左折の改憲と現実主義

はじめに

少し前に、左折の改憲論(新9条論)というものに関する記事をいくつか読んだのだった。

左折の改憲論とは要するに、こういうことらしい。現行の憲法9条からすれば、自衛隊違憲のはずである。(違憲のはずの)自衛隊の存在を容認しつつ9条を奉ずるという欺瞞性が、かえって立憲主義を危うくしている。自衛隊の存在を認めたうえで集団的自衛権の行使を禁ずるという現実に沿った条文に9条を改正することこそが、立憲主義を守ることになる、と。

左折の改憲論に対しては、すでに多くの批判がなされており、やや時期を逸している観もあるが、私も気になった点について簡単に記しておくことにする*1

自衛隊容認という「現実」?

左折の改憲論は、「自衛隊の存在が国民に認められている現実を憲法に反映させよ」という。このようななし崩しの現状追認が許されるべきでないことは、脚注1で紹介した記事が明快に指摘しているところである。しかしそもそもの問題として、「自衛隊の存在が国民に認められている現実」なるものを無留保で前提とする態度は、控えめに言っても、純朴にすぎるのではないだろうか。

なるほど、確かに現時点において、自衛隊の存在は多くの国民の支持を得ているのかもしれない*2。しかし、このような支持がいかなる意味を有するものであるかということについては、「現実」という無邪気な一語で片づけず、しっかりと考える必要がある。

「現実」主義の陥穽

かつて丸山眞男は、「『現実』主義の陥穽」(思想、1956年3月号、岩波書店。なお、テキストは『丸山眞男セレクション』に収録のものを参照した)において、わが国で「現実」が論じられるときの「現実」の構造について、以下のように分析し、その問題点を指摘した。

すなわち、第一に、「現実」が所与のものとして受けとめられがちであること。本来現実は、与えられた(=所与の)ものであると同時に、われわれの営みによって日々造られていくものでもある。ところが、わが国で「現実」が論じられるとき、後者の契機は無視され、「現実」は既成事実と等置される。そして、既成事実としての「現実」は、「現実だから仕方がない」という諦観を導くものとなる。

第二に、「現実」が一面的に捉えられがちであること。本来現実は、きわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって、立体的に構成されるものである。ところが、わが国で「現実」 が論じられるとき、多面的な現実のうちの一つの側面のみが強調される。そしてそれに沿わないものには、一様に「非現実的」との烙印が押され、排除の対象となる。

そして、これらの帰結として第三に、わが国で「現実」が論じられるとき、それはときの支配権力が選択する方向と、大きく重なることとなる。ここに、われわれの間に根強く巣食う事大主義と権威主義が、はしなくも露呈するのである。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

 

「現実」への盲従が招くもの

自衛隊の存在が国民に認められている現実」

さて、以上のような丸山の指摘をふまえて、「自衛隊の存在が国民に認められている現実」 について考えてみたい。

このような「現実」は、ある日突然降って湧いたものではない。マッカーサーによる警察予備隊の創設指令を端緒に、以降、その違憲性を問う訴訟*3などもくぐり抜け、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊へと「発展」させながら積み重ねられてきた政治的所為の結果として、築かれたものである。そうである以上、その「現実」が、決してスタティックなものではなく、今このときにも、われわれの営みによって新たな形に造りあげられていく過程にあることは、自明である。また、その「現実」が、あくまでも一面的なものであることにも留意せねばならない。

自衛隊の存在が国民に認められている現実」を憲法に反映させるとはすなわち、その「現実」に大きな意味を与え、それ以外の「現実」よりも重視するということに他ならない。そしてそれは、今後さまざまに形成しうる「現実」のうちの、ある可能性を開き、あるいは閉ざすということでもある。それでは、どのような可能性が開かれ、あるいは閉ざされるのか。この点については、「新9条論」は危険な悪手 - 読む・考える・書くの記述が示唆に富む。とりわけ、同記事中で斎藤美奈子の指摘として紹介されている点は重要である。すなわち、左折の改憲によって、少なくとも、日本国憲法が改正されたことはないという「現実」は、消滅する。

左折の改憲のあと

日本国憲法が改正されたことはないという「現実」の重しが取り払われたとき、わが国がいかなる進路をとるのか。この点について、私は少なくとも、「左折の改憲論者が思い描いているような方向に進むことはない」ということだけは断言できる。

先に見たとおり、わが国の世論は、「現実」を、自ら造りあげるものとしてではなく、与えられた一面的な既成事実としてのみ受けとる。そして、その「現実」を与え(う)るのは、基本的には支配権力に他ならないため、わが国の世論がいう「現実」は、ときの支配権力の選択と大きく重なるのであった。

よく知られているように、憲法は、国家権力を制限するための規範である。したがって、国民が、「現実」を自ら造りあげるものとして捉える契機を欠く結果、ときの支配権力の選択を「現実」として無批判に受けいれるような状況下においては、憲法改正を容易なものとすることは、大きな危険をはらむ。自らの権力の制約にかかる決定権を、(国民がときの支配権力の選択を「現実」として無批判に受けいれることによって)ときの支配権力自身が握ることとなるからである。

日本国憲法が改正されたことはないという「現実」は、事実上憲法の改正を困難にするという意味において、ときの支配権力が与え(う)る「現実」に対する枷として機能してきた。その枷が外されたとき、上記のような理路によって自らの権力の制約にかかる決定権を有する支配権力が、自らの権力に対する制約を取り除き、より自由に(横暴に)ふるまうようになるということは、あまりにも見やすい道理であろう。

楽観的すぎる左折の改憲論者

あるいは左折の改憲論者は、ときの支配権力が与えようとする「現実」を拒むだけの力が、国民にあると考えているのかもしれない。たとえば、左折の改憲を主張する想田和弘が提唱する「創憲」という概念には、そのような期待をうかがわせるところがある*4。しかし、そうであるならばあまりにも見込みが甘いと言わざるを得ない。

今夏のいわゆる安保法制についての審議で、安倍をはじめとする与党の者らが得意げにくり返していた文句がある。わが国の「現実」は、ときの支配権力が既成事実をつくりあげ、これを国民が後追い的に認めることによって造られているのだということを痛感させられる文句であった。左折の改憲論者の期待に対する反駁としては、これを引用すれば必要にして十分だろう*5

今まで、さまざまな国の判断あるいは議会の判断がございました。そのたびごとに、残念ながら国民の支持が十分でなかったものもございます。典型例が、六〇年の安保改定もそうではなかったかと思いますし、またPKO法案が成立をしたときもそうではなかったかと思います。しかし、今ではそれぞれが十分に国民的な理解を得ている。法案が実際に実施される中において、これはやはり国民のためのものなんだなという理解が広がっていくという側面もあるわけでございます。

おわりに

以上、左折の改憲論について、気になった点を記した。

左折の改憲論に限らずさまざまな議論において、「現実」を一面的かつ絶対的なものと見なしてこれに迎合する傾向は、散見されるように思う。本記事が、そうした傾向は果たして好ましいものであるのかということを、改めて考えるきっかけとなれば幸いである。

*1:なお、左折の改憲論に対する最も根本的な批判は、「左折の改憲」論について - Arisanのノートにおいて的確になされている。同記事に対する説得的な反論がない限り、この問題についての結論は出たとしてよいのではないかと思う。それでも本記事を公開することとしたのは、これから述べる私の「気になった点」が、左折の改憲論のみにとどまらない問題をはらんでいるように思われるためである。

*2:内閣府が今年3月に発表した「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」では、自衛隊に好印象を持つ回答が92.2パーセントに達したという(http://www.sankei.com/politics/news/150307/plt1503070014-n1.html)。

*3:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/366/057366_hanrei.pdf

*4:http://www.magazine9.jp/article/soda/23445/

*5:平成27年6月26日、我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会において、民主党岡田克也が行った、「法案の採決は、十分に国民の理解を得たうえで行うべきではないか」という趣旨の質問に対する安倍晋三の発言。なお、引用者において太字強調を施した部分がある。