被告人という呪縛

はじめに

先日の記事で言及した、公判手続が停止したまま長期にわたって刑事被告人の地位にとどめおかれうるという問題について。なお本記事では、刑事訴訟法を「刑訴法」と表記する。

被告人が心神喪失の状態にあるとき、刑訴法314条1項によって公判手続は停止される*1。この場合、検察官が自主的に公訴の取消し*2を行えば、裁判所は公訴棄却決定*3を行うこととなり、被告人は被告人の地位から解放される。それでは、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所は手続を打ち切ることができるのか。こうした問題についての判断を示した裁判例として、名古屋高等裁判所平成27年11月16日判決(判時2303号131頁)がある。

事案の概要と名古屋高裁判決の内容

乱暴に整理すると、本件は、男性とその孫を殺害したなどとして平成7年に公訴が提起されたものの、平成9年に被告人が心神喪失の状態にあるとして刑訴法314条1項によって公判手続が停止され、以後、公判手続が再開されることも打ち切られることもないまま十数年が経過したという事案である。

原判決*4は、被告人について訴訟能力はなくその回復の見込みもないとした。そして、訴訟能力は訴訟関係成立の基礎となる重要な訴訟条件であるところ、本件では公訴提起後にこれを欠き、「公訴提起の手続がその規定に違反したため無効」になったものとして、刑訴法338条4号を準用し、公訴棄却の判決を行った。

これに対して本判決は、現状において被告人に訴訟能力がなく、その回復の見込みもないことを認めつつ、大要以下のように述べて、本件公訴を棄却した原判決を破棄し、本件を名古屋地方裁判所に差し戻した。

  • 訴追の権限は検察官が独占的に有しており*5、検察官が公訴を取り消せば裁判所は決定で公訴を棄却することとなる。そして、親告罪における告訴の欠缺、被告人の死亡、時効の完成などの訴訟条件を欠く場合、法はそれらに応じた裁判*6をなすことを規定する一方、公判手続停止後、検察官が公訴を取り消さない場合、法は裁判所がとるべき措置についてなんら規定していない。以上のことから、検察官による公訴の取消しがないのに、裁判所が公判手続を一方的に打ち切ることは原則として許されない。
  • もっとも、いわゆる高田事件判決*7は、刑事事件が裁判所に係属している間に迅速な裁判の保障条項に反する異常な事態が生じた場合、憲法37条1項に基づいて審理を打ち切ることを認めている。そこで、憲法37条1項の趣旨に照らし、公判手続を停止した後、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であると認められるような極限的な場合には、裁判所が公判手続を打ち切ることも許される。
  • 以上をふまえて本件を見るに、①被告人は、原審の公判手続停止時には訴訟能力を有していたことがうかがわれ、平成11年から平成12年にかけて精神状態の改善も見られたものの、平成20年頃から平成24年頃にかけて精神状態が悪化が進行していったという経過が認められる。また、②本件では、原審において、当初は4か月ごと、その後は6か月ごとに勾留執行停止期間延長の申立ての当否についての審査が行われており、平成22年2月以降は、今後の進行等に関する打ち合わせがくり返し行われ、被告人の訴訟能力の回復可能性に関する審理が行われてきたのであって、長期間にわたって審理が放置されてきたような事案と同視することはできない。さらに、③本件は面識のない男性とその孫を殺害したとする凶悪重大事案であり、遺族の被害感情が峻烈であること等も考慮して検察官は公訴を取り消さないものとうかがわれる。これらの事情をあわせて考慮するならば、本件において検察官が公訴を取り消さないことは、明らかに不合理であると認められる極限的な場合にあたるとは言えない。

名古屋高裁判決の検討

わが国では、基本的には公訴を提起する権限を検察官が独占しており、しかも公訴を提起するかどうかも検察官の裁量に委ねられている(起訴便宜主義)*8。また、かかる起訴便宜主義の延長として、検察官がいったん公訴を提起した後に公訴を取り消すことも認められている*9

もっとも、こうした検察官の裁量も決して無制限に認められるものではない。刑訴法248条は、公訴を提起するか否かを判断するにあたっての考慮要素として、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況」を挙げているし、そもそも刑訴法が、「公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」ことを目的として掲げている*10以上、かかる目的から逸脱するような公訴提起は許されないものと言うべきである。たとえば最高裁判所昭和53年12月20日判決*11は、公訴提起にあたって、「起訴時あるいは公訴追行時における各種証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑」の存在を要求しているが、検察官の公訴提起にかかる裁量が上記のような見地から制約されるものである以上、およそ嫌疑のない場合に公訴を提起することが許されないのは当然である。

以上をふまえて検討するに、本判決は、被告人に訴訟能力がなく、その回復の見込みもないことを認めている。そうすると、上記のとおり法314条1項によって公判手続は停止され、しかも回復の見込みもない以上、今後公判手続が再開され進行するということもなく、必然的に被告人が有罪判決を受けることもないものと考えられる。そのような被告人について、本判決は、迅速な裁判を保障する憲法37条1項の趣旨に照らして、公判手続を停止した後、訴訟能力の回復の見込みがないのに検察官が公訴を取り消さないことが明らかに不合理であるかどうかを検討し、おおむね上記①ないし③のように述べて検察官が公訴を取り消さないことは明らかに不合理とは言えないとする。このうち①は被告人が訴訟能力を欠くに至ってから必ずしも長期間が経過したわけではない旨をいうもの、②は公判手続が停止されてからも被告人の訴訟能力の回復可能性等について審理がなされており無為に放置されていたわけではない旨をいうものと思われ、いずれも迅速な裁判を受ける権利が損なわれたか否かにかかる事情である。③は前二者とはやや視点が異なり、事案が重大であり遺族の被害感情も峻烈である(ので軽々に公訴を取り消さないことにも一定の合理性がある)ことをいうものである。 

しかし、もはや有罪判決を受けることがないと考えられる者を被告人の地位にとどめおくことは、基本的に重大な不利益を不必要に課するものと評せざるを得ず、基本的人権の保障という見地からはきわめて問題がある。上記のとおり、およそ嫌疑のない場合には公訴を提起することさえ許されないことに照らせば、訴訟能力がなく、その回復の見込みもない(ために有罪判決を受けることがないと考えられる)者を被告人の地位にとどめおくことは、たとえ短期であっても、それを正当化するような特別の事情がない限り許されるものではないだろう。そうすると、①②は、迅速な裁判を受ける権利を損なっていないこと、すなわち被告人の地位へのとどめおきが不当に長期にわたっていないことをいうものにすぎないから、これらの事情だけで検察官の公訴を取り消さないとの判断に合理性を認めることはできず、他に被告人の地位へのとどめおきを正当化するような特別の事情が認められる必要がある。

それでは③は、被告人の地位へのとどめおきを正当化するような特別の事情と言えるだろうか。この点、たしかに事案の重大性は刑訴法248条*12にいう「犯罪の軽重」、被害感情は同条にいう「犯罪後の情況」として、公訴を提起するか否かを決する際の考慮要素とされている。しかし、同条の「訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」との規定ぶりからも分かるように、こうした要素は、典型的には、「軽微事案であり、被害感情も強くないから、訴追は(可能であるが)あえてしない」という形で考慮される。

  • 軽微な事案についてあえて公訴提起しないことによって訴訟経済の要請に応える
  • 公訴提起(及びその後の刑罰)によるスティグマの付与を回避する
  • 刑罰によらない早期の改善更生を図る
  • 事案が軽微で被害感情も強くないのであればそもそも処罰価値は低いのであるから、無用な公訴提起を回避する

などの見地から、十分な嫌疑と訴訟条件はあるものの、あえて公訴を提起しない裁量を検察官に認めるのが、刑訴法248条の趣旨である。そうだとすれば、訴訟能力がなく、その回復の見込みもないために有罪判決を受けることがないと考えられる者を被告人の地位にとどめおくうえで、事案の重大性や遺族の被害感情が峻烈であることは、やはりこれを正当化する特別の事情とは言えないだろう。なによりも、このような理由で有罪判決を受けることがないと考えられる者に被告人の地位へのとどめおきという重大な不利益を課するというのでは、実質的に裁判手続を経ずに刑罰を科するというに近い。

以上のとおりであってみれば、本判決の述べる①ないし③のいずれも、訴訟能力がなく、その回復の見込みもない者の被告人の地位へのとどめおきを正当化するものとは言えない。本件において検察官が公訴を取り消さないのは明らかに不合理であると考える。 

おわりに

以上、本記事では、被告人が訴訟能力を欠いて公判手続が停止され、訴訟能力回復の見込みもないときに、検察官があくまでも公訴の取消しを行わない場合、裁判所において手続を打ち切ることができるかという問題について、名古屋高等裁判所平成27年11月16日判決(判時2303号131頁)を紹介し、批判を加えてきた。本記事ではあえてふみこまなかったものの、そもそも訴訟能力がなく、その回復の見込みもない者を被告人の地位にとどめおくことが正当化できるような特別の事情など存在しうるのか、私にははなはだ疑問である。

なお、本件では上告審の弁論期日が平成28年11月28日に指定されているようだ。

精神疾患の被告の殺人事件の裁判 「打ち切り」も 最高裁が弁論期日を指定 差し戻し判決見直しか - 産経ニュース

はてなブックマーク - 精神疾患の被告の殺人事件の裁判 「打ち切り」も 最高裁が弁論期日を指定 差し戻し判決見直しか - 産経ニュース*13

最高裁の判断に注目したい。

*1:なお、ここに「心神喪失の状態」とは、訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当の防御をすることのできる能力を欠く状態をいう。最決平成7年2月28日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/122/050122_hanrei.pdf)。

*2:刑訴法257条。

*3:刑訴法339条1項3号。

*4:名古屋地方裁判所岡崎支部平成26年3月20日判決(判時2222号130頁)。

*5:刑訴法247条。

*6:順に、公訴棄却判決(刑訴法338条4号)、公訴棄却決定(刑訴法339条1項4号)、免訴判決(刑訴法337条4号)。

*7:最大判昭和47年12月20日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/808/051808_hanrei.pdf)。

*8:刑訴法248条。

*9:刑訴法257条。

*10:刑訴法1条。

*11:http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/226/053226_hanrei.pdf

*12:「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」

*13:リンク切れに備えてはてなブックマークページもはっておく。

渋谷暴動と時効

平成28年11月10日追記:元記事のリンクが切れてしまったようなので、元記事のはてなブックマークページをはっておく。

先日、以下の記事を読んだ。

はてなブックマーク - 「渋谷暴動」で警察官殺害 手配の過激派の男に懸賞金 | NHKニュース

昭和46年(1971年)に渋谷で警察官を殺害したとしてA氏が指名手配されている、いわゆる「渋谷暴動」について、警察庁が、情報提供者に公費から懸賞金を支払う制度の対象にすることを決めたという。

厚かましい話だと思う。

事件当時の規定に照らせば、本件の公訴時効は15年。にもかかわらず、未だに本件の捜査が継続されているのは、刑事訴訟法254条2項によるものである。

第二百五十四条 時効は、当該事件についてした公訴の提起によつてその進行を停止し、管轄違又は公訴棄却の裁判が確定した時からその進行を始める。

○2 共犯の一人に対してした公訴の提起による時効の停止は、他の共犯に対してその効力を有する。この場合において、停止した時効は、当該事件についてした裁判が確定した時からその進行を始める。

時効は公訴の提起によってその進行を停止する。そして、共犯の一人に対する公訴の提起は、他の共犯との関係でも時効の進行を停止させ、当該事件についてした裁判が確定するまで進行しない。

本件では、共犯とされる人物B氏などについて公訴が提起されており、時効の進行は停止していた、というわけだ。

しかし、B氏の公判は、昭和56年(1981年) に、同人の精神疾患によって手続停止となっている。そして、どうやら平成28年(2016年)現在においてもこの件についての確定裁判はないようである*1

「停止した時効は、当該事件についてした裁判が確定した時からその進行を始める。」

殺人罪などの公訴時効は平成22年に廃止されているが、仮に廃止されていなかったとしても、共犯たるB氏について公訴が提起され、その裁判が未確定である以上、A氏の時効は完成していないということになる。

 

そもそも刑事訴訟法254条2項は、共犯者間の不公平を避けるための規定である*2。(たとえば精神疾患のような)他の共犯者には如何ともしがたい個人的な事情によって、共犯者の一人の公判が通常と大きく異なる経過をたどったときに、そのことに起因する不利益を他の共犯者にも負わせる――。それはもはや、共犯者間の公平を図るという法の要請をはるかに逸脱し、他の共犯者に不当な負担を強いるものと言うべきであろう。

そうであるならば、共犯とされる者の公判手続停止を奇貨として何十年にもわたって捜査を継続し、あまつさえ懸賞金までかける捜査機関の態度はあまりにも 厚顔であるように、私には思えてならない。しかるべき法整備が望まれるところである。

なお、共犯とされるB氏に関して、精神疾患を理由として公判手続を停止したまま何十年もの長期にわたって刑事被告人の地位にとどめおくことも、当然ながらきわめて重大な問題をはらんでいる。これについては、稿を改めて論ずる。

*1:なお、少なくとも平成22年(2010年)1月時点で確定裁判がないことは間違いない。

*2:松尾浩也監修『条解 刑事訴訟法』(弘文堂、第4版、2009年)505頁。

「押しつけ憲法」論は誰も問題にしていないのか

はじめに

マッカーサーの書簡が発見されたということで、いわゆる「押しつけ憲法」論をめぐって多くのコメントが寄せられている。

はてなブックマーク - 東京新聞:「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料:政治(TOKYO Web)

私自身は、条項の発案者が誰であれ、日本国憲法が有効に成立したとの結論は揺るがないと考えており、また今回の書簡が憲法9条の発案者を明らかにするうえでどれだけの意義を有するかという点についてもやや懐疑的なのだが、それはともかく、こうした話題で散見される「日本国憲法が押しつけかどうかなどどうでもいい(誰も問題にしていない)」といった類のコメントについてはかねてより問題があると思ってきたところであるので、この際記しておくことにする。なお、参考までに同種の話題における過去の反応も紹介しておく。

はてなブックマーク - 【報ステが驚異の大スクープ!】憲法9条(戦争放棄)は幣原喜重郎首相の提案であった事が判明!木村草太氏「押しつけ憲法論こそ思考停止」

はてなブックマーク - 憲法9条(戦争放棄)は幣原喜重郎の発案という結論でほぼ決まりだろう - 読む・考える・書く

「誰も問題にしていない」わけはない

まず、あまりにも当然のことだが、「押しつけ憲法」論を「誰も問題にしていない」などということはありえない。特に昭和29年7月の自由党憲法調査会における松本烝治の証言以降は、「押しつけ憲法」論が根強く主張され続けてきたことは周知の事実である。

また、仮にこうした経緯を知らなかったとしても、論理的に考えれば、「押しつけ憲法」論を「誰も問題にしていない」などということが考えにくいのは明白だ。冒頭紹介したコメント群が寄せられた元記事は、その見出しからもうかがわれるとおり、「押しつけ憲法」論に対する反論を補強しうるものとして「憲法9条は幣原が提案した」とするマッカーサー書簡の発見を報じているところ、反論の対象となる議論が存在しないのに反論だけが存在することなどありえない、すなわち「押しつけ憲法」論を問題にする者がいてはじめて、それに対する反論は提出されるからである。

「主流派は問題にしていない」という程度の意味であると解した場合

冒頭で紹介した類のコメントについて、「押しつけ憲法」論を「改憲勢力の主流派は誰も問題にしていない」という程度の意味であると好意的に解釈しても、やはり問題は残る。

「主流派は問題にしていない」とすら考えにくい

まず、「押しつけ憲法」論を「改憲勢力の主流派は誰も問題にしていない」とすら考えにくい、すなわち、「改憲勢力の主流派」(≒自由民主党)はおそらく「押しつけ憲法」論を「問題にしてい」るであろうことを指摘せねばならない。

自由民主党の使命

現総裁の安倍晋三が時折口にするとおり、憲法改正自由民主党結成以来の党是である。占領終結後、「押しつけ憲法」を排し自主憲法を制定することで真の独立を実現するべしという保守派の主張の高まりの中、昭和30年、憲法改正を唱える自由党民主党が合同し*1自由民主党は結成された。こうした経緯で結成された自由民主党は、結成以来憲法改正を掲げ続けており、その動機に「押しつけ」への反発が色濃く滲んでいることは、例えば結成時に発表された「党の使命」*2を見ても明らかである*3

国内の現状を見るに、祖国愛と自主独立の精神は失われ、政治は昏迷を続け、経済は自立になお遠く、民生は不安の域を脱せず、独立体制は未だ十分整わず、加えて独裁を目ざす階級闘争は益々熾烈となりつつある。

思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。(略)初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。

このように、少なくとも「改憲勢力の主流派」(≒自由民主党)は、「押しつけ」を排し「自主独立」を実現することを「使命」としているものと考えられる。なお、「押しつけかどうかなどどうでもいい(誰も問題にしていない)」という方の多くは、「近時の社会情勢の変化に対応できていない」ことを「問題にしてい」るように見受けられる*4が、上記のとおり自由民主党は、60年以上前から憲法改正を掲げ続けているのだから、「近時の社会情勢の変化」は同党が改正を主張する主たる動機とは考えがたいこともあわせて指摘しておきたい。

自由民主党の近時の動き

改憲勢力の主流派」(≒自由民主党)が「押しつけ憲法」論を「問題としてい」るであろうことは、憲法改正をめぐる近時の動きからもうかがうことができる。

平成24年の政権復帰以降、自由民主党改憲への動きを強めているが、具体的にどの部分を改正する必要があるのかという点については煮え切らない態度をとり続けている。ひところは憲法の改正要件にかかる憲法96条の改正をにおわせていたが、「裏口入学」との批判を受けると途端に表立った主張をやめた。近時は緊急事態条項の新設を打ち出しているものの、「どの条文をどのように変えるかは今後の議論によって収斂していく」として、あくまでもこの点にかかる明確な発言は避ける構えだ*5

本来、なんらかの事態に対応するために必要であると考えて憲法改正を唱えるのであれば、たとえば近時の○○という社会情勢の変化から、△△という条項を新設する必要がある、××という既存の条項を修正する必要がある等、「どの条文をどのように変えるか」ということは当然当初から明確にされるはずのものである。それを行わない自由民主党の唱える憲法改正の主張は、結局のところなんらかの必要性に迫られてのものと言うよりは改正それ自体を目的とするものであり、そのように改正それ自体を目的とするのは、日本国憲法が押しつけられたものであることを問題視している、すなわち「押しつけ憲法」論を「問題としてい」るためであると考えるのが自然であろう。

また、自由民主党が平成27年4月に発行した『ほのぼの一家の憲法改正ってなあに?』*6という漫画は、「なぜ憲法を改正するの?」「憲法改正でどうなるの?」「国民投票ってどんなこと?」「みんなで考えよう!」という4つの章から成っているが、そのうちの「なぜ憲法を改正するの?」の章でもっとも大きく取り上げられているのは、「日本国憲法の基を作ったのがアメリカ人」だということである*7。つまり、自由民主党自身が憲法改正を行う大きな理由のひとつとして「アメリカ人が(短期間で)作ったこと」を挙げているのであって、この点でも同党が「押しつけ憲法」論を「問題にしてい」ることは明らかなものと言える。

安倍の発言

現総裁の安倍も、たびたび日本国憲法が「押しつけ」 的なものである旨の発言をしている。

たとえば、平成27年11月28日に行われた創生「日本」の会合では、「憲法改正をはじめ占領時代につくられた仕組みを変えることが(自民党)立党の原点」との発言があったようである。また、これは以前にも紹介した平成28年2月4日に開かれた衆議院予算委員会での大串博志の質問からの孫引きとなるが、安倍は『安倍晋三対論集 日本を語る』の中において、日本国憲法について、「左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが、(略)短期間で書き上げ、それを日本に押し付けた」と述べているとのことだ。さらに、平成12年5月11日に開かれた衆議院憲法調査会では、日本国憲法が、「私たち日本人の精神に大きな影響を、この五十年間に結果として及ぼしているんではないか、このように思います。強制のもとで、ほとんどアメリカのニューディーラーと言われる人たちの手によってできた憲法を私たちが最高法として抱いているということが、日本人にとって、心理に大きな、精神に悪い影響を及ぼしているんだろう、私はこのように思います。」とさえ述べている*8

「アメリカ人の作った憲法のせいで日本人の精神に悪い影響」云々の発言に至っては、もはや常軌を逸している観さえあるが、ともあれ自由民主党の現総裁である安倍も明確に「押しつけ憲法」論を「問題にしてい」るのであって、この点でも「改憲勢力の主流派」(≒自由民主党)が「押しつけ憲法」論を「問題としてい」ることがうかがわれる。

小括

以上のとおりであるから、自由民主党は「押しつけ憲法」論を「問題にしてい」ると考えられるため、「押しつけ憲法」論を「改憲勢力の主流派は誰も問題にしていない」と言うこともできない。

仮に「主流派は問題にしていない」が事実だったとしても

そして、仮に「押しつけ憲法」論を「改憲勢力の主流派は誰も問題にしていない」のが事実であったとしても、「押しつけかどうかはどうでもいい(問題にしていない)」といった類のコメントを「押しつけ憲法」論を否定する側に寄せるのはやや筋違いとなる場合もあることには留意するべきである。

「押しつけかどうかはどうでもいい(問題にしていない)」とのコメントは、多少なりとも批判のニュアンスを含みうる。すなわち、「押しつけかどうかなどという本質的でないことを問題にするべきでない」との否定的評価を含意しうるのであり、実際寄せられたこの種のコメントにも批判的な論調のものが少なくなかったように思う。

しかし、たとえ主流でなくとも現に「押しつけ憲法」論が主張されており、それが誤っているのだとすれば、論拠を示してこれを否定するのは当然であって、なんら批判されるべきことではない。むしろ、傍流としてであれ「押しつけ憲法」論を主張する側に対してこそ、「そのような本質的でないことを問題にするべきではない」との批判は向けられるべきなのである。したがって、些末な問題を殊更に争点化することへの批判として「押しつけかどうかはどうでもいい(問題にしていない)」といった類のコメントをする場合、それは「押しつけ憲法」論者に対して行うべきであり、「押しつけ憲法」論を否定する者に対して行うのはやや筋が違うと言うべきであろう。

おわりに

以上、「日本国憲法が押しつけかどうかなどどうでもいい(誰も問題にしていない)」といった類のコメントについて、思うところを述べてきた。私とてその逐一を仔細に検討したわけでもなく、すべてを言下に否定し去るつもりもないが、この種のコメントをされる方におかれては、そもそもそれが正しいかどうか、そして(当該コメントを批判としてされる場合には)批判を向ける相手が適切か、ということについて、いま一度確認していただければ幸いである。

*1:いわゆる保守合同

*2:https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/#sec08

*3:引用者において省略し、あるいは太字強調を施した部分がある。

*4:その当否は今は措く。

*5:参考:http://mainichi.jp/senkyo/articles/20160712/ddm/005/010/192000c

*6:https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenpoukaisei_manga_pamphlet.pdf

*7:この漫画の内容自体もおおいに批判されるべきものであると考えるが、本記事では扱わない。

*8:以上の安倍の各発言について、引用者において適宜省略し、あるいは太字強調を施した。

出版年の訂正

事情があって過去記事を読み返していたところ、芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版)の出版年を誤って記載していることに気づいた。

従前は、

×「芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2007年)」

としていたが、正しくは、

○「芦部信喜高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)」

である。なお、該当記事は修正済み。

 

私の不注意をお詫び致します。

川崎市のヘイトデモ禁止の仮処分について

川崎市のヘイトデモ禁止の仮処分について、簡単に記しておこうと思う。

Counter-Racist Action Collective • [CRAC KAWASAKI] ヘイトデモ禁止仮処分決定書

事案の概要

本件は、川崎市在日コリアンが集住する地域で、民族差別解消に取り組み社会福祉事業を行ってきた債権者(社会福祉法人)が、その主たる事務所の半径500メートル以内で債務者が差別的デモ等を行うことを禁じる仮処分を求めた事案である。

債権者の代表理事は韓国籍を有する者であり、債権者の職員や施設利用者の内訳としては、在日コリアンが比較的大きな割合を占めている。

債務者は、平成28年6月5日に川崎市でのデモを予定している。同人は、過去にも二度川崎市でデモを行っており*1、これらのデモでは、「韓国、北朝鮮は我が国にとって敵国だ。その敵国人に対して死ね、殺せというのは当たり前だ。ゴキブリ朝鮮人は出て行け。」等の発言が、ワゴン車のスピーカーや拡声器を用いてなされた。

裁判所の判断

規範

規範と規範に照らした事案の検討とが混同されているように思える部分がありやや分かりにくいが、裁判所が被保全権利としての差別的言動に対する差止請求権の存否について判断するための規範として提示するのは、おおむね以下のようなものである。

生活の基盤たる住居において平穏に生活する権利等は憲法13条に由来する人格権として強く保護されている。そして、本邦外出身者が本邦外の出身であることを理由として排除されることのない権利は、人種差別撤廃条約の各規定や、憲法14条、そして差別的言動解消法*2が制定され施行を迎える*3ことに鑑みれば、上記の人格権を享有するための前提となるものとして強く保護されることがきわめて重要である。

このような理解に基づけば、差別的言動解消法2条に該当する差別的言動*4は、上記の人格権に対する違法な侵害行為にあたる。そして、権利者が住居において平穏に生活していることを認識し、または容易に認識しうるのにその住居の近隣において上記の差別的言動を行う者があり、これによる侵害の程度が顕著な場合、権利者は人格権に基づく妨害排除請求権として、その差別的言動の差止めを求めることができる。もっとも、当該差別的言動が示威行為等としてされる場合には、憲法21条との調整に対する配慮から、その差止めにあたっては、被侵害権利の種類・性質と侵害行為の態様・侵害の程度との相関関係において、違法性の程度が検討されねばならない。

そして、以上の理は、自然人と同様に社会的実体をもって活動する本邦内の法人についても妥当する*5。したがって、かかる法人が事業所において平穏に生活していることを認識し、または容易に認識しうるのにその近隣において上記の差別的言動を行う者があり、その平穏に事業を行う人格権に対する侵害の程度が顕著である場合、当該法人には、自然人と同様に、人格権に基づく妨害予防請求権としての差別的言動の事前差止請求権が認められる。

事案の検討

裁判所は、かかる規範に照らして本件について検討し、以下のような判断を行った。 

上記「事案の概要」において述べた事業等を行ってきた債権者は、事業所において平穏に社会福祉事業を営む人格権を有する。そして、債務者やその賛同者らには、平成28年6月5日に予定されているデモにおいて、過去二度の川崎市でのデモで行われたような差別的言動を行う高い蓋然性が認められる。かかる差別的言動は債権者の理念や活動内容等を真っ向から否定するものであり、これが行われれば、債権者の職員の士気の著しい低下や、債権者の施設利用者による利用の回避・躊躇を招くことが容易に予想されるところである。なお、債権者の従前の活動実績や、その所在地の(在日コリアンが集住しているという)地域的特性、そして債務者の活動内容等に照らせば、債務者は債権者の事務所等の所在地を知っており、その近隣で差別的言動を行えば、債権者の平穏に事業を行う人格権を侵害することを認識し、または容易に認識することができる。

以上によれば、債務者らが行うであろう差別的言動によって、債権者の平穏に事業を行う人格権が侵害され著しい損害が生じる現実的な危険性が認められ、また債務者らが行うであろう差別的言動の悪質性に照らせばこれを事前に差し止める必要性はきわめて高いから、被保全権利たる事前差止請求権の存在は優に認められる。

また、かかる人格権の侵害に対する事後的な回復はきわめて困難であり、これを事前に差し止める緊急性は顕著であるから、保全の必要性も認められる*6

本決定についての感想

率直に言って、本決定には首をかしげる部分も多いのだが、迅速性の要求される保全手続ということもあり、ある程度粗いものになるのは仕方がないだろう。 

本決定について私が興味深く思ったのは、「在日コリアンの集住地域であること」の考慮の仕方だ。本件の債権者はあくまでも一社会福祉法人であり、今後同様の申立てがなされる場合にも、債権者は基本的に特定の個人とならざるを得ない。そのような中で、「在日コリアンの集住地域において在日コリアンに対する差別的デモを行うこと」をどのように考えるのか。この点について、本決定は、「故意・(重)過失」の問題に解消するという手法をとった。言われてみれば自然な考え方だが、私自身はもっぱらこれを行為の悪質性として処理する方向で考えていたので、新鮮に感じた。

「故意・(重)過失」の問題に解消するとは、以下のようなことだ。

本決定が提示した規範には、「権利者が住居(事業所)において平穏に生活(事業)を営んでいることを認識し、または容易に認識しうるのにその住居の近隣において上記の差別的言動を行う者があり、これによる侵害の程度が顕著な場合」というくだりがある。近隣においてその差別の対象となる者が平穏に生活(事業)を営んでいること、つまりその場で差別的言動を行うことによって当該差別対象者の人格権を侵害することを、差別者が認識し、または容易に認識し得なければならないということだ。そして、差別者が「近隣においてその差別の対象となる者が平穏に生活(事業)を営んでいること」を認識しまたは容易に認識しうるかどうかを判断するにあたって、差別的言動を行う場所が「差別の対象となる者の集住地域であること」は、差別の対象となる者が多く住む地域であれば当然近隣でそうした者が平穏に生活(事業)を営んでいる可能性は高い(したがって、これを容易に認識しうるはずである)という意味で、確かに大きな考慮要素となる。自然な整理であると思う。

ただし、このように整理する場合、差別対象者の集住地域以外に住む差別対象者は、自らの住む地域で差別的なデモが行われることになっても、差別者に故意・(重)過失がないとして、(差別対象者の集住地域で行われるのであれば差止めが認められるようなケースでも)差止めが認められないということにもなりかねない。それでいいのか、ということはよく考えねばならないだろう。

*1:平成27年11月と平成28年1月。

*2:正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」。

*3:平成28年6月2日時点。平成28年6月3日施行。

*4:本邦外出身者「に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」。

*5:最大判昭和45年6月24日(民集24巻6号625頁)。 

*6:保全手続においては、被保全権利の存在と保全の必要性とを疎明しなければならない。

井上武史の不思議な主張

不思議な主張

井上武史の以下の記事を読んだ。

憲法論議の正常化は可能なのか - 井上武史(九州大学大学院准教授) (1/2)

井上は、与党に対する「立憲主義違反」との批判に対し、その内実にまったく立ち入ることなく、このような批判は無意味であるとする。不思議な主張である。

立憲主義違反」との批判の当否はどのように検討されるべきか

当然のことだが、「立憲主義違反」との批判が妥当であるか否かを検討するにあたっては、まず「立憲主義」という語の意味を確認しておかねばならない。この点、井上は「立憲主義」の定義を明確に提示することのないまま論を進めるので、さしあたり本記事では、「憲法によって政治権力の行使を枠付けて、その恣意的行使を防ぐ思想・実践」*1をいうものとしておく。そうすると、「立憲主義違反」との批判は、「与党のふるまいは、憲法によって認められた(枠づけられた)範囲を潜脱して権力を行使せんとするものである」ことをいうものであると理解できよう。

こうして解きほぐせば(本来は解きほぐすまでもなく)明らかなとおり、「立憲主義違反」とは、「与党のふるまい」に対する、憲法が認める範囲を潜脱して権力を行使せんとするものであるとの否定的評価である。そして、かかる評価の当否を判断するためには、批判者が問題としている個別具体的な「与党のふるまい」を検討することが不可欠である。批判者が最も問題視しているのは、むろん憲法改正を経ない集団的自衛権行使の一部容認であろうが、それ以外にも自民党が発表した憲法改正草案からうかがわれる憲法観や、憲法53条*2に基づく要求にもかかわらずついに臨時国会が開かれなかったことに代表される国会運営のあり方等、批判対象は多岐にわたり、こうした数々の「与党のふるまい」に共通して見られる態度を明快に表現するものとして、「立憲主義違反」という語は用いられている。したがって、「立憲主義違反」との批判の当否を検討するという作業は、こうした多岐にわたる「与党のふるまい」の逐一を、地道に検討していくことに他ならないはずだ。

ところが、井上はこうした個々の「与党のふるまい」について何一つ触れないまま、「立憲主義違反」との批判を無意味だと断じるのである。理解しがたいというほかない。あるいは井上は、これら個々の「与党のふるまい」が批判されるべきものであることは自明の前提としているのだろうか。同記事の以下の記述*3からはそのように読み取ることもできそうであり、それならば十分に理解できる。

立憲主義違反」という言明は、(略)現行憲法が権力を統制しきれていないこと、つまり権力を統制するのに憲法規定が足りないことを告発するものである。そうすると、今後同じことが起こらないように、また、どのような政権にも妥当するように、憲法の規定の点検やその不足・不備の是正が、安保法への立場を超えた共通の課題として取り組まれるべきであった。

ただしそうであるならば、「与党のふるまい」が批判されるべきものであることを当然の前提としている旨は明記しておくべきだろう。同記事は終始「立憲主義違反」との批判をくさすものであるため、この点を明記しないと誤読されても仕方がないと考える。

立憲主義の語が本来の用法で用いられていない」という批判

ところで井上は、なんら資料等を示すことのないまま、「立憲主義とは、ある国の憲法や政治体制が権利保障と権力分立という本質的要素を含んでいるかを点検するための概念であり、政権の行為や特定の政策を批判するため用いられるものではない。」と断定する。このような根拠資料を伴わない断定を直ちに信用することなど到底できない*4

しかし、仮にこれが事実であったとしても、上記のとおり、「立憲主義違反」との批判が何を言わんとしているのかは容易に了解可能である。したがって、その言わんとするところを「立憲主義違反」として主張することでいかなる具体的な弊害が生ずるのか、ということを指摘しない限り、それは「従前の用法と異なる」という業界内部でのスコラ的な議論にとどまるし、具体的な弊害が生ずる場合であってさえ、それは「立憲主義違反」を別の表現に置き換えれば解決する問題であり、議論の本質にまで影響するものではない。

以上のとおりであるから、井上の「立憲主義の語が本来の意味で用いられていない」との批判は、現状では根拠がまったく示されていないものと評せざるを得ず、仮に今後十分な根拠が示されたとしても、これをもって現在なされている与党への批判が「無意味」などということにはまったくならない。

まとめ

以上、井上の記事に対する若干の疑問点等を記した。もっとも、すでに述べたとおり、同記事には論旨のとりがたい部分があり、現時点でこれをとりあげることにあまり意味はないのかもしれない。

*1:今村仁司三島憲一・川崎修編『岩波社会思想事典』(岩波書店、2008年)323頁[犬塚元]。

*2:「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

*3:引用者において一部省略・強調した。

*4:もっとも、「立憲主義」という語が政治体制に言及する際に多く用いられるであろうことは容易に想像がつき、その限度では異を唱えるものではない。私が疑問を呈するのは、「立憲主義」という語を、特定の行為や政策を批判するために用いる例が存しないのか、という点である。