以下の記事に接した。
アメリカで"#walkaway"というムーブメントが起きている、という内容だ。記事によれば、これはポリコレのバックラッシュとでも言うべきもので、「もう今の左派には付き合いきれない。サヨナラだよ」って感じの決別宣言、なのだそうだ*1。
ところで、『ゲド戦記』で有名なアーシュラ・K・ル=グウィンに"The Ones Who Walk Away from Omelas"という短編がある*2。その邦訳「オメラスから歩み去る人々」は『風の十二方位』という短編集に収められている*3のだが、私が"#walkaway"と聞いて思い浮かべたのはこの作品のことだった。以下は同作の内容への言及を含む。
- 作者: アーシュラ・K・ル・グィン,丹地陽子,小尾芙佐,浅倉久志,佐藤高子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1980/07/25
- メディア: 文庫
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同作は一言でいうならば、ベンサム的な功利主義とリベラリズムについて描いた作品だ。
オメラスというあらゆる美しさと喜びとで彩られた都にはしかし、市民の誰もが知る秘密がある。オメラスにあるなにかの建物の一室に、一人の子どもが閉じ込められているのだ。その子どもは、思い描くことのできる限りで最も惨めな扱いを、暗く狭い部屋で受け続けている。そしてオメラスにある幸せのすべては、その子どもの不幸によって贖われているのだ。
幸せの都、オメラス。
しかし不思議なことに、ときおりこの都の美しい門をくぐり歩み去っていく人々がいるのだという。
そんな話である。
作者は、「歩み去っていく人々はみずからの行先を心得ているらしい」と語る。しかし私にはとてもそうは思えない。なぜと言って、彼らはついに囚われた子どもを助け出すことはなかったからだ。
暗く狭い部屋で惨めな扱いを受ける子どもを残して都を去った彼らは、その後訪れるあらゆる町で囚われた子どもの存在を見出すことになるだろう。そしてその度に彼らはただ「歩み去る」。
彼らは苦悩にみちた放浪を続けるうちに、 町の人々すべての幸せのためたった一人の子どもに不幸を与えることは正しいのだと考えて自らの心を慰めようとするだろう。中には、囚われた子どもを憎みさえする者もいるかもしれない。彼らに行先などない。いや、ただ1つ、オメラスだけが彼らの行先でありうるのだ。
今回の"#walkaway" は、オメラスから歩み去った人々の顛末に他ならない。それゆえこれは、「サヨナラ」ではなく「ただいま」なのである。彼らはオメラスに戻ってきた。彼らの心に、もはや子どもに対する疚しさなどない。良心の呵責から解き放たれた彼らの子どもへの仕打ちは、より苛烈になるのかもしれない。いずれ子どもは死ぬだろう。そのときオメラスがどうなるのか、私には分からない。