とっつきやすい南京事件論

清水潔『「南京事件」を調査せよ』*1を読みました。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫)

本書は、「戦争についてほとんど知らなかった事件記者」である清水が、南京事件について「調査報道」の手法で自ら調べあげた結果等をまとめたものです。

公平に言って、純粋に南京事件についての知識の獲得を目的とするならば、たとえば笠原十九司南京事件』など、より幅広くかつ詳細に解説した安価な一般書が他にもあるとは思います。本書でかなり紙幅を割いて紹介されている黒須忠信上等兵の陣中日記も、上記の笠原書などにおいてすでに言及されているものであって、新発見というわけではありません。

しかしそうであるにもかかわらず本書がすばらしいのは、清水が自らの取材によってそうした資料をいわば「血の通った」ものとして表現することに成功しているからです。

資料を収集している者のもとに直接赴く。資料収集者から収集を思い立った動機や資料を譲り受ける際のやりとりなどを聴取する。折れやすり減り、あるいは紙の変色など、資料の状態を観察する。資料作成者の本人確認を行う。資料の記載と他の資料から判明している客観的事実との整合性を確認する……。

この種の調査は清水に限らず問題に対して誠実に取り組んでいる者であればだれでも当然行っているでしょうが、いざ一冊の本として発表するという段では、そうした調査によって得られた結果だけを書くことも多いのではないかと思います。もちろんそれが悪いというわけではないですが、ときにそのような記述は門外漢に対して無味乾燥でとっつきづらい印象を与えることもあるでしょう。本書の最大の功績は、上記のような調査の過程についても事件記者ならではの生々しい筆致で描写することにより、南京事件をとっつきづらい歴史論争だと感じているようないわゆる「普通の人」にも関心を抱かせた点にあるのだと思います。

なお、本書は『「南京事件」を調査せよ』と銘打っているものの、南京事件について論じているのは全体の3分の2ほどで、残りの3分の1は「旅順虐殺事件」などの別事件について論じるものとなっています。 南京事件以外にも多くの痛ましい事件があるのは全くそのとおりであり、必ずしも知名度の高くない事件にも光を当てようとする清水の姿勢には大いに共感します。ただ、本書に関して言えばさすがに少々話題が拡散してしまった観があり、南京事件以外の問題については別の機会に論じた方がよかったのではないかと思います。

*1:以下、「本書」といいます。