テキサス、死刑、冤罪

アラン・パーカー監督『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』(2003年公開)を見た。

女性記者ビッツィー(ケイト・ウィンスレット)は、死刑囚デビッド・ゲイル(ケヴィン・スペイシー)から指名を受け、彼のインタビューを行うためテキサスへと赴く。ゲイルは、共に死刑廃止運動に取り組んでいたコンスタンス(ローラ・リニー)をレイプし殺害したとして死刑判決を受け、その執行を4日後に控えていた。当初はゲイルの有罪を疑っていなかったビッツィーだが、次第にゲイルは無実であると考えるようになり、彼を死刑から救うために奔走する。

本作の公開は2003年であるが、2年後の2005年9月に本作の舞台であるテキサスにおいて絶対的終身刑が導入されたことを先日の記事で紹介したばかりだったので、ある種の感慨を抱きながらの鑑賞となった。

ストーリーは、「現在」と「過去(回想)」とが交互に描かれる形で進行していく。「現在」では、事件の真相を明らかにするためのビッツィーらの試行錯誤が、緊張感をもって描かれている。ビッツィーらの周りに見え隠れする不審な「カウボーイ」の存在もさることながら、なによりも死刑執行まで4日間という厳然たる期限が、物語の全体を引き締める効果を果たしているように思う。

「過去(回想)」では、ある出来事をきっかけとしてゲイルが転落していく過程が、丁寧に描かれている。ゲイルの努力にもかかわらず悪化の一途をたどる状況、ひとたび動き出してしまえばもはや抗うことのできない運命ともいうべきものを丹念に描くことによって、ゲイルの選択に説得力が付与されているように思う。

総じて、本作は作劇の基本がしっかりと押さえられているといった印象である。特に、謎解きの要素が多くを占める作品であるから具体的な言及は避けるが、 多くの伏線が丁寧に張られており、私が本作で最も感心したのはこの点である(紹介できないのが残念である)。娯楽作品として安定して楽しめる仕上がりになっていると言ってよいだろう。

良い映画だと思う。

 

なお、本作のDVDには、特典メニューとして、監督による音声解説や未公開シーンのほか、「テキサスと死刑」と題する10分弱の解説も収録されている。10分弱という時間からも分かるとおりさほど詳細な内容ではないが、まったく予備知識のない方が映画をより楽しむためには有益であろうと思う。

死刑事件と手続保障

『自由と正義』66巻8号(2015年8月号)では、「死刑廃止を考える」というテーマで特集が組まれていた。掲載論文は以下のとおり。

  • ティム・ヒッチンズ「死刑制度に関する真剣な議論に向けて」
  • 小川原優之「日本における死刑廃止、死刑執行停止についての議論の現状」
  • 浜井浩一「刑務所から見える日本の刑罰」
  • 笹倉香奈「アメリカ合衆国における死刑制度の現状」
  • 高橋則夫「犯罪被害者(遺族)と死刑制度」
  • 加毛修「死刑廃止に向けた展望と日弁連の課題」

これらのうち、私は、アメリカ合衆国における死刑の急減を紹介した笹倉論文に興味をひかれた。

 

アメリカ合衆国では、近年死刑が急減しているという。笹倉論文よりいくつか数字をあげる。

例えば、1996年には全米で年間315件もの死刑判決が言い渡されていたが、近年では80件前後にとどまる。また、現在死刑を廃止しているのは50州中19州であるが、そのうち7州は2007年以降に廃止したものである。さらに、2011年以降、オレゴンコロラド、ワシントン、ペンシルバニアの各州では州知事が死刑執行の停止を宣言し、カリフォルニア州ニューハンプシャー州などでは死刑廃止法案の可決が現実味を帯びつつあるという。

こうした顕著な死刑急減の動きについて、笹倉はその原因を概ね以下の3点に求める。

  • 近年になって多数の冤罪事例が発見されたこと
  • 死刑制度に多大な費用がかかるとの認識が広まったこと
  • 代替刑としての絶対的終身刑の存在

このうち第2点は、スーパーデュープロセスと呼ばれる死刑事件における手厚い手続保障に由来する。その概要は以下のようなものである*1

  • 事実認定手続と量刑手続との分離及び量刑手続における指針付き裁量性
  • 陪審による裁判及び慎重な陪審員選任等の手続
  • 手厚い資金等の補助*2
  • 自動的な直接上訴
  • 再審査の機会付与*3

こうした手厚い手続保障のために、死刑事件には多大な費用がかかる。カリフォルニア州の最近の研究*4によれば、公判前及び公判手続にかかる費用は死刑1件あたり100万ドルであり、さらに上訴手続や有罪確定後の州及び連邦の手続にかかる費用が追加されるのだという。

さしあたり、わが国で目指すべきはこうした手厚い手続保障の実現であろう。なおこの点、理想としてはすべての刑事事件について手厚い手続保障が実現されるべきであろうが、リソースの問題もあり、ひとまずは冤罪であった場合に最も重大な問題が生ずる*5死刑事件のみに対象を限定することは、やむを得ないものと考える。

死刑制度の問題点として冤罪のおそれを指摘するとき、死刑制度の存置に賛成する者から必ずと言ってよいほど返ってくるのが、「冤罪を減らす努力が必要なのは当然だが、それと死刑制度の存廃とは別問題である」という趣旨の答えである。つまり、死刑制度の存置に賛成する者も、冤罪を減らす努力の必要性については認めているものと考えられる。そして、上記のような手厚い手続保障に比すれば、日本のそれは十分なものであるとは言えない。とすれば、そのことを真摯に説明し、理解を求めていくことで、わが国の死刑事件における手続保障のさらなる充実は実現しうるはずである。

そして、こうした手続保障の充実によって、わが国の刑事司法制度はより良い方向へと向かっていくことになるだろう。

まずなによりも死刑事件における手続保障の充実によって冤罪が減少するのは大変素晴らしいことである。

加えて、手続保障の充実の結果、死刑事件における費用が増大し、死刑が減少・廃止に向かうのであれば、それもまた死刑制度のあるべき姿として評価されるべきである。

なぜなら、第一に、人権ないし適正手続の見地からいっても、十分な手続的保障を与えないままに死刑という重大な刑罰が科されるべきではない以上、手続保障にかかる費用増大のために死刑が減少するのであれば、それはむしろ「本来あるべき」死刑判決の数*6に近づいたものと評するべきであり、さらに進んで死刑制度の廃止に至ったとしても、それは死刑制度の制度設計自体に無理があったことを示すものに他ならないと言い得るからである。

そして第二に、死刑制度の存置に賛成する者も、大半は、冤罪発生防止のための方策を尽くしたうえでの死刑制度存置に賛成しているのであるから、方策を尽くした、すなわち十分な手続保障を与えた結果として死刑が減少・廃止に向かうことは、むしろ死刑制度の存置に賛成する者の意思とも合致するものであって、民主的正統性の確保という観点からも望ましい経過であると言い得るからである。

以上のとおり、死刑事件における手厚い手続保障は、わが国にあっても実現可能であり、また実現するべき課題であると考える。

 

以上、笹倉論文に接して、死刑制度に関してわが国が目指すべき方向について考えたことを、備忘として記しておく。

 

補論

なお、上記のとおり笹倉論文は死刑急減の原因の1つとして絶対的終身刑の存在を挙げるが、私はこの点については懐疑的である。

笹倉論文は、死刑の減少と絶対的終身刑との関係について、テキサス州を例に挙げて以下のように述べる。

例えばテキサス州では2005年に絶対的終身刑を導入したが、その後の死刑判決数は顕著に減少している。

しかし、テキサス州では2005年9月に絶対的終身刑が導入されたのであるが、その後の死刑判決数の推移は以下のとおりとなっている*7

  • 2005年:14
  • 2006年:11
  • 2007年:14
  • 2008年:12
  • 2009年:9
  • 2010年:8
  • 2011年:8
  • 2012年:9

かかる推移を、死刑判決が「顕著に減少」していると評価することはできないだろう。

 

このように絶対的終身刑と死刑判決数の増減との因果関係が必ずしも明らかではないことに加え、絶対的終身刑は実質的な厳罰化につながるおそれが大きい。笹倉論文でも、アメリカでの「絶対的終身刑の言渡し数の増加は、死刑判決・執行の減少をはるかに上回る。つまり、実質的な厳罰化がもたらされている。」と指摘されているところである。その他、絶対的終身刑についての詳細な議論は別の機会に行いたいと考えているが、結論だけ述べておけば、私は、死刑制度を廃止して代わりに絶対的終身刑を導入するという場合に限り、絶対的終身刑の導入に賛成する。死刑制度を存置したまま絶対的終身刑を導入することには反対する。

*1:笹倉香奈「死刑と適正手続」龍谷法学47巻4号832頁以下。

*2:多くの州では被告人が使える公的弁護費用に制限はなく、死刑弁護の経験がある2名の弁護人が付き、専門家証人も多い。

*3:州の有罪確定後の手続及び連邦の人身保護請求、州知事による恩赦など。

*4:Arthur L. Alarcon & Paula Mitchell,Executing the Will of the Voters? 44 Loyola L Rev.,41 (2011). ただし、笹倉論文からの孫引きであって、私はまだ直接参照していない。

*5:被侵害利益の大きさに加え、他の刑罰の場合と異なり事後的に補償を受けられないことが予想される(死刑の執行によってすでに死亡しているため。相続人が補償を請求することはできるものの、当然のことながら相続人は本人でないのだから、まったく意味合いが異なるものと言うべきであろう)点で、特に取り返しがつかない。

*6:私自身はそもそも死刑制度自体をあるべきものと言えるかどうかという点に疑問を持っていることを念のために記しておく。

*7:テキサス州終身刑導入と死刑判決数の経緯については、布施勇如「テキサス州における終身刑導入の経過とその後」大阪弁護士会死刑廃止検討プロジェクトチーム編『終身刑を考える』(日本評論社、2014年)74頁以下参照。

私の無力

ある記事へのブックマークコメントで、自分が生まれる前に起こった出来事について謝るということの意味について過去記事を紹介した*1ところ、id:enderukuさんより以下のようなコメントをいただいた*2

身勝手な発言だなぁ。どうせ中韓がやった事に対しては適用されないか「その国の人じゃないからコメントしない」で終わるんでしょ? 聞き飽きたよその手のは。 

はてなブックマーク - enderuku のブックマーク - 2015年8月9日

実を言うと、私はenderukuさんのいう「中韓がやった事」というのが何を指すのかよく分かっていない。しかし、enderukuさんの言わんとするところが、「日本のことは批判するのに中韓のことは批判しない」ということであるならば、それはそのとおりであろうと思う。まったく批判していないかどうかはともかくとして、私が日本国内の問題に対して批判的に言及する頻度は、中韓(には限らないのだが)の問題に対して批判的に言及する頻度に比してはるかに高い。それにはいくつか理由があり、機会があればそれぞれ説明したいと思っているが、今回は取り急ぎ私にとって最も大きな比重を占める理由についてだけ、忘れないうちに記しておく。 それは、私の力不足である。

 

抽象的な話をしても実感しにくいであろうから、先日の記事を例にとって、できるだけ具体的に説明を試みたい。なお、以下は具体性を重視するために本来ならば考慮すべき要素をいくつか切り捨てた記述になっている。

先日の記事は、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会に芦部信喜が名を連ねていたことを知り、憲法学者が予定調和の結論を導くためのいわばアリバイ作りとして利用されていること等を嘆いたものである。要するに愚痴であり、我ながらたわいない内容だと思う。

しかし、このようなたわいない記事であっても、事実に対して誠実であろうと思えば、書くにあたってそれなりの確認作業が必要になる。この記事に関して言えば、私は、記事中で摘示した各首相の参拝態様等について確認するため、図書館に赴き当時の新聞を参照している。たわいない内容に見合った程度の、たいしたことのない手間である。

では、これが中韓での出来事であればどうだろうか。当然のことながら、日本の新聞が海外の出来事のために費やす頁数は日本国内の出来事のために費やす頁数に比して圧倒的に少ない。したがって、日本の新聞を調べても報じられていない可能性は十分にあるし、仮に報じられていたとしても扱いが小さく十分な情報を得られないということもおおいに考えられる。そうすると、日本国内の出来事について日本の新聞で確認したのと同様に、中韓での出来事については中韓の新聞で確認するのが望ましいということになる。しかし、中韓の新聞は、私が利用した図書館にはない。そのうえ、私は韓国語をまったく解せず、中国語についても到底実用にたえるレベルにはない。

こうして比較すれば、国内の出来事と中韓での出来事とでは、(少なくとも私にとって)批判の前提となる事実を確認するために必要となる労力という点において、大きな差があることがお分かりいただけるのではないかと思う。そして、このような多大な労力を要する作業をこなして中韓の問題を批判するだけの能力・意欲が、私には不足している。私が中韓の問題に対して批判的に言及する頻度が低い最大の理由は、この点にある。

*1:はてなブックマーク - 今日のアレコレ - 2015年8月9日

*2:私へのIDコールは省略している。

憲法学者の無力

閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会の名簿に芦部信喜の名があることを知った。

 

昭和50年、当時の首相三木武夫が、はじめて8月15日に靖国神社を参拝した。このとき三木は、私人として参拝することを表明し、公用車を用いず、記帳の際にも「内閣総理大臣」の肩書を付さなかった。それでも、その地位の重さに照らして公人と私人の立場を明確に区別することは困難ではないかとして、強い批判がなされた。

昭和53年、当時の首相福田赳夫が、やはり8月15日に靖国神社を参拝した。このとき福田は、私人として参拝すると表明したものの、公用車で靖国神社に訪れ、「内閣総理大臣」の肩書で記帳し、参拝には閣僚が同行した。このような参拝の形式には、事実上公人としての参拝ではないかとする強い批判があった。しかし、政府は、公用車を用いようとも、「内閣総理大臣」の肩書で記帳しようとも、閣僚が同行しようとも、私人の立場を離れるものではないと強弁し*1、あくまでも同参拝は私人としての行動であるとした。

このように、政府としては、首相の参拝はあくまでも私人としてのものであり、公人として、すなわち国務大臣としての資格で参拝することは違憲の疑いがあるとの立場をとってきた*2

ところが昭和60年、政府は従来の立場を変更した*3。当時の首相中曽根康弘は、8月15日、靖国神社への公式参拝を実施し、供花料(約3万円) を公金で支出したのだ。

この政府統一見解の変更及び中曽根の靖国神社公式参拝に先立ち、内閣官房長官の私的諮問機関として発足したのが、閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会である。

同懇談会の報告書は、公式参拝違憲とする主張も付記されてはいるものの、結論としては、憲法に抵触しない形での公式参拝は可能であるから、政府はその方途を検討するべきであるとするものである*4。政府統一見解の変更にあたっても、同懇談会の報告書を参考に検討を行ったと明言されており、やはり同懇談会は、公式参拝実現のために利用されたものと評価せざるを得ないだろう。

 

もちろん、芦部自身は同懇談会において、公式参拝について慎重な意見を述べていたようであるし*5、別の学者であれば異なる結果を得られたとも思わないので、本記事は芦部を声高に批判するものではない。

そうではなく、8月15日の首相靖国参拝をめぐる議論が、既成事実の積み重ねによって、なし崩しに進められている点、そして、専門家たる憲法学者が、その合憲性に疑義を呈しているにもかかわらず、数の力でこれを抑えこみ、あまつさえ検討を尽くしたというアリバイ作りに利用される結果となってしまった点に、今日の安保法制をめぐる議論に通じる難しさを感じたので、ここに記すことで、ある種の徒労感を吐き出させていただくのである。

*1:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_4.html

*2:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_5.html

*3:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_7.html

*4:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/dai2/siryo1_6.pdf

*5:なお、この問題に関する芦部の立場について、芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)156頁以下などを参照。

窃盗症(クレプトマニア)と定職の確保

日本弁護士連合会編『日弁連研修叢書 現代法律実務の諸問題〈平成24年度研修版〉』(第一法規、2013年)に収められている竹村道夫「窃盗癖の概念と基礎――臨床と弁護活動の協力について――」を読んだ。

日弁連研修叢書 現代法律実務の諸問題[平成24年度研修版]

日弁連研修叢書 現代法律実務の諸問題[平成24年度研修版]

 

精神科医療を受けている患者の場合、処方薬が窃盗症発症の主因となることがあるとの指摘は大変興味深かった。窃盗症患者の実態について、豊富な実例を挙げながら解説されている点も参考になる。

ところで、この講義録の中で、「司法関係者に申し上げたいこと」として、以下のように述べられていた*1

司法関係者は、「早く仕事をみつけて定職につくこと」ということが多いようですが、私たちは仕事より治療優先といっています。嗜癖治療の中では、しばしば「第一のものを第一に」といいます。(略)窃盗癖の方たちにとって「第一のもの」は仕事ではなく窃盗癖からの回復のはずです。

これはこれで一つの見識であると思うが、本記事では、参考までに、この点に関する司法関係者の考え方を記しておこうと思う。なお、窃盗症については以前にも記事を書いたので、そちらも参照していただきたい。

 

窃盗症患者による「窃盗」事件のほとんどは、量刑が争われることになる。つまり、量刑の基礎となる事実たる情状が問題となる。

情状には、当該犯罪事実に属する情状たる犯情と、それ以外の一般情状とがある。わが国の刑事裁判は行為責任主義が基調とされていることから、基本的には犯情が重要な意義を有することが多いが、もちろん一般情状も軽視されるべきものではない。

一般情状に属する事実にはさまざまなものがあるが、おおむね以下の3種類に分けることができるのではないかと思う。

  • 同種前科の有無
  • 被害回復・被害者による宥恕の有無
  • 再犯可能性の有無

ところで、これらのうち再犯可能性についてはどのように判断されるのだろうか。

本人が「もうしません」と述べることも重要ではあるが、それだけで再犯可能性が低いとは判断できないという場合も多いだろう。そのような場合には、再び罪を犯さないような環境を整えられるか、という点が見られることになる。

たとえば住環境。住んでいたアパートを引き払い、家族のもとに身を寄せる。家族の側でも被疑者を受けいれ、これを監督する意思を表明している。このような場合には再犯可能性が低いと言い得るだろう。交通犯罪の場合には、乗っていた自動車を処分し、二度と自動車を運転しないと誓うことなども考えられる。

そして、定職の確保も、再び罪を犯さないような環境の整備という観点において、大きな意義を有するものである。

人間は霞を食って生きているのではないから、必要な物品を調達するためにどうしても金は必要になる。そして、その金を安定して得るためには定職を確保せねばならない。定職を得られなければ、生活基盤が不安定となり、結果として再び犯罪に手を染めやすくなるという側面は否定しがたい。また、定職につくことで生活が規則的になり、人間関係も形成されやすくなる。これらも再犯可能性の低下に資する事情であると言い得るかもしれない。

司法関係者にはおおむねこのような理解があり、その結果定職を確保しているかどうかは一般情状として量刑にも影響を及ぼし得る事情であることから、「早く仕事を見つけて定職につくこと」を促すのである。

*1:一部省略して引用している。

自然権と天賦人権論

自然権と天賦人権論について、以下のようなブックマークコメントを見かけた。

id:Erorious_BIG←日英米など自然権を最上としている国々は天賦人権論も立憲主義も否定してるけど何の問題も無い。

はてなブックマーク - m-matsuokaのブックマーク - 2015年7月10日

横槍をいれるような形になるが、id:m-matsuokaさんとは以前少しやりとりをしたこともあり*1、まったく知らない間柄でもないということで、無礼をお許し願いたい。

さて、m-matsuokaさんは、自然権を最上とする国が天賦人権論を否定しているという。これは大変奇妙な主張であるように思える。自然権とはつまり天賦人権のことであり、自然権を最上としながら天賦人権論を否定するというのは自己矛盾であるからだ。

このことについては、ヴァージニア権利章典等、アメリカ諸州の権利章典を評した初宿正典『憲法2 基本権』(成文堂、第2版、2003年)の以下の記述が分かりやすいと思うので、引用する。なお、太字強調は原文で施されていたものである。脚注は省略した。

これらのアメリカ諸州の権利章典にほぼ共通して言えることは、憲法の保障する国民の諸権利が、人が「生まれながらにしてもつ(inherent)権利」として観念されていることであり、この点が上述のイギリスの諸文書と異なるところである。ここには、国家の制定する法よりも先に自然(ないし神、造物主等)によって賦与された権利、したがって、人が人である限り生まれながらにして当然にもっている権利(自然権)があり、これらは不可侵であって譲り渡すことのできないものである、とする啓蒙主義自然法思想が表れている。(同書7頁以下)

ここでは、自然(ないし神、造物主等)によって賦与された権利、すなわち天賦人権が、人が人である限り生まれながらにして当然にもっている権利、すなわち自然権であることが端的に表現されている。

以上のとおりであるから、自然権を最上としつつ天賦人権論を否定する、などということは、自己矛盾としか形容のしようがないように思う。ご主張に出典があれば、ご教示願いたい。