性表現の自由って重要?

先日、女性の太ももの写真を展示するイベントが中止されたという話題に接し、性表現の自由について書いてみることにした。ただし、あの話題自体はここで述べることとは異なる枠組みで処理するべきものであり、本記事とはほとんど関係がない(記事作成のきっかけになったというにすぎない)。また、本記事は性表現の規制を主張するものではもちろんないし、性表現に対して強い保障を与える必要はないと主張するものですらない。本記事の目的は、ほとんど自明であるかのように巷間主張されている「表現の自由の重要性」について、改めて考える機会を提供することである。

 

性表現は、本当に重要なのだろうか。 

表現の自由の重要性が古くから指摘されてきたことは事実である。しかしそこでいう「表現」とは、性表現のようなものではなく、政治的表現に代表されるような社会的意義を有する表現であった。

今日、表現の自由にかかる憲法21条は以下のように規定する。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

ここでは、表現の内容について留保が付されていない。したがって、保護範囲内であるかどうかが問題となるいくつかのカテゴリーはありうるとしても、同条が政治的なものに限らず、相当広い範囲で表現を保障している、ということは確かである。

しかしわが国では、表現の自由をきわめて重視し、特に強い保障を与えるべきであるとする見解が広く支持されているところ、その根拠をたずねれば、今日においても表現の有する社会的意義は重要な要素として考慮されていることが分かる。

たとえば上記のような見解を代表するものとして、二重の基準論と呼ばれる考え方がある*1。これは、表現の自由(を中心とする精神的自由権)は経済的自由権に比して厳格な基準によってその合憲性を審査されなければならないとする考え方である。

このような考え方をとる最大の根拠は、表現の自由の重要性に求められる。すなわち、人はさまざまな情報に自由に接して思索を深め、あるいは自ら意見を述べて主張をたたかわせること等によって、人格を形成、発展させ、自己実現をはたす。この点において、表現の自由は重要な価値を有する(自己実現の価値)。さらに、人は自らの意見を表明することによって政治的な意思決定に関与していくのであり、自由な言論は民主主義過程の維持にとって不可欠なものと言える。したがってこの点においても、表現の自由は重要な価値を有する(自己統治の価値)。これらの重要な価値のゆえに、表現の自由には優越的な地位が認められ、その規制は慎重に行われねばならないというのである。そしてここにいう「自己統治の価値」が表現の有する社会的意義に着目したものであることは、多言を要しないだろう。

なお、このような考え方をとる根拠として裁判所の審査能力の限界ということも指摘される。経済的自由権の制約を検討するにあたっては社会・経済政策的考慮が必要とされるところ、裁判所には政策的な考慮を行う能力が欠けており、基本的には立法府の判断を尊重せねばならないというものである。ただしかかる指摘は、経済的自由権に対する制約のうち、経済発展等を目的とするものについてはおおむねそのように言えるとしても、たとえば国民の生命・健康を保護する目的でなされるものについては裁判所による審査は比較的容易であって妥当しないというケースも多いのではないかと思われる。経済的自由権全体について妥当するものとは必ずしも言えない以上、これを二重の基準論の主たる根拠とすることはできないだろう。

さて、以上をふまえたうえで性表現について考えてみよう。個人的な価値たる「自己実現の価値」は、性表現であっても当然に認められる。しかし、本来的には私的領域に属し、公共的利害に関係しない性表現は、これによって政治的意思決定に関与するといった「自己統治の価値」を有するものとは言いがたい。性表現は、表現の自由が有するとされる重要な2つの価値のうち一方を欠くのである。

表現の自由上記のとおり 「自己統治の価値」を欠くにもかかわらず強い保障を与えられるべきであるとすれば、たとえ「自己統治の価値」を欠くとしてもなお、精神的自由権たる性表現の自由経済的自由権よりも重要であるから、という理由づけも考えうるところである。しかし、たとえば憲法22条1項は経済的自由権たる職業選択の自由等を保障しているところ、判例*2も職業について、「各人が自己のもつ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有するものである」としており、その「自己実現の価値」を認めている。「自己実現の価値」は、精神的自由権のみならず経済的自由権も有するのである。また、経済的自由権の行使によってしっかりとした生活基盤を築くことは、精神的自由権を十全に行使するうえできわめて重要な意義を有するとも考えうるところである。こうした点をふまえるならば、経済的自由権が精神的自由権に劣後することを当然視するような考え方は、やはりとりがたいだろう。

なお、「表現の自由は一度毀損すれば回復が困難な権利であるために強く保障するべきなのだ」という類の主張がなされることもあるが、これは、「民主政において誤った規制は本来、市民間の討論(=表現)を経て形成され政治に示された主権者の意思によって是正される。しかるところ、表現の規制は主権者意思の形成過程を傷つけるものであるから、ひとたびこれが行われれば、主権者意思の形成自体が困難となり、容易に是正できなくなる」との趣旨をいうものである。したがって、私的領域にとどまり政治的意思の形成に寄与しない、つまりは「自己統治の価値」を有しない性表現との関係において、かかる主張をさして考慮する必要はない。

このように考えてみると、表現の自由が強く保障されるべき根拠としてよく挙げられるもののみでは、性表現に対して強い保障を与えるに十分でないようにも見える。それにもかかわらず、性表現にはやはり(他の権利に比して)強い保障を与えるべきなのだろうか。そうであるならば、その根拠はいかなる点に求められるのだろうか。これを機に、考えを深めていただければ幸いである。

*1:芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)103頁以下、186頁以下。

*2:最大判昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁)。