芦田修正について

※本記事における引用にあたっては、読みやすさを考慮して表記等を改めた部分がある。

芦田修正とは何か

憲法9条の解釈にあたっては、いわゆる芦田修正が問題とされることがある。

周知のとおり、芦田修正とは、帝国憲法改正案委員小委員会が帝国憲法改正案、とりわけその9条に加えた修正を指す。

昭和21年6月25日、衆議院本会議に提出された帝国憲法改正案において、戦争の放棄を定めた9条は以下のような文言であった。

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。

2 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

これに、衆議院の帝国憲法改正案委員会に設置された、芦田を委員長とする小委員会が検討を加え、以下のように修正した*1。この修正を、芦田修正と呼ぶのである。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

芦田修正の何が問題となるのか

芦田修正が憲法9条の解釈にあたって問題になるというのは、おおむね以下のような理屈である*2

すなわち、上記のとおり、芦田修正によって、9条2項には、「前項の目的を達するため」との文言が加えられた。そして、9条1項が放棄するのは、「国際紛争を解決する手段として」の戦争や武力による威嚇または武力の行使であって、つまり侵略行為である。したがって、9条2項は、前項の目的、つまり侵略行為の放棄という目的を達するために戦力を保持しないことを定めたものであり、自衛のための戦力保持を禁ずるものではない、というのだ。

率直に言って、これは本来一顧だにされないような牽強付会の論であるように思われるが、当の芦田本人が、後年になってくり返し上記のような意図の下に修正を行ったのだと主張したために、現在もなお一定の影響力を有しているようだ。

果たして芦田は、真にそのような意図の下にかかる修正を行ったのだろうか。

芦田修正の意図 

「説明をすれば修正が許される見込みはなかったから」という釈明

芦田修正が行われた意図は、これが行われた小委員会での議論*3を見ることによって明らかになるというのが常識的な考え方であろう。そして小委員会での議論では、芦田が後年になって主張する上記のような(9条2項は自衛のための戦力保持を禁じていないという)見解は、まったく現れてこない。

このことについて芦田は、「明確に説明すると、憲法委員会においてかような修正を加えることが許される見込みはなかつた。諸般の情勢から見て、とうていかような修正案を憲法委員会に出すことを認められるような可能性はなかつた。従つて私がこの修正案を出したときには、委員会においても何らの説明を行わなかつた。速記録をごらんくだすつても、私は一言も説明を加えておりません。幸いにして質問もなかつたので、これに答える必要もなかつたわけです。」といった釈明をしている*4。説明をすれば修正が認められる見込みはなかった。だからあえて説明を行わなかった、というのだ。

当初試案

しかし、小委員会での議論の経過を追えば、このような釈明が真実でないことは明らかである。 というのも、芦田が最初に「前項(掲)の目的を達するため」という文言を提案したとき、その試案の文言は以下のようなものだったからだ。

第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。

2 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

上記のとおり、9条2項が自衛のための戦力保持を禁じていないとする主張の核心は、同条項にいう「前項の目的」を「国際紛争を解決する手段として」の戦争(=侵略戦争)等の放棄と解し、同条項は「(侵略戦争等の放棄という)前項の目的を達するため」という一定の条件下で戦力を保持しない旨を規定するにすぎない、とする点にある。ところが、当初試案では文言の順序が逆転しており、戦力の不保持は1項、「国際紛争を解決する手段として」の文言は2項にあったのだ。これでは、「前項(掲)の目的」を「国際紛争を解決する手段として」の戦争等の放棄と解する余地はないし、そもそも「前項の目的を達するため」という一定の条件下における戦力不保持を定めたにすぎないとの論理自体が成り立たない。芦田が当時すでに後年主張するような意図を秘めていたのであれば、このような提案をするはずがない。

結局、この当初試案については他の委員との協議等も経て変更され、現在芦田修正として知られている形の条文にまとまるのであるが、その際もやはり、9条2項は「(侵略戦争等の放棄という)前項の目的を達するため」に戦力不保持を定めるにすぎず、自衛のための戦力保持は禁止していないと解することになる、といった話はまったく出てこない。むしろ芦田自身は、趣味の問題であるとしながらも、自身が提案した当初試案の順序に、議論の終盤までこだわっているのである。

小委員会における芦田の発言

その他の小委員会における芦田の発言を見ても、芦田は単に後年主張するような意図を説明していないというにとどまらず、むしろこれとは相容れない発言を重ねている。

すでに述べたとおり、芦田自身が提案した当初試案において、戦力の不保持は1項、「国際紛争を解決する手段として」の文言は2項にあった。そして芦田は、この順序については「その人の趣味」にすぎず、試案の眼目は、戦力を「保持してはならない」とする原案の文言の修正にあることを明らかにしている。すなわち、「保持してはならない」という原案の文言は、「日本国民全体が他力で押さえ付けられるような感じを受ける」ので、これを「保持しない」と修正したい。しかし、なぜこのような修正を行うか、という点について「一応の理屈を述べなくてはならない」から、「前文のような形容詞を付けて」、「日本国民は誠実に平和を希求するが故に戦力を保持せず」*5という形にしたというのである。

「前掲の目的」の文言にかかる芦田の説明は、より直截だ。

前項のというのは、実は双方ともに国際平和を念願して居るということを書きたいけれども、重複するような嫌いがあるから、前項の目的を達するためと書いたので、つまり両方ともに日本国民の平和的希求の念慮から出ているのだ、こういう風に持っていくにすぎなかった。

「前掲の目的」とは、「国際平和を誠実に希求」 することであると明言しているのである。

つまり芦田は、当初試案の意図が「(戦力を)保持してはならない」との文言を修正する点にある旨を述べ、「前掲の目的」が国際平和の誠実な希求であることを明言していた、ということになる。

小括

以上のとおり、小委員会における芦田の言動は、単に後年主張するような意図を説明しないというにとどまらず、むしろこれと整合しないものであったことが明らかである。芦田の釈明はとるを得ず、当時芦田に後年主張するような意図はなかったものと解するべきであろう。

芦田修正と実務感覚

ここまで小委員会での議論を追いながら検討してきたが、そもそも芦田修正を根拠とした(9条2項は自衛のための戦力保持を禁じていないという)解釈論は 、本来ならば直感的にそのいかがわしさを感じとるべきものだ。

条項作成の段階で意図的に曖昧な文言の条項案を起草するなどというのは、ほとんど考えられないと言ってよいほどの例外的な行動である。曖昧な文言があれば明確化する。明確化した内容に問題があるならば条項の削除や変更を検討する。それが実務的な常識であって、自らを利する意図を秘して曖昧な条項案を作成することなどまずない。そのような行為はむしろ自らに不測の不利益をもたらす危険があるからだ。

本件で俎上にあがっているのは憲法改正案であり、これについて「利害を有する」諸外国との関係は不可避的に継続的・長期的なものとなるため、不測の不利益が生じる可能性は高くならざるを得ない。まして9条解釈にあたっては、小委員会に先立つ昭和21年6月26日の衆議院本会議において、当時の首相吉田茂が、「本案の規定は、直接には自衛権を否定はしておりませぬが、第9条2項において一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も抛棄した」*6と述べており、これを覆すというのであれば当然に十分な議論と説明が必要となるところである。

ところがすでに見たとおり、当の芦田自身でさえ、この点について小委員会で明示的に議論・説明を行っていないことを認めているのであり、昭和21年8月21日に開かれた衆議院帝国憲法改正案委員会においても、小委員会での審議経過について、以下のように報告するのみである。

法第9条において第1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」と付加し、その第2項に「前項の目的を達するため、」なる文字を挿入したのは戦争抛棄、軍備撤退を決意するに至つた動機が専ら人類の和協、世界平和の念願に出発する趣旨を明らかにせんとしたのであります。

第二章の規定する精神は人類進歩の過程において明らかに一新時期を画するものでありまして、我らがこれを中外に宣言するにあたり、日本国民が他の列強に先がけて正義と秩序を基調とする平和の世界を創造する熱意あることを的確に表明せんとする趣旨であります。

一読して明らかなとおり、自衛のための戦力保持の可能性にはまったく触れておらず、むしろ留保なく「軍備撤退を決意」と述べるなど、一切の軍備を廃するものと読むほうが自然な報告内容となっている。

こうしたおおまかな流れを追うだけでも、「芦田修正の真の意図」だとか、「芦田修正によって自衛戦力の保持が肯定された」だとかいった類の言説が常識から外れたものであることは明白だ。そうであるにもかかわらず、こうした言説が未だに一定の影響力を有しているあたりに、芦田の強弁の罪深さを感じずにはいられない。 

*1:これが現在の憲法9条の文言となっている。

*2:http://www.sankei.com/life/news/131109/lif1311090026-n1.html

*3:http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/090/1450/main.html

*4:昭和27年3月18日両院法規委員会での発言。

*5:強調は引用者。

*6:強調は引用者。

メモ:品位を欠く政治家

平成28年2月24日の中央公聴会で公述人に暴言を吐いたとして、衆議院予算委員会が同月25日、おおさか維新の会の足立康史に厳重注意すること等を決めた旨報じられている*1

この件自体は報道に接し、問題の中央公聴会を確認するまで知らなかったのだが、「足立康史」という名を見て「またか」との思いを禁じ得なかった。

足立は本当に品のない質問をする。

今月に入ってからの衆議院予算委員会で私が見た足立の質問は5日のものと10日のものくらいだが、どちらも実に酷かった。当然のことだが、基本的に、予算委員会において答弁を行うのは大臣等であって、野党が答弁の場に立つことはない。そのような反論の来ない場において、足立は、与党におもねりながら、ゴシップ的な生産性のない野党攻撃を延々とくり返すのである。卑怯であるし、時間の無駄でもある。

足立の質問時間など、さして長いものではない。5日のものも10日のものも、2,30分程度であったと記憶している。そして、いずれにおいても、足立の質問うち少なくとも10分以上は、くだらない野党攻撃に費やされていた。閉口するほかない。

おおさか維新の会には、ぜひ自浄能力を発揮し、足立の処遇について適切な判断をしてもらいたい。

 

〈あとで読むかもしれない記事〉

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42644

http://www.buzznews.jp/?p=1553083

http://blogos.com/article/163114/

*1:http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016022500667&g=pol

緊急事態条項と押しつけ憲法論

はじめに

今夏の参院選では憲法改正が争点になる。改正の具体的な項目については不確定な部分もあるが、おそらくは緊急事態条項が俎上にのせられることになるのだろう。そこで、夏までにいくつか緊急事態条項に関する記事を書こうと思う。今回は、その制定経過に照らしても、現行憲法は十分に緊急事態を想定しこれに対する備えを持つものである、ということを述べる。

制定経過

周知のとおり、松本案に若干の加筆改訂を施した日本側の憲法改正要綱は、天皇主権を維持しようとするきわめて保守的なものであった。そのため、総司令部はこれを全面的に拒否し、日本側に対して、総司令部案に基づく改正案の作成を求めたのであった。

これをうけて日本側が起草したのが、いわゆる三月二日案である。もっとも、同案には、総司令部案にはない以下のような規定が置かれていた。

第76条 衆議院ノ解散其ノ他ノ事由ニ因リ国会ヲ召集スルコト能ハザル場合ニ於テ公共ノ安全ヲ保持スル為特ニ緊急ノ必要アルトキハ、内閣ハ事後ニ於テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシテ法律又ハ予算ニ代ルベキ閣令ヲ制定スルコトヲ得。

これは、閣令による緊急事態への対処を定めた規定である。この規定については、総司令部からの反対が強く、昭和21年3月6日に発表された憲法改正草案要綱では削除されている。

しかし、日本側は引き下がらなかった。解散等の理由によって国の最高機関が機能を停止するのは不都合であるとして、これに対処するため常置委員会を設ける案と、参議院に国会の機能を代行させ次の会期において衆議院の承諾を得させる案とを総司令部に提出したのである。

これらの案に対しても、総司令部は当初積極的ではなく、災害等の不測の事態には、内閣の非常権力(emergency power)で処置できると考えていた。なお、ここに「内閣の非常権力」とは、法律の授権によって内閣に与えられた権能をいうものである。

日本側は、総司令部のこのような見解に対して、広汎な委任立法を認めることの問題等を指摘してなおも交渉を続けた。そして、昭和21年4月17日の憲法改正草案において、以下の規定を置くことに成功したのである。一目見れば明らかなとおり、これらは、参議院の緊急集会について定める現行憲法 54条2項および同条3項とまったく同一の文言となっている。

第50条2項 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。

第50条3項 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。 

付言するに、これらの規定は、日本側が提出した、参議院に国会の機能を代行させ次の会期において衆議院の承諾を得させる案が採用されたものと言ってよい。したがって、日本側においても当然これによって緊急事態への備えは足りると考えていた。そのことは、昭和21年7月2日に開かれた第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会第3回において、憲法改正草案になぜ緊急勅令等がないのかという北浦圭太郎の質問に対して、金森徳次郎が以下のように答弁したことにも現れている*1*2

我我過去何十年ノ日本ノ此ノ立憲政治ノ経験ニ徴シマシテ、間髪ヲ待テナイト云フ程ノ急務ハナイノデアリマシテ、サウ云フ場合ニハ何等カ臨機応変ニ措置ヲ執ルコトガ出来マス、随テ緊急ノ措置ヲ要シマスルノハ稍々余裕ノアル事柄デアリマス、シテ見レバ、サウ云フ場合ニハ、臨時ニ議会ヲ召集スルト云フ方法ニ依ツテ問題ヲ解決スルコトガ出来ル、又臨時ニ議会ヲ召集スルコトガ出来ナイ場合ガ考ヘラレマス、ソレハ衆議院ガ解散サレ、末ダ新議員ガ選挙セラレナイ所ノ三、四十日ノ期間ガ予想セラレルノデアリマスガ、其ノ時ニハ何トモシヤウガナイ、ソコデ参議院ノ緊急集会ヲ以テ暫定的ニ代ヘル、斯ウ云フコトガ考ヘラレマス

おわりに

以上のような制定経過に照らせば、現行憲法が十分に緊急事態を想定したうえでつくられたものであることは明らかだろう。

それにしても、制定経過を見るほどに、現行憲法における緊急事態への備えが、日本側の主体的な努力によって形成されたものであることを、実感させられる。現行憲法がある意味で「押しつけ」であるとの問題意識*3のもとに行われる憲法改正論議において、真っ先に俎上にのせられるものと見込まれるのが、これほどに日本側の主体的な努力が見られる緊急事態への対処にかかる条項であるというのも、なかなか面白い話だ。

〈参考文献〉

 佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣、1994年)

日本国憲法成立史〈第3巻〉

日本国憲法成立史〈第3巻〉

 

*1:http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/s210702-i03.htm

*2:引用者において太字強調を施した部分がある。

*3:平成28年2月4日に開かれた衆議院予算委員会において、現行憲法を「押しつけ憲法」と考えるかという大串博志の質問に対し、安倍晋三は、「占領下で連合国軍総司令部(GHQ)に逆らえない中、極めて短期間で作られたのは事実である」という趣旨の答弁をしている。なお、大串によれば、安倍は対談において、より直截に、現行憲法について、「左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが、(中略)短期間で書き上げ、それを日本に押し付けた」と述べているとのことだ。

「レッテル貼り」という魔法のことば

ナチスのレッテル?

平成28年1月19日の参議院予算委員会において、福島瑞穂安倍晋三に対する質問の中で、自民党憲法改正草案*1第九章のいわゆる緊急事態条項について、「内閣限り(の決定)で法律と同じ効果を持つことが出来るなら、ナチスの授権法とまったく一緒であり、許すことはできない」という趣旨の発言をした。この発言に対して、「レッテル貼り」「印象操作」だとする批判が集まっている。

はてなブックマーク - ナチスのレッテル「限度超えている」…首相反論 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

こうした批判に関連して、一点指摘しておく。

福島はどのような質問をしたのか

その論調を見るに、批判は、福島を「レッテル貼りや印象操作しかしない(できない)議員」であると見なしているように思われる。しかし当然のことだが、福島は単に「自民党の緊急事態条項がナチスの授権法と同じだ」とのみ述べたわけではない。福島の質問の組み立てを確認しておこう。

  • まず、国の唯一の立法機関は国会であるという大原則がある*2
  • ところで、自民党の改正草案99条1項では、内閣が法律と同一の効力を有する政令を制定することができるなどとされている。そして、同条2項では、かかる政令の制定等について、事後に国会の承認を得るべきこととされている。ところが、同草案中には事後に国会の承認が得られなかった場合の政令等の効力について、なんら規定がない。
  • また、過去の憲法審査会*3において、緊急事態条項(国家緊急権)について、その導入に賛成・反対双方の立場の学者の意見を聴取したが、その際、賛成の立場の学者であった西修でさえ、先の東日本大震災のような大規模災害に、(緊急事態条項のない)現憲法でそれなりの対応ができたことを認めている。

福島は、以上を前提として述べたうえで、自民党の緊急事態条項について、「内閣が法律と同じ効力を有する政令を出せるのであれば」、 ナチスドイツの国家授権法と同じであり、許すことはできない旨の発言をしたのである*4

「レッテル貼り」という断定による主張の無力化

こうして確認すれば明らかなとおり、福島の質問は、草案の規定に不備があるのではないかと指摘し*5、またいわゆる緊急事態には現行憲法でも十分対応できるのではないかとの疑義を呈するものである。このような指摘に同意するか否かはそれぞれであろうが、少なくとも福島の質問が「印象操作だけ」などではなく、内容を伴うものであることは間違いない。

ナチス」という発言だけを切り取り「レッテル貼りだ」「印象操作だ」と断定して殊更に騒ぎ立て、相手の主張全体を無力化せんとする手法は、その構造においてまさに「レッテル貼り」と同一である。記事自体が恣意的な切り取り方をしている部分もあるのでさほど強く批判するつもりもないが、こうしたコメントが横溢して建設的な議論がなされない状況については残念に思う。

*1:https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

*2:憲法41条参照。

*3:平成24年5月16日開会のものであろう。

*4:なお、こうした福島の質問に対して、安倍は、ほぼ「緊急事態条項は、(平時ではなく)緊急時における国家国民の果たすべき役割を定めようとするものである」旨の回答をするにとどまり、国会による事後の承認が得られなかった場合における政令の効果や、現行憲法での緊急事態への対応可能性についてはなんら具体的に答えなかったことを付記しておく。

*5:なおこの点、読売の記事は「緊急事態条項には、大規模災害などで一時的に首相が権限を強化できる規定が盛り込まれているが、国会の事前または事後の承認が必要としている」などと賢しらに述べるが、福島はかかる承認が得られなかった場合の規定の不備を指摘しているのであるから、やや的が外れている。

香山リカ「批判」の歪さ

香山リカ「批判」

一部界隈で、香山リカ「批判」が盛り上がっている。

香山は昨日銀座で行われた慰安婦問題での日韓合意に反対するデモへの抗議行動を行っていたところ、「批判」者は、その際の香山の表情や抗議意思の表明として中指を立てたこと等をとりあげ、けしからんと主張するもののようだ。

もっとも、批判記事やそれに付けられたブックマークコメントを読んでも、なにがそこまで大騒ぎするほど問題なのかはよく分からない*1

はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 香山リカさん、中指立ててヘイトを撒き散らす - ライブドアブログ

「批判」の分類

香山に対する「批判」は、突き詰めると、次のいずれかにたどり着くようである。

表情を嘲笑するもの

一つは、(主に)抗議の際の香山の表情をとりあげて嘲笑するもの。

「自称精神科医、実は単なる精神病患者」「更年期障害?」「完全にキチガイの顔」「目がイッてる」「顔がもうヤバイ……テレビなどに出るのであれば、人間に戻ってからにしてもらいたい」などである。

これらは、そもそも批判の名に値しない。id:RRDさんが正当に指摘する*2ように、真剣な者が必死の形相になるのは当然のことだ。他者の真剣さそれ自体を嘲笑するのは、端的に言って下衆である。

そもそも、香山の「攻撃的」な言動を批判する文脈で、香山の言動に憤慨しながら、同時にこのような(はるかに酷い)罵倒*3を投げつけて平然としているというのは、まったく理解しがたい。いったいどういう神経をしているのか。

香山の言動をヘイトであるとするもの

もう一つは、「ヘイト取りがヘイトに」「左翼のヘイトは綺麗なヘイト」といった類の、香山の言動を(自らが批判しているはずの)ヘイトであるとする批判である。批判記事自体も、タイトルが「【画像】香山リカさん、中指立ててヘイトを撒き散らす」とされており、同様の主張を含意しているように思われる。

しかし、「特定の主張を行う集団に対し抗議意思の表明として中指を立てる行為」は、たとえば「在日朝鮮人に対するヘイトスピーチをやめろ」というときに用いられる意味での「ヘイト」ではない。したがって、この種の批判は、その前提に誤りがあり、理由がない。なお、「何がヘイトか」という問題については、これまでにも多くの者がくり返し説いているところであるので*4、本記事では改めて触れない。

歪な「批判」

香山に対する「批判」は、おおむね以上のようなものである。一読して明らかなとおり、大騒ぎするほどのものではまったくないが、一方で、香山の言動をヘイトであるとする主張については、「下品な言動をするべきでない」という程度の趣旨であると好意的に解釈するならば、それはそれで一つの意見であるとも言えるだろう。

しかし、「下品な言動をするべきでない」との主張に焦点を当てるならば、当然問題とされなければならないことが、批判記事やブックマークコメントでは見事なまでに無視されている。それは、「香山がどのような場面で問題となっているような言動をとったのか」ということである。

冒頭に述べたとおり、香山は昨日行われた慰安婦問題での日韓合意に反対するデモへのカウンターとして、問題の言動をとっていたものである。同デモには、在特会の前会長である桜井誠(通称)も参加しており、コーラーは「乞食国家韓国」などというそれこそ下品きわまりない言葉を連呼していた*5。同デモ参加者は、沿道のカウンターに対して拡声器を用いて「バカチョン」等の聞くに堪えない言葉を連呼しており、桜井は沿道のカウンターに対して終始「突っこんでこい」などと挑発行為をくり返していた。香山の言動はかかる状況下においてなされたものであり、下品な言動を諌めるのであれば、かかる状況を明らかにしたうえで、香山とともに、というよりは香山以上に*6、同デモに対して批判が向けられるべきであろう。

ところが、いくつかの批判記事を見ても、同デモ側の言動の悪質性にはまったく触れられていない。それどころか、注意力のない読者であれば香山の言動が同デモへのカウンターとして行われたということにさえ気づかないのではないかと懸念されるほど、同デモへの言及自体が簡素なものなのである。

いったいどうしてこのようなことになるのか。興味深いところであるが、ひとまず備忘として記しておく。

*1:閲覧数の増加になるべく貢献したくないので、批判記事自体へのリンクははらない。

*2:はてなブックマーク - RRD(ranrando)のブックマーク - 2016年1月11日

*3:なお、これらの多くはまさしく「ヘイト」に該当しよう。

*4:たとえばhttp://kdxn.tumblr.com/post/66296158976参照。

*5:一参加者ではなく、コーラーがこのような下劣な文言を用いていたということはきわめて問題であろう。

*6:「デモ」と「(デモへの)カウンター」という先後関係上、発端はデモ側に求められるであろうし、言動の悪質性においても明らかにデモ側の方が高いと言えよう。

条文の文言からの乖離に関する覚書

平成28年1月8日の衆議院予算委員会において、枝野幸男安倍晋三に対して、臨時国会の件について糺していた。昨年10月半ばに、憲法53条の規定に基づく、総議員の4分の1以上による臨時国会召集の要求があったにもかかわらず、その後ついに安倍内閣が臨時国会の召集を決定することはなかったという例の件である。

枝野の質問に対し、安倍は大要以下のように答えていた*1

憲法53条は召集時期について定めを置かずその決定を内閣に委ねているものの、内閣が合理的期間内に召集を決定せねばならないのは確かである。

もっとも、合理的期間内に通常国会が開かれる見込みがある場合、臨時国会通常国会とでその権能に異なるところはないため、あえて臨時国会の召集を決定せずとも憲法に反することにはならない。 

この後、枝野からはさらに2カ月以上もの期間が合理的期間内であると言えるのかという趣旨の追及がなされ、今回の件との関係に限って言えばむしろその点こそが重要であろうと思うが、本記事では割愛する。

さて上記のとおり、安倍は、一定の条件下であれば、臨時国会の召集を決定せずとも憲法53条に反しない旨を述べる。私は、このような解釈に対して必ずしも批判的というわけではない。ただし、このような解釈は、条文の文言を忠実に解釈するならば、絶対にでてきようのないものである。憲法53条の条文を挙げる。

第五十三条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

このように、憲法53条は、(いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば)内閣は臨時国会の召集を決定しなければならないと明確に規定し、なんらの例外も設けてはいない。そうである以上、臨時国会の召集を決定しないことが、例外を設けず臨時国会の召集を「決定しなければならない」とする憲法53条に反しないなどという帰結は、条文の文言を忠実に解釈する限り導き得ないものである。

以上、近い将来に予想される憲法改正論議においてなんらかの手がかりとなることを期待して、ある意味において条文から乖離した解釈が堂々と行われている一例を記しておく。

*1:正確な発言内容は、後日公開される国会会議録参照。

今年の抱負(2016年)

年が明けた。

学生でなくなってから感じ続けていることだが、為すべきことが山積する中で、自らの専門以外の分野を修める時間を確保することはとても難しい。専門の分野でさえ、直面する問題に対処する限りにおいての調査・研究となりがちであり、視野狭窄に陥りつつあるのではないかという危惧がある。

今年は、努めてさまざまな分野に接し、広い視野で多くのことを学ぶ一年としたい。