元気でやっております
すっかりご無沙汰をしてしまいました。
もし心配してくださった方がいたら、申し訳ありません。私は元気でやっております。
この1年は、飛躍、というとおこがましいかもしれませんが、自分なりに一歩を進めることができたのではないかと感じています。
今後もはてなに顔を出す機会はあまり多くないかもしれませんが、戻ってきたときには温かく迎えてくださるとうれしいです。
ではよいお年を。
とっつきやすい南京事件論
本書は、「戦争についてほとんど知らなかった事件記者」である清水が、南京事件について「調査報道」の手法で自ら調べあげた結果等をまとめたものです。
公平に言って、純粋に南京事件についての知識の獲得を目的とするならば、たとえば笠原十九司『南京事件』など、より幅広くかつ詳細に解説した安価な一般書が他にもあるとは思います。本書でかなり紙幅を割いて紹介されている黒須忠信上等兵の陣中日記も、上記の笠原書などにおいてすでに言及されているものであって、新発見というわけではありません。
しかしそうであるにもかかわらず本書がすばらしいのは、清水が自らの取材によってそうした資料をいわば「血の通った」ものとして表現することに成功しているからです。
資料を収集している者のもとに直接赴く。資料収集者から収集を思い立った動機や資料を譲り受ける際のやりとりなどを聴取する。折れやすり減り、あるいは紙の変色など、資料の状態を観察する。資料作成者の本人確認を行う。資料の記載と他の資料から判明している客観的事実との整合性を確認する……。
この種の調査は清水に限らず問題に対して誠実に取り組んでいる者であればだれでも当然行っているでしょうが、いざ一冊の本として発表するという段では、そうした調査によって得られた結果だけを書くことも多いのではないかと思います。もちろんそれが悪いというわけではないですが、ときにそのような記述は門外漢に対して無味乾燥でとっつきづらい印象を与えることもあるでしょう。本書の最大の功績は、上記のような調査の過程についても事件記者ならではの生々しい筆致で描写することにより、南京事件をとっつきづらい歴史論争だと感じているようないわゆる「普通の人」にも関心を抱かせた点にあるのだと思います。
なお、本書は『「南京事件」を調査せよ』と銘打っているものの、南京事件について論じているのは全体の3分の2ほどで、残りの3分の1は「旅順虐殺事件」などの別事件について論じるものとなっています。 南京事件以外にも多くの痛ましい事件があるのは全くそのとおりであり、必ずしも知名度の高くない事件にも光を当てようとする清水の姿勢には大いに共感します。ただ、本書に関して言えばさすがに少々話題が拡散してしまった観があり、南京事件以外の問題については別の機会に論じた方がよかったのではないかと思います。
*1:以下、「本書」といいます。
生活保護と扶養
はじめに
令和3年1月28日参議院予算委員会での小池晃の質問に対する田村憲久厚生労働大臣のセンセーショナルな答弁、
「義務ではございません。義務ではございません。扶養照会が義務ではございません」
からはや一月半。いかにも時機を逸してはいますが、生活保護と扶養について、一応書いておこうと思います。
なお、この件についてはわっと(id:watto)さんがすでに記事を作成されているので、そちらもご覧ください。
田村厚生労働大臣が「扶養照会は生活保護の義務ではない」と国会答弁した前後の私的まとめ - しいたげられたしいたけ
1月29日付拙エントリー2日続けて2万pv超えお礼と扶養照会に関する若干のリンク追加 - しいたげられたしいたけ
田村発言は何を言っているのか
まず「扶養照会が義務ではございません」という田村発言が何を言わんとしているのか、確認しておきましょう。
そもそも「扶養照会」とは、生活保護の申請があったとき、扶養義務のある申請者の親族などに援助が可能かどうかを問い合わせることです。
ところで、生活保護法*14条は以下のような規定となっています。
第四条 保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。
2 民法(明治二十九年法律第八十九号)に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする。
3 (略)
ごらんのとおり、法4条2項には「扶養義務者の扶養……は、すべてこの法律による保護に優先して行われる」との文言があります。このため、扶養義務者による扶養が可能な場合には生活保護に先立ってその扶養を受けるべきであり、かかる扶養の可否を判断するために扶養照会がなされなければならないのではないか、ということが一応は問題となりうるのです。
もっとも、これまた条文を見れば明らかですが、生活保護の要件は法4条1項に明記されているとおり「生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用すること」であり、これに尽きます。扶養義務者の扶養等は、要件とは截然と区別されているのです。したがって、法4条2項にいう「優先」とは、たとえば実際に扶養義務者からの金銭的扶養が行われ たときに、これを被保護者の収入として取り扱うこと等を意味するにすぎません*2。扶養や扶養照会は、生活保護の要件ではないのです。
「扶養照会が義務ではございません」という田村発言はまさにこの趣旨、すなわち扶養照会を行わなければ生活保護の決定ができないわけではないことをいうものです。
扶養と生活保護に関して(余談)
ちなみに、扶養と生活保護に関しては、過去にも大問題がありました。長野県の福祉事務所が生活保護申請者の親族に対して、保護にあたっては「扶養義務者の扶養(援助)を優先的に受けることが前提」であるとの記載のある書類を送りつけていたのです*3。
上記のとおり扶養は生活保護の要件ではありませんから、このような書類が送りつけられていたことは誤った説明をするものだとして、当然当時の国会において厳しい追及がなされました。結果、厚生労働省も不適切な記載があったことを認め、「生活保護法第4条第2項の扶養義務者の扶養の可否を確認するために使用する扶養照会書等について」(平成25年11月8日付厚生労働省社会・援護局保護課保護係長事務連絡)を全国の自治体に送付し、対応の是正を求める事態となったのでした。当時これだけの大問題へと発展したにもかかわらず、扶養が生活保護の要件ではないことを前提とした対応が必ずしも徹底されていないようにも見えるのは残念なことです。
なお、平成25年11月7日厚生労働委員会においてこの問題をはじめて追及したのは、今回(令和3年1月28日)と同じく小池晃。答弁に立ったのもやはり同じく田村憲久でした。小池晃、よく働いていますね。
扶養義務は義務である
閑話休題。
上記のとおり扶養は生活保護の要件ではなく、その意味において扶養も扶養照会も義務ではありません。しかし、同語反復的な言い方になってしまいますが、扶養義務者にとって扶養は義務であることを確認しておくのは重要だと思います。
民法は、一定の親族に対して扶養義務を課しています。条文で言うと、752条、877条1項および2項です。
(同居、協力及び扶助の義務)
第七百五十二条 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。
(扶養義務者)
第八百七十七条 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。
2 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。
3 (略)
以上のとおり、夫婦、直系血族および兄弟姉妹は、互いを扶養する義務を負います*4。また、特別の事情がある場合には、その他の三親等内の親族も家庭裁判所によって扶養義務を負わされることがあります*5。これらの扶養義務者のうち、夫婦と、未成熟の子に対する親は、生活保持義務と呼ばれる特に高度の扶養義務を負うものと解されていますが、ここでは立ち入りません。重要なのは、これらの者は扶養の義務を負うのだということです。
こんにちでは、家族のつながりというものは随分弱くなったように見えます。冒頭で紹介した令和3年1月28日参議院予算委員会でのやりとりにおいても、扶養照会がなかなか援助につながらないということが述べられていました。
もちろん、扶養義務は義務者に扶養能力があることを前提とするものですから、本当に扶養ができないという事例も多々あることでしょう。そのような事例に非難を向けるべきでないのは当然です。しかし、くりかえしになりますが、本来扶養義務者の扶養は義務なのです。してもしなくてもよい恩恵や施しではないのです。扶養義務者がいるならば扶養がなされるのが原則であり、これがなされないのはイレギュラーな事態なのだという認識を、もっと世間において共有するべきだと思います。
助けあえる家族がいることの重要性
生活保護申請者の自立という観点からも、扶養義務者による扶養をとりつけるのは重要なことだと、私は思っています。
つくろい東京ファンドが実施した生活困窮者向け相談会に来場した方へのアンケート調査*6によれば、生活保護を利用しないと答えた方のおよそ3人に1人は「家族に知られたくないから」との理由を選択したそうです。納得感のある調査結果です。私自身、人並み以上にはいわゆる「どん詰まり」の方と接してきたと思いますが、やはりそういう方は「人と関わること」「人に迷惑をかけること」を極度に嫌う印象があります。
しかし、手垢のついた表現を用いるならば、人はひとりでは生きられませんし、他人と関わっていけばどうしても迷惑をかける場面は出てきます。逆説的な言い方になりますが、自立して生きていくとは、ナチュラルに他人に頼れるようになる、迷惑をかけられるようになること*7である、という面がたしかにあると思います。
そのように考えた場合、扶養義務者のような関係の近い家族というのは、自立への第一歩としてきわめて重要な存在です。自民党が夢想するような古臭い世界観だと言われるかもしれませんが、ダメでもクズでも*8、家族であるという一事をもって、とりあえずは面倒をみる。それが家族というものでしょう*9。
迷惑をかけるうえで一番ハードルの低い存在。しかも、扶養義務という法律上の担保まである。もちろん事例による部分はあるにせよ、こうした人たちにさえ甘えられないようでは、なかなか社会の中で生きていけるようになるのは難しい場合も多いのではないかという気がします。その意味で、扶養義務者の扶養をとりつけることは、生活保護申請者をふたたび社会で生きていけるようにするためにも重要なことではないかと思うのです。
ただし、上記のとおりそうした「どん詰まり」の方にこそ家族等に窮状を知られるのを嫌う傾向があるのではないかと疑われる以上、生活保護の申請段階において扶養義務者へ積極的にアプローチすることについては、私は必ずしも賛成しません。そうしたアプローチによって、本来生活保護を利用すべき人が利用を控える結果ともなりかねないからです。申請段階では本人の意思を尊重し、保護の決定等が出たのちに、根気よく(本人も含めた)各関係者を説得してつながりをつくっていくサポートをするべきではないか、というのが私の考えです。
おわりに
生活保護と扶養について、情報の整理がてら思うところを述べてみました。
「扶養は義務ではない」はまったく正しく、私自身満腔の同意を表するものですが、一方で「扶養は義務である」もまた、本記事で述べたように正しくはあるのだということを、心の片隅にでもとどめていただければうれしいです。
*1:以下、「法」といいます。
*2:「扶養義務履行が期待できない者の判断基準の留意点等について」(令和3年2月26日付厚生労働省社会・援護局保護課事務連絡)参照。
*3:https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-09/2013110901_01_1.html
*4:これらの者を「絶対的扶養義務者」といいます。
*5:こうした者を「相対的扶養義務者」といいます。
*6:https://tsukuroi.tokyo/2021/01/16/1487/
*7:より正確に言うなら、他人を頼ったこと、迷惑をかけたことをきちんと引きうけ、その上に関係を築いていけるようになること、でしょうか。
*8:当然ですが、生活保護申請者がそうだと言っているわけではありません。「どんな人間であっても」という趣旨です。
*9:それは、「家族愛」のようなキレイゴトではありません。「そういうものだ」という、ある種の理に近いものです。
「思想の自由市場」という妄執
はじめに
紙屋高雪 (id:kamiyakenkyujo)『不快な表現をやめさせたい!? こわれゆく「思想の自由市場」』*1を読みました。
2019年に起きた企画展「表現の不自由展・その後」の中止騒動と献血ポスターの「炎上」問題という2つの事件を題材に、表現の自由について考える内容です。しかし、本記事ではこれらの題材に必ずしもこだわらず、本書に(またインターネット上でも頻繁に)見られる考え方の問題点について指摘してみたいと思います。
指摘したいことはいくつかあったのですが、書いてみると少し長くなりそうだったので、本記事ではひとまず1つのテーマだけとりあげることにしようと思います。「思想の自由市場」についてです。
「思想の自由市場」について
正解は一つ、ではない
まず気になったのが、いわゆる「思想の自由市場」論を大した説明もないまま所与の前提か何かのように取り扱っているところです。こうした態度は紙屋さんに限らず世間一般に広く見られるものであり、私自身同論におよそ見るべきところがないとは別に思っていませんが、しかしこれが数ある考え方の一つにすぎないことはやはり確認しておくべきでしょう。
本書にも指摘のあるとおり*2、「思想の自由市場」論はアメリカ連邦最高裁のホームズ判事によって初めて表明されたものです。1919年のことでした。同論がアメリカにおいて現在も大きな影響力を保持していることは否定すべくもありませんが*3、それは発祥の地であるアメリカという一国においてそうであるというだけのことです。
ヨーロッパに目を向けてみれば、「思想の自由市場」論は決して大きな支持を集めているわけではありません。特に「戦う民主主義」を掲げているドイツのような国については、民主主義を否定する言論等に対する制限(の可能性)を認めているのですから、「思想の自由市場」論のような考え方とは明確に距離を置いていると言ってよいでしょう。
ここで重要なのは、「思想の自由市場」論を支持しないヨーロッパ諸国は専制国家でもなんでもないということです。当然のことながら、ドイツにおいても表現の自由は基本権として保障されています。「思想の自由市場」論をとらなければ表現の自由が失われるというわけではありません。表現の自由の価値にコミットした社会を設計する方法は一つではないのです。紙屋さんは、このことに対してあまりにも自覚的でないように見えます。「思想の自由市場」論なかりせば表現の自由なしと言わんばかりの口吻は、同論と距離をとるヨーロッパ諸国に対して無礼であるとさえ評せるかもしれません。
「思想の自由市場」という比喩が示唆するもの
自由市場は失敗する
また私などの目には、「思想の自由市場」という一種の比喩表現自体が、同論の立場の限界を示唆しているようにも見えてしまいます。
すでに述べたとおり同論は1919年に初めて表明されたものですが、それからわずか10年ほどののちにアメリカでとられたあまりにも有名な政策のことを知らない方はいないと思います。そう、ニューディール政策。世界恐慌を克服するため、ローズベルト大統領は国家的統制による経済安定策を断行しました。他ならぬアメリカ自身が、経済領域においては自由放任主義(≒「自由市場」論) を修正しているのです。
今や、経済市場が「失敗」しうることを疑う者はいないと言ってよいと思います。紙屋さん自身、次のように述べてそのことは認めているように見えます*4。
自由放任にしておいたら、力の強いものが弱いものを支配し、生き残れなくなって、自由や多様性が逆に失われてしまう……。
だからこそ、現実社会では、資本家と比べて労働者に特別の保護を与えたり、……差別が行われないようにさまざまな禁止や介入を法律・条例で用意しています。つまり自由を一定規制することで、多様性を維持しているのです。
ここで述べられているようなことは、基本的には「思想の自由市場」にも妥当します。たとえば「ヘイトスピーチはその犠牲者から発言の機会や影響力を奪い、かえって多様性を損なうものである」といった類の主張は、ヘイトスピーチ規制論においてもよく見られます。こうした主張は、まさに上記引用文と同じ思想に基づくものだと言ってよいでしょう。
そうだとすれば、表現についてもやはり「自由市場」を盲信して放任を貫いていてはかえってさまざまな弊害が生じかねないため、適切な規制や介入を行うことによって健全な状態を保つ必要があるという結論になるのが自然なように思われます。
「表現だけは特別扱い」でよいのか
大切でデリケートだから……
ところが紙屋さんは、そのすぐ後で次のように述べて、言論や表現だけは特別扱いで「自由市場」による淘汰に委ねなければならないとします*5。
ところが、言論や表現の分野はそうではありません。すでに述べてきたとおりですが、言論や表現という分野は、大切である上にデリケートな弱さを抱えた分野ですから、上からあらかじめ規制をかけるのではなく、できるだけ自由にすべきであり、弱者を攻撃するような間違った言論や表現は、そうした「思想の自由市場」のなかで淘汰されていくことを求めなくてはなりません。
比喩として自ら「自由市場」を持ち出しておきながら、現実の自由市場が内包する限界を指摘されると途端に「現実の自由市場とは違うのだ」と言い訳をする――これまた紙屋さんに限った話ではありませんが、「思想の自由市場」論者は、こうしたふるまいをあまりにもご都合主義だとは思わないのか、少々不思議な感じはします。
ともあれここで紙屋さんが、言論や表現は「大切である上にデリケートな弱さを抱えた」ものであると述べていること自体は、巷間流布している考えに基づいていると思われ、ゆえのないものでもありません。ただ私は、そのように断じてしまうことが妥当なのかという点について、もっと慎重に検討する必要があると考えています。以下では、紙屋さんの記述の趣旨を確認したうえで、その点についての検討を進めていきます。
表現は大切なのか
まず表現が「大切である」というのは、表現の自由が優越的地位にあるとする考え方を意識したものだと思います。
たしかに表現の自由は、他の憲法上の権利と比べても優越的な地位にあると言われることがあります。それは、表現の自由が「自己実現の価値」と「自己統治の価値」という2つの重要な価値を有することによるものです。
しかしそうであるならば、すべての表現が優越的な地位にあるとは必ずしも言えないはずです。個人的な価値たる「自己実現の価値」は基本的にどのような表現であっても有するにしても、「自己統治の価値」についてはこれを有しない表現もあることは明らかです。そして、「自己実現の価値」のみであれば他の憲法上の権利も有するものであって、表現のみを特別扱いする理由としては十分でないからです。たとえば本書でもふれられていた「わいせつ」な表現などは、「自己統治の価値」が認められないケースも多いでしょう*6*7。
本来、表現が「大切である」というためには、以上をふまえたうえで、「自己統治の価値」を欠く表現についても他の人権に比して特に「大切」だと言えるのか、言えるとすればそれはなぜか、といったことを丁寧に考察する必要があるはずです。ところが紙屋さんは、こうした考察を十分に行うことなく、すべての表現を安易に「大切である」としてしまっているように見えます。紙屋さんの表現を借りて評するならば、「雑」な議論だと思います。
なお、この点については過去に関連する記事を書いているので、そちらも参照してください。
表現はデリケートなのか
萎縮効果について
表現が「デリケート」であるというのは、表現規制による萎縮効果を指摘するものでしょう。萎縮効果とは、規制をおそれて人びとが過剰に行動を控えるようになってしまうことを言います。こうした萎縮効果論は憲法学において当然の前提のようになっているものであり、私自身もそうした考え方に強く反発しているわけではありません。
もっとも、萎縮効果はなにも表現規制だけに生じるわけではありません。 本書には萎縮効果を論じるなかで志田陽子『「表現の自由」の明日へ』33頁の記述を引用している箇所があります*8。説明に好適なので、孫引きになってしまって恐縮ですが、その箇所を引用します。
もしも何かの表現をしたり集会に参加したりしたことで、刑罰を受ける・多額の金銭を支払う・就職できないといった不利益があったとしたらどうだろう。人々はそのような不利益を被ってまで表現をしようとはしなくなり、自由な表現の空間は衰退してしまう。この傾向を「萎縮」と呼ぶ。
ここでは表現や集会を控えさせる不利益として、「刑罰を受ける・多額の金銭を支払う・就職できない」などが挙げられています。しかし、このような不利益をちらつかせられれば、表現や集会に限らず、たいていの行為を手控えるようになるでしょう。
少し前に、「忖度」ということばが流行しました。事実の隠ぺい、ねつ造、利益誘導……実にさまざまな領域において、実にさまざまな態様で、いま思い返してもげんなりするようなことが山ほどなされていましたね。
ところでこの「忖度」とは、見返りを期待しあるいは(報復人事などの)不利益をおそれて、言われてもいないのに相手の意図を推し量ってその意図に沿うよう行動しあるいは行動を控えることです。したがって、不利益をおそれて行動を手控える「萎縮」は、まさに「忖度」の一形態にほかなりません。そのことに気づけば、「萎縮」が決して表現に特有の問題ではないことを実感として理解できるでしょう。
そしてそうであるならば、表現が「デリケート」だというためには、「萎縮」が他の分野と比較しても表現において特に生じやすいのだということを、もっと丁寧に論証する必要があるはずです。残念ながら本書において、紙屋さんにそのような態度を見出すことはできませんでした。もっとも、この点についてはあまり紙屋さんを責めることもできません。専門家も含め法学を専攻する者全体に、あまり問題と真剣に向き合わないまま安易に「表現規制は萎縮効果を生みやすい」 と言ってしまうような傾向があるからです(私自身にもそういうところがあるのでよく分かります)。なのでこれは、自戒を込めて記しておくものです。
是正の困難さについて
あるいは、表現が「デリケート」であるとは、 表現規制は民主政の過程自体を傷つけるため回復が困難であることを指すのかもしれません。
たとえば、誤った政治に対してはふつう「それはおかしい」という批判の声(表現)があがります。そして、その声が支持され広まっていくことによって多数派を形成し、民主的な手続(選挙等)を通じて誤りの是正を果たすことができるようになるのです。
ところが表現規制がなされると、そうした批判の声があげられなくなり、支持を広げ多数派を形成することが難しくなります。そうなると当然、選挙等によって誤りを是正することもできなくなってしまいます。いわば民主主義自体が機能不全に陥ってしまうのです。こうした危険があることも、表現が「デリケート」であるとする一つの根拠として考えられるところです。
もっとも、以上の説明自体からすでに明らかなとおり、こうした意味での「デリケート」さは基本的に、政治的意思の形成にかかわる、「自己統治の価値」を有する表現について認められるものです。したがって、こうした観点からの説明もやはり、「自己統治の価値」を有しないものも含めたすべての表現について「デリケート」であるとするには不十分であると言わざるを得ないでしょう。
すべての表現が大切でデリケートだとは言えないのでは
ここまで見てきたように、表現のなかには「大切」で「デリケート」だと言えるものもあるのはたしかです。そうした表現について、他の分野とは異なる慎重な配慮が必要だとして現実の自由市場とは異なる「特別扱い」をすることには、ある程度理由があるのかもしれません。
しかし一方で、やはりここまで見てきたように、すべての表現が「大切」で「デリケート」だと言えるというわけでもない――少なくとも本書においてそのように言えるということが十分に論証されてはいない――のもたしかでしょう。そうした必ずしも「大切」で「デリケート」だとは言い切れない表現についてまで「特別扱い」をすることははたして適切なのか。それは(現実の自由市場における場合と同様に)かえって多様性の喪失や自由の毀損という結果を生むだけに終わりはしないか。疑問なしとしません。
おわりに
本書における「思想の自由市場」の扱い方について、気になるところを述べてきました。
いろいろ書いてきましたが、実は(というほど意外でもないかもしれませんが)私自身は、少なくとも表現の法的規制に対しては、決して積極的な立場ではありません。「思想の自由市場」論も、本当のところを言うと私にとってかなりおさまりのよい考え方ではあるのです。
それではなぜ、「思想の自由市場」論に対して疑義を呈するような内容の記事を書いたのか。その理由については本書に対してさらに述べたいこととも関連するので、今回は詳論しませんが*9、簡単にだけ説明しておくと、私(たち)が従来あまりにも無責任に表現の自由を称揚してきたことで、よくない状況を生み出してしまった――そのもっとも顕著な例がヘイトスピーチであり、(罰則がないとは言え)いわゆるヘイトスピーチ解消法のような法律が必要となる社会を生み出してしまったことは、無責任に表現の自由を称揚してきた私(たち)が負うべき大きな咎であると言ってよいでしょう――という思いがあるからです。
本書には、リベラルや左翼による規制を懸念する一節がありました*10。
昨今リベラルや左翼を自認する人たちの中にも「人権」を看板にした規制の主張が見受けられるようになり、左翼の一人として非常に気になるところです。
私自身は左翼ではなくリベラルかどうかも微妙なところがあるため想像でしかありませんが、おそらくそうした人たちは私と同じく上記のような思いをもっているのでしょう。最終的に「規制の主張」をとるかどうかはともかく、「在特会」以後の日本社会において、表現の自由とのかかわり方を見つめなおそうとする感覚はむしろきわめてまっとうだと思います。
表現の自由はむろん重要です。しかし、その重要性はわれわれの社会においてすでに十分認識されている。それどころか過剰に強調されてさえいる。いま必要なのはこうした状況に歯止めをかける言説だというのが私の考えであり*11、本記事もそのような考えに基づいて作成したものです。
*1:以下、「本書」といいます。
*2:本書118頁。
*3:もっともそのアメリカにおいてさえ、「思想の自由市場」論に対しては「社会に現存する権力分配の不均衡を固定化するものだ」というような批判――たとえば1980年代に特に関心を集めたマッキノンの活動などはそうした問題意識に立つものだと私は理解しています――が加えられており、古典的な「思想の自由市場」論がそのまま全面的に支持されているというような状況でもないでしょう。
*4:本書193頁。なお、引用文中「……」部は引用者において省略した箇所です。
*5:本書194頁。
*6:もちろん認められるケースもありうるでしょう。
*7:なお、こうしたことを述べると決まって「そんなことは明確に判断できない」「恣意的な規制の呼び水になる」といった類の反発が寄せられます(正直なところ、ワンパターンでうんざりします)。この種の事柄というのはゼロかイチかではなくグラデーションになっているものですから、判断の難しい境界領域はたしかに存在するでしょう。しかし一方で、明らかに「自己統治の価値」を有する、あるいは有しない、と言えるケースも当然ながら多々あるはずです。判断の難しい境界領域があることを理由に判断自体を放棄しろと迫るのは詭弁でしかないと思います(もちろん、そうした境界領域の判断を慎重に行うべきことについて、異論はありません)。
*8:本書158頁。
*9:機会があれば改めてきちんと論じたいと思いますが、さしあたり以下の過去記事などを参照していただくと、私の言わんとするところが少しは見えやすくなるかもしれません。
*10:本書196頁。
*11:もちろん、それは表現の規制を推進するということを意味しません。むしろ、そのような事態を避けるために各人の自覚を促すということです。
障害児への過剰な敵意を解消するために
はじめに
以下の匿名記事に接しました。
著者の通っていた小学校では養護学校の子と一緒に給食を食べることになっていたが、養護学校の子の一人が誰彼かまわず殴りまくる子で酷い目にあった。責任能力がなく何をやっても無罪の彼らが憎く、共生なんて絶対にしない、というような内容です。
障害のある人とどのように関係をもっていくかというのはなかなか難しい問題ですが、いずれにせよこの匿名記事のように「障害者はやりたい放題」などと勝手に思い込んで一人で憎悪を募らせていくのがよくないことは間違いないですね。
とりあえず、障害児に対する過剰な敵意を払しょくするための足がかりとして、上記匿名記事について簡単にコメントしてみようと思います。なお、記事に出てくる子どもたちについては、とりあえず10歳くらいと想定して話を進めます。
刑事上の責任
まず、誰彼かまわず殴りまくるという養護学校の彼(女)*1。彼が何をしても無罪だというのはそのとおりです。もっとも、そのことで「だからあいつらはズルい」などと憤るのは的外れです。それは障害という事情に配慮していないからなどではありません。他の(健常な)小学生*2も同じだからです。
わが国の刑法では、責任年齢というものが定められています。責任年齢は14歳とされており、その年齢に満たない者の行為については、罰せられることはありません。
そうすると、どのような帰結となるか。
説明するまでもないでしょうが、14歳に満たない小学生たちも全員、何をしても無罪だ、ということになります。養護学校の彼だけが特別なわけでは全くありません。
民事上の責任
以上は刑事上の責任についての話ですが、民事上の責任についても見ておきましょう。
不法行為などとして民事上の責任を追及する場合にも、やはり責任能力は求められます。もっとも、民事では刑事のように責任年齢が法定されているわけではありません。行為の責任を問う前提として、「自己の行為の責任を弁識するに足りる程度の知能」を備えていることが必要とされるのです。
こうした民事上の責任能力については一律に判断できるものではありませんが、実務上は12歳あたりが一応の目安であるとは言われているところです。したがって、10歳くらいの小学生であれば、やはり養護学校の子と同様、民事上も責任を問われない可能性が十分あると思われます。
また、もう少し根本的な話をすると、小学生くらいの子どもの場合、資力のない本人に対して損害賠償請求ができるかという問題よりも、親や学校などに対して損害賠償請求ができるかという問題の方が大きな意味を有することは少なくありません。こうした資力ある者への責任追及のための手段も、さまざまに用意されているところです。
たとえば不法行為者本人が責任無能力である場合には、親などの監督義務者が、その義務を怠らなかったこと等を証明しない限り責任を負うこととされています。また、学校側には児童に対する安全配慮義務がありますから、こうした義務への違反を理由として損害賠償を請求することなども考えられるところです。
このように、民事上の責任についても養護学校の彼だけが特別であるとは言えません。それに、仮に本人への責任追及が難しい場合――そのような場合は養護学校の彼だけでなく小学生たちについてもありうるわけですが――には、本人以外への責任追及の手段も用意されているのですから、泣き寝入りを強いられるということもありません*3。
おわりに
以上、養護学校の彼や小学生たちの刑事上・民事上の責任等について、簡単に説明してみました。
よく言われるところですが、共生の第一歩は相手を知ることです。きちんと実態を見ることもないまま、相手を悪魔化して思い込みだけで憎しみを募らせていっても、よいことは何もありません。
本記事が、障害児等の責任について正しい知識を得る助けとなることを願います。
だからもっと「障害者」の顔をしろ
シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下の記事を読みました。
「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス - シロクマの屑籠
昭和時代に比して「大人の発達障害」の職域は狭められているのではないか。その理由は何か 、といったことなどを考える内容です。
「大人の発達障害」の職域は狭められている、というのがシロクマさんの気のせいである可能性は留保したうえで、仮にそれが事実であった場合に私の思うところを記しておこうと思います。
大前提として、われわれの社会では、たとえば「健康で文化的な最低限度の生活」というような、その人の死活にかかわるようなラインについては、絶対に守られることになっています。動きがトロくても性格に難があってもまともに人と接することができなくてもそのラインはいわば権利として保障される。まずはこのことを確認しておく必要があるでしょう。
で、シロクマさんがおっしゃっているのは、このラインの向こう側のことですよね。
「職場や家庭に居場所がほしいよう」
「誰もボクを受けいれてくれない」
この手の繰り言は、いわば権利としての保障が尽きた先の地平に属するものです。そこでは基本的に、各人の「自由」が最大限に尊重されます。気に食わないものを拒絶することができる一方で、当然自らが拒絶されることもあります。
そのような地平において「居場所を得られる」のはどのような人でしょうか。キビキビ動ける人、性格のよい人、コミュニケーション能力のある人は付き合っていて気持ちがよいので、容易に「居場所を得られる」ことが多いでしょう。ではその逆の人たちは? 付き合うも付き合わないも「自由」であるなら、あえてそうした人たちと付き合いたいと思うでしょうか。答えは明白だと思います。
そうした「逆の人たち」にもかつては居場所があったというなら、それは少なくとも彼らがコミュニティの一員であろうとはしたからでしょう。そしてコミュニティへの加入やその結束の強化は、フォーマルな関係から離れたところで行われるものです。
陳腐な例ですが、いわゆる飲みニケーションや社内行事などへの参加圧力は、かつては今よりもずっと強かったでしょう。そうした場へ連れ出されることは、「逆の人たち」にとって負担だったかもしれません。しかし一方で、そうした場への参加によって彼らもコミュニティの一員(であろうとはしている)と見なされ、居場所を与えられたという側面は間違いなくあったのだと思います。
その意味では、「逆の人たち」に居場所のない現状は、彼ら自身が生み出しているところもあるんですよね。
インターネットを見渡すと、ASDやADHDを自称している人あるいはコミュニケーション能力に課題を抱えている感じの人が、常軌を逸したほとんど狂信的な仕方で「自由」を主張している例はとても多い*1。そのことについてはこれまでもくり返しふれてきたので改めて述べませんが、彼らにかかれば飲みニケーションや社内行事は「同調圧力」として切り捨てられ、社会常識の説諭は「正義の押しつけ」として糾弾されるでしょう。
そうした彼らのふるまいが誤りであるとは言いません。少なくとも現時点においてそうしたふるまいが実際に「自由」であることは多いでしょう。しかし、いわば「お荷物」のくせに人間関係の構築も価値観のすり合わせも拒むような人間を受けいれないのも、またコミュニティ側の「自由」です。
気持ちは分からないでもないのです。コミュニケーションの苦手な彼らが、コミュニケーションからの逃走を正当化するために「自由」を主張する。おそらくはそういうことなのでしょう。しかし、それは彼らをますます孤立させることにしかなりません。結局、「自由」を主張することで最もわりを食う人たちが最も声高に「自由」を主張しているわけで、哀れと言えば哀れではあります。また、「正義の暴走」「お気持ちを押しつけるな」式の論陣を張って、彼らの社会的孤立を煽り立てるシロクマさんのような論者は罪深いな、と感じるところでもあります。
私自身はこうした「自由」を盲目的に信奉するような態度は省みるべきところがあるとくり返し述べていますが、ほぼ取り合われないばかりか、罵詈雑言を投げつけられることも珍しくないですからね……。
ま、他人の考えを変えることはできません。圧倒的優位を誇る「自由」教を前に、私のような泡沫ブログの運営者など無力なものです。「そのへんどうなんですか」*2と問われても、「そう思うなら、まずはシロクマさんのような方が自身の主張を省みるのが効果的では」と申し上げるよりありません。あとは、「自由」ドグマに殉じるという方に対し、こう述べてシロクマさんも指摘する診断・治療の道を歩む可能性についての自覚を促すくらいですかね。
もっと「障害者」の顔をしろ、と。
反「死刑廃止派」のための死刑廃止論
萱野稔人『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書、2017年)を読みました。
死刑廃止論についての理解が浅いように思える箇所も多く、決して手放しで評価できるような本ではありませんでした。特に以下の記述などは失笑もの*1。
死刑反対派はみずからの寛容さこそ道徳的に高尚であるという思い込み(もしくは思い上がり)をすてなくてはならない。
まずは萱野自身に「死刑反対派はみずからの寛容さこそ道徳的に高尚だと思い込んでいる」 などという思い込みをすててもらいたいところですね。そういう人もいるのかもしれませんが、少なくとも死刑に関する法的議論をふまえたうえで廃止を唱えている者の大半は、「寛容」や「赦し」として死刑廃止を求めているわけではないでしょう。少なくない場合において極刑に処されるような者は決して許すことができない*2と思いつつ、しかしそのような者であっても人間である以上生命に対する権利(人権)があるのだから、ゆえなく*3その権利が侵害されるべきではないとして死刑廃止を主張しているのです。
こうした記述からもうかがえるとおり、やたら(従来の)死刑廃止派に対する見当違いな(と私には思える)敵意が目につく本書ですが、しかし本書は結論として死刑廃止を主張しています。きわめて大ざっぱにまとめると、本書は、
- 死刑の犯罪抑止力は証明されていないこと
- 道徳的な見地からは死刑の問題に決着をつけられないこと
を論じて、死刑問題は政治哲学的な観点から考察する必要があるとします。そして、そのような観点からの考察として、
- 冤罪が単なるミスではなく構造的な問題であること
などを指摘し、
- 死刑と同等(以上)の「厳しさ」をもつものとしての終身刑の導入
によって死刑廃止の可能性を探るべきだと主張するものです。
このうち、死刑の犯罪抑止力が証明されていないというのは重要なところです。この点について、「死刑の犯罪抑止力を科学的、統計的に証明することは困難である」とする答弁書*4 や国連が発表した同旨の研究結果などが紹介されているのはよいと思います。
また、足利事件などをとりあげて冤罪が単なるミスではなく構造的な問題であることを指摘しているのもよかった。たとえば基本的に取調べでは、本人が供述を望んでいるかどうかにかかわらず、取調官は被疑者等に働きかけて供述を得ようとするものです。そして積極的に供述しようとしていない者をそうした働きかけによって供述させることは、真実でない供述を引き出してしまうリスクと不可分です。もちろん違法性のある厳しい取調べの方が虚偽供述を生む危険は大きいでしょうが、違法適法にかかわらず、取調べ自体がそうした危険性を内包しており、その危険性は取調べに熱心に取り組むほどに高まる。そうである以上、冤罪は単なるミスではなく構造的に不可避なものとして、刑事制度に織り込んで考える必要があります。その帰結として、取り返しのつかない死刑という刑罰――それ以外の刑罰については、本人への補償等がある程度可能です――は避けるべきなのです。本書はこの点についてなかなかよく考察できていたと思います。
手放しで評価することはできないものの、本書には上記のような見るべき箇所もあり、箸にも棒にもかからないというものでもありませんでした。また、死刑廃止の主張に反感を抱いているような層に対しては、むしろ本書のような論調の方が共感を得やすいのかもしれない、という気もします。死刑廃止の世論を形成するためには死刑廃止派ではなく死刑存置派にリーチする必要があることを考えれば、本書はあるいは私のような者が思う以上に価値ある一冊なのかもしれません。