ネットリンチについて

はじめに

先日、読者の方からネットリンチに関する質問をいただいた。当該の質問に対する回答はすでに行っているが、この機会にネットリンチについての私の考えを少し説明しておこうと思う。

先日の記事*1で、私はネットリンチについて以下のように述べた。

ここにネットリンチとは、たとえば△△速報や××ニュースといったまとめサイトが行っている晒し上げのようなものだ。どこからか非常識な言動などを見つけてきて、これに対して多数によっていっせいに攻撃を加える。

私のネットリンチについての理解はおおむねこのとおりである。もっとも、ここで「非常識な言動など」としたのは、実際に行われるネットリンチの多くが非常識な言動に対するものであることから、イメージを描きやすくなるだろうとの配慮によるのであって、ネットリンチの対象となるのは「非常識な」言動に限られるわけではない(だからこそ「など」と付けている)。

本記事では、ネットリンチを「他者の言動等に対し、多数によっていっせいに攻撃を加えること」としたうえで、まずネットリンチについての総論を述べたあと、「他者の言動等」「多数によって」「いっせいに」「攻撃」という各要素について注釈を加えていく。

ネットリンチについて

総論

ネットリンチについて考える際には、ネットリンチとそうでないものとの境界は必ずしも明確ではないということに、注意しなければならない。というのも、これから説明する4つの要素は、いずれも「該当/非該当」というオールオアナッシングではなく、ある程度グラデーションのあるものとして捉えなければならないからだ。その結果、たとえば同じ程度の「攻撃」が行われても、ある場合にはネットリンチとなり別の場合にはネットリンチとならない、ということも起こりうる。各要素についての注釈の中で、いくつか例を挙げたい。

「他者の言動等」

「他者の言動等」とは、典型的には特定個人による発言(主張)や行動等をいう。団体によるものも含むが、その場合個人によるものに比して要素としては弱くなる、つまりネットリンチの色彩が薄くなる傾向にある。また、「攻撃」の重点が「他者」(個人・団体)よりも「言動等」(発言(主張)・行動等)におかれている場合も、要素としては弱くなる。近時では、某市の小学校における児童の読書管理の手法に批判が集まったが*2、これは小学校という団体の、しかもそれがとった「言動等」にあたるシステム(構築)に対する批判が主であったため、ネットリンチの色彩は比較的薄かった。

「他者の言動等」が攻撃的、挑発的である場合にも、これに対抗する必要を一定程度は認めることができるから、要素としては弱くなる傾向にある。近時では、kawango2525さんの正当な批判とイジメの境界線に関するツイートに「はてなーの連中の頭の悪さは本当に救い難い」との挑発的言辞が含まれており、*3このような場合には反撃がある程度激しいものとなってもネットリンチとは言いにくいかもしれない。もっとも、「(挑発してくるような)悪い奴だから袋叩きにしてよい」わけでないことは当然であり、この点を過度に重視するべきではない。

「多数によって」

「多数によって」とは、単純に数が多いということに加えて、相対的に見ても多いと言えることをいう。「攻撃」が多くとも、それと同程度に擁護意見もあるならば、「多数によって」とは言えない。たとえば、先ほど紹介したkawango2525さんのツイート*4に対する反応*5には、kawango2525さんへの「攻撃」が多く見られたが、逆に同調する意見も相当数含まれていた。このような場合には、必ずしも「多数によって」とは言えない。

「いっせいに」

「いっせいに」とは、「多数」からなされる各「攻撃」が、その対象となる者にとって同一の機会になされたものと認識されるような状態にあることをいう。「攻撃」者間の意思連絡等があれば要素として強くなるが、必須の条件ではない。

はてなブックマークではブックマークコメントが一覧の形式で表示されるため、これを利用して「攻撃」が行われた場合、「攻撃」の対象となった者は同一の機会にそれらの「攻撃」を認識することとなり、いちおう「攻撃」が「いっせいに」行われたものと考えることができる。

一方、たとえば低能先生*6に罵倒を受けた者らが、それぞれ個別に通報を行うような場合には、「いっせいに」とは言えないため、ネットリンチにはあたらない。ただし、低能先生への通報をよびかける記事があげられ、当該記事に対するはてなブックマーク等において低能先生をバカにしたり茶化したりするコメントが並ぶという事態になれば、ネットリンチにあたる可能性が出てくる点には注意を要する*7*8

「攻撃」

「攻撃」とは、典型的には罵倒をいうが、罵倒を含まない批判もこれにあたりうる。また、批判にも意味のない批判と意味のある批判とがあり、罵倒、意味のない批判、意味のある批判の順で要素としては弱くなっていく。

罵倒を含まない批判も「攻撃」にあたりうることは、すでに先日の記事*9で述べた。学級会での吊るしあげを想像していただきたい。「甲は掃除をさぼっていて良くないと思います」との発言がなされたとする。この発言自体は穏当な批判にとどまるとして、これに追随して教室中の者が口々に同旨の発言を甲に対して行ったとしたらどうか。彼らの発言は、個々に見ればいずれも穏当なものであるにもかかわらず、それがいっせいになされることによってときに暴力性を帯びるのである。

意味のない批判とは、批判内容が誤っているということではなく、新たな知見や独自の情報を含まない、ということである。典型的には既出の批判を言い換えたにすぎないようなものであり、特にブックマークコメントにおいては、字数制限の影響もあるのかもしれないが、元記事で行われている批判や既出のブックマークコメント等の言い換えにすぎないものがきわめて多く、新たな知見や独自の情報を含んだ意味のある批判は少ない。すでに紹介した某市の小学校における児童の読書管理の手法への批判*10などはその分かりやすい例で、2018年7月3日時点で約600あるブックマークの大半を批判が占めているが、その内容は図書館の自由、内心の自由、プライバシーのたった三語でおおむね集約できてしまう。

おわりに

以上、ネットリンチについての私の考えを簡単に説明した。なにかの参考になれば幸いである。

2018年7月3日追記

本記事中で言及した某市の小学校における児童の読書管理に関しては、以下のような続報が出ているようだ。

三郷市の小学校の読書促進策に批判殺到「担任が児童の読んだ本を把握し個別指導」って本当? 学校「誤解を招いて申し訳ない」 | キャリコネニュース

論旨とは関係ないが、参考までに紹介しておく。