「思想の自由市場」という妄執

はじめに

紙屋高雪 (id:kamiyakenkyujo)『不快な表現をやめさせたい!? こわれゆく「思想の自由市場」』*1を読みました。

不快な表現をやめさせたい!?

2019年に起きた企画展「表現の不自由展・その後」の中止騒動と献血ポスターの「炎上」問題という2つの事件を題材に、表現の自由について考える内容です。しかし、本記事ではこれらの題材に必ずしもこだわらず、本書に(またインターネット上でも頻繁に)見られる考え方の問題点について指摘してみたいと思います。

指摘したいことはいくつかあったのですが、書いてみると少し長くなりそうだったので、本記事ではひとまず1つのテーマだけとりあげることにしようと思います。「思想の自由市場」についてです。

「思想の自由市場」について

正解は一つ、ではない

まず気になったのが、いわゆる「思想の自由市場」論を大した説明もないまま所与の前提か何かのように取り扱っているところです。こうした態度は紙屋さんに限らず世間一般に広く見られるものであり、私自身同論におよそ見るべきところがないとは別に思っていませんが、しかしこれが数ある考え方の一つにすぎないことはやはり確認しておくべきでしょう。

本書にも指摘のあるとおり*2、「思想の自由市場」論はアメリカ連邦最高裁のホームズ判事によって初めて表明されたものです。1919年のことでした。同論がアメリカにおいて現在も大きな影響力を保持していることは否定すべくもありませんが*3、それは発祥の地であるアメリカという一国においてそうであるというだけのことです。

ヨーロッパに目を向けてみれば、「思想の自由市場」論は決して大きな支持を集めているわけではありません。特に「戦う民主主義」を掲げているドイツのような国については、民主主義を否定する言論等に対する制限(の可能性)を認めているのですから、「思想の自由市場」論のような考え方とは明確に距離を置いていると言ってよいでしょう。

ここで重要なのは、「思想の自由市場」論を支持しないヨーロッパ諸国は専制国家でもなんでもないということです。当然のことながら、ドイツにおいても表現の自由は基本権として保障されています。「思想の自由市場」論をとらなければ表現の自由が失われるというわけではありません。表現の自由の価値にコミットした社会を設計する方法は一つではないのです。紙屋さんは、このことに対してあまりにも自覚的でないように見えます。「思想の自由市場」論なかりせば表現の自由なしと言わんばかりの口吻は、同論と距離をとるヨーロッパ諸国に対して無礼であるとさえ評せるかもしれません。

「思想の自由市場」という比喩が示唆するもの

自由市場は失敗する

また私などの目には、「思想の自由市場」という一種の比喩表現自体が、同論の立場の限界を示唆しているようにも見えてしまいます。

すでに述べたとおり同論は1919年に初めて表明されたものですが、それからわずか10年ほどののちにアメリカでとられたあまりにも有名な政策のことを知らない方はいないと思います。そう、ニューディール政策世界恐慌を克服するため、ローズベルト大統領は国家的統制による経済安定策を断行しました。他ならぬアメリカ自身が、経済領域においては自由放任主義(≒「自由市場」論) を修正しているのです。

今や、経済市場が「失敗」しうることを疑う者はいないと言ってよいと思います。紙屋さん自身、次のように述べてそのことは認めているように見えます*4

 自由放任にしておいたら、力の強いものが弱いものを支配し、生き残れなくなって、自由や多様性が逆に失われてしまう……。

だからこそ、現実社会では、資本家と比べて労働者に特別の保護を与えたり、……差別が行われないようにさまざまな禁止や介入を法律・条例で用意しています。つまり自由を一定規制することで、多様性を維持しているのです。

ここで述べられているようなことは、基本的には「思想の自由市場」にも妥当します。たとえば「ヘイトスピーチはその犠牲者から発言の機会や影響力を奪い、かえって多様性を損なうものである」といった類の主張は、ヘイトスピーチ規制論においてもよく見られます。こうした主張は、まさに上記引用文と同じ思想に基づくものだと言ってよいでしょう。

そうだとすれば、表現についてもやはり「自由市場」を盲信して放任を貫いていてはかえってさまざまな弊害が生じかねないため、適切な規制や介入を行うことによって健全な状態を保つ必要があるという結論になるのが自然なように思われます。

「表現だけは特別扱い」でよいのか

大切でデリケートだから……

ところが紙屋さんは、そのすぐ後で次のように述べて、言論や表現だけは特別扱いで「自由市場」による淘汰に委ねなければならないとします*5

ところが、言論や表現の分野はそうではありません。すでに述べてきたとおりですが、言論や表現という分野は、大切である上にデリケートな弱さを抱えた分野ですから、上からあらかじめ規制をかけるのではなく、できるだけ自由にすべきであり、弱者を攻撃するような間違った言論や表現は、そうした「思想の自由市場」のなかで淘汰されていくことを求めなくてはなりません。 

比喩として自ら「自由市場」を持ち出しておきながら、現実の自由市場が内包する限界を指摘されると途端に「現実の自由市場とは違うのだ」と言い訳をする――これまた紙屋さんに限った話ではありませんが、「思想の自由市場」論者は、こうしたふるまいをあまりにもご都合主義だとは思わないのか、少々不思議な感じはします。

ともあれここで紙屋さんが、言論や表現は「大切である上にデリケートな弱さを抱えた」ものであると述べていること自体は、巷間流布している考えに基づいていると思われ、ゆえのないものでもありません。ただ私は、そのように断じてしまうことが妥当なのかという点について、もっと慎重に検討する必要があると考えています。以下では、紙屋さんの記述の趣旨を確認したうえで、その点についての検討を進めていきます。

表現は大切なのか

まず表現が「大切である」というのは、表現の自由が優越的地位にあるとする考え方を意識したものだと思います。

たしかに表現の自由は、他の憲法上の権利と比べても優越的な地位にあると言われることがあります。それは、表現の自由が「自己実現の価値」と「自己統治の価値」という2つの重要な価値を有することによるものです。

しかしそうであるならば、すべての表現が優越的な地位にあるとは必ずしも言えないはずです。個人的な価値たる「自己実現の価値」は基本的にどのような表現であっても有するにしても、「自己統治の価値」についてはこれを有しない表現もあることは明らかです。そして、「自己実現の価値」のみであれば他の憲法上の権利も有するものであって、表現のみを特別扱いする理由としては十分でないからです。たとえば本書でもふれられていた「わいせつ」な表現などは、「自己統治の価値」が認められないケースも多いでしょう*6*7

本来、表現が「大切である」というためには、以上をふまえたうえで、「自己統治の価値」を欠く表現についても他の人権に比して特に「大切」だと言えるのか、言えるとすればそれはなぜか、といったことを丁寧に考察する必要があるはずです。ところが紙屋さんは、こうした考察を十分に行うことなく、すべての表現を安易に「大切である」としてしまっているように見えます。紙屋さんの表現を借りて評するならば、「雑」な議論だと思います。

なお、この点については過去に関連する記事を書いているので、そちらも参照してください。

性表現の自由って重要? - U.G.R.R.

表現はデリケートなのか
萎縮効果について

表現が「デリケート」であるというのは、表現規制による萎縮効果を指摘するものでしょう。萎縮効果とは、規制をおそれて人びとが過剰に行動を控えるようになってしまうことを言います。こうした萎縮効果論は憲法学において当然の前提のようになっているものであり、私自身もそうした考え方に強く反発しているわけではありません。

もっとも、萎縮効果はなにも表現規制だけに生じるわけではありません。 本書には萎縮効果を論じるなかで志田陽子『「表現の自由」の明日へ』33頁の記述を引用している箇所があります*8。説明に好適なので、孫引きになってしまって恐縮ですが、その箇所を引用します。

もしも何かの表現をしたり集会に参加したりしたことで、刑罰を受ける・多額の金銭を支払う・就職できないといった不利益があったとしたらどうだろう。人々はそのような不利益を被ってまで表現をしようとはしなくなり、自由な表現の空間は衰退してしまう。この傾向を「萎縮」と呼ぶ。

ここでは表現や集会を控えさせる不利益として、「刑罰を受ける・多額の金銭を支払う・就職できない」などが挙げられています。しかし、このような不利益をちらつかせられれば、表現や集会に限らず、たいていの行為を手控えるようになるでしょう。

少し前に、「忖度」ということばが流行しました。事実の隠ぺい、ねつ造、利益誘導……実にさまざまな領域において、実にさまざまな態様で、いま思い返してもげんなりするようなことが山ほどなされていましたね。

ところでこの「忖度」とは、見返りを期待しあるいは(報復人事などの)不利益をおそれて、言われてもいないのに相手の意図を推し量ってその意図に沿うよう行動しあるいは行動を控えることです。したがって、不利益をおそれて行動を手控える「萎縮」は、まさに「忖度」の一形態にほかなりません。そのことに気づけば、「萎縮」が決して表現に特有の問題ではないことを実感として理解できるでしょう。

そしてそうであるならば、表現が「デリケート」だというためには、「萎縮」が他の分野と比較しても表現において特に生じやすいのだということを、もっと丁寧に論証する必要があるはずです。残念ながら本書において、紙屋さんにそのような態度を見出すことはできませんでした。もっとも、この点についてはあまり紙屋さんを責めることもできません。専門家も含め法学を専攻する者全体に、あまり問題と真剣に向き合わないまま安易に「表現規制は萎縮効果を生みやすい」 と言ってしまうような傾向があるからです(私自身にもそういうところがあるのでよく分かります)。なのでこれは、自戒を込めて記しておくものです。

是正の困難さについて

あるいは、表現が「デリケート」であるとは、 表現規制は民主政の過程自体を傷つけるため回復が困難であることを指すのかもしれません。

たとえば、誤った政治に対してはふつう「それはおかしい」という批判の声(表現)があがります。そして、その声が支持され広まっていくことによって多数派を形成し、民主的な手続(選挙等)を通じて誤りの是正を果たすことができるようになるのです。

ところが表現規制がなされると、そうした批判の声があげられなくなり、支持を広げ多数派を形成することが難しくなります。そうなると当然、選挙等によって誤りを是正することもできなくなってしまいます。いわば民主主義自体が機能不全に陥ってしまうのです。こうした危険があることも、表現が「デリケート」であるとする一つの根拠として考えられるところです。

もっとも、以上の説明自体からすでに明らかなとおり、こうした意味での「デリケート」さは基本的に、政治的意思の形成にかかわる、「自己統治の価値」を有する表現について認められるものです。したがって、こうした観点からの説明もやはり、「自己統治の価値」を有しないものも含めたすべての表現について「デリケート」であるとするには不十分であると言わざるを得ないでしょう。

すべての表現が大切でデリケートだとは言えないのでは

ここまで見てきたように、表現のなかには「大切」で「デリケート」だと言えるものもあるのはたしかです。そうした表現について、他の分野とは異なる慎重な配慮が必要だとして現実の自由市場とは異なる「特別扱い」をすることには、ある程度理由があるのかもしれません。 

しかし一方で、やはりここまで見てきたように、すべての表現が「大切」で「デリケート」だと言えるというわけでもない――少なくとも本書においてそのように言えるということが十分に論証されてはいない――のもたしかでしょう。そうした必ずしも「大切」で「デリケート」だとは言い切れない表現についてまで「特別扱い」をすることははたして適切なのか。それは(現実の自由市場における場合と同様に)かえって多様性の喪失や自由の毀損という結果を生むだけに終わりはしないか。疑問なしとしません。

おわりに

本書における「思想の自由市場」の扱い方について、気になるところを述べてきました。

いろいろ書いてきましたが、実は(というほど意外でもないかもしれませんが)私自身は、少なくとも表現の法的規制に対しては、決して積極的な立場ではありません。「思想の自由市場」論も、本当のところを言うと私にとってかなりおさまりのよい考え方ではあるのです。

それではなぜ、「思想の自由市場」論に対して疑義を呈するような内容の記事を書いたのか。その理由については本書に対してさらに述べたいこととも関連するので、今回は詳論しませんが*9、簡単にだけ説明しておくと、私(たち)が従来あまりにも無責任に表現の自由を称揚してきたことで、よくない状況を生み出してしまった――そのもっとも顕著な例がヘイトスピーチであり、(罰則がないとは言え)いわゆるヘイトスピーチ解消法のような法律が必要となる社会を生み出してしまったことは、無責任に表現の自由を称揚してきた私(たち)が負うべき大きな咎であると言ってよいでしょう――という思いがあるからです。

本書には、リベラルや左翼による規制を懸念する一節がありました*10

昨今リベラルや左翼を自認する人たちの中にも「人権」を看板にした規制の主張が見受けられるようになり、左翼の一人として非常に気になるところです。

私自身は左翼ではなくリベラルかどうかも微妙なところがあるため想像でしかありませんが、おそらくそうした人たちは私と同じく上記のような思いをもっているのでしょう。最終的に「規制の主張」をとるかどうかはともかく、「在特会」以後の日本社会において、表現の自由とのかかわり方を見つめなおそうとする感覚はむしろきわめてまっとうだと思います。

表現の自由はむろん重要です。しかし、その重要性はわれわれの社会においてすでに十分認識されている。それどころか過剰に強調されてさえいる。いま必要なのはこうした状況に歯止めをかける言説だというのが私の考えであり*11、本記事もそのような考えに基づいて作成したものです。

*1:以下、「本書」といいます。

*2:本書118頁。

*3:もっともそのアメリカにおいてさえ、「思想の自由市場」論に対しては「社会に現存する権力分配の不均衡を固定化するものだ」というような批判――たとえば1980年代に特に関心を集めたマッキノンの活動などはそうした問題意識に立つものだと私は理解しています――が加えられており、古典的な「思想の自由市場」論がそのまま全面的に支持されているというような状況でもないでしょう。

*4:本書193頁。なお、引用文中「……」部は引用者において省略した箇所です。

*5:本書194頁。

*6:もちろん認められるケースもありうるでしょう。

*7:なお、こうしたことを述べると決まって「そんなことは明確に判断できない」「恣意的な規制の呼び水になる」といった類の反発が寄せられます(正直なところ、ワンパターンでうんざりします)。この種の事柄というのはゼロかイチかではなくグラデーションになっているものですから、判断の難しい境界領域はたしかに存在するでしょう。しかし一方で、明らかに「自己統治の価値」を有する、あるいは有しない、と言えるケースも当然ながら多々あるはずです。判断の難しい境界領域があることを理由に判断自体を放棄しろと迫るのは詭弁でしかないと思います(もちろん、そうした境界領域の判断を慎重に行うべきことについて、異論はありません)。

*8:本書158頁。

*9:機会があれば改めてきちんと論じたいと思いますが、さしあたり以下の過去記事などを参照していただくと、私の言わんとするところが少しは見えやすくなるかもしれません。

不快を理由にした規制もありうる - U.G.R.R.

*10:本書196頁。

*11:もちろん、それは表現の規制を推進するということを意味しません。むしろ、そのような事態を避けるために各人の自覚を促すということです。