法律を勉強してみたい人へ

こんな匿名記事に接しました。

「法律のことを勉強してみたい!」と少しでも思ったあなたへ

「とりあえず憲法民法・刑法から勉強するのがよい」という結論だけは同意できるけれど、全体的になんだかなー、という感じです。特に「細かい条文や判例を覚えることにあまり意味はない」というのは、かなり違和感がある。たしかに断片的・雑学的に条文(や判例)を覚えることにあまり意味はないのだけれど、一方で条文(や判例)を離れた法学などというものもあり得ないので。

  1. 条文を知り
  2. 判例を知り
  3. それらを体系的に位置づける

大雑把にいえばこれが法学であり、リーガルマインドを身につけるとは、「条文や判例を体系的に位置づけられるようになる」ということです。なので、条文や判例を知らずにリーガルマインドを涵養することなどできないと思います。

刑法で「捜査や公判のニュースへの理解が深まる」ってのもどうなんですかね。それ刑事訴訟法で扱う話でしょう。

まあ、いちいち論っているとキリがないので、どのような本を読むべきかということについてだけ簡単にコメントしておきます。

上記匿名記事で決定的に問題だと思うのは、六法や判例集もあわせて買うべきことにふれられていない点。六法はインターネットで条文を検索するということも一応考えられないではないけれど(ただし、民法など条文数の多い科目を勉強するなら絶対に小型のものでよいので買っておくべきだと思います)、判例集は買うしかない。特に学者の基本書では、文中で言及した判例についていちいち丁寧に説明していないことが多いので(予備校本だと重要判例の要旨程度は掲載されている)、判例集がないとそもそも基本書をまともに読むことすらできないと思います。これもやはり条文・判例軽視の姿勢のあらわれなんですかね。とにかく、六法と勉強する科目の判例集は買う必要があります。別にどこのものでもかまいませんが、迷うならポケット六法と判例百選あたりを買っておけば無難でしょう。

基本テキストについては、憲法と刑法は学者の基本書でも予備校本でもどちらでもよいと思います。予備校本もかなりよくできているので。学者の基本書だと、憲法芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第7版、2019年)が定番ですね。刑法は、総論・各論が一冊にまとまっていることもあり、山口厚*1『刑法』(有斐閣、第3版、2015年)を勧めることが私は多いですが、他にもよい本があるかもしれません。予備校本だと、試験対策講座(シケタイ)やC-Bookあたりですかね。予備校本の難点は、書き物をしたり議論をしたりする際に、出典として示せないところでしょうか(笑)。

一方で民法は、学者の基本書で勉強するべきだと思います。ただ、では何を勧めるかとなるとこれがなかなか難しい。民法は、総則、物権、担保物権、債権総論、債権各論、不法行為(これも債権ですが)、親族・相続といった各分野からなり、しっかり学ぼうとすればそれぞれについて1冊は基本書が必要になります。たとえば、上記匿名記事であげられている佐久間毅の「民法の基礎」シリーズは良い基本書だと思いますが、『民法の基礎1』は総則、『民法の基礎2』は物権についての本であり、他分野についてはさらに別の基本書を買わねばなりません(ちなみに、「民法の基礎」シリーズは今のところこの2冊しか出ていません)。法律書は決してお安くないので、初学者に対して何冊も勧めるというのは、気がひけるんですよね。そういう意味では、潮見佳男『民法(全)』(有斐閣、第2版、2019年)なんかは良いかもしれない。タイトルどおり、1冊で民法の全分野を扱っているので。私自身はこの本を読んでいないので積極的に勧めることはできないのですが、潮見はいちおう名のある学者ですし、彼の『基本講義 債権各論Ⅱ 不法行為法』(新世社、第3版、2017年)などはとても分かりやすかったので、大外れということはないだろうと思います*2

それから、あまりこのことを明言する人はいないのですが、やはり問題集も買っておいた方がよいと思います。知識は問題演習を通じて定着するものです。また、単に基本書の字面を追っているだけでは分からないような問題の所在が、問題を解く中で明確に見えてくるということもあります。最低でも短答式、できれば論述式についても問題演習はしておきたいですね。予備校などがいろいろ出しているので、適当に選べばよいと思います。公務員試験対策のものなどでもよいでしょう。

以上、思いつくままに書き散らしてみましたが、少しでも法律を勉強してみたい人の参考になれば幸いです。 あ、それと、最近読んだ漫画だと、浅見理都『イチケイのカラス』が結構よかったですよ。

*1:平成29年に最高裁判事になった人です。

*2:彼の本の中には、「潮見語」と揶揄されるようなきわめて分かりにくいものがあるのも事実です。ただし、そうした本の殆どはすでに一定以上法を学んでいる者に向けて書かれたものであり、入門者向けの本における潮見の記述には明らかに平易に説明しようとする姿勢が見受けられるので、あまり心配することはないと思います。

田嶋陽子と私のフェミニスト批判

このところ再評価の兆しがある田嶋陽子の、『愛という名の支配』(新潮文庫、2019年)を読みました。

愛という名の支配 (新潮文庫)

田嶋の代表作、と言ってよいのかどうかは分かりませんが、1992年に太郎次郎社、2005年に講談社+α文庫から刊行され、今回が3度目の刊行ということなので、少なくとも長く読み継がれてきた本だということは言えるでしょう。

本書は、経験に根差した「田嶋のフェミニズム」を語るものです。なので、理論的な面からフェミニズムを概観したいという向きには、必ずしも適しないかもしれません。もっとも、そこで暴かれている女性差別の構造は、ラディカルであるだけに、依拠する理論的立場や時代といった「細かな」ことを越えて、ある種の普遍性を獲得しているように思います。

実際に読んでいただくのが一番よいと思うのであまり詳しい内容にふれるつもりはないのですが、私が本書で最も感心した点だけ書き記しておきます。本書は、「差別によって女性がスポイルされている」ことを明確に認めている。それがなにより素晴らしいと思います。本書44頁以下(「第二章 女はドレイになるようにつくられる」)を引用します。  

たとえば、ハンコ屋さんに行って、おじさんといろいろ話をします。おじさんは、スーツを上手に着こなしたりして、なかなかスマートです。ところが、話の途中で用事を思い出したのか、キッとうしろをふり向くと、とつぜんその笑顔がべつの顔になるときがある。その顔で、「オイ、あれはどこへ行った」と言う。すると、「ン?」とか「ハイ」とか言ったり、ときにはだまってヌウッっと出てくる人がいる。それが私の言う”お化け”なんです。そうやって出てきた人は、だいたい、灰色っぽいか褐色っぽいかエンジっぽいか、そんな色の印象なんですね。くすんだ色の細かい花柄のかっぽう着などを着て、お化粧なんかしていませんから、顔も褐色で。

ハンコ屋のおじさんとその妻。この対比は、もちろん分かりやすい一事例を示すものにすぎませんが、しかし残酷なほど鮮明に、スポイルされた女の姿を描き出していると思います。

人当たりがよくて、オシャレなおじさん。まともな受け答えもせず(できず)、身だしなみにも気をつかわない妻。 両者を比較したとき、能力があるのも、人間として魅力的なのも、多分おじさんの方でしょう。

しかしそうなったのは、妻(だけ)のせいではありません。結婚という制度が彼女を家の奥に押し込め、人前に出てしかるべきふるまいをする機会も、自らの足で立って金を稼ぐ機会も奪ってしまった。その結果、能力も社会性もない、つまらない人間を生み出してしまったのです。

あくまでも私の印象にすぎませんが、フェミニストと呼ばれる方の多くは、このこと、つまり「差別によって女性は能力のないつまらない人間にされている(面がある)」ということに正面から向き合っていないように感じられます。その結果、専業主婦であれハイヒールであれ、「本人が望むならオーケー」ということを安易に言ってしまう。

もちろん最終的には、真に本人が望むのであればオーケーということにはなるのですが(その自由は奪われるべきではありません)、そうした自由意思に基づく選択を可能ならしめるためには、 まず専業主婦なりハイヒールなりの「真の姿」を白日の下に晒すことが不可欠なはずです。

いまの社会において職を辞して家庭に入ることはキャリアの中断というよりは断絶に近いこと。復職後のきわめて低い給与水準。結婚前の人間関係も少なからぬ部分は断ち切られてしまうこと。3人に1人は離婚すると言われるこんにち、夫との関係が破たんしたときに、そのようにキャリアも人間関係も奪われた状態で本当に1人で生きていくことができるのか。できないとすれば、意に沿わぬまま夫に従って生きていくのか(それこそ奴隷ではないか)。ハイヒールにしても、さまざまな健康被害が報告されている。専業主婦にせよハイヒールにせよ、女を人間としてダメにする側面というものがあることは間違いないのだと、私は思っています。

そうであるならば、この種の問題は単純に「本人が望むなら」などと述べて片づけてしまってはいけないのでしょう。あえて専業主婦なりハイヒールなりを「望む」というのは、本当に本人の自由な意思によって選びとられたものなのか。社会にとって都合のよい幻想を見せられ、踊らされているだけではないのか。女性解放を真剣に考える者は、まずこうした疑問をもつ必要がある。そして、専業主婦なりハイヒールなりが女をスポイルするものであること、あるいは現にスポイルしていることまでを率直に指摘せねばならないのだと思います。結婚制度は「差別の制度化」(本書62頁)であると述べた田嶋や、ハイヒールのような「不自然な靴を美しいと感じて履いているなんて野蛮」*1と断じた上野千鶴子のように。そのうえでなおそれらを選択するという者に対してはじめて、「あなた(本人)が望むなら」という言葉を口にすることが許されるのではないでしょうか。

言うまでもなく、このようなあり方は万人に嫌われる苦しい道です。しかし真に女性解放を求めるならば避けては通れない道でもある。本書はこの苦しい道を歩むものであり、その一事だけをとっても読む価値のある良い本だと思います。

増田での個人への言及は基本規約違反です・再論

はじめに

先日、はてな匿名ダイアリー(以下「増田」といいます)での個人への言及に関するでいだら(id:daydollarbotch)さんの以下の記事に接しました。

増田に自己または他人のidを記載する行為は規約違反か? - 誰かの肩の上(以下、「でいだら記事」といいます)

記事の内容としては、

  1. はてなの規約等において、増田でのid記載を禁止する規定はない
  2. はてなに問い合わせたところ、増田における他者のid記載は明示的に禁止していない旨の回答があった

ことを主たる理由として、増田での個人への言及が規約違反かどうかは自明でない(でいだらさん自身は規約違反でないと考えている)と主張するものでした。

ところで、増田での個人への言及については私も以下の記事で見解を示しています。

増田での個人への言及は基本規約違反です - U.G.R.R.(以下、「拙見解記事」といいます)

タイトルをご覧いただけば分かるとおり、 私は増田での個人への言及は基本的に規約違反だと考えています。私としては、このような自身の見解は必ずしもでいだらさんの見解と対立するものではないと思っていたのですが、やや不明確なところもあったため、でいだら記事のコメント欄にてやりとりをさせていただきました(でいだらさん、ありがとうございます)。その結果、でいだらさんは以下のようなお考えであることが分かりました。

  • 増田での迷惑行為、嫌がらせに該当しないような特定他者への言及は、(削除依頼に基づく削除があったとしても)規約違反であるとは限らない
  • 迷惑行為等としては、例えば、刑法上の名誉毀損・侮辱に当たる行為や、被言及者が被言及を嫌がっているのに被言及者に精神的苦痛を与えるために言及を重ねる行為などを想定している
  • 増田で行われる誹謗中傷を含まない(いわば「まとも」な)個人への批判は迷惑行為、嫌がらせに含まれない
  • 「削除依頼・削除の有無」は「規約違反か否か」の判定に影響しない

このようなお考えであるとすれば、おそらく私の見解とは異なるところがあるということになると思われます。そこで本記事では、私とでいだらさんの見解の一致するところ、異なるところを整理するとともに、私の見解を改めて説明しておきたいと思います。

増田での個人への言及のすべてが規約違反ではない

まず私とでいだらさんの見解で一致しているのは、「増田での個人への言及のすべてが規約違反ではない」という点です。

でいだらさんがそのような見解をとっていることは明らかでしょう。

そして私も、増田での個人への言及を扱った記事を、本記事も含めてこれまでに6本公開していますが、そのいずれにおいても増田での個人への言及は「基本的に」規約違反であるとか、「ほぼ」規約違反であるといった書き方をしており、そのすべてが規約違反であるという見解をとってはいません。

増田での個人への言及のすべてが規約違反というわけではないのだから、

  1. はてなの規約等において、増田でのid記載を禁止する規定はない
  2. はてなに問い合わせたところ、増田における他者のid記載は明示的に禁止していない旨の回答があった

ことは当然です。逆にそれ以上のことは、これらの事実から直ちに導けるわけではありません。

どのような増田での個人言及が規約違反となるのか

私とでいだらさんの見解が異なるのは、「ではどのような増田での個人言及が規約違反となるのか」という点です。

この点について、でいだらさんが迷惑行為等(≒規約違反*1として想定している「刑法上の名誉毀損・侮辱に当たる行為や、被言及者が被言及を嫌がっているのに被言及者に精神的苦痛を与えるために言及を重ねる行為など」というのは、増田でなくidを出したブログで行っても規約違反となりうるものです。でいだらさんは、「削除依頼・削除の有無」は「規約違反か否か」の判定に影響しないとも述べておられますから、おそらくは、「増田とidを出したブログの違いは個人言及した場合に当該個人からの削除申立てによって照会なく削除されるかどうかという点だけであって、規約違反かどうかを判断するうえでは違いはない」とお考えなのではないかと思います。

しかし、私はこのような見解は誤りだと思います。その根拠についてはすでに拙見解記事で示しているのですが、改めて述べておくと、はてラボ開発者ブログの記事*2(以下「ラボ記事」といいます)に以下のような記載があるからです。

はてなは、はてな匿名ダイアリーについて、投稿者が表示されず文責を問いにくいサービスであるという性質上、特定のユーザーや個人を批判・攻撃する文章を公開する目的での利用を適切とは考えておりません。特に、投稿者が表示されない状況を悪用し、言及された当事者が掲載を望まない内容を意図的に投稿する行為は、嫌がらせ、迷惑行為に該当すると判断して差し支えないものと考えます。

ルールを解釈するにあたって、立案関係者の解説を参照するのは当然のことです。このラボ記事は立案関係者の解説に相当するものと言ってよいと思いますが、その中で、「投稿者が表示されない状況を悪用し、言及された当事者が掲載を望まない内容を意図的に投稿する行為は、嫌がらせ、迷惑行為に該当する」と明言されているのです。

引用文中に増田の「投稿者が表示されず文責を問いにくいサービスであるという性質」への言及があることからも分かるとおり、ここでラボ記事が問題としているのは、増田が原則として発言の責任を取らなくてよい場だということです。

たとえば同じ匿名であってもidを出している場合には、継続的に運用することによって、当該idの人格と言動とはひもづけられます。たとえば増田ではg××××さんやz×××さんへの罵詈雑言が頻繁に投稿されていた(いる?)のですが、これはそれらの方の発言が当該idとひもづけられ、評価されている結果にほかなりません。idを出している場合には、このような形で言動に対して一定の責任をとるだけの仕組みが確保されているのです。

こうした見地からすれば、裏づけの取れる形でidを明らかにしているような増田については、責任をとる主体が明確になっており、「投稿者が表示されない状況を悪用」していないと解する余地もあるかもしれません。しかし、増田での個人言及の大半はidを明かさないまま他者を批判するものです。これは文責を問われない立場から一方的に他者を攻撃するものにほかならず、ラボ記事が問題視する用法そのものですから、「投稿者が表示されない状況を悪用」していると言ってよいでしょう。そして、文責を問われない立場から一方的に攻撃されることを望む者は少ないでしょうから、普通は「言及された当事者が掲載を望まない内容を意図的に投稿する行為」にもあたるものと思われます。したがって、増田での個人への言及は基本的に「投稿者が表示されない状況を悪用し、言及された当事者が掲載を望まない内容を意図的に投稿する行為」に該当し、「嫌がらせ、迷惑行為」としてはてな利用規約6条2項dに違反すると、私は考えます。

なおこのように考える場合、「削除依頼・削除の有無」は、被言及者が言及を望むかどうかを判断する指標として、「規約違反か否か」の判断に影響することとなります。また、誹謗中傷を含まないいわば「まともな」批判については、idを出したブログで行うか増田で行うかによって、利用規約違反にあたるか否かの判断が変わりうることになります。idを出したブログで行う場合には、「まともな」批判は健全な言論活動であって咎められるべきものではありませんから、基本的には利用規約違反にあたりません。しかしこれを増田で行う場合には、文責を負わない立場から一方的に他者を論うことになりますから、被言及者が言及を望まない場合には、基本的には利用規約違反にあたることになります。この点が、私とでいだらさんの見解で最も大きく異なるところだろうと思います。

おわりに

以上、私とでいだらさんの見解の一致するところ、異なるところを整理するとともに、私が増田での個人への言及は基本的に規約違反であるとする理由について、改めて説明しました。正直なところ、私の主張については拙見解記事において必要十分に論じたと考えており、今回内容的に新たに付け加えたところはありません。かみくだいた説明をすることによって、少しでも私の言わんとするところについて理解を深めていただけたなら幸いです。

最後に差し出がましいようですが、でいだらさんに1つだけ進言しておきたいことがあります。すでに拙見解記事でも言及しているのでご承知のこととは思いますが、ラボ記事には以下のような記述があります。

はてな匿名ダイアリーへの投稿が申し立てにより削除されたにもかかわらず繰り返し同様の投稿を行う悪質なユーザーは、はてラボおよびはてな全体のサービス利用停止措置などの対象とし、別のアカウントを取得しての再利用もお断りします。 

削除されたにもかかわらず増田での個人言及をくりかえすユーザーは、はてラボおよびはてな全体のサービス利用停止措置などの対象となるのです。でいだらさんは、このことの意味を十分理解しておられるでしょうか。

率直に申し上げて、でいだら記事は「増田での個人言及は利用規約違反ではないからやってもよい」というメッセージを与えかねないものだと思います。もちろん、記事にそのようなことはひと言も書いてありませんし、実際でいだらさんはそのような意図であの記事を書いたのではないでしょう。そのことは私には分かります。しかし残念ながら、世の中にはそれが分からない者、自分の望む結論を勝手に読みとる者がいるのです。そうした者は、でいだら記事を見て、増田での個人言及にある種のお墨つきをもらったと考えるでしょう。そして、「規約違反ではないのだから」と増田での個人言及をくり返し、結果はてなから利用停止措置をとられる。そのような事態に立ち至る可能性は、それなりに高いと思います。もちろんそれはその者自身の責任でしかないのですが、だからと言って、自身の記事を読んで行動に及んだ結果不利益を被っている者を見て、「自業自得だ」「私には責任はない」と平然としていられますか。私にはちょっと無理ですし、おそらくはでいだらさんも同様ではないでしょうか。もちろん最終的な判断はでいだらさんにお任せしますが、私としては、でいだら記事は取り下げるなり補足をいれるなりした方がよいと思います。

*1:はてな利用規約6条2項dは、「嫌がらせ、迷惑行為」等を禁じています。

*2:http://labo.hatenastaff.com/entry/2014/09/04/182358

増田での言及に対する削除申立ての方法

前回記事に対して、id:quick_pastさんから以下のようなブックマークコメントをいただきました(ありがとうございます)。

増田での個人への言及は基本規約違反です - U.G.R.R.

増田ってそのわりに、頻繁に誰かを名指ししてネタにする記事が多かったけど、あれも全部駄目ってことだったのかな。今度から通報してもいいんだろうか。

2020/02/13 07:48

b.hatena.ne.jp

もちろん、はてな匿名ダイアリー(以下「増田」といいます)で他者を名指してネタにする記事は基本的に全部ダメです。被言及者本人が削除申立てを行えばほぼ間違いなく消えるので、ご不快なものがあれば「今度から」と言わず、これまでの分についても積極的に申立てをしていただけると個人的には嬉しいです。

削除申立てについては、はてなの問い合わせ窓口*1から行うことができます。入力するべき内容はきわめてシンプル。

  • 登録メールアドレス
  • 自身に言及した増田記事(以下、「違反記事」といいます)のURL
  • 違反記事の削除を希望すること
  • 違反記事の投稿者に対して削除依頼を受けた旨を伝えることに同意すること

これだけです。もっとも、最後の点は少しうっかりしやすいと思うので、気をつけてください。

なお、quick_pastさんに言及した最近の増田記事を軽く検索してみました。網羅的ではないですが、ブックマークがついた記事としてはたとえば以下のものがあるようです。 

123456

よければ参考にしてください。 

*1:http://www.hatena.ne.jp/faq/q/abuse

増田での個人への言及は基本規約違反です

下記記事(以下、「冒頭記事」といいます)に関連して。

https://megalodon.jp/2020-0212-0935-42/https://anond.hatelabo.jp:443/20200211234453

うーん、私これ結構ずっと言い続けてきたつもりなんですが、まだ浸透してないんですかね。 はてな匿名ダイアリー(以下、「増田」といいます)で個人に言及するのは、基本的に規約違反ですよ。

このことについて説明した拙記事としては下記のものがありますが……。

増田での個人攻撃の度が過ぎる - U.G.R.R.

まあ、面倒くさがらずもう一度説明しておきます。

2014年9月4日以降、増田において個人に言及する記事は基本的に規約違反です。具体的には、「嫌がらせ、迷惑行為」として、はてな利用規約6条2項dに違反することになります。

このことについては、はてラボ開発者ブログの記事*1(以下「ラボ記事」といいます)に説明があるので、引用します。

はてなは、はてな匿名ダイアリーについて、投稿者が表示されず文責を問いにくいサービスであるという性質上、特定のユーザーや個人を批判・攻撃する文章を公開する目的での利用を適切とは考えておりません。特に、投稿者が表示されない状況を悪用し、言及された当事者が掲載を望まない内容を意図的に投稿する行為は、嫌がらせ、迷惑行為に該当すると判断して差し支えないものと考えます。

なお、ラボ記事には、「削除されたにもかかわらず繰り返し同様の投稿を行う悪質なユーザーは、はてラボおよびはてな全体のサービス利用停止措置などの対象」とする旨も記載されており、積極的に削除申立てを行うことは、はてなから悪質なユーザーを一掃することにも資すると思います。増田で言及された方は、少しでも不快であれば、積極的に削除を申し立てていただけると個人的には嬉しいです。

ただ今回問題となっている冒頭記事では、著者であるid:Zephyrosianus さんがブックマークコメントにて自身が著者であることを裏づけの取れる形で明らかにしており*2、後に記事中に自身のidも記載しています*3

ラボ記事からの引用中に増田の「投稿者が表示されず文責を問いにくいサービスであるという性質」への言及があることからも分かるとおり、増田での個人への言及が基本的に規約違反とされるのは、増田が原則としては発言への責任をとらなくてもいい場所だからです。

この点、同じ匿名であってもidを出している場合には、継続的に運用することによって、当該idの人格と言動とはひもづけられます。たとえば増田ではg×××さんやz×××さんへの罵詈雑言が頻繁に投稿されていた(いる?)のですが、これはそれらの方の発言が当該idとひもづけられ、評価されている結果にほかなりません。たとえ匿名であっても、idを出している場合には、このような形で言動に対して一定の責任をとるだけの仕組みが確保されているのです。

そうした見地からすると、idを明らかにしている冒頭記事は、責任をとる主体が明確になっており、増田での個人への言及を基本的に規約違反とした趣旨が必ずしも妥当しません。したがって冒頭記事については、私自身は積極的に批判するものではありません(もちろん、規約に反しないことを保証するものでも全くありませんが)。

*1:http://labo.hatenastaff.com/entry/2014/09/04/182358

*2:https://b.hatena.ne.jp/entry/4681298796434828706/comment/Zephyrosianus

*3:なお2020年2月12日20時40分ごろに再び確認したところ、さらに変更が加えられて特定idへの言及自体が消え、自ブログに誘導する内容になっているようです。

明確性なんていらない(いる)

はじめに

献血ポスターの話自体にはあまり興味がないのですが、先日来「過度に性的」をめぐって理解の足りないコメント等をたびたび見かけるので、この種の問題を語るうえで最低限必要な知識について簡単に説明しておきたいと思います。そもそもどういう話かについては、さしあたり以下のまとめを参照してください。

宇崎ちゃん献血ポスター批判派の「過度に性的」は言語化されていない - Togetter

要するに、献血ポスターを批判する者は、「過度に性的」であることを問題視しているようだが、「過度に性的」とはどのようなことをいうのか言語化されていない。規範を明確にするべきだ、という主張ですね。

そもそも、「過度に性的」であることを問題視している、という前提自体が誤訳に基づく誤った理解ではないか、との批判もなされているようですが*1、その点については本記事では扱いません。本記事では、原理的に規範というものを完全に明確化することはできないのだという話、そしてその結果として、規範に求められる明確性はそこまで高いものではないのだという話をします。

規範の明確性を徹底することはできない

まず理解してほしいのは、規範が不特定多数に向けられたルールだということです。そして、不特定多数に向けられたものである以上、その内容がある程度抽象的、つまり不明確になってしまうことは避けられません。

何でもいいですが、たとえばヘイトスピーチを禁止するルールを定めることになったとしましょう。このとき明確性だけを考えるのならば、たとえば「『○○人は殺せ』と言ってはいけない」というように、具体的な言動を挙げるのが最も紛れが少なく分かりやすい方法です。

しかし、このようなルールだと対応しきれない事態が無数に生じうることは、すぐに分かると思います。たとえば○○人でなく「××人は殺せ」ということは上記ルールになんら抵触しませんし、「○○人は犯せ」ということについても同様です。こうしたバリエーションはいくらでも考えられ、その全てをカバーしたルールを作ることはおよそ不可能です。

そこで実際にこうした言動を禁止する場合には、ある程度抽象化して、たとえば「特定の民族・国籍に属する者に対して危害を加えるとする発言をしてはいけない」というようなルールとすることになるでしょう。こうしたルールにすれば、「危害を加える」とは具体的にはどのようなことをいうのか等は若干分かりにくくなる(明確でなくなる)ものの、「○○人は殺せ」だけでなく「××人は殺せ」や「○○人は犯せ」、さらにその他のバリエーションにも対処することが可能になるからです。

以上のとおり、多様なケースへの対処を可能にしようとすれば、規範はある程度抽象的で不明確なものとならざるを得ません。まずはこのことをきちんとふまえる必要があります。

判例が求める規範の明確性の程度

そうは言っても、規範が不明確だと、自分がしようとしている行為が許されるかどうかの判断ができないなど、いろいろと不都合も生じます。ですから規範には、さまざまなケースに対処することができるだけの抽象性を保ちつつ、同時に明確でもあることが求められるのです。

それでは、規範に求められる明確性とはどの程度のものなのでしょうか。この点に関して、俗に徳島市公安条例事件と呼ばれている最高裁昭和50年9月10日大法廷判決を見てみましょう。これは、集団示威行進に参加したAが、集団行進者に対して、マイクで呼びかけるなどして蛇行進をするよう刺激を与え、もって交通秩序の維持に反する行為をするよう煽動したなどとして徳島市の集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下、「条例」といいます)3条3号、5条違反等で起訴された事件です。条例3条3号、5条を引用しておきましょう。

(遵守事項)

第3条 集団行進又は集団示威運動を行うとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。

(1) (略)

(2) (略)

(3) 交通秩序を維持すること。

(4) (略)

 

(罰則)

第5条 第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定による届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽動者はこれを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する。 

本件では、主として「交通秩序を維持すること」という要件の明確性が問題とされました。このような一般的、抽象的な文言ではいかなるものをその内容として想定しているのか不明確であるから、罪刑法定主義を保障した憲法31条に違反し無効だというのです。なお念のために確認しておきますが、本件で問題となっているのは刑罰法規です。刑罰法規は、刑罰というきわめて強力な手段によってその実効性を確保しようとするものですから、その内容が不明確で判断できないということになると、人びとのこうむる不利益も大きなものとなってしまいます。そのため、一般に刑罰法規については、規範の中でも最も高い明確性が要求されます。このことをふまえて、本件における裁判所の判断を見てみましょう*2

しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

最高裁判所大法廷はこのように述べたうえで、条例3条3号について、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」とし、通常の判断能力を有する一般人が具体的場合において自らのなそうとする行為がかかる禁止に抵触するかどうかを判断することはさして困難ではないとして、違憲無効の主張を退けました。

すでに述べたとおり、本件はデモ行進等を規制する条例中に遵守事項として挙げられた「交通秩序を維持すること」 との文言の明確性が争われたものです。ここで注目してほしいのは条例がデモ行進等の規制にかかるものだということ。そもそもデモ行進は、通常は車両の運行に供される車道を多人数で行進するものなので、これを行うこと自体が一定程度の交通秩序の阻害を伴います。だからこそ、デモ行進に際しては警察官が動員され、交通整理やデモ隊の誘導等が行われるのです。

こうしたことをふまえれば、「交通秩序を維持すること」との文言が明確性との関係ではらむ問題が、いっそう分かりやすくなるのではないでしょうか。まず、もともと「交通秩序を維持」という文言自体、抽象的で明確性を欠く憾みがあることについては、問題なく了解していただけるでしょう。しかしそれだけにとどまらず、あらゆるデモ行進は一定程度交通秩序を阻害するのだから、どれだけ静穏に行われるデモ行進であっても「交通秩序を維持」していない(そもそもできない)ということに、理屈上はなり得ます。そうすると、すべてのデモ行進は条例に反することになるのでしょうか。そうでないとすれば、許される程度の交通秩序の阻害と許されない程度の交通秩序の阻害とがあることになりますが、条例の文言中にその判断基準はなんら示されていないようにも思えます。あるいはこう言い換えてもよいでしょうね。「交通秩序を維持すること」という遵守事項に反するような過度な交通秩序の阻害とはなにかについて言語化されておらず不適切ではないか、と。うーん、どこかで聞いたような???

こうした問題に対して最高裁判所大法廷が出した答えは、すでにご紹介のとおりです。すなわち、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準」 であれば明確性の原則に反するとは言えない。そして、「交通秩序を維持すること」という文言はそうした判断が可能な基準なので明確性の原則に反しない、というものでした。これは噛み砕いて言えば、常識のある人なら条例の基準で分かるからオッケーということです。すでに述べたとおり、刑罰法規は最も高い明確性が求められる規範です。しかし、その刑罰法規においてさえ、求められる明確性はこの程度のものなのです。

おわりに(おわらないかも)

以上、規範の明確性について簡単に説明してきました。今回取り扱った具体例は公権力が定めた刑罰法規という最も高い明確性が要求されるもののみであり、書くべきことはまだ(少なくとも本記事と同程度の分量の記事1本以上くらいは)あるのですが、若干長くなってきたのでいったんここで切りたいと思います。

いずれにせよ、現在のネットでは規範の明確性を声高に求める人ばかりが目立っているように思えます。じっさい明確性は重要ではあるのですが、規範というものの性質上、それを徹底することなどできないこと、そして刑罰法規においてさえそこまで高い明確性が求められておらず、ネットで声高に叫んでいる人びとのようなレベルで明確性を求めるのは、現実味のない「お花畑」な主張であることを理解していただけると幸いです。

*1:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1466097

*2:引用者において一部太字強調を施しました。

共産党側は完全「セーフ」でしょうに……

京都新聞の意見広告(以下、「本件広告」といいます)をめぐっては、一部の人たちのなかなか興味深い動きを観察することができます。

いちおう知らない方のために説明しておくと、事の発端は京都新聞に「共産党の市長は『No』」などという内容の本件広告が出されたことでした。このような下品な攻撃に対して当然共産党側は反発します。ところが、なぜか非難が集まったのは攻撃をした側ではなく共産党の側でした。反発の際、本件広告を「ヘイト広告」と評したことが問題視されたのです(ひたすら「被害者」の落ち度を言い立てるお定まりのパターンであって、「なぜか」などと不思議がるには及ばないという見方もあるかもしれません)。とりあえず、まとめとしてこのような記事があります。

今後「政党への批判(〇〇党市長はNO)」も『ヘイト』と認定されるかもしれない…(日本共産党のえらい人の見解) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

本件広告について、 共産党の志位や小池などが「ヘイト広告」と評したことは正しいのか、というような内容です。

この点については先日の記事ですでに私の意見を述べたのですが、その記事はすでに非公開にしてしまったので、改めて書いておきます。

志位らがどのような趣旨で「ヘイト広告」という表現を用いているのか現段階では分かりませんが、本件広告は少なくとも「ヘイトスピーチ」という意味での「ヘイト」にはあたらないでしょう。個人的な感覚ですが、共産党支持者からもこうした表現への賛同はあまり集まらないと思います(私自身、共産党に対しては比較的好意的な立場ですが、賛同できません)。少女像の問題でいきり立っていた河村某の例などとは異なり、共産党はむきだしの敵意を直接的にぶつけられているわけでお気の毒だとは思いますが、ここは軌道修正した方がかえって支持者の理解を得られる気がします(別の切り口からの批判はいくらでも可能でしょう)。 

私の意見はこのようなものですから、本件広告に対する志位らの評価に疑義を呈すること自体は理解できないでもありません。

ところで、 本件広告についてはこの後さらに別の問題が持ち上がりました。顔写真および氏名等の「無断」使用問題です。

本件広告には、著名人の顔写真および氏名等が掲載されており、あたかも「共産党の市長は『No』」とする広告の意見に賛同するかのような印象を与えるものとなっていました。ところが、顔写真および氏名等が掲載された一人である千住博が、「特定の党を排するような活動には反対である」「本件広告への(顔写真および氏名等の)掲載は千住の許可なく無断でなされたものであり、遺憾である」との趣旨の声明を出したのです*1*2。その後、他の著名人からも本件広告について「事前の説明も了承もなかった」などとするコメントが相次ぎ、顔写真および氏名等を掲載された複数人から遺憾だとする意見が出される事態に発展しています*3*4

なお、広告を出した「未来の京都をつくる会」の吉井章事務長(自民党府連幹事長)によれば、「あらゆる広告物に推薦人の名前と写真を使用することは事前に了承を得ている。個別の広告物についての掲載確認は以前からしていない」とのことです*5*6。推薦の趣旨がいかなるものであるのか、またその趣旨からかけ離れた使用についてまで許可するような合意があったと言えるのかといったこと等については、疑義もありうると思いますが、いずれにせよそれらは当事者間の具体的なやりとりや交わされた書面等を確認しなければ分からないことであり、結論として本件広告が違法とまでは言えない可能性は十分あるでしょう。

ところが、一部の人たちはそれをもって「全く問題ない」につなげてしまうんですよね。「全く違法性はない。文句があるなら争えば? どうせ負けるけど(笑)」みたいな*7。それどころか、「当初は推薦人であることを言わなかった」「隠していたんだ」などと、全くお門違いな逆ギレまがいの反応を示す手合いまで出てくる始末。ちょっともう手に負えません。

冷静になって考えればすぐに分かることですが、違法かどうかという基準で判断するなら、本件広告を「ヘイト広告」と評した共産党側の発言は完全に適法であり、「セーフ」のはずです。また、なんら個人の権利や利益を侵害するようなものでもない。一方で、本件広告はそもそもその適法性自体に疑義がないとは言い切れません。また仮に適法であるとしても、少なくとも実際の本人の意見とは反する意見を持っていると受けとられうるような方法で顔写真および氏名等を使用していることは間違いないのですから、個人の権利や利益を侵害しうる側面があることは否定しがたく、道義的責任は免れないでしょう。だからこそ、広告を出した「未来の京都をつくる会」会長の立石義雄も「本人の了承を事前に得ていないのであれば申し訳ない。会長としておわびをしないといけないと思う」と謝罪をしているのだと思います*8。……にもかかわらず、前者は嬉々として叩き続け、後者は適法だから問題ないと擁護する人たち。結論ありきであまりにも浅ましいと評するほかありません。

以上、本件広告をめぐる一部の人たちの興味深い動きを紹介しました。いや本当に、もうちょっとフェアにいきましょうよ。

*1:https://buzzap.jp/news/20200128-kyoto-kadokawa-anti-jcp-ad/

*2:https://mainichi.jp/articles/20200128/k00/00m/010/219000c

*3:前掲注2も参照。

*4:https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/146571

*5:前掲注4。

*6:なお、推薦人に名を連ねていること自体は千住も認めています。

*7:ちなみに、私個人は違法性がないと断じてしまうのもどうかと考えていますが。

*8:前掲注4。