生活保護と扶養

はじめに

令和3年1月28日参議院予算委員会での小池晃の質問に対する田村憲久厚生労働大臣のセンセーショナルな答弁、

「義務ではございません。義務ではございません。扶養照会が義務ではございません」

からはや一月半。いかにも時機を逸してはいますが、生活保護と扶養について、一応書いておこうと思います。

なお、この件についてはわっと(id:watto)さんがすでに記事を作成されているので、そちらもご覧ください。

田村厚生労働大臣が「扶養照会は生活保護の義務ではない」と国会答弁した前後の私的まとめ - しいたげられたしいたけ

1月29日付拙エントリー2日続けて2万pv超えお礼と扶養照会に関する若干のリンク追加 - しいたげられたしいたけ

田村発言は何を言っているのか 

まず「扶養照会が義務ではございません」という田村発言が何を言わんとしているのか、確認しておきましょう。

そもそも「扶養照会」とは、生活保護の申請があったとき、扶養義務のある申請者の親族などに援助が可能かどうかを問い合わせることです。

ところで、生活保護*14条は以下のような規定となっています。

第四条 保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。

2 民法(明治二十九年法律第八十九号)に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする。

3 (略)

ごらんのとおり、法4条2項には「扶養義務者の扶養……は、すべてこの法律による保護に優先して行われる」との文言があります。このため、扶養義務者による扶養が可能な場合には生活保護に先立ってその扶養を受けるべきであり、かかる扶養の可否を判断するために扶養照会がなされなければならないのではないか、ということが一応は問題となりうるのです。

もっとも、これまた条文を見れば明らかですが、生活保護の要件は法4条1項に明記されているとおり「生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用すること」であり、これに尽きます。扶養義務者の扶養等は、要件とは截然と区別されているのです。したがって、法4条2項にいう「優先」とは、たとえば実際に扶養義務者からの金銭的扶養が行われ たときに、これを被保護者の収入として取り扱うこと等を意味するにすぎません*2扶養や扶養照会は、生活保護の要件ではないのです。

「扶養照会が義務ではございません」という田村発言はまさにこの趣旨、すなわち扶養照会を行わなければ生活保護の決定ができないわけではないことをいうものです。

扶養と生活保護に関して(余談)

ちなみに、扶養と生活保護に関しては、過去にも大問題がありました。長野県の福祉事務所が生活保護申請者の親族に対して、保護にあたっては「扶養義務者の扶養(援助)を優先的に受けることが前提」であるとの記載のある書類を送りつけていたのです*3

上記のとおり扶養は生活保護の要件ではありませんから、このような書類が送りつけられていたことは誤った説明をするものだとして、当然当時の国会において厳しい追及がなされました。結果、厚生労働省も不適切な記載があったことを認め、「生活保護法第4条第2項の扶養義務者の扶養の可否を確認するために使用する扶養照会書等について」(平成25年11月8日付厚生労働省社会・援護局保護課保護係長事務連絡)を全国の自治体に送付し、対応の是正を求める事態となったのでした。当時これだけの大問題へと発展したにもかかわらず、扶養が生活保護の要件ではないことを前提とした対応が必ずしも徹底されていないようにも見えるのは残念なことです。

なお、平成25年11月7日厚生労働委員会においてこの問題をはじめて追及したのは、今回(令和3年1月28日)と同じく小池晃。答弁に立ったのもやはり同じく田村憲久でした。小池晃、よく働いていますね。

扶養義務は義務である 

閑話休題

上記のとおり扶養は生活保護の要件ではなく、その意味において扶養も扶養照会も義務ではありません。しかし、同語反復的な言い方になってしまいますが、扶養義務者にとって扶養は義務であることを確認しておくのは重要だと思います。

民法は、一定の親族に対して扶養義務を課しています。条文で言うと、752条、877条1項および2項です。

(同居、協力及び扶助の義務)

第七百五十二条 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

(扶養義務者)

第八百七十七条 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。

2 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。

3 (略)

以上のとおり、夫婦、直系血族および兄弟姉妹は、互いを扶養する義務を負います*4。また、特別の事情がある場合には、その他の三親等内の親族家庭裁判所によって扶養義務を負わされることがあります*5。これらの扶養義務者のうち、夫婦と、未成熟の子に対する親は、生活保持義務と呼ばれる特に高度の扶養義務を負うものと解されていますが、ここでは立ち入りません。重要なのは、これらの者は扶養の義務を負うのだということです。 

こんにちでは、家族のつながりというものは随分弱くなったように見えます。冒頭で紹介した令和3年1月28日参議院予算委員会でのやりとりにおいても、扶養照会がなかなか援助につながらないということが述べられていました。

もちろん、扶養義務は義務者に扶養能力があることを前提とするものですから、本当に扶養ができないという事例も多々あることでしょう。そのような事例に非難を向けるべきでないのは当然です。しかし、くりかえしになりますが、本来扶養義務者の扶養は義務なのです。してもしなくてもよい恩恵や施しではないのです。扶養義務者がいるならば扶養がなされるのが原則であり、これがなされないのはイレギュラーな事態なのだという認識を、もっと世間において共有するべきだと思います。

助けあえる家族がいることの重要性

生活保護申請者の自立という観点からも、扶養義務者による扶養をとりつけるのは重要なことだと、私は思っています。

つくろい東京ファンドが実施した生活困窮者向け相談会に来場した方へのアンケート調査*6によれば、生活保護を利用しないと答えた方のおよそ3人に1人は「家族に知られたくないから」との理由を選択したそうです。納得感のある調査結果です。私自身、人並み以上にはいわゆる「どん詰まり」の方と接してきたと思いますが、やはりそういう方は「人と関わること」「人に迷惑をかけること」を極度に嫌う印象があります。

しかし、手垢のついた表現を用いるならば、人はひとりでは生きられませんし、他人と関わっていけばどうしても迷惑をかける場面は出てきます。逆説的な言い方になりますが、自立して生きていくとは、ナチュラルに他人に頼れるようになる、迷惑をかけられるようになること*7である、という面がたしかにあると思います。 

そのように考えた場合、扶養義務者のような関係の近い家族というのは、自立への第一歩としてきわめて重要な存在です。自民党が夢想するような古臭い世界観だと言われるかもしれませんが、ダメでもクズでも*8、家族であるという一事をもって、とりあえずは面倒をみる。それが家族というものでしょう*9

迷惑をかけるうえで一番ハードルの低い存在。しかも、扶養義務という法律上の担保まである。もちろん事例による部分はあるにせよ、こうした人たちにさえ甘えられないようでは、なかなか社会の中で生きていけるようになるのは難しい場合も多いのではないかという気がします。その意味で、扶養義務者の扶養をとりつけることは、生活保護申請者をふたたび社会で生きていけるようにするためにも重要なことではないかと思うのです。

ただし、上記のとおりそうした「どん詰まり」の方にこそ家族等に窮状を知られるのを嫌う傾向があるのではないかと疑われる以上、生活保護の申請段階において扶養義務者へ積極的にアプローチすることについては、私は必ずしも賛成しません。そうしたアプローチによって、本来生活保護を利用すべき人が利用を控える結果ともなりかねないからです。申請段階では本人の意思を尊重し、保護の決定等が出たのちに、根気よく(本人も含めた)各関係者を説得してつながりをつくっていくサポートをするべきではないか、というのが私の考えです。

おわりに

生活保護と扶養について、情報の整理がてら思うところを述べてみました。

「扶養は義務ではない」はまったく正しく、私自身満腔の同意を表するものですが、一方で「扶養は義務である」もまた、本記事で述べたように正しくはあるのだということを、心の片隅にでもとどめていただければうれしいです。

*1:以下、「法」といいます。

*2:「扶養義務履行が期待できない者の判断基準の留意点等について」(令和3年2月26日付厚生労働省社会・援護局保護課事務連絡)参照。

*3:https://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-09/2013110901_01_1.html

*4:これらの者を「絶対的扶養義務者」といいます。

*5:こうした者を「相対的扶養義務者」といいます。

*6:https://tsukuroi.tokyo/2021/01/16/1487/

*7:より正確に言うなら、他人を頼ったこと、迷惑をかけたことをきちんと引きうけ、その上に関係を築いていけるようになること、でしょうか。

*8:当然ですが、生活保護申請者がそうだと言っているわけではありません。「どんな人間であっても」という趣旨です。

*9:それは、「家族愛」のようなキレイゴトではありません。「そういうものだ」という、ある種の理に近いものです。