川崎市のヘイトデモ禁止の仮処分について
川崎市のヘイトデモ禁止の仮処分について、簡単に記しておこうと思う。
Counter-Racist Action Collective • [CRAC KAWASAKI] ヘイトデモ禁止仮処分決定書
事案の概要
本件は、川崎市の在日コリアンが集住する地域で、民族差別解消に取り組み社会福祉事業を行ってきた債権者(社会福祉法人)が、その主たる事務所の半径500メートル以内で債務者が差別的デモ等を行うことを禁じる仮処分を求めた事案である。
債権者の代表理事は韓国籍を有する者であり、債権者の職員や施設利用者の内訳としては、在日コリアンが比較的大きな割合を占めている。
債務者は、平成28年6月5日に川崎市でのデモを予定している。同人は、過去にも二度川崎市でデモを行っており*1、これらのデモでは、「韓国、北朝鮮は我が国にとって敵国だ。その敵国人に対して死ね、殺せというのは当たり前だ。ゴキブリ朝鮮人は出て行け。」等の発言が、ワゴン車のスピーカーや拡声器を用いてなされた。
裁判所の判断
規範
規範と規範に照らした事案の検討とが混同されているように思える部分がありやや分かりにくいが、裁判所が被保全権利としての差別的言動に対する差止請求権の存否について判断するための規範として提示するのは、おおむね以下のようなものである。
生活の基盤たる住居において平穏に生活する権利等は憲法13条に由来する人格権として強く保護されている。そして、本邦外出身者が本邦外の出身であることを理由として排除されることのない権利は、人種差別撤廃条約の各規定や、憲法14条、そして差別的言動解消法*2が制定され施行を迎える*3ことに鑑みれば、上記の人格権を享有するための前提となるものとして強く保護されることがきわめて重要である。
このような理解に基づけば、差別的言動解消法2条に該当する差別的言動*4は、上記の人格権に対する違法な侵害行為にあたる。そして、権利者が住居において平穏に生活していることを認識し、または容易に認識しうるのにその住居の近隣において上記の差別的言動を行う者があり、これによる侵害の程度が顕著な場合、権利者は人格権に基づく妨害排除請求権として、その差別的言動の差止めを求めることができる。もっとも、当該差別的言動が示威行為等としてされる場合には、憲法21条との調整に対する配慮から、その差止めにあたっては、被侵害権利の種類・性質と侵害行為の態様・侵害の程度との相関関係において、違法性の程度が検討されねばならない。
そして、以上の理は、自然人と同様に社会的実体をもって活動する本邦内の法人についても妥当する*5。したがって、かかる法人が事業所において平穏に生活していることを認識し、または容易に認識しうるのにその近隣において上記の差別的言動を行う者があり、その平穏に事業を行う人格権に対する侵害の程度が顕著である場合、当該法人には、自然人と同様に、人格権に基づく妨害予防請求権としての差別的言動の事前差止請求権が認められる。
事案の検討
裁判所は、かかる規範に照らして本件について検討し、以下のような判断を行った。
上記「事案の概要」において述べた事業等を行ってきた債権者は、事業所において平穏に社会福祉事業を営む人格権を有する。そして、債務者やその賛同者らには、平成28年6月5日に予定されているデモにおいて、過去二度の川崎市でのデモで行われたような差別的言動を行う高い蓋然性が認められる。かかる差別的言動は債権者の理念や活動内容等を真っ向から否定するものであり、これが行われれば、債権者の職員の士気の著しい低下や、債権者の施設利用者による利用の回避・躊躇を招くことが容易に予想されるところである。なお、債権者の従前の活動実績や、その所在地の(在日コリアンが集住しているという)地域的特性、そして債務者の活動内容等に照らせば、債務者は債権者の事務所等の所在地を知っており、その近隣で差別的言動を行えば、債権者の平穏に事業を行う人格権を侵害することを認識し、または容易に認識することができる。
以上によれば、債務者らが行うであろう差別的言動によって、債権者の平穏に事業を行う人格権が侵害され著しい損害が生じる現実的な危険性が認められ、また債務者らが行うであろう差別的言動の悪質性に照らせばこれを事前に差し止める必要性はきわめて高いから、被保全権利たる事前差止請求権の存在は優に認められる。
また、かかる人格権の侵害に対する事後的な回復はきわめて困難であり、これを事前に差し止める緊急性は顕著であるから、保全の必要性も認められる*6。
本決定についての感想
率直に言って、本決定には首をかしげる部分も多いのだが、迅速性の要求される保全手続ということもあり、ある程度粗いものになるのは仕方がないだろう。
本決定について私が興味深く思ったのは、「在日コリアンの集住地域であること」の考慮の仕方だ。本件の債権者はあくまでも一社会福祉法人であり、今後同様の申立てがなされる場合にも、債権者は基本的に特定の個人とならざるを得ない。そのような中で、「在日コリアンの集住地域において在日コリアンに対する差別的デモを行うこと」をどのように考えるのか。この点について、本決定は、「故意・(重)過失」の問題に解消するという手法をとった。言われてみれば自然な考え方だが、私自身はもっぱらこれを行為の悪質性として処理する方向で考えていたので、新鮮に感じた。
「故意・(重)過失」の問題に解消するとは、以下のようなことだ。
本決定が提示した規範には、「権利者が住居(事業所)において平穏に生活(事業)を営んでいることを認識し、または容易に認識しうるのにその住居の近隣において上記の差別的言動を行う者があり、これによる侵害の程度が顕著な場合」というくだりがある。近隣においてその差別の対象となる者が平穏に生活(事業)を営んでいること、つまりその場で差別的言動を行うことによって当該差別対象者の人格権を侵害することを、差別者が認識し、または容易に認識し得なければならないということだ。そして、差別者が「近隣においてその差別の対象となる者が平穏に生活(事業)を営んでいること」を認識しまたは容易に認識しうるかどうかを判断するにあたって、差別的言動を行う場所が「差別の対象となる者の集住地域であること」は、差別の対象となる者が多く住む地域であれば当然近隣でそうした者が平穏に生活(事業)を営んでいる可能性は高い(したがって、これを容易に認識しうるはずである)という意味で、確かに大きな考慮要素となる。自然な整理であると思う。
ただし、このように整理する場合、差別対象者の集住地域以外に住む差別対象者は、自らの住む地域で差別的なデモが行われることになっても、差別者に故意・(重)過失がないとして、(差別対象者の集住地域で行われるのであれば差止めが認められるようなケースでも)差止めが認められないということにもなりかねない。それでいいのか、ということはよく考えねばならないだろう。
井上武史の不思議な主張
不思議な主張
井上武史の以下の記事を読んだ。
憲法論議の正常化は可能なのか - 井上武史(九州大学大学院准教授) (1/2)
井上は、与党に対する「立憲主義違反」との批判に対し、その内実にまったく立ち入ることなく、このような批判は無意味であるとする。不思議な主張である。
「立憲主義違反」との批判の当否はどのように検討されるべきか
当然のことだが、「立憲主義違反」との批判が妥当であるか否かを検討するにあたっては、まず「立憲主義」という語の意味を確認しておかねばならない。この点、井上は「立憲主義」の定義を明確に提示することのないまま論を進めるので、さしあたり本記事では、「憲法によって政治権力の行使を枠付けて、その恣意的行使を防ぐ思想・実践」*1をいうものとしておく。そうすると、「立憲主義違反」との批判は、「与党のふるまいは、憲法によって認められた(枠づけられた)範囲を潜脱して権力を行使せんとするものである」ことをいうものであると理解できよう。
こうして解きほぐせば(本来は解きほぐすまでもなく)明らかなとおり、「立憲主義違反」とは、「与党のふるまい」に対する、憲法が認める範囲を潜脱して権力を行使せんとするものであるとの否定的評価である。そして、かかる評価の当否を判断するためには、批判者が問題としている個別具体的な「与党のふるまい」を検討することが不可欠である。批判者が最も問題視しているのは、むろん憲法改正を経ない集団的自衛権行使の一部容認であろうが、それ以外にも自民党が発表した憲法改正草案からうかがわれる憲法観や、憲法53条*2に基づく要求にもかかわらずついに臨時国会が開かれなかったことに代表される国会運営のあり方等、批判対象は多岐にわたり、こうした数々の「与党のふるまい」に共通して見られる態度を明快に表現するものとして、「立憲主義違反」という語は用いられている。したがって、「立憲主義違反」との批判の当否を検討するという作業は、こうした多岐にわたる「与党のふるまい」の逐一を、地道に検討していくことに他ならないはずだ。
ところが、井上はこうした個々の「与党のふるまい」について何一つ触れないまま、「立憲主義違反」との批判を無意味だと断じるのである。理解しがたいというほかない。あるいは井上は、これら個々の「与党のふるまい」が批判されるべきものであることは自明の前提としているのだろうか。同記事の以下の記述*3からはそのように読み取ることもできそうであり、それならば十分に理解できる。
「立憲主義違反」という言明は、(略)現行憲法が権力を統制しきれていないこと、つまり権力を統制するのに憲法規定が足りないことを告発するものである。そうすると、今後同じことが起こらないように、また、どのような政権にも妥当するように、憲法の規定の点検やその不足・不備の是正が、安保法への立場を超えた共通の課題として取り組まれるべきであった。
ただしそうであるならば、「与党のふるまい」が批判されるべきものであることを当然の前提としている旨は明記しておくべきだろう。同記事は終始「立憲主義違反」との批判をくさすものであるため、この点を明記しないと誤読されても仕方がないと考える。
「立憲主義の語が本来の用法で用いられていない」という批判
ところで井上は、なんら資料等を示すことのないまま、「立憲主義とは、ある国の憲法や政治体制が権利保障と権力分立という本質的要素を含んでいるかを点検するための概念であり、政権の行為や特定の政策を批判するため用いられるものではない。」と断定する。このような根拠資料を伴わない断定を直ちに信用することなど到底できない*4。
しかし、仮にこれが事実であったとしても、上記のとおり、「立憲主義違反」との批判が何を言わんとしているのかは容易に了解可能である。したがって、その言わんとするところを「立憲主義違反」として主張することでいかなる具体的な弊害が生ずるのか、ということを指摘しない限り、それは「従前の用法と異なる」という業界内部でのスコラ的な議論にとどまるし、具体的な弊害が生ずる場合であってさえ、それは「立憲主義違反」を別の表現に置き換えれば解決する問題であり、議論の本質にまで影響するものではない。
以上のとおりであるから、井上の「立憲主義の語が本来の意味で用いられていない」との批判は、現状では根拠がまったく示されていないものと評せざるを得ず、仮に今後十分な根拠が示されたとしても、これをもって現在なされている与党への批判が「無意味」などということにはまったくならない。
まとめ
以上、井上の記事に対する若干の疑問点等を記した。もっとも、すでに述べたとおり、同記事には論旨のとりがたい部分があり、現時点でこれをとりあげることにあまり意味はないのかもしれない。
いかがわしさの正体
nogawamさんの以下の記事を読んだ。
歴史修正主義とレイシズムを考える: 歴史修正主義は何によってそう認定されるか
歴史修正主義的な主張とはいかなるものか、ということについて説明する記事であるが、これを読んで、私が 先日の記事で述べた、いわゆる芦田修正論*1から感じとるべき「いかがわしさ」の正体について、明快な視点を与えていただいたように思うので、備忘として記しておく。
nogawamさんは次のように述べる*2。
誤解されがちなのですが、歴史修正主義的な主張は「結論が通説と違うから」とか「日本軍を美化しているから」といった理由で「歴史修正主義的だ」と判断されるわけではありません。(略)肝心なのはむしろある歴史記述(と主張されているもの)がどのような方法で導き出されているか、です。史料の取捨選択やその解釈、史料からの推論などがまったく妥当性を欠いている場合に「偽史」とか「歴史修正主義」という判断が下されるわけです。
結論が通説と異なるから歴史修正主義的であるとされるわけではない。その結論を導き出した解釈や推論等がまったく妥当性を欠くこと、すなわち「おかしな方法」が用いられていることによって、歴史修正主義的であるとされるのだ、との指摘である。
このような視点から見返すならば、芦田修正論がとる解釈や推論は、なるほどいかにも「おかしな方法」だ。
芦田修正に先立つ昭和21年6月26日の衆議院本会議において、当時の首相吉田茂が、「9条2項によって一切の軍備を認めない」旨を明言していたこと。そうであるにもかかわらず、 芦田修正を行う過程において(一切の軍備を認めないとの立場を転換するのであれば当然なされるべき)「前項の目的を達するため」との文言の追加による戦力保持の可能性についてまったく議論がなされず、却って一切の軍備を廃するかのような報告をしていたこと。こうした、修正が解釈にいかなる影響を及ぼすかを検討するにあたって真っ先に考慮されねばならないはずの議論の経過を無視し、後年芦田自身がそのように主張していることを奇貨として、9条2項は「(侵略戦争等の放棄という)前項の目的を達するため」に戦力不保持を定めるにすぎず、自衛のための戦力保持は禁止していないとの結論を導く。文言上まったく不可能とまでは言えないにせよ、あまりにも強引で、常識から外れた「おかしな」解釈だ。してみれば、芦田修正論は、ある意味で*3歴史修正主義的な主張であるということもできるのかもしれない。
また、nogawamさんはこうした歴史修正主義的な主張が受容される理由について、次のように述べる。
一般的に言えば歴史修正主義が受容されるのは政治的な動機によります。政治的な動機によってきわめて強いバイアスがかかっているために、ふつうならとうてい受けいれられないような強引な「方法」が看過されてしまうわけです。この意味で、私は歴史修正主義を「歴史学を装った政治運動」だと考えています。
歴史修正主義的な主張が一般に政治的な動機と結びつきやすいとの指摘である。芦田修正論が声高に主張されはじめた時期を考えると、この指摘もきわめて示唆に富む。
芦田自身は、芦田修正論的な主張を、昭和21年11月に刊行した『新憲法解釈』*4においてすでに展開していたと述べる*5。しかし、同書に明示的にそのような主張が行われている部分はない。それどころか、「侵略戦争を、否認する思想を憲法に法制化した前例は絶無ではない」が、「全面的に軍備を撤去しつつ戦争の否認を規定した憲法」は日本国憲法が世界初であろうとする記述が見られ、この時点において芦田が、9条2項を全面的な戦力放棄を規定したものと捉えていたことは明らかであるように思われる。
それでは、芦田はいつの時点で自らの主張を転換させたのか。この問題については、上丸洋一・朝日新聞取材班『新聞と憲法9条』 (朝日新聞出版、2016年)が取り扱っている。
その詳細については各自において確認されたいが、同書は、芦田自身の新聞や雑誌への寄稿等を検証し、芦田がその主張を転換させた時期を昭和26年1月であると特定する。言うまでもないことであるが、この約半年前、昭和25年6月には朝鮮戦争がはじまり、同年8月には日本に警察予備隊が新設されている。このような日本を取り巻く政治情勢の変化が、必然的に「戦力」を求める政治的な動機を生み出すものであることは言うまでもない。
芦田の主張転換がこのような時期になされたということも、nogawamさんの指摘をふまえるならば、十分に記憶されねばならないだろう。
以上、nogawamさんの記事を読んで思ったところを簡単に記した。nogawamさんに明快な視点を与えていただき、管見が多少は広がったように思う。ありがとうございます。
芦田修正について
※本記事における引用にあたっては、読みやすさを考慮して表記等を改めた部分がある。
芦田修正とは何か
憲法9条の解釈にあたっては、いわゆる芦田修正が問題とされることがある。
周知のとおり、芦田修正とは、帝国憲法改正案委員小委員会が帝国憲法改正案、とりわけその9条に加えた修正を指す。
昭和21年6月25日、衆議院本会議に提出された帝国憲法改正案において、戦争の放棄を定めた9条は以下のような文言であった。
第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
2 陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。
これに、衆議院の帝国憲法改正案委員会に設置された、芦田を委員長とする小委員会が検討を加え、以下のように修正した*1。この修正を、芦田修正と呼ぶのである。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
芦田修正の何が問題となるのか
芦田修正が憲法9条の解釈にあたって問題になるというのは、おおむね以下のような理屈である*2。
すなわち、上記のとおり、芦田修正によって、9条2項には、「前項の目的を達するため」との文言が加えられた。そして、9条1項が放棄するのは、「国際紛争を解決する手段として」の戦争や武力による威嚇または武力の行使であって、つまり侵略行為である。したがって、9条2項は、前項の目的、つまり侵略行為の放棄という目的を達するために戦力を保持しないことを定めたものであり、自衛のための戦力保持を禁ずるものではない、というのだ。
率直に言って、これは本来一顧だにされないような牽強付会の論であるように思われるが、当の芦田本人が、後年になってくり返し上記のような意図の下に修正を行ったのだと主張したために、現在もなお一定の影響力を有しているようだ。
果たして芦田は、真にそのような意図の下にかかる修正を行ったのだろうか。
芦田修正の意図
「説明をすれば修正が許される見込みはなかったから」という釈明
芦田修正が行われた意図は、これが行われた小委員会での議論*3を見ることによって明らかになるというのが常識的な考え方であろう。そして小委員会での議論では、芦田が後年になって主張する上記のような(9条2項は自衛のための戦力保持を禁じていないという)見解は、まったく現れてこない。
このことについて芦田は、「明確に説明すると、憲法委員会においてかような修正を加えることが許される見込みはなかつた。諸般の情勢から見て、とうていかような修正案を憲法委員会に出すことを認められるような可能性はなかつた。従つて私がこの修正案を出したときには、委員会においても何らの説明を行わなかつた。速記録をごらんくだすつても、私は一言も説明を加えておりません。幸いにして質問もなかつたので、これに答える必要もなかつたわけです。」といった釈明をしている*4。説明をすれば修正が認められる見込みはなかった。だからあえて説明を行わなかった、というのだ。
当初試案
しかし、小委員会での議論の経過を追えば、このような釈明が真実でないことは明らかである。 というのも、芦田が最初に「前項(掲)の目的を達するため」という文言を提案したとき、その試案の文言は以下のようなものだったからだ。
第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。
2 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
上記のとおり、9条2項が自衛のための戦力保持を禁じていないとする主張の核心は、同条項にいう「前項の目的」を「国際紛争を解決する手段として」の戦争(=侵略戦争)等の放棄と解し、同条項は「(侵略戦争等の放棄という)前項の目的を達するため」という一定の条件下で戦力を保持しない旨を規定するにすぎない、とする点にある。ところが、当初試案では文言の順序が逆転しており、戦力の不保持は1項、「国際紛争を解決する手段として」の文言は2項にあったのだ。これでは、「前項(掲)の目的」を「国際紛争を解決する手段として」の戦争等の放棄と解する余地はないし、そもそも「前項の目的を達するため」という一定の条件下における戦力不保持を定めたにすぎないとの論理自体が成り立たない。芦田が当時すでに後年主張するような意図を秘めていたのであれば、このような提案をするはずがない。
結局、この当初試案については他の委員との協議等も経て変更され、現在芦田修正として知られている形の条文にまとまるのであるが、その際もやはり、9条2項は「(侵略戦争等の放棄という)前項の目的を達するため」に戦力不保持を定めるにすぎず、自衛のための戦力保持は禁止していないと解することになる、といった話はまったく出てこない。むしろ芦田自身は、趣味の問題であるとしながらも、自身が提案した当初試案の順序に、議論の終盤までこだわっているのである。
小委員会における芦田の発言
その他の小委員会における芦田の発言を見ても、芦田は単に後年主張するような意図を説明していないというにとどまらず、むしろこれとは相容れない発言を重ねている。
すでに述べたとおり、芦田自身が提案した当初試案において、戦力の不保持は1項、「国際紛争を解決する手段として」の文言は2項にあった。そして芦田は、この順序については「その人の趣味」にすぎず、試案の眼目は、戦力を「保持してはならない」とする原案の文言の修正にあることを明らかにしている。すなわち、「保持してはならない」という原案の文言は、「日本国民全体が他力で押さえ付けられるような感じを受ける」ので、これを「保持しない」と修正したい。しかし、なぜこのような修正を行うか、という点について「一応の理屈を述べなくてはならない」から、「前文のような形容詞を付けて」、「日本国民は誠実に平和を希求するが故に戦力を保持せず」*5という形にしたというのである。
「前掲の目的」の文言にかかる芦田の説明は、より直截だ。
前項のというのは、実は双方ともに国際平和を念願して居るということを書きたいけれども、重複するような嫌いがあるから、前項の目的を達するためと書いたので、つまり両方ともに日本国民の平和的希求の念慮から出ているのだ、こういう風に持っていくにすぎなかった。
「前掲の目的」とは、「国際平和を誠実に希求」 することであると明言しているのである。
つまり芦田は、当初試案の意図が「(戦力を)保持してはならない」との文言を修正する点にある旨を述べ、「前掲の目的」が国際平和の誠実な希求であることを明言していた、ということになる。
小括
以上のとおり、小委員会における芦田の言動は、単に後年主張するような意図を説明しないというにとどまらず、むしろこれと整合しないものであったことが明らかである。芦田の釈明はとるを得ず、当時芦田に後年主張するような意図はなかったものと解するべきであろう。
芦田修正と実務感覚
ここまで小委員会での議論を追いながら検討してきたが、そもそも芦田修正を根拠とした(9条2項は自衛のための戦力保持を禁じていないという)解釈論は 、本来ならば直感的にそのいかがわしさを感じとるべきものだ。
条項作成の段階で意図的に曖昧な文言の条項案を起草するなどというのは、ほとんど考えられないと言ってよいほどの例外的な行動である。曖昧な文言があれば明確化する。明確化した内容に問題があるならば条項の削除や変更を検討する。それが実務的な常識であって、自らを利する意図を秘して曖昧な条項案を作成することなどまずない。そのような行為はむしろ自らに不測の不利益をもたらす危険があるからだ。
本件で俎上にあがっているのは憲法改正案であり、これについて「利害を有する」諸外国との関係は不可避的に継続的・長期的なものとなるため、不測の不利益が生じる可能性は高くならざるを得ない。まして9条解釈にあたっては、小委員会に先立つ昭和21年6月26日の衆議院本会議において、当時の首相吉田茂が、「本案の規定は、直接には自衛権を否定はしておりませぬが、第9条2項において一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も抛棄した」*6と述べており、これを覆すというのであれば当然に十分な議論と説明が必要となるところである。
ところがすでに見たとおり、当の芦田自身でさえ、この点について小委員会で明示的に議論・説明を行っていないことを認めているのであり、昭和21年8月21日に開かれた衆議院帝国憲法改正案委員会においても、小委員会での審議経過について、以下のように報告するのみである。
法第9条において第1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」と付加し、その第2項に「前項の目的を達するため、」なる文字を挿入したのは戦争抛棄、軍備撤退を決意するに至つた動機が専ら人類の和協、世界平和の念願に出発する趣旨を明らかにせんとしたのであります。
第二章の規定する精神は人類進歩の過程において明らかに一新時期を画するものでありまして、我らがこれを中外に宣言するにあたり、日本国民が他の列強に先がけて正義と秩序を基調とする平和の世界を創造する熱意あることを的確に表明せんとする趣旨であります。
一読して明らかなとおり、自衛のための戦力保持の可能性にはまったく触れておらず、むしろ留保なく「軍備撤退を決意」と述べるなど、一切の軍備を廃するものと読むほうが自然な報告内容となっている。
こうしたおおまかな流れを追うだけでも、「芦田修正の真の意図」だとか、「芦田修正によって自衛戦力の保持が肯定された」だとかいった類の言説が常識から外れたものであることは明白だ。そうであるにもかかわらず、こうした言説が未だに一定の影響力を有しているあたりに、芦田の強弁の罪深さを感じずにはいられない。
メモ:品位を欠く政治家
平成28年2月24日の中央公聴会で公述人に暴言を吐いたとして、衆議院予算委員会が同月25日、おおさか維新の会の足立康史に厳重注意すること等を決めた旨報じられている*1。
この件自体は報道に接し、問題の中央公聴会を確認するまで知らなかったのだが、「足立康史」という名を見て「またか」との思いを禁じ得なかった。
足立は本当に品のない質問をする。
今月に入ってからの衆議院予算委員会で私が見た足立の質問は5日のものと10日のものくらいだが、どちらも実に酷かった。当然のことだが、基本的に、予算委員会において答弁を行うのは大臣等であって、野党が答弁の場に立つことはない。そのような反論の来ない場において、足立は、与党におもねりながら、ゴシップ的な生産性のない野党攻撃を延々とくり返すのである。卑怯であるし、時間の無駄でもある。
足立の質問時間など、さして長いものではない。5日のものも10日のものも、2,30分程度であったと記憶している。そして、いずれにおいても、足立の質問うち少なくとも10分以上は、くだらない野党攻撃に費やされていた。閉口するほかない。
おおさか維新の会には、ぜひ自浄能力を発揮し、足立の処遇について適切な判断をしてもらいたい。
〈あとで読むかもしれない記事〉
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42644
http://www.buzznews.jp/?p=1553083
http://blogos.com/article/163114/
*1:http://www.jiji.com/jc/zc?k=201602/2016022500667&g=pol
緊急事態条項と押しつけ憲法論
はじめに
今夏の参院選では憲法改正が争点になる。改正の具体的な項目については不確定な部分もあるが、おそらくは緊急事態条項が俎上にのせられることになるのだろう。そこで、夏までにいくつか緊急事態条項に関する記事を書こうと思う。今回は、その制定経過に照らしても、現行憲法は十分に緊急事態を想定しこれに対する備えを持つものである、ということを述べる。
制定経過
周知のとおり、松本案に若干の加筆改訂を施した日本側の憲法改正要綱は、天皇主権を維持しようとするきわめて保守的なものであった。そのため、総司令部はこれを全面的に拒否し、日本側に対して、総司令部案に基づく改正案の作成を求めたのであった。
これをうけて日本側が起草したのが、いわゆる三月二日案である。もっとも、同案には、総司令部案にはない以下のような規定が置かれていた。
第76条 衆議院ノ解散其ノ他ノ事由ニ因リ国会ヲ召集スルコト能ハザル場合ニ於テ公共ノ安全ヲ保持スル為特ニ緊急ノ必要アルトキハ、内閣ハ事後ニ於テ国会ノ協賛ヲ得ルコトヲ条件トシテ法律又ハ予算ニ代ルベキ閣令ヲ制定スルコトヲ得。
これは、閣令による緊急事態への対処を定めた規定である。この規定については、総司令部からの反対が強く、昭和21年3月6日に発表された憲法改正草案要綱では削除されている。
しかし、日本側は引き下がらなかった。解散等の理由によって国の最高機関が機能を停止するのは不都合であるとして、これに対処するため常置委員会を設ける案と、参議院に国会の機能を代行させ次の会期において衆議院の承諾を得させる案とを総司令部に提出したのである。
これらの案に対しても、総司令部は当初積極的ではなく、災害等の不測の事態には、内閣の非常権力(emergency power)で処置できると考えていた。なお、ここに「内閣の非常権力」とは、法律の授権によって内閣に与えられた権能をいうものである。
日本側は、総司令部のこのような見解に対して、広汎な委任立法を認めることの問題等を指摘してなおも交渉を続けた。そして、昭和21年4月17日の憲法改正草案において、以下の規定を置くことに成功したのである。一目見れば明らかなとおり、これらは、参議院の緊急集会について定める現行憲法 54条2項および同条3項とまったく同一の文言となっている。
第50条2項 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
第50条3項 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。
付言するに、これらの規定は、日本側が提出した、参議院に国会の機能を代行させ次の会期において衆議院の承諾を得させる案が採用されたものと言ってよい。したがって、日本側においても当然これによって緊急事態への備えは足りると考えていた。そのことは、昭和21年7月2日に開かれた第90回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会第3回において、憲法改正草案になぜ緊急勅令等がないのかという北浦圭太郎の質問に対して、金森徳次郎が以下のように答弁したことにも現れている*1*2。
我我過去何十年ノ日本ノ此ノ立憲政治ノ経験ニ徴シマシテ、間髪ヲ待テナイト云フ程ノ急務ハナイノデアリマシテ、サウ云フ場合ニハ何等カ臨機応変ニ措置ヲ執ルコトガ出来マス、随テ緊急ノ措置ヲ要シマスルノハ稍々余裕ノアル事柄デアリマス、シテ見レバ、サウ云フ場合ニハ、臨時ニ議会ヲ召集スルト云フ方法ニ依ツテ問題ヲ解決スルコトガ出来ル、又臨時ニ議会ヲ召集スルコトガ出来ナイ場合ガ考ヘラレマス、ソレハ衆議院ガ解散サレ、末ダ新議員ガ選挙セラレナイ所ノ三、四十日ノ期間ガ予想セラレルノデアリマスガ、其ノ時ニハ何トモシヤウガナイ、ソコデ参議院ノ緊急集会ヲ以テ暫定的ニ代ヘル、斯ウ云フコトガ考ヘラレマス
おわりに
以上のような制定経過に照らせば、現行憲法が十分に緊急事態を想定したうえでつくられたものであることは明らかだろう。
それにしても、制定経過を見るほどに、現行憲法における緊急事態への備えが、日本側の主体的な努力によって形成されたものであることを、実感させられる。現行憲法がある意味で「押しつけ」であるとの問題意識*3のもとに行われる憲法改正論議において、真っ先に俎上にのせられるものと見込まれるのが、これほどに日本側の主体的な努力が見られる緊急事態への対処にかかる条項であるというのも、なかなか面白い話だ。
〈参考文献〉
佐藤達夫(佐藤功補訂)『日本国憲法成立史 第三巻』(有斐閣、1994年)
*1:http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/s210702-i03.htm
*2:引用者において太字強調を施した部分がある。
*3:平成28年2月4日に開かれた衆議院予算委員会において、現行憲法を「押しつけ憲法」と考えるかという大串博志の質問に対し、安倍晋三は、「占領下で連合国軍総司令部(GHQ)に逆らえない中、極めて短期間で作られたのは事実である」という趣旨の答弁をしている。なお、大串によれば、安倍は対談において、より直截に、現行憲法について、「左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが、(中略)短期間で書き上げ、それを日本に押し付けた」と述べているとのことだ。