恥を知るということ

以下の記事を読んだ。

インターネットは人類に早すぎた - さよならドルバッキー

内容はおおむね首肯できるものだった。「ネットリンチ」という言葉が感覚で使われているようで腑に落ちないとの由、たしかに現状ではこの語の定義が共有されていないためにすれ違いが生じることもあるように思われる。「ネットリンチ」の定義とその注釈については以前記事にしたので、これが共通理解として広まってくれるとうれしい。

ネットリンチについて - U.G.R.R.

それにしても、ネットリンチについては、「一対多数」ではなく「一対一がたくさん」なのだと主張される方が本当に多い。これは上掲の拙記事を参照していただければ分かるように「多数」という要素と「いっせいに」という要素とを混同しているのだと思うが、その点を措くとしても、多数者間での示し合わせ、意思連絡がこれほどまでに重視されているのは少々不思議な感じがする。

もちろん意思連絡の存在によって行為の悪質性が増すということはありうるだろうが、数の力による言説の変質は意思連絡の有無にかかわらず生じるものであるから、行為によって生じる被害に着目するならば、意思連絡がさほどの意義を有するとも思えない。かつてまとめサイトで活発に行われていた非常識行為の晒し上げ等も、多くの場合まとめられた各書き込み間に意思連絡などなかっただろうが、だからと言って問題がなかったとすることはとうていできまい。

ツイッターなどでの不用意な発言に対して、「全世界に発信しているという意識を」云々という説教がなされることがある。自分が発言しようとしているのがいかなる場なのかを十分に認識するべきであるという限りにおいてこの説教は正しいが、それははてなブックマークコメントや匿名掲示板での書き込みについても妥当するはずだ。すべてのコメントが一覧形式で表示される場でコメントしておきながら、「示し合わせているわけではないから一対一だ、他の批判など知らない」「自分は思ったことを言っているだけ」として、自身の発言が他者の発言と相俟って与えうる影響等を一切無視するというのでは、少々無責任であるように思う。

では、はてなブックマークや匿名掲示板における行動の指針をどう考えるべきかというと、結局のところ、「恥を知る」ということに尽きるのだろうという気がする。

冒頭に掲げた記事では、「インターネットの1000回怒られシステム」という言葉が紹介されていた。ネット上では多くの者がそれぞれに「批判」をするため、「批判」が過大になるという考え方だが、ここで1000の批判が1000の観点からなされるというのであれば、それはむしろ知見を深める機会を持てるというネット上のメリットにさえなりうるだろう。

ところが実際には、1000の観点から批判がなされることなどない。「批判」と銘打たれたものの相当数は単なる罵詈雑言であるし、そうでないものも多くは既出の指摘の言い換えなど、なんら新たな知見や独自の情報を含まない、意味のない「批判」である*1。こうしたものは、その本質において、罵詈雑言とさして違いはない。自己顕示欲とか、いわゆるマウント欲求とかいったものを充足するためになされる、下品でくだらない行動だ。そしてなにより重要なのは、その下品でくだらない行動の犠牲となる者が存在するということだ。私自身さして上品な人間でもないし、上品ぶる必要もないと思うが、自己顕示欲等の充足という下品でくだらない目的のために他者を犠牲にすることは、許されるべきではない。

例の事件を機に、罵詈雑言については(少なくとも建前上)許されないと表明する者も増えてきている。今後は、賢しらぶってなんらの新知見等も含まないレトリックを弄ぶだけの「批判」を展開する行為が恥ずかしいものであるという認識を広めていくことが必要となるのかもしれない。「あ、もう言われてる」と思ったら、黙ってはてなスターだけ付けて去る程度の恥じらいを皆が持てば、ネットリンチをめぐる状況も今よりはずいぶんマシになるだろう。

*1:上掲の拙記事では、600を超えるブックマークの大半を占める「批判」コメントが、ほぼ三語に集約できてしまうという例を示した。1000の「批判」のうち、意味のあるものは、数件からせいぜい数十件といったところだろう。