ」「気分悪い」「消えろ」といったものでした。

率直に言ってこれらのコメントは、もちろん執拗さその他の条件にもよりますが、基本的には、刑事はおろか、民事上の不法行為にあたるとすることも少し難しいのではないかという印象です。法的な意味に限定しない広義の「誹謗中傷」にあたる可能性はあるにせよ、今回寄せられた一つ一つのコメントの悪質さはそこまででもなかった……かもしれないと、私は思っています。

しかし、当然ですが、私は「だからこんなことで死ぬ方がおかしい」と言いたいわけではありません。というより、そもそも現時点では彼女が自殺であるかどうかさえ必ずしも明らかではないですから、私は本件自体についてつっこんだ話をつもりは全くありません。そうではなく、一つ一つは大したことのないコメントであっても、それが一斉になされることによって受け手に大きな打撃を与えることはありうるのだ、と言いたいのです。

このことについては、かつて小野ほりでいさんが下記記事で分かりやすい表現をされていました。

善意で話をややこしくする”関係ないのに怒る人”の恐怖とは? - トゥギャッチ

記事内容自体に全面的に賛同するものではありませんが、「インターネットの1000回怒られシステム」という表現はなかなか秀逸だと思います。今回急死した女性プロレスラーに対して寄せられたコメントは、その悪質性がいかほどであるかはともかく、攻撃的であること自体は間違いなく、広義の「誹謗中傷」にあたる余地はあるものだったのかもしれません。しかし、仮にコメントが不必要に攻撃的でなく、内容的にも正しい全く穏当なものであったとしても、1000人から一斉になされればその打撃は大きなものとなりうるのです。「誹謗中傷」を行わないことはむろん大事ですが、ことインターネットでの発言に関しては、さらにこの「1000回怒られ」問題にどう対処するかということについても考える必要があるでしょう。

さて、それではこの「1000回怒られ」問題にはどう対処するべきなのか。このことについてはすでに何度か書いてきているのですが、基本的には「意味のない批判をやめる」ということに尽きるのだと思います。

ここで、「意味のない批判」とはいったいどのようなものでしょう。

些末な点に固執する批判?

的外れな批判?

それともその問題に関する基礎的な知識さえ備えていないような批判でしょうか?

そうではありません。これらの批判は、誤っていたり、その結果として顧みられることがなかったりするかもしれませんが、それによって批判自体に意味がないということにはなりません。たとえ内容が誤っていても、独自の視点・観点に基づく批判を提出するということは、それを乗り越える契機になるという点において、意義を有するものなのです。そして、このように考えていくならば、意味のない批判がどのようなものであるかも自ずと見えてくるでしょう。意味のない批判、それは独自の視点・観点を含まない批判――端的に言えば、(主として)「すでになされている批判」です。

最近の例で言えば、いわゆる「自粛警察」に対するブックマークコメントでの批判などは分かりやすいかもしれません。「自粛警察」に対して寄せられる非難のブックマークコメントは、理路すらない単なる誹謗中傷(これは論外なのでわざわざとりあげません)のほかは、その8割がたが「正義の暴走」 に対する懸念をさまざまに言い換えたにすぎないものだったというのが私の印象です。この(最初になされたものを除く)8割がたの非難コメントが、基本的には私のいう意味のない批判です。

すでに述べたとおり、ここでいわゆる「自粛警察」に関する話題を見て「正義の暴走」に対する懸念を抱くこと自体が正当であるかどうかは、あまり関係がありません。仮にその懸念が正当とは言えないものだったとしても、最初にそうしたコメントをつけた方については、その批判はそれまでに現れていない視点・観点を提示するものですから、意味あるものだということができるでしょう。一方、二番目以降にそうしたコメントをつけた方については、基本的には*2、すでに現れている視点・観点をくり返しているにすぎませんから、懸念が正当であるか否かにかかわらず、意味のない批判をしているということになるでしょう。そういう意味のない批判を控えることが、「1000回怒られ」を防ぐには重要なのだと思います。

もっとも、たとえすでに同旨の指摘があるとしても、自分の立場を表明しておきたい、という方もいるかもしれません。そうした方は、少なくともはてなブックマークにおいては、はてなスターを活用するという解決策をとることが考えられます。自身の主張と同旨の指摘があれば、そのコメントにスターをつけて黙って去る(無言ブックマークでもよいでしょう)。そうすれば、自身の立場を表明することもできますし、「怒られ」る側も、1000の否定的なコメントが並ぶよりは、大きな打撃を受けずに済むと思います。はてなスターの活用方法については、はてなでも必ずしも議論が深まっていないように感じられるので、この機に一考してくださればうれしいです。

以上、今後のいわゆるネット言論の進むべき道について、思うところを記しました。そもそもの問題として、すでに誰かが言っていることを大声でくり返すというのは、少々みっともない行為だと思います。そうした感覚が、広く共有されることを望みます。

【2020年5月28日追記】

けんすう(id:kensuu)さんが本記事と同じ問題意識に基づく記事を書かれていました。

誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話|けんすう

記事中でけんすうさんは対応法を思いつかないとおっしゃっていましたが、本記事は対応を考える一助になるかもしれないと感じたので、いちおうお知らせさせていただきます。たとえばけんすうさんの記事のこの部分。

投稿時に「その投稿、誹謗中傷じゃない?」と出すとかの案も見ましたが、しているのが正当性のある批判の場合、それも乗り越えて投稿されちゃいます。

「誹謗中傷じゃない?」を「もう言われてない?」に変えれば、(どれだけの効果があるかとか、やりすぎではないかといった問題はともかく、)正当性のある批判であっても乗り越えられないとは思います。

なお、この問題についてより細かく検討した拙記事として、以下のものがあります。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

よければ、こちらも参考にしていただければと思います。

*1:https://hochi.news/articles/20200523-OHT1T50198.html

*2:視点・観点を深化させるということは一応観念できるので、例外はありうるでしょう。もっとも、100字程度の短文でそれをなしとげることは、実際には相当難しいと思いますが。

文書特定のポイント

WADA/開示請求さん(以下「WADAさん」といいます)の以下の記事に接しました。

「マスクチーム」,存在せず #検察庁法改正の強行採決に反対します|WADA/開示請求|note

厚労省に対していわゆる「マスクチーム」に関する文書の開示請求を行ったが、同省から「そのような文書を作成・取得した事実はなく、実際に保有していない」との趣旨の回答があったことを報告する内容です。

これをもってWADAさんは「「マスクチーム」,存在せず」とされているわけですが、記事を読む限り、書き方が悪かったので文書が出てこなかった可能性もあるように、私には思えました(もちろん、実際にどうだったのかは分かりませんが)。WADAさんのご活動は社会的意義のあるものだと思うので、一応きちんとした文書を作成する立場にある者として、応援の意味もこめて感じたところを申し上げておきます。

WADAさんの記事にあげられている不開示決定通知書の記載を見ると、WADAさんは次のような文書についての開示請求を行ったようです。

内閣官房長官が国会で明らかにした、厚労省経産省総務省からなる「マスクチーム」なるものの実態、実際に何をやっているかが分かる、業務日誌、報告書、決裁書等の一切の文書

私がこれを見てまず思ったのは、「ちょっと趣旨がとりにくいな」ということです。

きちんとした文章で大事なのは「何を指し示しているかが特定されていること」です。逆に、特定さえされていれば名称が多少不正確でもそこまで気にはされないものです。

このような観点からすると、「マスクチーム」が正式名称なのかそうでないのかは知りませんが、仮に正式名称でないとしてもそのこと自体は致命的な問題とまでは言えないと思います。もっとも、上記記載では「マスクチーム」が何を指し示しているかがやや不明確です。「内閣官房長官が国会で明らかにした」とありますが、せめて、いつ、どこで*1、どのような発言によって明らかにしたというのか示すべきだろうと思います。該当箇所にマーカーを引いた議事録の写しを参考資料として添付してみてもよいかもしれません。

さらに、「マスクチーム」が特定されたとしても、それだけでは十分ではありません。開示請求において特定すべきは、「開示すべき文書」だからです。それでは、「開示すべき文書」はどのように特定するのか。それは大まかに言えば、「いつ、だれが作成した、どのような文書か」を明らかにすることによってです。

今回の場合、これまでに作成されたすべての文書の開示を求めても大した量にはならないですし、おそらくWADAさんもそうされるおつもりでしょうから、「いつ」はあまり問題になりません。マズいのは、「だれが作成した、どのような文書か」という部分が明らかでないことです。まず、「だれが」ということについてはそもそも記載されていません。そして、ここが一番問題だと思うのですが、「どのような文書か」ということについて、「「マスクチーム」なるものの実態、実際に何をやっているかが分かる」との記載では趣旨があまりにも不明瞭です。このような記載では何をもって「分かる」というのかがはっきりせず、たとえば「マスクチーム」の沿革や活動内容、組織図等を記載した文書を求めているように(も)読めてしまいます。このような書き方をするくらいなら、端的に「マスクチームが作成した業務日誌、報告書、決裁書等の一切の文書」くらいの記載にでもした方がよほどよいと思います(作成者をどのように設定するかには工夫の余地があるでしょうが)。

以上、本件について精査したわけではなく、思いつくままに書き散らしただけですが、本記事が少しでもお役にたち、1件でも多くの開示を受けられるよう祈ります。なんにせよ、「分かる」というのは趣旨が不明瞭になりやすいので、あまり使わない方が無難ではあると思います。

*1:単に国会というのではなく、少なくとも「衆(参)議院××委員会」くらいまで明らかにするのが望ましいでしょう。

国家は縛るし縛られる

簡単にだけ。

以下の記事に接しました。

官邸の三権分立は違っていたのね、ほんとに|Masaru Seo|note

首相官邸ホームページにある三権分立を説明する図では、内閣から国民に対して「行政」という矢印が向けられており、「内閣が行政によって、主権者である国民を縛る」ことになっている。他の図で表されているように、「国民が世論によって、内閣を縛る」のが正しく、官邸の説明は誤っている、というような内容です。

うーん……。これ、あまり筋のよくない批判なので、ほどほどにしておいた方がいいと思いますよ。まず念のために確認しておくと、憲法65条によって、「行政権は、内閣に属する」こととされています。そして周知のとおり、「行政」とは何かということについてはさまざまに議論がありますが、「法律の執行」がその重要な一内容として含まれることは間違いのないところです*1。国民はこの「法律の執行」の客体となる存在ですから、内閣から国民に対して矢印が向けられるのは別に誤っているわけではありません。ついでに言っておくと、国民に向けられた「行政」の矢印を、「国民を縛る」という意味のみに解するのもやや危ないです。福祉主義を志向する現行憲法下においては*2、(国民を縛るというだけでなく)国民への給付もまた行政の重要な役割であると言いうるからです。

さらに、もう少し根本的なところからもコメントしておきます。ひところはやった立憲主義という言葉をご存じでしょう。これは、「憲法によって国家権力を制限し人権を保障しようとする考え方」などと説明されることが多いと思います。ここで、なぜ国家権力を制限することが人権の保障につながるかというと、国家権力が人権を制約する存在だからです。立憲主義とは、国家権力が個人の人権を制約しうる(これは単に事実としてそうだというにとどまらず、そのような権限を有するということです)ことを前提として、その範囲を画する考え方なのです。したがって、国家権力(の一翼を担う内閣)が国民の人権を制約する、すなわち「国民を縛る」のはあたりまえ。われわれはそのことをふまえたうえで、国家権力による制約が度を越さないように、しっかりと監視する必要があるのです。その意味で、「国民が世論によって、内閣を縛る」という説明も、もちろん誤っているわけではありません。

*1:憲法73条1号参照。

*2:憲法25条以下参照。

勝部元気のツイートは本当に存在するのか

id:ohaoha01 さんの以下の記事に接しました。

2011年代の勝部さん - ohaoha01’s diary

私は、主としてDMを利用したクローズドな場での交流のために一応アカウントを持ってはいますが、つぶやくことはめったになく、ツイッターには詳しくありません。なので、なにか勘違いをしているのかもしれず、そうであるなら教えてほしいのですが……紹介されているツイート、見つからなくないですか?

記事では、「検索方法は @アカウント until:2011-12-31 などで調べると出てきます。」と書かれています。これは、ツイッターの検索欄に「@アカウント until:2011-12-31」を入力するという趣旨だと思うのですが、「@KTB_genki until:2011-12-31」と入力して検索してみても、紹介されているようなツイートは見つかりませんでした。念のため、グーグルでも「@KTB_genki until:2011-12-31」と入力して検索してみましたが、やはり結果は同じで、紹介されているようなツイートは見つかりませんでした。

ところが、記事へのブックマークコメントにはそんなツイート確認できないと指摘する声がまったく見当たりません。みなさん、本当に紹介されたツイートの存在を確認できたのですか? 記事中にはられた画像だけを見て調べもせず紹介されたツイートがあると軽信したとかではなく?

くりかえしますが、私はめったにツイッターを使わないので、界隈の事情には詳しくありません。したがって、槍玉にあげられている勝部元気という人のこともよく知りません。ブックマークコメントを見る限り、少なくともはてなでは全方位的にあまりよい評価をされていない人物なのかもしれません。しかしそうだとしても、してもいないツイートをねつ造して非難することが許されないのは当然です。特に記事の冒頭で紹介されている「電車の中で女の子の耳を見ただけで……」というツイートの画像については、他のものとフォントが違うようにも思われるうえ認証バッジも見当たらず、本当にこのようなツイートが存在していたのか、非常に不安に感じています。きちんとすべてのツイートの存在を確認しているという方は、せめてこのツイートについてだけでも、URLを示してください。単なる私の検索の不手際であることを願います。

なお、これも当然のことなのに誰もおっしゃっていないので念のため指摘しておきますが、仮に紹介されているツイートが存在するのだとしても、出典を確認できないような引用の仕方はきわめて不適切です。

 

【2020年5月3日9時33分追記】

まる1日以上が経過しましたが、ブログ主からのURL提示や記事の修正等はありませんでした。 普通の議論であればもう少し期間をとった方がよいのでしょうが、今回の件はURLを提示するだけでカタがつく話であって時間を要する性質のものではないですし、ことが特定個人の権利利益にかかわり誤っているなら早急に訂正する必要があると思いますので、現時点をもってひとまず「2011年代の勝部さん」はデマ・誤情報を含む記事であると判断します。また、これに伴い本記事のカテゴリを「雑記」から「デマ・誤情報」に変更します。

デマ・誤情報を含むということであれば、これを周知する必要がありますが、残念ながら当ブログには十分な発信力がありません。「2011年代の勝部さん」にブックマークした方には記事を拡散した責任がないとは言えないと思うので、ご迷惑かもしれませんが同記事をブックマークをしている方のうち名前を知っている(多くはこちらが一方的に存じあげているだけですが)幾人かにIDコールをさせていただきます。もちろん、私の検索の仕方が拙いだけで、全ツイートの存在を確認しているということであれば、URLをコメント欄ででも提示してくだされば結構です(むしろ、そうであることを望みます)。そうでないなら、周知へのご協力をお願いします。

id:zaikabou id:anmin7 id:font-da id:sadamasato id:lcwin

なお、名前を挙げた方のうち、lcwin さんについては、つい先日もやりとりをさせていただいたところなので、少しだけ苦言を呈させてください。

lcwin さんは、先日も番組を見ずに文句を言っていると放言されていましたが、今回もやはり確認をせず、無責任に記事に便乗してあてこすりめいたコメントをつけられたのでしょうか。だとすれば、本当にちょっとどうかと思いますよ。

あなたのやっていることは結局のところ、いわゆる正義を叩いているとみれば嬉々として現れて、その真偽も品位も度外視して同調の態度を示しているだけではないですか。いわゆる正義を唱える側には無謬を求めて口をふさぐ一方で、いわゆる正義を叩く側については誹謗中傷も虚偽捏造もほとんど黙認して同調するようなマネをこれからも続けていくつもりですか。それは私の感性では、あまりにも品位を欠くふるまいです。

こんにちの社会では正義叩きが一種の「正義」となってしまっており、それを半ば娯楽のように消費する手合いが掃いて捨てるほどいます(はっきり言って、今の世の中でいわゆる正義を唱えるのは、激しい攻撃に晒される可能性の高い、それなりに覚悟のいる行為です。よく言われる「手軽に他人を叩いて気持ちよくなりたいだけ」という言葉は、むしろ正義叩きにこそあてはまると思います)。自分もその一人になってしまってはいないかということを、lcwin さんには真剣に考えてほしいです。

キモい!!!

仁藤夢乃らの番組、「シリーズ キモいおじさん第1回」を見ました。

https://www.youtube.com/watch?v=ltu5e6rNKzM

バスカフェ(居場所のない10代向けの無料カフェ)で2日間のうちに109件も集まった「キモいおじさん」エピソードなどを紹介していくという内容です。

いや……すごかったですね。本当に気持ち悪いエピソードの連続で、少し鳥肌がたちました。もちろん、今回紹介されたエピソードは、一方の立場から、匿名で、少しぼかして語られたものですから、その全てをそのまま受け取ることはできないし、受け取るべきでもないでしょう。しかし、寄せられた多数の声が全て虚偽であるなどということもまた考えにくく、少なくとも似たような目にあっている女子がそれなりにいるのは間違いないのだろうと思います。そしてそれは、想像するだけで怖気だつようなことです。

10代女子が日ごろどれだけ気持ちの悪い思いをしているのか、その一端だけでも知るために、見る価値のある番組だと思います。個人的な感想としては、しり上がりにおもしろく(というと語弊があるかもしれませんが)なっていったので、最初の方を見て少し退屈に感じる方は、22分あたりから視聴してみるのもよいかもしれません。

 

ところで、同番組のタイトルに「キモい」という語が使われていることには一部で反発があるようですね。私が同番組を見るきっかけになったのは、id:lcwin さんの以下のブックマークコメントでしたが、この方も「キモい」に反発を感じているようです。

仁藤夢乃 Yumeno Nito on Twitter: "男性たちによる差別や暴力の問題を言葉にする番組『シリーズ キモいおじさん』 馳議員や自民党視察団の方々にも観て、何がハラスメントになるのか学んでほしいです。初回のテーマは「セクハラおじさん」。2日で109枚も寄せられた痴漢や性暴力… https://t.co/0pqVk1nTKs"

こういうことに「キモい」と使ってしまうあたり、やるなとは言えないけど、これはこれで品性の問題を感じてしまうんだよね/気持ち悪いといじめられたおじさんも差別されたおじさんもいるのですよ。

2020/04/26 21:18

b.hatena.ne.jp

「品性の問題」というのもどのような趣旨か必ずしも明らかでない表現ですが、「攻撃的でけしからん!」「もっと穏当な表現をつかえ!」くらいの意味でしょうか。しかしそうだとすると、この方の意見には全く賛同できないのですよね。

「キモい」が「使」われているのは上記番組のタイトルだけですから、「こういうこと」 は同番組(の内容)を指すのでなければおかしいと思います。しかし、同番組で紹介されているおじさんの「キモい」行為の相当数は明確な犯罪行為ですし、犯罪行為とは言えないまでも民事上違法である可能性の高いものもかなりありました。私などは、こうした行為を「キモい」と表現するのはむしろ微温的にすぎると感じるくらいなのですが、lcwin さんは犯罪行為・違法行為を「キモい」と評することさえ攻撃的でけしからんとお考えなのでしょうか。というか、そもそもlcwin さんは同番組をご覧になっているのでしょうか。

また、上記ブックマークコメントを見ても分かるように、lcwin さんはいわゆる弱者男性に対して同情的な発言をくりかえしておられるのですが、そのような方が「キモい」 という語を「品性の問題」(品性を欠くという趣旨でしょう)などと論うのも、よく考えたうえで仰っているのだろうかと不安になります。今回紹介されたような被害にあう10代女子の中には、十分な教育を受けておらず、語彙の乏しい者も少なくないでしょう。すでに述べたところとも関連しますが、明確な犯罪行為の被害にあっても、民事上違法な行為によって損害を受けても、「キモい」と表現することしかできない者もいるのではないかと思います。そうした者の発する実感のこもった身体的な言葉としての「キモい」を、あるいはそうした語彙しか持たない者に届けられる(彼女らが)理解可能な言葉としての「キモい」を、品性を欠くとして言下に退けることは、文化資本に乏しい者の口や耳をふさぐ行為にほかならないでしょう。いわゆる「弱者男性」論は、そうした文化資本の格差への配慮を求める思想でもあったのではないですか。いったいこのことを、lcwin さんはどのように考えておられるのでしょうか。

ちなみに少し調べてみたところ、lcwin さんは品性についてぶつくさ言うこともなく素知らぬ顔でブックマークコメントをつけることもあるのですね。たとえば次のもののように。

20代のフェミニストへのイメージ→「偽善者」「女性の権利ばかり主張」「脳みそが病気がち」「生きる価値なし」 - Togetter

すももの人の1枚目の写真が20代男性の回答で、2枚目の写真が20代女性の回答らしい。

2020/04/13 12:51

b.hatena.ne.jp

犯罪行為や違法行為に及んだわけでもないフェミニスト一般に対して、「脳みそが病気がち」や「生きる価値なし」といった、「キモい」とは比べものにならないほど酷い表現が用いられているわけですが、lcwin さんはこれについては気にならないのですかね。もしもそうだとすれば、ずいぶん独特な感性をしておられるなと思います。

以上、たまたま目についたlcwin さんのブックマークコメントを槍玉にあげる形になりましたが、似たような態度をとる方は大勢おられると思います。この機に、一度自らのふるまいを省みていただければと思います。

法律を勉強してみたい人へ

こんな匿名記事に接しました。

「法律のことを勉強してみたい!」と少しでも思ったあなたへ

「とりあえず憲法民法・刑法から勉強するのがよい」という結論だけは同意できるけれど、全体的になんだかなー、という感じです。特に「細かい条文や判例を覚えることにあまり意味はない」というのは、かなり違和感がある。たしかに断片的・雑学的に条文(や判例)を覚えることにあまり意味はないのだけれど、一方で条文(や判例)を離れた法学などというものもあり得ないので。

  1. 条文を知り
  2. 判例を知り
  3. それらを体系的に位置づける

大雑把にいえばこれが法学であり、リーガルマインドを身につけるとは、「条文や判例を体系的に位置づけられるようになる」ということです。なので、条文や判例を知らずにリーガルマインドを涵養することなどできないと思います。

刑法で「捜査や公判のニュースへの理解が深まる」ってのもどうなんですかね。それ刑事訴訟法で扱う話でしょう。

まあ、いちいち論っているとキリがないので、どのような本を読むべきかということについてだけ簡単にコメントしておきます。

上記匿名記事で決定的に問題だと思うのは、六法や判例集もあわせて買うべきことにふれられていない点。六法はインターネットで条文を検索するということも一応考えられないではないけれど(ただし、民法など条文数の多い科目を勉強するなら絶対に小型のものでよいので買っておくべきだと思います)、判例集は買うしかない。特に学者の基本書では、文中で言及した判例についていちいち丁寧に説明していないことが多いので(予備校本だと重要判例の要旨程度は掲載されている)、判例集がないとそもそも基本書をまともに読むことすらできないと思います。これもやはり条文・判例軽視の姿勢のあらわれなんですかね。とにかく、六法と勉強する科目の判例集は買う必要があります。別にどこのものでもかまいませんが、迷うならポケット六法と判例百選あたりを買っておけば無難でしょう。

基本テキストについては、憲法と刑法は学者の基本書でも予備校本でもどちらでもよいと思います。予備校本もかなりよくできているので。学者の基本書だと、憲法芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第7版、2019年)が定番ですね。刑法は、総論・各論が一冊にまとまっていることもあり、山口厚*1『刑法』(有斐閣、第3版、2015年)を勧めることが私は多いですが、他にもよい本があるかもしれません。予備校本だと、試験対策講座(シケタイ)やC-Bookあたりですかね。予備校本の難点は、書き物をしたり議論をしたりする際に、出典として示せないところでしょうか(笑)。

一方で民法は、学者の基本書で勉強するべきだと思います。ただ、では何を勧めるかとなるとこれがなかなか難しい。民法は、総則、物権、担保物権、債権総論、債権各論、不法行為(これも債権ですが)、親族・相続といった各分野からなり、しっかり学ぼうとすればそれぞれについて1冊は基本書が必要になります。たとえば、上記匿名記事であげられている佐久間毅の「民法の基礎」シリーズは良い基本書だと思いますが、『民法の基礎1』は総則、『民法の基礎2』は物権についての本であり、他分野についてはさらに別の基本書を買わねばなりません(ちなみに、「民法の基礎」シリーズは今のところこの2冊しか出ていません)。法律書は決してお安くないので、初学者に対して何冊も勧めるというのは、気がひけるんですよね。そういう意味では、潮見佳男『民法(全)』(有斐閣、第2版、2019年)なんかは良いかもしれない。タイトルどおり、1冊で民法の全分野を扱っているので。私自身はこの本を読んでいないので積極的に勧めることはできないのですが、潮見はいちおう名のある学者ですし、彼の『基本講義 債権各論Ⅱ 不法行為法』(新世社、第3版、2017年)などはとても分かりやすかったので、大外れということはないだろうと思います*2

それから、あまりこのことを明言する人はいないのですが、やはり問題集も買っておいた方がよいと思います。知識は問題演習を通じて定着するものです。また、単に基本書の字面を追っているだけでは分からないような問題の所在が、問題を解く中で明確に見えてくるということもあります。最低でも短答式、できれば論述式についても問題演習はしておきたいですね。予備校などがいろいろ出しているので、適当に選べばよいと思います。公務員試験対策のものなどでもよいでしょう。

以上、思いつくままに書き散らしてみましたが、少しでも法律を勉強してみたい人の参考になれば幸いです。 あ、それと、最近読んだ漫画だと、浅見理都『イチケイのカラス』が結構よかったですよ。

*1:平成29年に最高裁判事になった人です。

*2:彼の本の中には、「潮見語」と揶揄されるようなきわめて分かりにくいものがあるのも事実です。ただし、そうした本の殆どはすでに一定以上法を学んでいる者に向けて書かれたものであり、入門者向けの本における潮見の記述には明らかに平易に説明しようとする姿勢が見受けられるので、あまり心配することはないと思います。

田嶋陽子と私のフェミニスト批判

このところ再評価の兆しがある田嶋陽子の、『愛という名の支配』(新潮文庫、2019年)を読みました。

愛という名の支配 (新潮文庫)

田嶋の代表作、と言ってよいのかどうかは分かりませんが、1992年に太郎次郎社、2005年に講談社+α文庫から刊行され、今回が3度目の刊行ということなので、少なくとも長く読み継がれてきた本だということは言えるでしょう。

本書は、経験に根差した「田嶋のフェミニズム」を語るものです。なので、理論的な面からフェミニズムを概観したいという向きには、必ずしも適しないかもしれません。もっとも、そこで暴かれている女性差別の構造は、ラディカルであるだけに、依拠する理論的立場や時代といった「細かな」ことを越えて、ある種の普遍性を獲得しているように思います。

実際に読んでいただくのが一番よいと思うのであまり詳しい内容にふれるつもりはないのですが、私が本書で最も感心した点だけ書き記しておきます。本書は、「差別によって女性がスポイルされている」ことを明確に認めている。それがなにより素晴らしいと思います。本書44頁以下(「第二章 女はドレイになるようにつくられる」)を引用します。  

たとえば、ハンコ屋さんに行って、おじさんといろいろ話をします。おじさんは、スーツを上手に着こなしたりして、なかなかスマートです。ところが、話の途中で用事を思い出したのか、キッとうしろをふり向くと、とつぜんその笑顔がべつの顔になるときがある。その顔で、「オイ、あれはどこへ行った」と言う。すると、「ン?」とか「ハイ」とか言ったり、ときにはだまってヌウッっと出てくる人がいる。それが私の言う”お化け”なんです。そうやって出てきた人は、だいたい、灰色っぽいか褐色っぽいかエンジっぽいか、そんな色の印象なんですね。くすんだ色の細かい花柄のかっぽう着などを着て、お化粧なんかしていませんから、顔も褐色で。

ハンコ屋のおじさんとその妻。この対比は、もちろん分かりやすい一事例を示すものにすぎませんが、しかし残酷なほど鮮明に、スポイルされた女の姿を描き出していると思います。

人当たりがよくて、オシャレなおじさん。まともな受け答えもせず(できず)、身だしなみにも気をつかわない妻。 両者を比較したとき、能力があるのも、人間として魅力的なのも、多分おじさんの方でしょう。

しかしそうなったのは、妻(だけ)のせいではありません。結婚という制度が彼女を家の奥に押し込め、人前に出てしかるべきふるまいをする機会も、自らの足で立って金を稼ぐ機会も奪ってしまった。その結果、能力も社会性もない、つまらない人間を生み出してしまったのです。

あくまでも私の印象にすぎませんが、フェミニストと呼ばれる方の多くは、このこと、つまり「差別によって女性は能力のないつまらない人間にされている(面がある)」ということに正面から向き合っていないように感じられます。その結果、専業主婦であれハイヒールであれ、「本人が望むならオーケー」ということを安易に言ってしまう。

もちろん最終的には、真に本人が望むのであればオーケーということにはなるのですが(その自由は奪われるべきではありません)、そうした自由意思に基づく選択を可能ならしめるためには、 まず専業主婦なりハイヒールなりの「真の姿」を白日の下に晒すことが不可欠なはずです。

いまの社会において職を辞して家庭に入ることはキャリアの中断というよりは断絶に近いこと。復職後のきわめて低い給与水準。結婚前の人間関係も少なからぬ部分は断ち切られてしまうこと。3人に1人は離婚すると言われるこんにち、夫との関係が破たんしたときに、そのようにキャリアも人間関係も奪われた状態で本当に1人で生きていくことができるのか。できないとすれば、意に沿わぬまま夫に従って生きていくのか(それこそ奴隷ではないか)。ハイヒールにしても、さまざまな健康被害が報告されている。専業主婦にせよハイヒールにせよ、女を人間としてダメにする側面というものがあることは間違いないのだと、私は思っています。

そうであるならば、この種の問題は単純に「本人が望むなら」などと述べて片づけてしまってはいけないのでしょう。あえて専業主婦なりハイヒールなりを「望む」というのは、本当に本人の自由な意思によって選びとられたものなのか。社会にとって都合のよい幻想を見せられ、踊らされているだけではないのか。女性解放を真剣に考える者は、まずこうした疑問をもつ必要がある。そして、専業主婦なりハイヒールなりが女をスポイルするものであること、あるいは現にスポイルしていることまでを率直に指摘せねばならないのだと思います。結婚制度は「差別の制度化」(本書62頁)であると述べた田嶋や、ハイヒールのような「不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮」*1と断じた上野千鶴子のように。そのうえでなおそれらを選択するという者に対してはじめて、「あなた(本人)が望むなら」という言葉を口にすることが許されるのではないでしょうか。

言うまでもなく、このようなあり方は万人に嫌われる苦しい道です。しかし真に女性解放を求めるならば避けては通れない道でもある。本書はこの苦しい道を歩むものであり、その一事だけをとっても読む価値のある良い本だと思います。