増田での個人への言及は基本規約違反です

下記記事(以下、「冒頭記事」といいます)に関連して。

https://megalodon.jp/2020-0212-0935-42/https://anond.hatelabo.jp:443/20200211234453

うーん、私これ結構ずっと言い続けてきたつもりなんですが、まだ浸透してないんですかね。 はてな匿名ダイアリー(以下、「増田」といいます)で個人に言及するのは、基本的に規約違反ですよ。

このことについて説明した拙記事としては下記のものがありますが……。

増田での個人攻撃の度が過ぎる - U.G.R.R.

まあ、面倒くさがらずもう一度説明しておきます。

2014年9月4日以降、増田において個人に言及する記事は基本的に規約違反です。具体的には、「嫌がらせ、迷惑行為」として、はてな利用規約6条2項dに違反することになります。

このことについては、はてラボ開発者ブログの記事*1(以下「ラボ記事」といいます)に説明があるので、引用します。

はてなは、はてな匿名ダイアリーについて、投稿者が表示されず文責を問いにくいサービスであるという性質上、特定のユーザーや個人を批判・攻撃する文章を公開する目的での利用を適切とは考えておりません。特に、投稿者が表示されない状況を悪用し、言及された当事者が掲載を望まない内容を意図的に投稿する行為は、嫌がらせ、迷惑行為に該当すると判断して差し支えないものと考えます。

なお、ラボ記事には、「削除されたにもかかわらず繰り返し同様の投稿を行う悪質なユーザーは、はてラボおよびはてな全体のサービス利用停止措置などの対象」とする旨も記載されており、積極的に削除申立てを行うことは、はてなから悪質なユーザーを一掃することにも資すると思います。増田で言及された方は、少しでも不快であれば、積極的に削除を申し立てていただけると個人的には嬉しいです。

ただ今回問題となっている冒頭記事では、著者であるid:Zephyrosianus さんがブックマークコメントにて自身が著者であることを裏づけの取れる形で明らかにしており*2、後に記事中に自身のidも記載しています*3

ラボ記事からの引用中に増田の「投稿者が表示されず文責を問いにくいサービスであるという性質」への言及があることからも分かるとおり、増田での個人への言及が基本的に規約違反とされるのは、増田が原則としては発言への責任をとらなくてもいい場所だからです。

この点、同じ匿名であってもidを出している場合には、継続的に運用することによって、当該idの人格と言動とはひもづけられます。たとえば増田ではg×××さんやz×××さんへの罵詈雑言が頻繁に投稿されていた(いる?)のですが、これはそれらの方の発言が当該idとひもづけられ、評価されている結果にほかなりません。たとえ匿名であっても、idを出している場合には、このような形で言動に対して一定の責任をとるだけの仕組みが確保されているのです。

そうした見地からすると、idを明らかにしている冒頭記事は、責任をとる主体が明確になっており、増田での個人への言及を基本的に規約違反とした趣旨が必ずしも妥当しません。したがって冒頭記事については、私自身は積極的に批判するものではありません(もちろん、規約に反しないことを保証するものでも全くありませんが)。

*1:http://labo.hatenastaff.com/entry/2014/09/04/182358

*2:https://b.hatena.ne.jp/entry/4681298796434828706/comment/Zephyrosianus

*3:なお2020年2月12日20時40分ごろに再び確認したところ、さらに変更が加えられて特定idへの言及自体が消え、自ブログに誘導する内容になっているようです。

明確性なんていらない(いる)

はじめに

献血ポスターの話自体にはあまり興味がないのですが、先日来「過度に性的」をめぐって理解の足りないコメント等をたびたび見かけるので、この種の問題を語るうえで最低限必要な知識について簡単に説明しておきたいと思います。そもそもどういう話かについては、さしあたり以下のまとめを参照してください。

宇崎ちゃん献血ポスター批判派の「過度に性的」は言語化されていない - Togetter

要するに、献血ポスターを批判する者は、「過度に性的」であることを問題視しているようだが、「過度に性的」とはどのようなことをいうのか言語化されていない。規範を明確にするべきだ、という主張ですね。

そもそも、「過度に性的」であることを問題視している、という前提自体が誤訳に基づく誤った理解ではないか、との批判もなされているようですが*1、その点については本記事では扱いません。本記事では、原理的に規範というものを完全に明確化することはできないのだという話、そしてその結果として、規範に求められる明確性はそこまで高いものではないのだという話をします。

規範の明確性を徹底することはできない

まず理解してほしいのは、規範が不特定多数に向けられたルールだということです。そして、不特定多数に向けられたものである以上、その内容がある程度抽象的、つまり不明確になってしまうことは避けられません。

何でもいいですが、たとえばヘイトスピーチを禁止するルールを定めることになったとしましょう。このとき明確性だけを考えるのならば、たとえば「『○○人は殺せ』と言ってはいけない」というように、具体的な言動を挙げるのが最も紛れが少なく分かりやすい方法です。

しかし、このようなルールだと対応しきれない事態が無数に生じうることは、すぐに分かると思います。たとえば○○人でなく「××人は殺せ」ということは上記ルールになんら抵触しませんし、「○○人は犯せ」ということについても同様です。こうしたバリエーションはいくらでも考えられ、その全てをカバーしたルールを作ることはおよそ不可能です。

そこで実際にこうした言動を禁止する場合には、ある程度抽象化して、たとえば「特定の民族・国籍に属する者に対して危害を加えるとする発言をしてはいけない」というようなルールとすることになるでしょう。こうしたルールにすれば、「危害を加える」とは具体的にはどのようなことをいうのか等は若干分かりにくくなる(明確でなくなる)ものの、「○○人は殺せ」だけでなく「××人は殺せ」や「○○人は犯せ」、さらにその他のバリエーションにも対処することが可能になるからです。

以上のとおり、多様なケースへの対処を可能にしようとすれば、規範はある程度抽象的で不明確なものとならざるを得ません。まずはこのことをきちんとふまえる必要があります。

判例が求める規範の明確性の程度

そうは言っても、規範が不明確だと、自分がしようとしている行為が許されるかどうかの判断ができないなど、いろいろと不都合も生じます。ですから規範には、さまざまなケースに対処することができるだけの抽象性を保ちつつ、同時に明確でもあることが求められるのです。

それでは、規範に求められる明確性とはどの程度のものなのでしょうか。この点に関して、俗に徳島市公安条例事件と呼ばれている最高裁昭和50年9月10日大法廷判決を見てみましょう。これは、集団示威行進に参加したAが、集団行進者に対して、マイクで呼びかけるなどして蛇行進をするよう刺激を与え、もって交通秩序の維持に反する行為をするよう煽動したなどとして徳島市の集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下、「条例」といいます)3条3号、5条違反等で起訴された事件です。条例3条3号、5条を引用しておきましょう。

(遵守事項)

第3条 集団行進又は集団示威運動を行うとする者は、集団行進又は集団示威運動の秩序を保ち、公共の安寧を保持するため、次の事項を守らなければならない。

(1) (略)

(2) (略)

(3) 交通秩序を維持すること。

(4) (略)

 

(罰則)

第5条 第1条若しくは第3条の規定又は第2条の規定による届出事項に違反して行われた集団行進又は集団示威運動の主催者、指導者又は煽動者はこれを1年以下の懲役若しくは禁錮又は5万円以下の罰金に処する。 

本件では、主として「交通秩序を維持すること」という要件の明確性が問題とされました。このような一般的、抽象的な文言ではいかなるものをその内容として想定しているのか不明確であるから、罪刑法定主義を保障した憲法31条に違反し無効だというのです。なお念のために確認しておきますが、本件で問題となっているのは刑罰法規です。刑罰法規は、刑罰というきわめて強力な手段によってその実効性を確保しようとするものですから、その内容が不明確で判断できないということになると、人びとのこうむる不利益も大きなものとなってしまいます。そのため、一般に刑罰法規については、規範の中でも最も高い明確性が要求されます。このことをふまえて、本件における裁判所の判断を見てみましょう*2

しかし、一般に法規は、規定の文言の表現力に限界があるばかりでなく、その性質上多かれ少なかれ抽象性を有し、刑罰法規もその例外をなすものではないから、禁止される行為とそうでない行為との識別を可能ならしめる基準といつても、必ずしも常に絶対的なそれを要求することはできず、合理的な判断を必要とする場合があることを免れない。それゆえ、ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法三一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによつてこれを決定すべきである。

最高裁判所大法廷はこのように述べたうえで、条例3条3号について、「道路における集団行進等が一般的に秩序正しく平穏に行われる場合にこれに随伴する交通秩序阻害の程度を超えた、殊更な交通秩序の阻害をもたらすような行為を避止すべきことを命じているものと解される」とし、通常の判断能力を有する一般人が具体的場合において自らのなそうとする行為がかかる禁止に抵触するかどうかを判断することはさして困難ではないとして、違憲無効の主張を退けました。

すでに述べたとおり、本件はデモ行進等を規制する条例中に遵守事項として挙げられた「交通秩序を維持すること」 との文言の明確性が争われたものです。ここで注目してほしいのは条例がデモ行進等の規制にかかるものだということ。そもそもデモ行進は、通常は車両の運行に供される車道を多人数で行進するものなので、これを行うこと自体が一定程度の交通秩序の阻害を伴います。だからこそ、デモ行進に際しては警察官が動員され、交通整理やデモ隊の誘導等が行われるのです。

こうしたことをふまえれば、「交通秩序を維持すること」との文言が明確性との関係ではらむ問題が、いっそう分かりやすくなるのではないでしょうか。まず、もともと「交通秩序を維持」という文言自体、抽象的で明確性を欠く憾みがあることについては、問題なく了解していただけるでしょう。しかしそれだけにとどまらず、あらゆるデモ行進は一定程度交通秩序を阻害するのだから、どれだけ静穏に行われるデモ行進であっても「交通秩序を維持」していない(そもそもできない)ということに、理屈上はなり得ます。そうすると、すべてのデモ行進は条例に反することになるのでしょうか。そうでないとすれば、許される程度の交通秩序の阻害と許されない程度の交通秩序の阻害とがあることになりますが、条例の文言中にその判断基準はなんら示されていないようにも思えます。あるいはこう言い換えてもよいでしょうね。「交通秩序を維持すること」という遵守事項に反するような過度な交通秩序の阻害とはなにかについて言語化されておらず不適切ではないか、と。うーん、どこかで聞いたような???

こうした問題に対して最高裁判所大法廷が出した答えは、すでにご紹介のとおりです。すなわち、「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準」 であれば明確性の原則に反するとは言えない。そして、「交通秩序を維持すること」という文言はそうした判断が可能な基準なので明確性の原則に反しない、というものでした。これは噛み砕いて言えば、常識のある人なら条例の基準で分かるからオッケーということです。すでに述べたとおり、刑罰法規は最も高い明確性が求められる規範です。しかし、その刑罰法規においてさえ、求められる明確性はこの程度のものなのです。

おわりに(おわらないかも)

以上、規範の明確性について簡単に説明してきました。今回取り扱った具体例は公権力が定めた刑罰法規という最も高い明確性が要求されるもののみであり、書くべきことはまだ(少なくとも本記事と同程度の分量の記事1本以上くらいは)あるのですが、若干長くなってきたのでいったんここで切りたいと思います。

いずれにせよ、現在のネットでは規範の明確性を声高に求める人ばかりが目立っているように思えます。じっさい明確性は重要ではあるのですが、規範というものの性質上、それを徹底することなどできないこと、そして刑罰法規においてさえそこまで高い明確性が求められておらず、ネットで声高に叫んでいる人びとのようなレベルで明確性を求めるのは、現実味のない「お花畑」な主張であることを理解していただけると幸いです。

*1:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1466097

*2:引用者において一部太字強調を施しました。

共産党側は完全「セーフ」でしょうに……

京都新聞の意見広告(以下、「本件広告」といいます)をめぐっては、一部の人たちのなかなか興味深い動きを観察することができます。

いちおう知らない方のために説明しておくと、事の発端は京都新聞に「共産党の市長は『No』」などという内容の本件広告が出されたことでした。このような下品な攻撃に対して当然共産党側は反発します。ところが、なぜか非難が集まったのは攻撃をした側ではなく共産党の側でした。反発の際、本件広告を「ヘイト広告」と評したことが問題視されたのです(ひたすら「被害者」の落ち度を言い立てるお定まりのパターンであって、「なぜか」などと不思議がるには及ばないという見方もあるかもしれません)。とりあえず、まとめとしてこのような記事があります。

今後「政党への批判(〇〇党市長はNO)」も『ヘイト』と認定されるかもしれない…(日本共産党のえらい人の見解) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

本件広告について、 共産党の志位や小池などが「ヘイト広告」と評したことは正しいのか、というような内容です。

この点については先日の記事ですでに私の意見を述べたのですが、その記事はすでに非公開にしてしまったので、改めて書いておきます。

志位らがどのような趣旨で「ヘイト広告」という表現を用いているのか現段階では分かりませんが、本件広告は少なくとも「ヘイトスピーチ」という意味での「ヘイト」にはあたらないでしょう。個人的な感覚ですが、共産党支持者からもこうした表現への賛同はあまり集まらないと思います(私自身、共産党に対しては比較的好意的な立場ですが、賛同できません)。少女像の問題でいきり立っていた河村某の例などとは異なり、共産党はむきだしの敵意を直接的にぶつけられているわけでお気の毒だとは思いますが、ここは軌道修正した方がかえって支持者の理解を得られる気がします(別の切り口からの批判はいくらでも可能でしょう)。 

私の意見はこのようなものですから、本件広告に対する志位らの評価に疑義を呈すること自体は理解できないでもありません。

ところで、 本件広告についてはこの後さらに別の問題が持ち上がりました。顔写真および氏名等の「無断」使用問題です。

本件広告には、著名人の顔写真および氏名等が掲載されており、あたかも「共産党の市長は『No』」とする広告の意見に賛同するかのような印象を与えるものとなっていました。ところが、顔写真および氏名等が掲載された一人である千住博が、「特定の党を排するような活動には反対である」「本件広告への(顔写真および氏名等の)掲載は千住の許可なく無断でなされたものであり、遺憾である」との趣旨の声明を出したのです*1*2。その後、他の著名人からも本件広告について「事前の説明も了承もなかった」などとするコメントが相次ぎ、顔写真および氏名等を掲載された複数人から遺憾だとする意見が出される事態に発展しています*3*4

なお、広告を出した「未来の京都をつくる会」の吉井章事務長(自民党府連幹事長)によれば、「あらゆる広告物に推薦人の名前と写真を使用することは事前に了承を得ている。個別の広告物についての掲載確認は以前からしていない」とのことです*5*6。推薦の趣旨がいかなるものであるのか、またその趣旨からかけ離れた使用についてまで許可するような合意があったと言えるのかといったこと等については、疑義もありうると思いますが、いずれにせよそれらは当事者間の具体的なやりとりや交わされた書面等を確認しなければ分からないことであり、結論として本件広告が違法とまでは言えない可能性は十分あるでしょう。

ところが、一部の人たちはそれをもって「全く問題ない」につなげてしまうんですよね。「全く違法性はない。文句があるなら争えば? どうせ負けるけど(笑)」みたいな*7。それどころか、「当初は推薦人であることを言わなかった」「隠していたんだ」などと、全くお門違いな逆ギレまがいの反応を示す手合いまで出てくる始末。ちょっともう手に負えません。

冷静になって考えればすぐに分かることですが、違法かどうかという基準で判断するなら、本件広告を「ヘイト広告」と評した共産党側の発言は完全に適法であり、「セーフ」のはずです。また、なんら個人の権利や利益を侵害するようなものでもない。一方で、本件広告はそもそもその適法性自体に疑義がないとは言い切れません。また仮に適法であるとしても、少なくとも実際の本人の意見とは反する意見を持っていると受けとられうるような方法で顔写真および氏名等を使用していることは間違いないのですから、個人の権利や利益を侵害しうる側面があることは否定しがたく、道義的責任は免れないでしょう。だからこそ、広告を出した「未来の京都をつくる会」会長の立石義雄も「本人の了承を事前に得ていないのであれば申し訳ない。会長としておわびをしないといけないと思う」と謝罪をしているのだと思います*8。……にもかかわらず、前者は嬉々として叩き続け、後者は適法だから問題ないと擁護する人たち。結論ありきであまりにも浅ましいと評するほかありません。

以上、本件広告をめぐる一部の人たちの興味深い動きを紹介しました。いや本当に、もうちょっとフェアにいきましょうよ。

*1:https://buzzap.jp/news/20200128-kyoto-kadokawa-anti-jcp-ad/

*2:https://mainichi.jp/articles/20200128/k00/00m/010/219000c

*3:前掲注2も参照。

*4:https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/146571

*5:前掲注4。

*6:なお、推薦人に名を連ねていること自体は千住も認めています。

*7:ちなみに、私個人は違法性がないと断じてしまうのもどうかと考えていますが。

*8:前掲注4。

記事非公開化のお知らせ

本日午後9時51分に、京都新聞の広告についての千住博の声明文を紹介する記事(以下、「本件記事」といいます)を公開しましたが、午後11時30分に再び同声明文が掲載されていたウェブサイトにアクセスして声明文を確認したところ、(大意としては同じであるように思えましたが)文章が全面的に改められていました。

今後も声明文の文章に変更が加えられたり削除されたりする可能性が否定できませんので、本件記事は当面非公開とします。いちおう「当面」ということにしておきますが、おそらく再公開はしないと思います。

関西テレビの放送倫理違反について

はじめに

BPOが、女性作家の差別的な発言を編集でカットすることなく報道した関西テレビの番組について、放送倫理違反があったと認定する意見を公表した旨の報道に接しました。

韓国人への差別的発言は「放送倫理違反」 BPOが意見:朝日新聞デジタル

本件については、問題とされた「手首切るブスみたいなもん」との発言に関し、韓国人でなく韓国という国に対するものであったとする主張があるようです。当該発言は単に国の政治姿勢を批判しただけだ(からセーフだ)というわけです。そこで本記事では、BPO放送倫理検証委員会の「関西テレビ胸いっぱいサミット!』 収録番組での韓国をめぐる発言に関する意見」*1(以下、「BPO意見」といいます)に基づいて発言に至る経緯等を確認することを通じて、かかる主張の当否を検討したいと思います。

発言に至る経緯等

「手首切るブスみたいなもん」という発言は、当該番組の2019年4月6日放送回と同年5月18日放送回の2回にわたって行われています。このうち、特に5月18日放送回のやりとりが分かりやすいので、BPO意見の認定に基づいて紹介します。

5月18日放送回では、韓国国会議長が改元に際し新天皇に送った祝電が槍玉にあげられました。祝電の中には天皇訪韓を期待する旨の記載があったのですが、このことがかつて同議長が慰安婦問題の解決には天皇の謝罪が必要だと述べたことと結びつけて問題とされたのです。曰く、「文面が思い上がっている」「祝電は送り返すだけでなく、悲惨な目にあわせないと駄目だ」云々。

本題から外れますが、当然のことながら、その祝電は、新元号である「令和」が意味する美しい調和の実現や韓日関係の発展等を願う内容で、なんら攻撃的なものではありませんでした(友好の象徴として天皇訪韓を期待することも、少なくとも攻撃的であると評価されるようなものとは全く言えないでしょう*2)。また同議長は上皇に対しても「韓国に対し、痛みに寄り添い和解と協力を強調されてこられたことに感謝する」旨の電報を送ったということです*3。こうして示された祝意に対して、感謝するどころか「文面が思い上がっている」などと非難を浴びせ、「祝電は送り返すだけでなく、悲惨な目にあわせないと駄目だ」とまで述べるのは、あまりにも品位を欠く行為だと思います。

ともあれ、このような話の流れを受けて、番組MCが女性作家に「Xさん、ご主人が韓国の方ということで韓国人気質というのはよく分かっていると」と話を振ります。これに対して女性作家が、「いやー、こないだも言いましたけど、とにかく手首切るブスみたいなもんなんですよ。手首切るブスというふうに考えておけば、だいたい片づくんですよ」と述べた。これが発言に至る経緯です。なお、参考までにBPO意見の該当箇所を引用しておきます。

VTRは、「慰安婦問題の解決には天皇(注:現在の上皇)の謝罪が必要だ」「その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか」などと主張して上皇への謝罪を要求していた文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が、改元の際、謝罪要求から一転、日韓関係の発展と天皇陛下訪韓に期待を示す祝電を送ったことなどを説明する。

これに対して、出演者の女性タレントが「文面が思い上がっている。韓国に送り返せばいい」と“クレーム”を述べてスタジオトークが始まる。 この女性タレントは「戦争犯罪の主犯の息子と呼んでね、(元慰安婦の)おばあさんの手をとって謝罪すれば慰安婦問題は解決されるなんて言ってね」と口火を切る。男性タレントも、天皇に戦争責任がないというのが日本の立場であり、天皇に謝罪しろというのは内政干渉である、祝電は送り返すだけでなく、悲惨(ヒサン)な目にあわせないと駄目だ、などと応じる。

ここで、MCがX氏に「Xさん、ご主人が韓国の方ということで韓国人気質というのはよく分かっていると」と話を振る。これに対してX氏は、動作を交えながら、「いやー、こないだも言いましたけど、とにかく手首切るブスみたいなもんなんですよ。手首切るブスというふうに考えておけば、だいたい片づくんですよ」と語る。 

韓国か韓国人か

ここで重要なのは、問題の発言が番組MCの「ご主人が韓国の方ということで韓国人気質というのはよく分かっていると」との「フリ」 を受けてなされたものだったということです。発言が国の政策に対してなされたものであるならば、「ご主人」という個人は何の関係もないはずです。さらに番組MCは明確に「韓国人気質」というものに言及して話を振っています。これで「韓国人」でなく「韓国」についての話をするのは、やりとりとして明らかにチグハグであるというべきでしょう。BPO意見も、以下のように述べて問題の発言は韓国(の外交姿勢)に対してなされたものにすぎないとする主張を退けています。

発言は、韓国のことを「手首切るブスみたいなもん」というものであり、「手首切る」と「ブス」という2つの言葉をもって例える内容であった。そして、その発言が「外交姿勢の擬人化」にとどまらず、広く韓国籍を有する人々などを侮辱する表現であって、公共性の高いテレビ番組では放送されるべきではなかった(略)。 

おわりに

結局、問題の発言が韓国人でなく韓国という国に対するものであったなどとする主張は、明らかに無理のある、単なる言い訳にすぎないと見てよいと思います。関西テレビには、BPOの意見を真摯に受け止め、改善に努めてもらいたいところです。

*1:2020年1月24日放送倫理検証委員会決定第32号。

*2:人によっては不躾だと感じるくらいのことはあるのかもしれませんが(なお、私自身はそのようには感じません)。

*3:https://www.sankei.com/world/news/190501/wor1905010017-n1.html

離婚後共同親権について

離婚後共同親権(以下、単に「共同親権」といいます)についての以下の記事に接しました。

リベラルのための離婚後共同親権に関する説明 - 誰かの妄想・はてなブログ版

正直なところ、共同親権を主張している方がどのような考えを持っているのかということについては、よく分からない部分もあります。scopedogさんは信頼できる論者だと思っているので、説明の記事を精力的にものしてくださるのはありがたいです。

上記記事については、「漏れがあれば、別途追加していくつもり」とのことなので、追加の際にいくらかでもとりあげられることを期待して、私が共同親権の主張について気になっているところをまとめておきます。

そもそも親権とは何か。

ご承知のとおり親権については民法818条以下に規定があります。それらを読むと、親権とは大ざっぱに言えば次の2つの権利だということが分かると思います。

  • 子の監護・教育等を行う権利(民法820条ないし823条)
  • 子の財産を管理し、これに関する法律行為について子を代表する権利(民法824条)

共同親権の主張とはつまり、これらの権利行使を両親が共同して行うべきだとするものであると理解しています。しかし、権利行使を「共同して行う」ということは、一方の親だけで勝手に行えないということでもあります。現実問題として、共同親権とは言っても一方の親は子と離れて暮らざるを得ませんが、いちいち離れて暮らす親と相談のうえ共同して親権を行うのは、たとえ良好な関係であってもかなり煩瑣なように思えます。加えて、離婚にまで至るような場合、両親の関係はむしろ険悪であることの方が多いでしょう。そのようなときに、一方の主張に対して他方が感情的なしこりから常に強硬に反対するために親権を行うことができない事態に陥るという懸念は、相当強く存するように思われます。

さらに、子の監護・教育等を行う権利については、そもそも離れて暮らす親に関わらせることが妥当なのかという問題もあるでしょう。監護・教育の主なものとしては身の回りの世話やしつけなどが想定されます。こうしたことを離れて暮らす親が適切に行うことは難しく、基本的には子と生活をともにしている親に任せるべきではないかとも思われるところです。

私が共同親権についてまず気になるのはこうした点です。共同親権を主張する方には、こうした点についてどのように考えておられるのかということを説明してもらいたいです。またこのことと関連しますが、共同親権を主張する方が、具体的にはいったいどのような形での関与を想定しておられるのかという点も、よく分かりません。あくまでも私の印象になってしまいますが、大半の方は、「連れ去り親」を槍玉にあげて、「非親権者は一方的に子を奪われ、会うことさえ許されない。共同親権にすれば面会の機会も確保されるのだ」といった類の主張しかされていないように思います。言うまでもないことですが、面会交流は親権とはまた別の話です。この点について状況を改善したいというだけでは、共同親権を主張する十分な理由にはなりません。面会交流だけを問題にしているわけではないということであれば、現状のどのような点に足らざるところを感じており、それを共同親権によって具体的にどう改善しようとしているのか(≒いかなる場面においてどのように子と関わることを想定しているのか)、ということを説明してもらいたいです。

以上、共同親権の主張について私が気になっているところをまとめました。多少でも参考にしていただければ幸いです。

センター試験当日を狙って痴漢するのは当然

試験時間に遅れることができない受験生を狙って痴漢をしようと呼びかける輩がいるそうで。

センター試験 受験生を痴漢から守れ! | NHKニュース

私個人は心底下劣だと思いますが、しかし考えてみれば今日の社会が持て囃す「絶対的な正義/悪などない」「人の数だけ正義はある」といった類の思想(笑)から導かれる当然の帰結かもしれません。

「絶対的な正義/悪などない」のだとすれば、当然ながら痴漢についても悪だと決めつけられる謂れはありません。「人の数だけ正義はある」のならば、痴漢行為も人助けも、道義的には等価というべきでしょう。

痴漢は犯罪だから許されない? 犯罪かどうかを決めるのは多数派によって制定される法律です。それは今日の社会が持て囃す思想(笑)からすれば多数派の正義にすぎません。他者の権利を侵害する行為だから許されないという類の主張もほぼ同じです。そもそも保護されるべき権利とは何かということ自体が多数派の価値観によって決せられるものですし、その権利を具体的に保障するための法律も、上記のとおり多数派が制定するものだからです。

結局、今日持て囃されている思想(笑)からすれば、痴漢行為は特段恥じるべきものでも糾弾されるべきものでもなく、その行為が抑止されるのはただこれに対して刑罰が定められているからにすぎません。もう少しわかりやすく言い換えるなら、「悪いことだから」しないのではなく、「罰を受けるのが嫌だから」しないというだけなのです。こうした発想の手合いが、時間に遅れることができず被害を訴える可能性の低いセンター試験当日の受験生を狙って痴漢を行おうとするのは、当然のことだと言えるでしょう。

社会として一定程度「何が良くて何が悪いか」ということについての価値観を共有していないと、人びとは恥の感覚を失います。そして恥の感覚を失った人びとは、自制することがなくなり、ただ強制力を伴う法によってしか統制できなくなるでしょう。そのような社会はあまりにも浅ましいと私は思いますし、常に人びとを監視して完全な取締りを行うことなど不可能である以上、自制を期待できる社会よりはるかに治安が悪くなることも確実です。それで本当によいのかということを、もう大分手遅れの感がありますが、一度まじめに考えてみるのもよいかもしれませんね。