「レッテル貼り」という魔法のことば

ナチスのレッテル?

平成28年1月19日の参議院予算委員会において、福島瑞穂安倍晋三に対する質問の中で、自民党憲法改正草案*1第九章のいわゆる緊急事態条項について、「内閣限り(の決定)で法律と同じ効果を持つことが出来るなら、ナチスの授権法とまったく一緒であり、許すことはできない」という趣旨の発言をした。この発言に対して、「レッテル貼り」「印象操作」だとする批判が集まっている。

はてなブックマーク - ナチスのレッテル「限度超えている」…首相反論 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

こうした批判に関連して、一点指摘しておく。

福島はどのような質問をしたのか

その論調を見るに、批判は、福島を「レッテル貼りや印象操作しかしない(できない)議員」であると見なしているように思われる。しかし当然のことだが、福島は単に「自民党の緊急事態条項がナチスの授権法と同じだ」とのみ述べたわけではない。福島の質問の組み立てを確認しておこう。

  • まず、国の唯一の立法機関は国会であるという大原則がある*2
  • ところで、自民党の改正草案99条1項では、内閣が法律と同一の効力を有する政令を制定することができるなどとされている。そして、同条2項では、かかる政令の制定等について、事後に国会の承認を得るべきこととされている。ところが、同草案中には事後に国会の承認が得られなかった場合の政令等の効力について、なんら規定がない。
  • また、過去の憲法審査会*3において、緊急事態条項(国家緊急権)について、その導入に賛成・反対双方の立場の学者の意見を聴取したが、その際、賛成の立場の学者であった西修でさえ、先の東日本大震災のような大規模災害に、(緊急事態条項のない)現憲法でそれなりの対応ができたことを認めている。

福島は、以上を前提として述べたうえで、自民党の緊急事態条項について、「内閣が法律と同じ効力を有する政令を出せるのであれば」、 ナチスドイツの国家授権法と同じであり、許すことはできない旨の発言をしたのである*4

「レッテル貼り」という断定による主張の無力化

こうして確認すれば明らかなとおり、福島の質問は、草案の規定に不備があるのではないかと指摘し*5、またいわゆる緊急事態には現行憲法でも十分対応できるのではないかとの疑義を呈するものである。このような指摘に同意するか否かはそれぞれであろうが、少なくとも福島の質問が「印象操作だけ」などではなく、内容を伴うものであることは間違いない。

ナチス」という発言だけを切り取り「レッテル貼りだ」「印象操作だ」と断定して殊更に騒ぎ立て、相手の主張全体を無力化せんとする手法は、その構造においてまさに「レッテル貼り」と同一である。記事自体が恣意的な切り取り方をしている部分もあるのでさほど強く批判するつもりもないが、こうしたコメントが横溢して建設的な議論がなされない状況については残念に思う。

*1:https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

*2:憲法41条参照。

*3:平成24年5月16日開会のものであろう。

*4:なお、こうした福島の質問に対して、安倍は、ほぼ「緊急事態条項は、(平時ではなく)緊急時における国家国民の果たすべき役割を定めようとするものである」旨の回答をするにとどまり、国会による事後の承認が得られなかった場合における政令の効果や、現行憲法での緊急事態への対応可能性についてはなんら具体的に答えなかったことを付記しておく。

*5:なおこの点、読売の記事は「緊急事態条項には、大規模災害などで一時的に首相が権限を強化できる規定が盛り込まれているが、国会の事前または事後の承認が必要としている」などと賢しらに述べるが、福島はかかる承認が得られなかった場合の規定の不備を指摘しているのであるから、やや的が外れている。

香山リカ「批判」の歪さ

香山リカ「批判」

一部界隈で、香山リカ「批判」が盛り上がっている。

香山は昨日銀座で行われた慰安婦問題での日韓合意に反対するデモへの抗議行動を行っていたところ、「批判」者は、その際の香山の表情や抗議意思の表明として中指を立てたこと等をとりあげ、けしからんと主張するもののようだ。

もっとも、批判記事やそれに付けられたブックマークコメントを読んでも、なにがそこまで大騒ぎするほど問題なのかはよく分からない*1

はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 香山リカさん、中指立ててヘイトを撒き散らす - ライブドアブログ

「批判」の分類

香山に対する「批判」は、突き詰めると、次のいずれかにたどり着くようである。

表情を嘲笑するもの

一つは、(主に)抗議の際の香山の表情をとりあげて嘲笑するもの。

「自称精神科医、実は単なる精神病患者」「更年期障害?」「完全にキチガイの顔」「目がイッてる」「顔がもうヤバイ……テレビなどに出るのであれば、人間に戻ってからにしてもらいたい」などである。

これらは、そもそも批判の名に値しない。id:RRDさんが正当に指摘する*2ように、真剣な者が必死の形相になるのは当然のことだ。他者の真剣さそれ自体を嘲笑するのは、端的に言って下衆である。

そもそも、香山の「攻撃的」な言動を批判する文脈で、香山の言動に憤慨しながら、同時にこのような(はるかに酷い)罵倒*3を投げつけて平然としているというのは、まったく理解しがたい。いったいどういう神経をしているのか。

香山の言動をヘイトであるとするもの

もう一つは、「ヘイト取りがヘイトに」「左翼のヘイトは綺麗なヘイト」といった類の、香山の言動を(自らが批判しているはずの)ヘイトであるとする批判である。批判記事自体も、タイトルが「【画像】香山リカさん、中指立ててヘイトを撒き散らす」とされており、同様の主張を含意しているように思われる。

しかし、「特定の主張を行う集団に対し抗議意思の表明として中指を立てる行為」は、たとえば「在日朝鮮人に対するヘイトスピーチをやめろ」というときに用いられる意味での「ヘイト」ではない。したがって、この種の批判は、その前提に誤りがあり、理由がない。なお、「何がヘイトか」という問題については、これまでにも多くの者がくり返し説いているところであるので*4、本記事では改めて触れない。

歪な「批判」

香山に対する「批判」は、おおむね以上のようなものである。一読して明らかなとおり、大騒ぎするほどのものではまったくないが、一方で、香山の言動をヘイトであるとする主張については、「下品な言動をするべきでない」という程度の趣旨であると好意的に解釈するならば、それはそれで一つの意見であるとも言えるだろう。

しかし、「下品な言動をするべきでない」との主張に焦点を当てるならば、当然問題とされなければならないことが、批判記事やブックマークコメントでは見事なまでに無視されている。それは、「香山がどのような場面で問題となっているような言動をとったのか」ということである。

冒頭に述べたとおり、香山は昨日行われた慰安婦問題での日韓合意に反対するデモへのカウンターとして、問題の言動をとっていたものである。同デモには、在特会の前会長である桜井誠(通称)も参加しており、コーラーは「乞食国家韓国」などというそれこそ下品きわまりない言葉を連呼していた*5。同デモ参加者は、沿道のカウンターに対して拡声器を用いて「バカチョン」等の聞くに堪えない言葉を連呼しており、桜井は沿道のカウンターに対して終始「突っこんでこい」などと挑発行為をくり返していた。香山の言動はかかる状況下においてなされたものであり、下品な言動を諌めるのであれば、かかる状況を明らかにしたうえで、香山とともに、というよりは香山以上に*6、同デモに対して批判が向けられるべきであろう。

ところが、いくつかの批判記事を見ても、同デモ側の言動の悪質性にはまったく触れられていない。それどころか、注意力のない読者であれば香山の言動が同デモへのカウンターとして行われたということにさえ気づかないのではないかと懸念されるほど、同デモへの言及自体が簡素なものなのである。

いったいどうしてこのようなことになるのか。興味深いところであるが、ひとまず備忘として記しておく。

*1:閲覧数の増加になるべく貢献したくないので、批判記事自体へのリンクははらない。

*2:はてなブックマーク - RRD(ranrando)のブックマーク - 2016年1月11日

*3:なお、これらの多くはまさしく「ヘイト」に該当しよう。

*4:たとえばhttp://kdxn.tumblr.com/post/66296158976参照。

*5:一参加者ではなく、コーラーがこのような下劣な文言を用いていたということはきわめて問題であろう。

*6:「デモ」と「(デモへの)カウンター」という先後関係上、発端はデモ側に求められるであろうし、言動の悪質性においても明らかにデモ側の方が高いと言えよう。

条文の文言からの乖離に関する覚書

平成28年1月8日の衆議院予算委員会において、枝野幸男安倍晋三に対して、臨時国会の件について糺していた。昨年10月半ばに、憲法53条の規定に基づく、総議員の4分の1以上による臨時国会召集の要求があったにもかかわらず、その後ついに安倍内閣が臨時国会の召集を決定することはなかったという例の件である。

枝野の質問に対し、安倍は大要以下のように答えていた*1

憲法53条は召集時期について定めを置かずその決定を内閣に委ねているものの、内閣が合理的期間内に召集を決定せねばならないのは確かである。

もっとも、合理的期間内に通常国会が開かれる見込みがある場合、臨時国会通常国会とでその権能に異なるところはないため、あえて臨時国会の召集を決定せずとも憲法に反することにはならない。 

この後、枝野からはさらに2カ月以上もの期間が合理的期間内であると言えるのかという趣旨の追及がなされ、今回の件との関係に限って言えばむしろその点こそが重要であろうと思うが、本記事では割愛する。

さて上記のとおり、安倍は、一定の条件下であれば、臨時国会の召集を決定せずとも憲法53条に反しない旨を述べる。私は、このような解釈に対して必ずしも批判的というわけではない。ただし、このような解釈は、条文の文言を忠実に解釈するならば、絶対にでてきようのないものである。憲法53条の条文を挙げる。

第五十三条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

このように、憲法53条は、(いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば)内閣は臨時国会の召集を決定しなければならないと明確に規定し、なんらの例外も設けてはいない。そうである以上、臨時国会の召集を決定しないことが、例外を設けず臨時国会の召集を「決定しなければならない」とする憲法53条に反しないなどという帰結は、条文の文言を忠実に解釈する限り導き得ないものである。

以上、近い将来に予想される憲法改正論議においてなんらかの手がかりとなることを期待して、ある意味において条文から乖離した解釈が堂々と行われている一例を記しておく。

*1:正確な発言内容は、後日公開される国会会議録参照。

今年の抱負(2016年)

年が明けた。

学生でなくなってから感じ続けていることだが、為すべきことが山積する中で、自らの専門以外の分野を修める時間を確保することはとても難しい。専門の分野でさえ、直面する問題に対処する限りにおいての調査・研究となりがちであり、視野狭窄に陥りつつあるのではないかという危惧がある。

今年は、努めてさまざまな分野に接し、広い視野で多くのことを学ぶ一年としたい。

わが国における法令違憲判決まとめ

本記事について

先日、最高裁は、民法733条1項のうち100日を超える再婚禁止期間を定める部分について、憲法に反するとの判断を示した。これが、わが国で10件目の法令違憲判決となる。最高裁による法令違憲判決は、ここ10年ほどの間に急増しており、憲法判断に対する裁判所の姿勢に変化の兆しがうかがえるところである。本記事では、これまでに出た法令違憲判決をできるだけ簡潔にまとめてみたい。なお、以下に摘示する条文はいずれも当時のものである。

尊属殺重罰規定事件

最大判昭和48年4月4日(刑集27巻3号265頁)*1

被告人が実父を殺したとして刑法200条の尊属殺で起訴された事件。

普通殺人に関する刑法199条の法定刑が死刑または無期もしくは3年以上の有期懲役であったのに対し、自己または配偶者の直系尊属を殺すいわゆる尊属殺に関する刑法200条の法定刑は死刑または無期懲役とされていた。このため、尊属殺については、法律上の減軽および酌量減軽を行っても(=最大の減軽を加えても)懲役3年6月にしかならず、執行猶予を付することができなかった*2

最高裁は、憲法14条1項について、事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り、差別的取扱いを禁止する規定であるとした*3。そして、刑法200条は、尊属殺の法定刑を死刑または無期懲役に限っている点で、普通殺に比して著しく不合理な差別的取扱いをするものであり、憲法14条1項に反するとの判断を示した。

薬事法距離制限事件

最大判昭和50年4月30日(民集29巻4号572頁)*4

医薬品一般販売業の営業許可を申請したところ、既存の市場から一定の距離以上離れているとの条件をみたさないとして不許可とされたため、許可申請者が、このようないわゆる適正配置規制*5違憲であるとして、不許可処分の取消しを求めた事件。

最高裁は、一般に職業の許可制は、原則として重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、またそれが職業活動の社会に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、職業活動の内容および態様に対する規制によってはかかる目的を達成できないことを要するとした。そして、本件適正配置規制は消極的、警察的措置であるところ、上記のような条件をみたさず憲法22条1項に反するとの判断を示した。

小売市場距離制限事件*6とあわせて、いわゆる目的二分論をとった判例として位置づけられる。

議員定数不均衡事件(昭和51年)

最大判昭和51年4月14日(民集30巻3号223頁)*7

昭和47年に行われた衆議院議員選挙では、一票の格差が1:4.99にまで達しており、かかる不平等を生ずる議員定数配分規定は違憲であるとして選挙の有効性が争われた事件。

最高裁は、憲法14条1項、15条1項、同条3項、44条ただし書きは投票価値の平等を要求するものであり、本件議員定数配分規定はこれらに違反するとした。一方で、選挙を無効とすると却って憲法の所期するところに適合しない結果を生ずるおそれがあるとして、いわゆる事情判決の法理を一般的な法の基本原則として適用し、選挙自体の効力は否定せず違法を宣言するにとどめた。

議員定数不均衡事件(昭和60年) 

最大判昭和60年7月17日(民集39巻5号1100頁)*8

昭和58年に行われた衆議院議員選挙では、一票の格差が1:4.40にまで達しており、かかる不平等を生ずる議員定数配分規定は違憲であるとして選挙の有効性が争われた事件。

最高裁は、本件議員定数配分規定は憲法の選挙権の平等の要求に反して違憲であるとしつつ、やはりいわゆる事情判決の法理を一般的な法の基本原則として適用し、選挙自体の効力は否定せず違法を宣言するにとどめた。

森林法共有分割制限事件

最大判昭和62年4月22日(民集41巻3号408頁)*9

森林について2分の1の持ち分を有する共有者が、その分割を求めた事件。

森林法186条は、持ち分が2分の1以下の森林共有者について、森林の分割請求権を否定していた。

最高裁は、財産権の規制について、財産権の種類やその規制目的等が多様でありうることから原則として立法府の判断を尊重するべきであり、①規制目的が公共の福祉に合致しないことが明らかであるか、②(規制目的は公共の福祉に合致するとしても)規制が目的達成の手段として必要性又は合理性を欠くことが明らかな場合に限り、憲法に違背するとした。そして、森林法186条は財産権の規制にあたるところ、上記のような条件をみたさず憲法29条2項に反するとの判断を示した。

郵便法免責規定事件

最大判平成14年9月11日(民集56巻7号1439頁)*10

債権差押命令を特別送達郵便物(書留郵便物の一種)として第三債務者に送達するに際し、これを送達するべき郵便業務事業者の重大な過失によって送達が遅延したため債権差押えの目的を達することができず損害を被ったとして、執行債権者が国に対して国家賠償法1条1項に基づき損害賠償を請求した事件。

郵便法68条は、書留郵便物の亡失・毀損等、同条1項各号に該当する場合の賠償責任を一定額に限定し、それ以外の場合の賠償責任を免除する。同法73条は、損害賠償の請求権者を差出人またはその承諾を得た受取人に限定する。

最高裁は、公務員の不法行為による国等の賠償責任を免除・制限する規定が憲法17条の付与した立法裁量*11の範囲内であるか否かを判断するにあたっては、 当該規定の目的の正当性および目的達成手段としての必要性・合理性を総合的に考慮するべきであるとした。そして、郵便法68条、73条のうち、書留郵便物について郵便事業従事者の故意・重過失によって損害が生じた場合に賠償責任を免除・制限している部分および特別送達郵便物について郵便事業従事者の軽過失によって損害が生じた場合に賠償責任を免除・制限している部分は、裁量の範囲を逸脱しており、憲法17条に反するとした。

在外邦人選挙権制限事件

最大判平成17年9月14日(民集59巻7号2087頁)*12

外国に居住し国内に住所を有しない日本国民(以下、「在外国民」という。)らが、衆議院小選挙区選出議員の選挙および参議院選挙区選出議員の選挙において選挙権を行使できることの確認等を求めた事件。

平成10年の公職選挙法一部改正(以下、「本件改正」という。)前、在外国民は選挙人名簿に登録されない結果、国政選挙に投票することができなかった。本件改正によって在外選挙人名簿が調製されこれに登録された者の選挙権行使が認められることとなったが、当分の間その対象となる選挙は衆議院および参議院比例代表選挙に限る(衆議院小選挙区選出議員の選挙および参議院選挙区選出議員の選挙は対象としない)とされた。

最高裁は、選挙権やその行使を制限することは、そうした制限をすることなしに選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であるようなやむを得ない場合に限って認められるとした。そして、本件改正前の公職選挙法が在外国民の投票をまったく認めていなかったこと、本件改正後の公職選挙法在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間衆議院および参議院比例代表選挙に限っていることについてそのようなやむを得ない事情は認められず、いずれも憲法15条1項、同条3項、43条1項、44条ただし書きに反するとの判断を示した。

非嫡出子国籍取得制限事件

最大判平成20年6月4日(民集62巻6号1367頁)*13

日本国籍を有する父とフィリピン国籍を有する母との間に生まれた子(上告人)が、出生後父から認知された(ただし父母は婚姻せず)ことを理由に国籍取得届を提出したものの日本国籍を取得していないとされたため、日本国籍を有することの確認を求めた事件。

国籍法3条1項は、法律上婚姻関係にない日本国民たる父と日本国民でない母との間に出生した子について、父母の婚姻およびその認知がある場合に限り、子は日本国籍を取得しうるとする。また、国籍法2条1号が、出生時に父または母が日本国民ならば子を日本国民とする旨定めていること等により、法律上婚姻関係にない日本国民たる父と日本国民でない母との間に出生した子でも、胎児認知がなされていれば生来的に日本国籍を取得することになる。

最高裁は、国籍取得要件に関して異なる取扱いを定める規定について、①異なる取扱いを定める目的に合理性がない場合や、②(目的自体には合理性があっても)異なる取扱いと目的との間に合理的関連性がない場合には、憲法14条1項に違背するとした。そして、国籍法3条1項が、日本国民たる父と日本国民でない母との間に出生し生後認知があるにとどまる子について、上記のとおり嫡出子や胎児認知がなされた非嫡出子と異なる取扱いをしていることは、②に該当し憲法14条1項に反するとの判断を示した*14

非嫡出子法定相続分規定事件

最大決平成25年9月4日(民集67巻6号1720頁)*15

遺産分割審判において、非嫡出子の法定相続分を嫡出子の2分の1とする民法900条4号ただし書きの合憲性が問題となった事件。

最高裁は、家族観等の諸要素を考慮して決する必要性から立法府に認められる相続制度を定めるにあたっての裁量を考慮しても、すでに嫡出子と非嫡出子との法定相続分を区別する合理的根拠は失われていたとして、民法900条4号ただし書のうち非嫡出子の相続分を嫡出子 の相続分の2分の1とする部分は憲法14条1項に反するとの判断を示した。

女子再婚禁止期間事件

最大判平成27年12月16日(本記事公開時点では判例集未登載)*16

国が女性について6か月の再婚禁止期間を定める民法733条1項の改廃を怠ったために婚姻時期が遅れ精神的苦痛を被ったとして、離婚後再婚した女性が、国に対して国家賠償法1条1項に基づき損害賠償を請求した事件。

民法772条は、婚姻成立から200日経過後または婚姻解消から300日以内に生まれた子について、当該婚姻にかかる夫の子であると推定する。このため、前婚解消後すぐに再婚した場合、父性の推定が重複することとなる。民法733条は、主にこのような推定の重複を避けるための規定であると説明される。

最高裁は、再婚の際の要件にかかる男女の異なる取扱いが、憲法14条1項、24条1項に適合するか否かを判断するにあたっては、異なる取扱いをする目的に合理的根拠があり、かつその異なる取扱いと目的との間に合理的関連性があるかという観点から検討するべきであるとした。そして、民法733条のうち、100日を超える再婚禁止期間を定める部分については、父性推定の重複回避や父子関係をめぐる紛争の未然防止等の目的との合理的関連性がなく、憲法14条1項、24条1項に反するとの判断を示した*17

*1:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/416/036416_hanrei.pdf

*2:3年を超える懲役が言い渡された場合、執行猶予を付することができない。刑法25条1項参照。

*3:なお、以後は特記しないが、憲法14条1項が問題となる判例では、すべてこの規範が前提にある。

*4:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/936/051936_hanrei.pdf)

*5:薬事法6条2項、同条4項(及びそれを準用する26条2項)。なお、申請はこれらの規定に基づく「薬局等の配置の基準を定める条例」3条の定める基準に適合しないとして不許可とされたものである。

*6:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/995/050995_hanrei.pdf

*7:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/234/053234_hanrei.pdf

*8:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/712/052712_hanrei.pdf

*9:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/055203_hanrei.pdf

*10:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/038/057038_hanrei.pdf

*11:憲法17条は、「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。」と規定する。

*12:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/338/052338_hanrei.pdf

*13:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/416/036416_hanrei.pdf

*14:もっとも、最高裁は、当該区別にかかる違憲の瑕疵を是正するため、国籍法3条1項全体を無効とするのではなく、過剰な要件によって当該区別を生じさせている部分のみを除いて同項を解釈するべきであるとして、上告人の同項による日本国籍取得を認めた。

*15:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/520/083520_hanrei.pdf

*16:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/547/085547_hanrei.pdf

*17:もっとも、国会が民法733条を改廃しなかったことは国賠法上違法の評価を受けるものではないとして、最高裁は、女性の請求を棄却した原審の判断を結論において是認した。

今年執行された死刑について

今日午前、津田寿美年と若林一行の死刑が執行されたとのこと。

6月の神田司とあわせて、今年は3件の死刑が執行されたことになる。

そして、このうちの2件、津田と神田については、控訴の取下げによって死刑が確定したものである。つくづく異常な割合だと思う。

この問題については、先日記事を書いたところである。改めて、少なくとも死刑事件については、上級審での審理を必要的なものとすることを提案したい。

左折の改憲と現実主義

はじめに

少し前に、左折の改憲論(新9条論)というものに関する記事をいくつか読んだのだった。

左折の改憲論とは要するに、こういうことらしい。現行の憲法9条からすれば、自衛隊違憲のはずである。(違憲のはずの)自衛隊の存在を容認しつつ9条を奉ずるという欺瞞性が、かえって立憲主義を危うくしている。自衛隊の存在を認めたうえで集団的自衛権の行使を禁ずるという現実に沿った条文に9条を改正することこそが、立憲主義を守ることになる、と。

左折の改憲論に対しては、すでに多くの批判がなされており、やや時期を逸している観もあるが、私も気になった点について簡単に記しておくことにする*1

自衛隊容認という「現実」?

左折の改憲論は、「自衛隊の存在が国民に認められている現実を憲法に反映させよ」という。このようななし崩しの現状追認が許されるべきでないことは、脚注1で紹介した記事が明快に指摘しているところである。しかしそもそもの問題として、「自衛隊の存在が国民に認められている現実」なるものを無留保で前提とする態度は、控えめに言っても、純朴にすぎるのではないだろうか。

なるほど、確かに現時点において、自衛隊の存在は多くの国民の支持を得ているのかもしれない*2。しかし、このような支持がいかなる意味を有するものであるかということについては、「現実」という無邪気な一語で片づけず、しっかりと考える必要がある。

「現実」主義の陥穽

かつて丸山眞男は、「『現実』主義の陥穽」(思想、1956年3月号、岩波書店。なお、テキストは『丸山眞男セレクション』に収録のものを参照した)において、わが国で「現実」が論じられるときの「現実」の構造について、以下のように分析し、その問題点を指摘した。

すなわち、第一に、「現実」が所与のものとして受けとめられがちであること。本来現実は、与えられた(=所与の)ものであると同時に、われわれの営みによって日々造られていくものでもある。ところが、わが国で「現実」が論じられるとき、後者の契機は無視され、「現実」は既成事実と等置される。そして、既成事実としての「現実」は、「現実だから仕方がない」という諦観を導くものとなる。

第二に、「現実」が一面的に捉えられがちであること。本来現実は、きわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって、立体的に構成されるものである。ところが、わが国で「現実」 が論じられるとき、多面的な現実のうちの一つの側面のみが強調される。そしてそれに沿わないものには、一様に「非現実的」との烙印が押され、排除の対象となる。

そして、これらの帰結として第三に、わが国で「現実」が論じられるとき、それはときの支配権力が選択する方向と、大きく重なることとなる。ここに、われわれの間に根強く巣食う事大主義と権威主義が、はしなくも露呈するのである。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

「現実」への盲従が招くもの

自衛隊の存在が国民に認められている現実」

さて、以上のような丸山の指摘をふまえて、「自衛隊の存在が国民に認められている現実」 について考えてみたい。

このような「現実」は、ある日突然降って湧いたものではない。マッカーサーによる警察予備隊の創設指令を端緒に、以降、その違憲性を問う訴訟*3などもくぐり抜け、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊へと「発展」させながら積み重ねられてきた政治的所為の結果として、築かれたものである。そうである以上、その「現実」が、決してスタティックなものではなく、今このときにも、われわれの営みによって新たな形に造りあげられていく過程にあることは、自明である。また、その「現実」が、あくまでも一面的なものであることにも留意せねばならない。

自衛隊の存在が国民に認められている現実」を憲法に反映させるとはすなわち、その「現実」に大きな意味を与え、それ以外の「現実」よりも重視するということに他ならない。そしてそれは、今後さまざまに形成しうる「現実」のうちの、ある可能性を開き、あるいは閉ざすということでもある。それでは、どのような可能性が開かれ、あるいは閉ざされるのか。この点については、「新9条論」は危険な悪手 - 読む・考える・書くの記述が示唆に富む。とりわけ、同記事中で斎藤美奈子の指摘として紹介されている点は重要である。すなわち、左折の改憲によって、少なくとも、日本国憲法が改正されたことはないという「現実」は、消滅する。

左折の改憲のあと

日本国憲法が改正されたことはないという「現実」の重しが取り払われたとき、わが国がいかなる進路をとるのか。この点について、私は少なくとも、「左折の改憲論者が思い描いているような方向に進むことはない」ということだけは断言できる。

先に見たとおり、わが国の世論は、「現実」を、自ら造りあげるものとしてではなく、与えられた一面的な既成事実としてのみ受けとる。そして、その「現実」を与え(う)るのは、基本的には支配権力に他ならないため、わが国の世論がいう「現実」は、ときの支配権力の選択と大きく重なるのであった。

よく知られているように、憲法は、国家権力を制限するための規範である。したがって、国民が、「現実」を自ら造りあげるものとして捉える契機を欠く結果、ときの支配権力の選択を「現実」として無批判に受けいれるような状況下においては、憲法改正を容易なものとすることは、大きな危険をはらむ。自らの権力の制約にかかる決定権を、(国民がときの支配権力の選択を「現実」として無批判に受けいれることによって)ときの支配権力自身が握ることとなるからである。

日本国憲法が改正されたことはないという「現実」は、事実上憲法の改正を困難にするという意味において、ときの支配権力が与え(う)る「現実」に対する枷として機能してきた。その枷が外されたとき、上記のような理路によって自らの権力の制約にかかる決定権を有する支配権力が、自らの権力に対する制約を取り除き、より自由に(横暴に)ふるまうようになるということは、あまりにも見やすい道理であろう。

楽観的すぎる左折の改憲論者

あるいは左折の改憲論者は、ときの支配権力が与えようとする「現実」を拒むだけの力が、国民にあると考えているのかもしれない。たとえば、左折の改憲を主張する想田和弘が提唱する「創憲」という概念には、そのような期待をうかがわせるところがある*4。しかし、そうであるならばあまりにも見込みが甘いと言わざるを得ない。

今夏のいわゆる安保法制についての審議で、安倍をはじめとする与党の者らが得意げにくり返していた文句がある。わが国の「現実」は、ときの支配権力が既成事実をつくりあげ、これを国民が後追い的に認めることによって造られているのだということを痛感させられる文句であった。左折の改憲論者の期待に対する反駁としては、これを引用すれば必要にして十分だろう*5

今まで、さまざまな国の判断あるいは議会の判断がございました。そのたびごとに、残念ながら国民の支持が十分でなかったものもございます。典型例が、六〇年の安保改定もそうではなかったかと思いますし、またPKO法案が成立をしたときもそうではなかったかと思います。しかし、今ではそれぞれが十分に国民的な理解を得ている。法案が実際に実施される中において、これはやはり国民のためのものなんだなという理解が広がっていくという側面もあるわけでございます。

おわりに

以上、左折の改憲論について、気になった点を記した。

左折の改憲論に限らずさまざまな議論において、「現実」を一面的かつ絶対的なものと見なしてこれに迎合する傾向は、散見されるように思う。本記事が、そうした傾向は果たして好ましいものであるのかということを、改めて考えるきっかけとなれば幸いである。

*1:なお、左折の改憲論に対する最も根本的な批判は、「左折の改憲」論について - Arisanのノートにおいて的確になされている。同記事に対する説得的な反論がない限り、この問題についての結論は出たとしてよいのではないかと思う。それでも本記事を公開することとしたのは、これから述べる私の「気になった点」が、左折の改憲論のみにとどまらない問題をはらんでいるように思われるためである。

*2:内閣府が今年3月に発表した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」では、自衛隊に好印象を持つ回答が92.2パーセントに達したという(http://www.sankei.com/politics/news/150307/plt1503070014-n1.html)。

*3:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/366/057366_hanrei.pdf

*4:http://www.magazine9.jp/article/soda/23445/

*5:平成27年6月26日、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会において、民主党岡田克也が行った、「法案の採決は、十分に国民の理解を得たうえで行うべきではないか」という趣旨の質問に対する安倍晋三の発言。なお、引用者において太字強調を施した部分がある。